らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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朝倉山城(茅野市)  

◆大門街道の要衝を抑えた狼煙台◆

猫の目のように変わる春の天気。

桜前線も北上しているのだが、今年の信濃の春は梅の花、杏の花、桜の花が同時に開花するという珍しい季節になりそうだ。

花粉の戦線拡大はご遠慮申し上げているが、鼻は敏感で反応し始めている・・・ヤバイ・・・(笑)

今回ご紹介するのは山城の遺構と特徴を良く残している朝倉山城です。

朝倉山城 (2)
登り口には「いのしかネット」があるので開けて入る。(入ったらまた必ず閉めましょう)


山麓から朝倉山尾根の鞍部までの道は「勘助道」と呼ばれるつづら折りの道がある。

かの有名な山本勘助とは無縁で、道を作った人の名前らしい。

朝倉山城 (3)

途中水飲み場にいた三頭のカモシカ殿に遭遇するが、彼らは一目散に逃げてしまい写真も撮れず(悔)
シャイな奴らだ・・・。

朝倉山城 (4)
勘助道とよばれる林の中の道をゆっくり登る。

さて、いよいよ鞍部へ取りつく場所に着くと道が消えてしまっているではないか(汗)

仕方がないので斜面をテキトウに直登して稜線に這い上がる(笑)

朝倉山縄張図②
朝倉城縄張図(宮坂武男氏の縄張図を参考にしています)。縮小して表示しても雑だなあー(笑)  


稜線を南へ歩くと堀切㋐に遭遇する。ここから城域らしい。

朝倉山城 (6)


ここから段差のある四の郭までは三本の堀切で防御しているがいずれも小規模なものだ。


朝倉山城 (8)

ここから本郭へは㋓(上巾7m)と㋔(上巾8m)の二重堀切でキチンと防御されている。
なかなか見応えのある景色だ。

朝倉山城 (10)
四の郭から二重堀切。

朝倉山城 (20)
本郭から四の郭方面。本郭の手前には土塁を設けた踊り場のような小曲輪が存在する。

朝倉山城 (24)
25×20の本郭。周囲を土塁が廻っている。


この城の城歴・伝承については主郭跡に建つ地元の財産区の方に説明していただこう・・(って手抜きかい!)

朝倉山城 (23)

なるほど、この場所であれば狼煙台として文句の無いロケーションである。

南尾根の遺構を見てみよう。

朝倉山城 (28)

一見すると独立峰にあるように思えるが、三方に尾根が広がるので主郭は三ヶ所の堀切で防御されている。


朝倉山城 (31)
中央部をせり上げた細長い二の郭。


朝倉山城 (34)
二と三の郭を仕切る㋗の堀切。

朝倉山城 (35)
三の郭。


南の尾根はこれより先を三本の堀切で防御して終わっている。

防御構造や縄張から見ると武田軍の改修が行われたと見るべきであろう。


朝倉山城 (36)

この城において狼煙台があったとされるのは東に張り出した尾根先で、現在も素晴らしい展望である。

朝倉山城 (45)

朝倉山城 (52)


大門峠を越えて幾度となく出撃を繰り返した武田軍をこの砦が見守ったのであろう。

そしてこの城のふもとには桝形城、湯沢城がある。

朝倉山城 (55)

天正十八年(1590)、諏訪頼忠、頼水父子が家康に従って小田原征伐に従軍する際、朝倉山の木を伐らないように言い残して戦地へ向かったといい、その後、諏訪藩の保護もあり遺跡が良好に残っているのだという。

二重土塁、本郭周囲の高土塁、腰曲輪など山城の基本構造を観察するには良い城跡です。
さほど比高も高くなく山麓から20分もあれば登れるのもお手頃ですネ。


朝倉山城 (57)
朝倉山城遠景。


≪朝倉山城≫ (あさくらやまじょう 塩沢城)

標高:1086.7m 比高157m 
築城年代:不明
築城・居住者:塩沢氏、武田氏
場所:茅野市北山湯川
攻城日:2012年4月7日 
お勧め度:★★★★★(初心者にもお勧めです)
城跡までの所要時間:20分(城の登り口にある猪除けネットは必ず元通りに閉めて下さいネ)
見どころ:堀切群、土塁、郭など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」

Posted on 2012/04/14 Sat. 12:32 [edit]

