らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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桑原宿(善光寺西街道 千曲市 桑原)  

◆無人墓地に眠る石見国の弥七の墓◆

桑原宿は北国街道脇往還(善光寺道)の宿場として江戸時代初めのころより明治時代まで利用され、猿ヶ馬場峠の宿場として、また松代藩の他領への出入口として重視されていたという。

桑原宿 (21)
稲荷山宿から猿ヶ馬場峠に向かう途中に桑原宿の道標がある。


千曲市の観光課HPによる桑原宿の説明は以下の通りである。

【善光寺街道 桑原宿】

北国西往還(善光寺街)の麻績宿から善光寺平に来た旅人の最初の宿場町であった。現在も国道403号線が集落の中心を通っているが、道路両側の街並みには当時の名残がかすかに感じられる。

善光寺街道沿い、松本方面の最後の宿場町として、松代藩公認の宿場町であった。なお松代藩は幕末まで稲荷山宿を認めていなかった。それは稲荷山は藩領でなかったためである。

村内の「佐野薬師」は桑原宿の発展とともに、大いに栄えた。かつては(稲荷山が発展する前)縁日には近在の人々がたくさん集まった。今でこそ小さな社であるが、薬師への導入路は街道筋のすぐ近くにあり、石の階段(千曲市一長い石段)、仁王門と往事の姿が忍ばれる建物が現在も残っている。

桑原宿 (2)
佐野薬師。竜王城と佐野城へ通じる道の途中にある。


桑原宿 (8)
佐野薬師から見た猿ヶ馬場峠方面。往時の善光寺街道は403号線よりもかなり西側を通る最短ルートであった。


江戸時代の稲荷山宿は上田藩領であり桑原宿は松代藩領であった。
転封されたとはいえ、松代藩の真田氏が上田藩を毛嫌いして桑原宿に本陣を構えるというのが笑える。
もっとも武田氏の家来だった真田氏が大嫌いな稲荷山宿の住民は、桑原宿など相手にしていなかったのかもしれない(笑)

桑原宿 (17)
桑原宿のメインストリート。

桑原宿 (14)
在りし日の桑原宿本陣(旧柳沢家)。現在は小公園となり写真と説明板が残る。


戦国時代には上杉VS武田、武田氏滅亡後は小笠原VS上杉の陣取り合戦に翻弄された桑原地区であるが、江戸時代には猿ヶ馬場峠の麓の宿場町として栄えた。

現在も蔵元として商売を続けている和田家は、信濃の御家人の末裔であり、江戸時代には松代藩より醸造業として名字帯刀を許された豪商である。
幕末から明治にかけて和田家の当主は、佐久間象山、東郷平八郎、有栖川宮熾仁親王と親交が深かったといい、銀行の創設や小学校の建設など文化教育の発展に寄与したという。

桑原宿2 (18)

現在「長野銘醸」という蔵元で、代表するお酒(日本酒)は「姨捨正宗」である。

日本酒好きの小生にはたまらない名酒である(笑)

会社の庭先には「善光寺名所図会」(天保十四年刊)で紹介されている七曲の松がある。

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さて、長野銘醸の和田家を過ぎ南へ向かうとすぐに国道403号線との分岐点になる。細い脇道を入ると開眼寺があり、この寺の横道が往時の善光寺西街道である。

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ホントはこの道を辿り猿ヶ馬場峠へ行って見たかったのだが、カンカン照りの天気で熱中症になり行き倒れになりそうだったので次回へ持ち越した・・・・(汗)

桑原宿2 (7)
つづら折りの坂道が猿ヶ馬場峠へ続くという。


「チョッとだけ旅人になろうか・・・」 いつもの悪いクセである(笑)


坂道を登る。杉林の手前に新しそうな看板を見つけた。

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説明板によれば文政十一年に善光寺参りで行き倒れとなり亡くなった石見国(現在の鳥取県)の旅人「弥七」の墓だという。

最短距離でも石見銀山の隣町から信濃善光寺までは片道約760km、グーグル地図による歩行時間予定でも寝ずにぶっ通しで歩いたとしても一週間以上である。

「弥七さん、故郷には帰れなんだか・・・・・」(合掌)

何を背負って善光寺参りに来たかは知る由も無いが、遠く離れた桑原の地で無くなり地元の方々と開眼寺の和尚に懇ろに葬られたと云う。


桑原宿2 (10)
手向ける花の絶える事の無い弥七の墓。


何故かひたすらその無念の想いにかられて合掌した。

善光寺にはお参り出来たのだろうか?阿弥陀如来は彼を救ってくれたのだろうか??

