らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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田草城 (飯山市静間)  

◆野尻湖方面への間道を抑え、甲越軍がそれぞれ改修を加えた山城◆

11月から毎週のように城攻めで長野県の各地を転戦しまくっていたが、無理が祟って14日から風邪を拗らせてダウン。
20日(日)は大事をとって何処にも行けず、仕方がないので暮れの大掃除で地味な活躍・・・(笑)

このまま越年では口惜しいので、あと一日どこかでリベンジしたいと思いつつ、今回ご案内するのは飯山市の田草城。

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廃村となった田草集落からの登り口付近。明け方の土砂降りが現地へ着くと嘘のように晴れてきた。比高130mとは思えない高さ。

【立地】

千曲川の左岸で、国道117号線を中野市から飯山市に入った蓮(はちす)の隣の静間地区の荒船という集落から、昭和40年代まで続いた田草集落(現在は廃村)の西の山の尾根に位置する。現在集落の耕作地は荒地となり、嘗ては城域の尾根を越えた宝蔵谷まで開墾され林道もあったが、廃道となり道形も消えかけている。
田草川の谷は城跡の尾根(ひよどり越えと伝わる))を越え、西へ向かうと富濃を経て野尻湖方面へ通じるルートにあたり、甲越紛争時には戦略上の重要な場所になっていたと考えられている。

田草城縄張図① 001
支城の小田草城は防御構造として段郭を多用しているが、田草城は堀切を多用し畝状の竪堀も改修して付け加えられ、対比が一段と明確である。

【城主・城歴】

小田草城の解説でも述べたが、江戸時代に描かれた古地図には田草城主望月伊豆、小田草城主望月肥後の名があり、そのような伝承もあったらしいが、望月氏の詳細については不明だという。
戦国時代に入ると、蓮、静間一帯は高梨氏の所領だったので、高梨氏の手が加えられた事も考えられるが、現在の縄張りの姿は甲越紛争の頃に本格的な改修が施されたと見るべきであろう。

田草城(飯山市) (2)
東尾根の段郭。

田草城(飯山市) (4)
横堀㋛。東尾根の堀切はこれだけだが傾斜が急なので1本で充分だったようだ。

小田草城と共に甲越紛争の境目の城として越軍が野尻方面への間道を抑える田草城を強化したことは充分に考えられる。また、永禄十一年の甲軍による飯山城総攻撃の時に一時的に武田が占拠しているので、武田の改修も行われたとみるべきであろうか。

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楕円形の主郭に建つ「御嶽座王大権現」の碑。

【城跡】

我々は休耕田を掻い潜って東尾根にへばりついて直登して主郭を目指したが、これが結構キツイ。宮坂武男氏は沢筋を詰めた堀切㋑(ひよどり越え)が本来の大手であろうと推察している。ただ、現在このルートも藪が酷く道が途中で消滅している。
まともな登山道が無いが、南側の堀切㋐に通じる沢を詰めて尾根を目指すのが良いだろう。(帰り道は我々はここを下った)

田草城(飯山市) (11)
主郭(20×17)

城域は尾根上に訳50m展開している。二条の堀と思しき形のある北端の尾根先を城域に含めるかは微妙な判断となる。
郭3つの連郭式の小さな山城だが、八本の堀切を入れて西側の斜面には畝状竪堀まで備えているのには驚く。

田草城(飯山市) (12)
郭1から堀切㋓と郭2を見下ろす。結構な落差がある。

田草城(飯山市) (16)
東の沢に落ちる堀切㋓。

郭2から西の尾根に接続する部分を踏査していた我らは、宮坂武男氏が「見落としたのか、認めなかったのか」という横堀㋝を発見する。造作の途中で放棄されたようだが、堀切㋓に接続させて郭3に入れる意図が感じられる。そう、この技法は岩井城、夜交氏山城(男城)、平沢城に共通しているもので武田の普請と見てよいだろう。