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0408

大熊城(諏訪市)  

◆中央ハイウェイにお尻を破壊された千野氏の居城◆

四月に入って一週間経つというのに大門峠は雪が降っている。

とはいえ、お天道様頼みでもタイムリミットが迫っているので茅野と諏訪周辺五ヶ所の城攻めを敢行するが、出発の準備に手間取り三ヶ所を攻め落としたところでタイムアウト…(笑)

帰りの大門峠頂上(白樺湖付近、標高1300m)では吹雪で気温は-3℃(汗)

ってか、四月の気温じゃないでしょ!!(怒)

で、今回紹介するのは大熊城(諏訪市)

大熊城 (2)
狭い道を右往左往してようやく発見した大熊城。

残念なことに、この城は中央自動車道の工事に伴い尾根筋に当たる二つの曲輪と二つ堀切を削られてしまった。
工事直前の昭和四十八年に緊急遺跡発掘調査が行われ、その報告書も残るらしいのでいつか見てみたいと思う。

大熊城 (3)
本郭入り口には桝形が残っている。(焚火跡とも云う・・笑)


この城の名前が登場するのは「神長守矢満定書留」の文明十二年(1480)の条である。

この年の三月十九日、下社大祝の金刺興春が諏訪上社大祝頼継(諏訪頼継)に加担して挙兵し高島に兵を置き、諏訪総領家を攻撃する。これに対し主を失った諏訪総領家ではあったが、家臣団の有賀兄弟、小坂兄弟、千野兄弟(大熊城主)が下社勢に逆襲し金刺輿春を討ち取り勝利する。(湯の脇合戦)
この時、討死した金刺興春の首は二夜にわたりこの大熊城に晒されたと記述がある。

大熊城 (5)
主郭。耕作地で改変されているが往時は周囲を土塁が巡っていたと思われる。


その後、大熊城が再び登場するのは天文十一年(1542)の武田軍による諏訪侵攻で諏訪頼重が滅亡した時である。

大熊城 (6)
本郭の南西は高さ4mの高土塁が巡る。櫓の代わりに築かれた物見台と想定される。

大熊城 (9)
高土塁の最高地点から見る本郭跡。

大熊城 (10)
高土塁に祀られる石祠。千野丹波守房清公の為に子孫の方が設置したらしい。


「(天文十一年七月)次日三日には、桑原のたかはし口へ早朝にさしかけ候 此方の人数出合おしかへし候間 上原に備え候 その日はたかい(互い)にそなへ まて(待て)にて候 大熊口へ高遠人数同甲州数一手相くわわりはたらき候 千野入道兄弟 我等はとしよりに候間 在所の用心とてのこられ候かいて あしかる(足軽)廿計にて出合からさわ(唐沢)より をしかえし(押し返し)湯のうへにて 四五騎うちととめ候 入道のおとと(弟)南明庵 うち死…」

この古文書の意味がおわかりでしょうか(笑)

この戦いで大熊城は武田方の攻撃により落城したと思われる。

大熊城縄張図②
現存する城域の縄張図(宮坂武男氏の縄張図を参考に作図)

諏訪頼重が甲府に送られ自害させられ諏訪惣領家が滅亡すると、諏訪郡は宮川を境として武田晴信と高遠頼継が分割統治することに決まったが、これを不満に思った頼継はその二ヶ月後の九月十日に上原と下社を攻撃し諏訪上下社の占領を企てた。

大熊城 (13)
本郭の高土塁の上から四の郭方面を見下ろす。高速道路上に五の郭、六の郭と続いていたという。

この報告を甲府で受けた晴信は、頼重の遺児虎王を拗して十九日に出馬し堺川に着陣。「諏訪頼重の遺言である」として、惣領家の叔父である諏訪満隣を始め家臣だった矢島・矢崎・神長守矢などを味方につけ、その中に熊野城主だった千野入道も入った。

大熊城 (15)
現在は上巾10m深さ3mだが、発掘調査では深さ7mの箱堀構造だったという異様異質な大堀切。


二十五日の午後二時頃より宮川橋付近で合戦が始まり、高遠勢は安国寺前から片倉(伊那市)まで押し込まれ武田軍の勝利となる。午後六時頃には戦も終わったという。(宮川端の合戦)