心優しき桑原地区の人々の心遣いが身に沁みたひと時でした。


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墓地から見た善光寺平方面の風景。


≪桑原宿≫ (くわはらしゅく)

標高:436m
街道:北国西脇往還(善光寺街道)
場所:千曲市桑原
攻城日:2012年7月16日
お勧め度:★★★☆☆
周辺の城跡:佐野城、竜王城
見どころ:本陣跡、和田家、開眼寺、佐野薬師、弥七の墓など
その他:

桑原宿
主要史跡見取図。(国土地理院1/25000地図参照)










Posted on 2012/07/23 Mon. 21:54 [edit]

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青柳宿(善光寺西街道 筑北村 )  

◆犬が一匹もいない不思議な宿場町◆

ネタが尽きた‥というのもあるが、「夏場の攻城戦はちっともワイルドじゃないぜえ~」と悟ったのである(笑)

山々の葉っぱが落ちる10月末までは、お遍路さんの如く古道をひたすら歩く旅人になりたいと思ったのである。

戦国の城を語るには、往時の古道(街道)を踏破してこそ真髄に迫るのだという変な哲学である(爆)

今回シリーズ初登場するのは善光寺西街道の「青柳宿」。

青柳宿 (1)

JR篠ノ井線の坂北駅を下りて道沿いに南に歩くと、青柳集落方面への分岐点となり東へ折れる。

青柳宿 (2)

道路脇には立派な案内看板があるし、散策マップも置いてあるので道に迷う事はないだろう。

説明によれば

「江戸時代の北国西脇往還(善光寺街道)の会田と麻績の中間の宿、戦国時代に青柳氏が長田地籍から居館をこの地に移してから後に出来た宿である。慶長年間(1596-1615)松本城主小笠原秀政の時代に整備された。
元禄十一年(1698)には東西五丁二十八間(約600m)で家数は八十六軒を数えた。慶長十二年(1607)の「金伝馬割」には、佐渡の金を運ぶ伝馬の割当が記載されている。
宿継ぎの荷物は善光寺平からたばこが、松本平からは茶荷が多く送られたとされ、当時の交通の要所であった。」


青柳宿①
↑良く出来た地図で称賛に値するマップ。昨日かららんまる屋敷の家宝に指定さている。


そういえば「青柳城」ってどこかで聞いた気がするが、気のせいかもしれない・・・(笑)


当時の宿場町の面影を探すことは難しいのだが、石垣で組まれた土台の家屋が多く存在するのは驚きである。

青柳宿 (4)
今も残る石垣を貫通する石組水路。


石組み水路とは??

「青柳の屋敷は敷地が狭く、急斜面のため石垣の上に建てられた家が多く、その石垣の下を水路が通っているのは他の宿場には見られない際立った特徴である。
朝の洗面を始め生活用水、牛馬の飼育、潅漑用水などに幅広く用いられた」

青柳宿 (5)


なるほど、青柳城の石積みの技術の集大成って訳ですな(笑)

青柳宿 (7)
ほとんどの家屋が石垣の基礎ってのは凄い。


青柳宿 (20)
集落の東側にある清長寺。青柳氏の菩提寺でもあり、青柳氏滅亡後も小笠原氏の城代の屋敷跡だったという。


そんなわけで、清長寺は城館シリーズでそのうち紹介されると思うので割愛する(爆)


青柳宿 (26)
居館跡から見た青柳城。溜息ものでございます。


で、肝心の「犬のいない村」の真相ですかあ?

青柳宿を守る御神体は「狐様」でございます。

里坊稲荷山は「おじょろさま狐」と呼ばれてるし、十二原には「うたの助狐さま」、天神山には「三平狐さま」がいらっしゃる。

狐様を神と崇めるので犬は邪道でございます。村の代々の掟は、狐さまの嫌いな犬は飼わないという厳格な掟。

なので愛犬家の方は、青柳宿を見学される際には犬を集落の外に繋いでおきましょうネ(汗)


青柳宿 (29)

この宿場町の名物はもうひとつあって「切通し」

この切通しは、天正八年(1580)に青柳伊勢守頼長が切り開いたとされ、江戸時代から近世にかけて拡張工事が行われたという。


青柳宿 (32)

切通しの上部はノミによる手作業で削られた跡であり、下部は近年の削岩技術らしいが、「近年工事のヘタクソ!」と叫びたくなる有り様でございました(笑)

この道路が貫通したことで物流の交易が飛躍的に拡大したと記されていますので、現代人の感覚では戸惑うばかりでございます。


最後に訪れた硯水寺は、青柳氏三代の菩提寺としてお墓があるようです。

青柳宿 (39)


狐様の祟りを恐れるあまり、墓場の写真撮影は遠慮しましたあー(笑)

「今日はここの旅籠に泊って、明日は麻績を抜けて猿ヶ馬場を越え桑原へ行きますか、助さん格さん・・・」

水戸黄門様の声が聞こえそうな閑静な宿場町ですネ!!(爆)


【青柳宿】

取材日:平成24年7月8日
場所:東筑摩郡筑北村坂北青柳 坂北駅より徒歩15分。
漫遊時間:40分
見どころ:石垣用水路、切通し、常夜灯、青柳氏居館跡など
注意事項:犬連れはヤバイでしょう。












Posted on 2012/07/09 Mon. 23:47 [edit]

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