田草城(飯山市) (21)
堀切㋔。郭ではなく横堀として造成されたものだ。

面白いのは、この横堀㋔の下側の西斜面に「ハの字堀+畝状竪堀」という上杉流の築城技術が見られる事であろう。
連続竪堀は途中で埋もれてしまったものもあるが5本は確認出来る。

田草城(飯山市) (22)
横堀㋝の拡大。斜面側に土手を盛っている。

田草城(飯山市) (23)
横堀㋝の下にあるハの字堀㋔。急峻な尾根筋に加工される典型的な竪堀である。

田草城(飯山市) (33)
畝状竪堀。補助線はどうか?とも思ったが、こんな感じで走っているというのがお分かり頂ければ・・・(汗)

西側の斜面からの攻撃を異常なまでに意識した防御であることは縄張からも見て取れる。これは、この城が富濃・野尻方面に通じる間道を抑える要衝にある事に関連があるだろう。一時的に武田軍が野尻城や割ヶ岳城まで制圧した時期に西からの逆襲を恐れた上杉が改修を急いだ跡とも取れなくはない。

●郭1より北側の尾根の処理

一応三連の堀切を入れているが、遮断する意気込みは緩くきわめてオーソドックスなスタイルだ。堀切㋓をV字形の堀切にしたのは最終形であろうか。二重堀切への意図があったようだ。

田草城(飯山市) (48)
堀というよりは道形のような堀切㋓の北側。後付けしたような印象。

田草城(飯山市) (49)
結構荒っぽい補助線(笑)。郭1から北尾根を見下ろすとこんな感じ。

田草城(飯山市) (53)
東斜面に落ちる堀切㋖。藪が酷く写真も酷い。

田草城(飯山市) (58)
連続堀切にしようとして作られたであろう堀切㋗。存在意義はあまり無いような・・(汗)

田草城(飯山市) (60)
藪に覆われた堀切㋘。撮影しても楽しく無いが、仕方ない。

田草城(飯山市) (61)
堀切㋙と堀切㋘との間の郭6。

田草城(飯山市) (62)
堀切㋙を撮影する「ていぴす殿」。

田草城(飯山市) (64)
北尾根の最終堀切だけあって、気合の入れ方が違うような気がした・・・(笑)

●南尾根の処理

司令塔は郭1で、実際の作戦本部は郭2であろうか。西側に畝状竪堀を備え、南尾根は堀切㋒に接続した郭3の塹壕に守られた特殊な場所である。甲越双方の改修が未完のまま終わったのだろう。
面白いのは郭5の東側に構築された堀切㋜で、山口城の塁線と共通するものだ。北信濃の上杉領内の城のスタンダードな技術といったところだろうか。

田草城(飯山市) (68)
郭3。

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城域で最も鋭い堀切㋒。深さ・角度共に申し分ない。

田草城(飯山市) (70)
東斜面に竪堀となる㋒。

田草城(飯山市) (87)
堀切㋑。

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「ひよどり越え」と呼ばれる堀切㋑の田草集落側。現在道は不明朗になってしまったようだ。


この城からのロケーションは限定的で広くない。小田草城が支城として用いられたのは視野の狭さを補うためであったと思われる。

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郭5付近からの眺望。

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郭5。

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塹壕のような塁線を伴う堀切㋜

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堀切㋜の堀中。この塁線は若宮城にも見られる。

こんな山奥の小さな山城に武田流と上杉流の築城技術が垣間見れるとは驚きでしたネ。

それは両軍にとってこの場所がいかに戦略上で重要な場所だったかを物語っている訳です。

≪田草城≫ (たぐさじょう)

標高:719m 比高:130m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市静間
攻城日:2015年11月15日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:30分 駐車場:廃屋の庭を借用
見どころ:堀切、塁線、畝状竪堀群など
注意事項:尾根に登るまでは藪漕ぎ。(小田草城ほどではない)クーさん情報があり単独訪問は避けよう。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
付近の城址:小田草城、蓮城、岩井城、とんば城、坪根城、後谷城など
Special Thanks:ていぴす様