以後千野氏は武田方の諏訪衆として働き、武田滅亡後は諏訪家再興の中心となり諏訪満隣をたてて諏訪家を復活させる活躍をみせた。

大熊城 (8)
北西に向けて二の郭、三の郭と繋がる。


大熊城がいつ頃廃城になったのかは不明だ。

さしたる要害性もなく、付近には巨大な干沢城もあり武田統治時代には役目を終えていたと考えるのが自然であろう。

異様な箱堀についても、武田の横堀への改修と見るべきかは疑問が残るし、後ろに続く山の峰の処理を見る限り手は入っていないと思える。

大熊城 (16)
北側へ落ち込む箱掘。400年の歳月は堀切を半分以上も埋めてしまうのだ。

大熊城 (22)
東側の段郭横からも一本巨大な堀切が通り、沢で箱堀と合流している。

大熊城 (25)
土塁の背後は「中央高速道」という名の堀切になっている…(笑)


大熊城の西側には真志野城、有賀城と繋がり、東の諏訪大社周辺には干沢城、武居城がある。

上社大祝家の山城ネットワークの中核だった大熊城も、武田時代には無用となったのであろう。

だからといって、高速道路のために大事なお尻をカットしてしまうのも、如何なものか・・・・(笑)


大熊城 (35)
諏訪上社方面。中央は八ヶ岳。

大熊城 (33)
諏訪惣領家の城を臨む。

≪大熊城≫ (おおくまじょう 千野城)

標高:812m 比高50m 
築城年代:不明
築城・居住者:千野氏
場所:諏訪市湖南大熊
攻城日:2012年4月7日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:5分(道が狭いので注意。城域の西側の神社に駐車スペースあり)
見どころ:大堀切、土塁など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」「信州の古城ー城跡と古戦場を歩くー」

大熊城 (38)
大熊城全景(写真中央の低い丘の部分)

















Posted on 2012/04/08 Sun. 10:34 [edit]

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上原城(茅野市)  

◆決戦を挑む事無く放棄された諏訪総領家の居城◆

今さら諸先輩方が書き尽くしたメジャー級の上原城など掲載しても「やんごとなき」と思っているが、らんまるの攻め方に興味を持つ方もいるかもしれない(笑)

聞けば本郭まで車で入れるというが、それでは諏訪総領家に対して甚だ失礼である。

せめて板垣平までショートカットするにしても、そこから自分の足で城跡を目指して目で確かめるのがよかろう(笑)

上原城 (22)

現在、板垣平と呼ばれる中腹の広大な平削地は、15世紀中頃までは諏訪総領家が屋形を形成した場所であり、発掘調査の結果でも、武田統治の時代とそれ以前の遺構がハッキリ分かれているという。

上原城 (32)

さすがに諏訪総領家の居館なので、恐ろしく広い敷地である。

武田統治下には諏訪初代の郡代である板垣信方が屋敷を置いたというが、周囲に堀切などを置くこともなく防御レベルは低いが、諏訪家が滅亡した後に敵が侵入してくる可能性は極めて低かったのことを示しているのかもしれない。

上原城 (23)
西側に大きくせり出している段郭。この下に数段の腰郭が確認出来るが私有地なので侵入禁止。


板垣平と呼ばれるこの地には武田の郡代屋敷が置かれ、上原城も大がかりな改修が加えられて初代長官として板垣信方が入る。

筑摩・安曇を攻略するための前進基地として城下町の再形成も含めて武田の威信にかけた工事が敢行されたのであろう。

上原城縄張図②
城館一体型であることが分かる縄張図。


城への登城口は板垣平の北側入り口の脇を登る。小さな木の鳥居があるのでそこを目指すと良い。

上原城 (53)

地元の小学生が整備してくれたようで(?)、可愛らしい案内板が誘導してくれる。

上原城 (4)

竪掘と間違えるような道の右手(東側)には壮大な竪掘が斜面を貫いている。恐らく武田時代に改修され構築されたものだと推察される。

上原城 (54)
中腹の段郭から板垣平まで続く長い竪堀。


城域への入り口には数段の郭があり、竪掘の起点は郭を仕切る堀切であることが見てとれる。


上原城 (65)
来るものを寄せ付けない三の郭への関門。


桑原城と類似している上原城は、諏訪氏の居城時代はもっと単純な作りだったと思われるが、そうは云っても諏訪惣領家が五代七十年間を本拠とした城である。


三の郭跡には金毘羅神社があり、物見岩という巨大な岩を挟んで二の郭に繋がっている。

まあ、別に岩に登らなくても神社入り口からの眺めは諏訪地方を眼下に抑える絶景である。

上原城 (46)

上原城 (16)

上原城 (66)
二の郭と本郭の入り口。


大部隊が駐留出来る広さは無いが、そこそこの籠城戦であれば持ちこたえられそうだ。
しかし、その前提は山麓の居館が維持出来ていれば・・の話である。

諏訪頼重が殺到する武田軍の前に早々とこの城を放棄したのは、城館のある場所が火攻めでもされたら持ちそうに無いと判断したのかもしれない。
また、東の峰伝いに攻められれば籠城戦もままならい。

だからといって自ら火を付けて焼き払う必要があったのだろうか?

そんなことをするから武田軍も城下に火をかけるのだ・・・・(汗)

確かに独立峰である桑原城であれば四方を敵に囲まれても「ある程度駆け引きの時間稼ぎ」が出来ると判断したのかもしれない。

上原城 (27)
30×20の本郭。周囲を低い土塁で囲み南西に虎口がある。


この城の見どころは何と言っても主郭背後の上巾30mもある巨大な大堀切である。


上原城 (8)

上原城 (28)
見る者を圧倒する巨大な堀底(東方面)

上原城 (68)
西へ掘り下げたその先には二段の削平地が続く。

堀切を挟んで「離れ山」と呼ばれる郭を置く。

上原城 (58)
堀底から見上げる「離れ山」

上原城 (39)
東斜面には段郭を置いている。

上原城 (10)
搦め手方面から見た「離れ山」とその手前の堀切。車でここまで登れるがそれではこの城の醍醐味が薄れる(笑)

上原城 (60)
堀は東斜面に深く続いている。


郭の配置と堀切だけ見れば一つ前の時代の山城形式なのだが、城の東側の斜面には畝傍状の竪堀を数条穿っている。
本郭の背後の堀切も、西側は切岸にわざわざ土塁を後付して防御を強化した跡が見受けられる。

上原城 (11)
畝傍状の竪掘群。城の東斜面は堅固な防御を誇る。


武田流の防御強化が行われた事は間違いないであろう。


上原城 (2)
上社大祝家の詰め城である干沢城も眼下に収まる。


天文十二年(1542)から六年間諏訪の郡代は上原城の屋敷に置かれたが、諏訪の茶臼山に高島古城を鍬立てすると同時に郡代も高島城下に移った。(高島古城を参照願います)


政庁は移ったものの上原城の軍事的価値はそのままであり、城兵を置き整備も怠り無くされていたと思われる。


上原城 (41)
横堀と竪堀をクロスさせる凝った技法を用いている東斜面。


天正十年(1582)織田信長による武田征伐が始まると、武田勝頼は上原城に入り指揮所としている。


木曾谷、伊那谷を怒涛の如く押し寄せてくる織田軍の動向を聞いた勝頼は上原城で何を思ったのであろうか。


武田の滅亡により諏訪信満から110年間続いた上原城も廃城となった。

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ズーム7倍で見る西側の麓から撮影した三の郭。


中世の諏訪一族による抗争、諏訪宗家の滅亡、武田時代の栄枯盛衰を見続けてきた上原城。

城跡に吹く風とその景色ともに、遠き昔に想いを馳せることの出来るお勧めの山城です。

uehara (4)



≪上原城≫ (うえはらじょう 古城・小城)

標高:978.1m 比高178m  (板垣平:820m 比高:100m)
築城年代:不明
築城・居住者:諏訪氏・武田氏
場所:茅野市
攻城日:2012年2月26日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:15分(板垣平より)
見どころ:大堀切、竪堀、畝状の堀、土塁など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」


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Posted on 2012/03/31 Sat. 21:36 [edit]

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桑原城(諏訪市)  

◆郷愁を誘う諏訪惣領家最後の城跡◆

諏訪惣領家の本城である上原城とともに、その支城であった桑原城は諏訪地方を代表する山城である。

天文十一年(1542)諏訪に侵入した武田軍の攻撃により、諏訪惣領家の頼重は上原城とその屋敷に火をかけて桑原城に移る。

桑原城 (30)
搦め手から雪中攻城戦になるとは実のところ想定外であった…(汗)