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田草集落より見た田草城主要部。
















Posted on 2015/12/23 Wed. 08:42 [edit]

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小田草城 (飯山市静間)  

◆甲越紛争で争奪戦が繰り広げられたであろう境目の城◆

12月だというのに本日は異様な暖かさであった。日中の最高気温は14℃、佐久市は20℃近くもあったという。
そうはいっても来週の木曜日以降の天気は雪マークなので、今週末あたりが降雪前の北信濃攻略のラストチャンスには違いない。
なので、この日曜日は再び飯山方面に進軍する予定ですw

岩井城(中野市) (7)
千曲川右岸より見た飯山口周辺の諸城。(手前の橋は千曲川に架かる謙信公伝説の綱切橋)

今回ご案内するのは、藪に埋もれた飯山口の境目の城「小田草城」(こたぐさじょう)。

【立地】

千曲川の左岸で、国道117号線を中野市から飯山市に入った蓮(はちす)の隣の静間地区の荒船という集落から田草への登り口にある南尾根が城跡である。北を流れる田草川と南の肥後沢に挟まれた細尾根上の要害の地形で、沢の奥には田草城があり、その支城とも考えられている。奥まった田草城よりもロケーションは広い。
ここから田草を通り斑尾山の西麓を抜ければ割ヶ岳城、野尻城に通じるので往時は大切な裏道だったと思われる。

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荒船集落を過ぎて田草に向かう林道の脇に貯水池があり駐車する。そこから歩いて橋を渡り農道を進み適当に尾根を目指そう。

地図上では農道が南側の肥後沢に続いているように描かれているが、途中で消滅(ってか埋没)しているので藪漕ぎして尾根を目指すしかない。水田の跡は大量のススキが群生しているので畦道を適当に辿って斜面にへばり付くしかない。夏は無理だろう。

小田草城見取図 001
初期段階は段郭を多用した縄張りで、その後堀切を入れて改修強化されたように思えるが。

【城主・城歴】

江戸時代に描かれた古地図には田草城主望月伊豆、小田草城主望月肥後の名があり、そのような伝承もあったらしいが、望月氏の詳細については不明だという。
戦国時代に入ると、蓮、静間一帯は高梨氏の所領だったので、高梨氏の手が加えられた事も考えられる。

小田草城(飯山市) (1)
苦心の末にたどり着いた尾根(城域)はやはり一面の藪・・・ここまで来て引き返す訳にもいかず藪漕ぎを決意・・(汗)

小田草城(飯山市) (5)
土塁を伴う堀切㋑。高梨氏の山城に多く見られる技法だ。

小田草城(飯山市) (3)
堀切㋑の土橋。この奥の田草城の堀切に土橋は一つもない。

甲越紛争時における信玄の飯山攻略に際して、蓮や静間は最前線となり壮絶な陣取り合戦が展開されたと思われ、小田草城も田草城も巻き込まれて両軍による改修を受け物見や烽火台として使用されたと推定される。

小田草城(飯山市) (11)
猛藪を進む我らを段郭が阻止するが、写真を撮っても御覧の通り・・・(汗)

小田草城(飯山市) (14)
堀切㋒。

堀切㋑⇒堀切㋒にたどり着くまで100mを進むのに15分を要した。小谷村ではヤブツバキに苦労したが、ここでは背の低い雑木群に苦戦。そこまでしてみたいのか・・・(笑)

小田草城(飯山市) (17)
堀切㋒の郭2との接続部分の切岸は垂直に近い加工。

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郭2から堀切㋒を見下ろす。堀底には「ていぴす殿」。かなりの落差がお分かりいただけるでしょうか。