寄せ手の武田軍20,000に対して守り手の諏訪軍は1,000弱。高遠頼継も杖突峠を越えて諏訪に進軍しているので勝ち目などあるはずも無いが、諏訪頼重は桑原城で籠城戦に及び隙を突いて逃げ落ちようと画策していたという。

桑原城 (36)
先陣として誰かが攻めているらしく、足跡があるのには驚いた…こんな状態で登るなよナー(笑)

上原城から撤退し移動する際に武田軍との小競り合いがあり、戦線は一時膠着状態となるが、20倍の寄せ手を防げるはずも無く降伏を覚悟した諏訪頼重に武田軍より和議の申し入れが来る。

桑原城 (9)
ようやくヘバリ着いた搦め手の尾根筋。雪が無ければ車で直下まで行けるのだが・・・。

諏訪本家の御曹司(ボンボン)の甘さであった。

「自分の奥さんは武田晴信の妹だし、今回の侵攻も分家である高遠頼継の要請で仕方なく晴信も動いたのだから、ここは和議に応じて開城し、今度は高遠頼継征伐に力を貸してもらおう」

桑原城 (25)
搦め手に一条の堀切。諏訪氏時代のままで終わったのであろうか、改修の跡は見当たらない。

七月四日に開城し翌日には甲府へ送られて、二十日には切腹させられた。

「何が何だか…」

戦国時代の非情さの意味を知る事もなく諏訪頼重は散った。

桑原城鳥瞰図

桑原城は、恐らくその時に廃城になったのであろう。

この城はありきたりな中世城郭の遺構ばかりで、戦国時代の山城に見られる緊迫した防禦の為の改修が無いのである。

桑原城 (4)
本郭手前の東曲輪。

桑原城 (20)
首塚(?)とあるが、古墳跡と思われる。

桑原城は、信州においては珍しい独立丘陵に築かれた雄山城(オスシロ)である。

背後の防禦の脆弱さも、それゆえであろうか。

桑原城 (11)
30×20の本郭。往時は全て土塁に囲まれていたと推定される。

桑原城 (16)
東に上原城が見える。


縄張りや防禦能力にそう違いの無い諏訪惣領家の本城である上原城を捨ててまで、桑原城に移った理由が判らないと記述する記事や記述を多く見受けるが、答えは明白である。

西へ逃れる為の仮住まいだったのである。

いくらボンボンの御曹司でも、大将は生きて捲土重来を期す…この事なのかもしれない。

桑原城 (17)
主郭背後の堀切から見た主郭。

桑原城 (6)
主郭から二の郭。堀切③で分割されているのが分かる。

桑原城 (18)
二の郭側から見た分割堀切と本郭。

さして、凝った技巧などとは無縁の城跡である。

この城の素晴らしさは、その郷愁を誘う古城の風景である。

桑原城 (34)
諏訪湖を一望出来る。

桑原城 (5)
古城に立つ松の古木はそれだけで風情がある。

本郭のベンチに座り、昼食のフランスパン(何で??)を齧りながら、絶景の景色を堪能する。

さしたる特徴も無い桑原城だが、この城に何故か郷愁を覚えるのは、弱者を憂う日本人ならではの感傷であり、埋もれた古城の管理人ウモ殿と全く同じ感想なのである。

桑原城 (13)
残念ながら荒れ放題の西曲輪。

「良き城を見せて頂きました」

これが、らんまるの正直な感想に他ならない。

≪桑原城≫ (くわはらじょう 高鳥屋城・水晶城・矢竹城)

標高:981m 比高150m  
築城年代:不明
築城・居住者:諏訪氏・武田氏
場所:諏訪市四賀桑原
攻城日:2012年2月26日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:20分
見どころ:土塁、切岸、堀切など
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」

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桑原城全景。











Posted on 2012/03/17 Sat. 23:39 [edit]

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高島古城(諏訪市)  

◆武田の諏訪郡代が二十年間置かれた古城◆

正式名称としては高島城であるが、日根野高吉が諏訪湖畔に浮城として築城した天守を持つ現在の高島城と間違えないようにこの記事では、宮坂武男氏と同じく高島古城とした。

この城が史実に最初に登場するのは、文明十五年(1483)の上社の内乱事件である。

高島古城遠景
対岸の花岡城からズーム7倍で見る高島古城。

諏訪総領家の乗っ取りを企む上社大祝諏訪継満(かみしゃおおほうりすわつぐみつ)は、1月8日に諏訪総領家の諏訪政満父子を上社前宮神殿に招いて饗応し、酒宴の最中に殺害する。

その後、諏訪継満は干沢城に立て籠もり諏訪郡内の神社に放火するが、2月になると総領家の家臣に攻められ2月20日には義兄である高遠継宗を頼って高遠へ逃げ落ちた。

高島古城推定復元図
高島古城の推定復元図。開発により往時の遺構はほとんど消滅してしまった。


同年3月19日、この混乱に乗じて下社金刺興春が諏訪継満への援軍と称して挙兵する。
高島城に兵を入れ、近隣に放火するも諏訪総領家の家臣の逆襲に遭い敗走、興春は討死してしまい下社の金刺氏は滅ぶ。

高嶋古城 (9)
現在、本郭跡は県営桜ケ丘団地になっている。


二度目に登場するのは、武田統治時代である。

天文十二年(1542)に武田晴信は諏訪総領家であった頼重を滅ぼすと、上原城及び下宮の城(諏訪殿屋敷)を改修し、諏訪方面の領国経営には板垣信方を初代の郡代として置いた。

天文十七年(1547)上田原の合戦で武田が村上に敗れると、諏訪西方衆の反乱が起き塩尻峠の戦いで小笠原軍を敗走させ古府中攻略の準備が整うのである。

高嶋古城 (15)
茶臼山配水池となっている二の曲輪跡。残念ながら立入禁止だ。

高嶋古城 (24)
団地の北側に広大な二の曲輪があったと思われる。


筑摩方面、安曇野方面への攻略拠点としては、上原城より西側にある高島古城が立地的にも有利であり政庁も移す決定が下されたのは天文十八年(1548)の事である。

二代目諏訪郡代であった長坂虎房は、新たに高島古城の鍬立てを行い郡代屋敷も上原城下より高島古城の南下にある岡村に移した。(岡村の政庁跡は現在も場所が判明していない)
また城下町の建設にも力を入れて整備したという。

高嶋古城 (26)
政庁(郡代屋敷)のあった岡村集落方面。

高嶋古城 (14)
主郭の東側。城の立地が独立した丘陵であることが判る。

高嶋古城 (27)
西側は四段の腰廓を備えた急峻な崖となり湖岸の城下町に落ち込む。

武田氏が滅亡するまでの20年間、信濃征服の戦略拠点として重要視された高島古城。

その後、織田氏が斃れると諏訪頼重の叔父であった上社大祝の諏訪頼忠が40年ぶりに諏訪の地を回復し高島古城に拠るが、天正壬午の乱で徳川と北条の争いに巻き込まれる。

高嶋古城 (16)
北側の高台から見る高島古城。

最終的に徳川方につくことで諏訪の旧領を安堵され金子城に移るが、天正十八年(1590)家康の関東移封に伴い武蔵国、文禄元年(1592)上野国惣社に転封。(11年後に諏訪へ戻る)

替わって諏訪に入封した豊臣方の武将である日根野正吉は、島崎に浮城として天守を持つ高島城を新たに築城し、高島古城は廃城となった。


実は、この古城の北100mに段郭を備えた鉄砲屋と呼ばれる出城がある。

高嶋古城 (3)

藩政時代には鉄砲の射撃訓練場だったというが、城の北口を守る詰所だったと思われる。

高嶋古城 (25)
北の尾根筋に四段の平削地が連なる。(現在は墓地)

お墓を徘徊するとロクな事がないので、早めに撤収したが…(笑)

高嶋古城 (12)
鉄砲屋の曲輪から、天守をもつ高島城方面を臨む。


≪高島古城≫ (たかしまこじょう 高島城・茶臼山城・古城)

標高:850m 比高80m  
築城年代:不明
築城・居住者:諏訪氏・武田氏
場所:諏訪市上諏訪桜ヶ丘
攻城日:2012年2月26日 
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
見どころ:土塁、切岸
参考文献:「図解山城探訪 第一集 諏訪資料編 宮坂武男著」




Posted on 2012/03/11 Sun. 00:07 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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