【城跡】

尾根上500mの長さに段郭を多用して展開させた山城で比高差も120m近くある。㋐の堀は未確認だが、㋑も㋒も土橋と土塁を備えた堀切で城域を区画している。ここまでの縄張りの技法は高梨氏の所領にある山城と共通する特徴がある。主郭とその背後を四重とも五重とも重なる堀切で断ち切る手法は武田による改修であろうか。
田草城とは異なる縄張りが対称的で面白い。

小田草城(飯山市) (23)
郭1。少し視界が開けた(笑)

小田草城(飯山市) (25)
主郭の背後の土塁。背後だけ盛られている。

主郭の背後の堀切は圧巻である。必死の形相で藪漕ぎして疲労困憊したものだけが見れる特権であろう。
主郭の後ろに横堀状の空地を置き、その後ろを三重の大堀切㋓で遮断。さらに連続して㋔と㋕で断ち切る豪快なものである。
尾根伝いに田草方面からの敵の来襲を意識した防御ともとれる。

小田草城(飯山市) (30)
主郭背後の横堀。宮坂武男氏は「郭1‘」として堀と見ても良いとしているが同感である。

小田草城(飯山市) (32)
土留めなのか投石用なのか川原石がごろごろしている。

小田草城(飯山市) (35)
三条の堀切で構成される大堀切㋓。

小田草城(飯山市) (44)
大堀切の向こうに見える尾根は田草城。

小田草城(飯山市) (52)
三連で北の谷に竪堀となる堀切㋓

小田草城(飯山市) (54)
堀切㋓の西端から対岸の主郭方面を撮影。上巾20m以上はある。

小田草城(飯山市) (56)
堀切㋔。水分補給を行うていぴす殿。比較的浅い。

小田草城(飯山市) (63)
最終の堀切㋕。ここもかなり埋没してきている。

さて、つらつらと写真を並べてしまいましたが堀切は藪に閉ざされずに見事な雄姿を見せてくれました。
林道脇から尾根まで25分、堀切㋑~主郭まで30分以上の藪漕ぎと城域探索。
我ら信濃先方衆2名は藪漕ぎに疲れ果ててしまい、同じ道を辿って帰るのも飽きてしまい、田草集落まで登り切って林道を下る事も考えたが、集落に出るまで更に藪漕ぎをする労力は致命傷になるので元来た道を戻る事にした。

小田草城(飯山市) (72)
我々は後ろ髪惹かれる思いで堀切からの撤収を開始したのである・・・(涙)


≪小田草城≫ (こたくさじょう)

標高:585m 比高:160m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:飯山市静間
攻城日:2015年11月15日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:25分(林道から尾根まで) 駐車場:貯水池の脇に車1台分
見どころ:段郭、土手と土橋付きの堀切、主郭背後の四連の堀切など
注意事項:特に無いが、藪漕ぎ必死。かなり体力的には消耗するので注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑧水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
付近の城址:田草城、蓮城、岩井城、とんば城、坪根城、後谷城など
Special Thanks:ていぴす様

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藪の切れ間から見える対岸の岩井城方面。この城のロケーションの素晴らしさを垣間見る事が出来る。












Posted on 2015/12/12 Sat. 21:36 [edit]

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信玄城 (上水内郡信濃町高沢)  

◆信越国境の見張砦か?◆

基本的に夏場は「藪・蜘蛛の巣・虫・蛇・スズメバチ・」など敵が多く、高温多湿で体力の消耗が激しいので山城巡りは遠慮している。

一番の問題は城跡の写真を撮っても、青々と茂る緑と藪で何が何だかわからないという事であろうか・・・。

「信濃の山城のフランシスコ・ザビエル」になりたい小生は、ブログに写真を多用する伝道師を目指しているので夏は最悪・・(汗)

そう言いつつ、今年は掟破りの夏場の攻城戦頑張っちゃいました・・(笑) なので写真の撮り直しで二度目もありかと・・・(爆)

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野尻湖に来るとどうしても撮影したくなる国道18号線沿いのナウマンゾウ親子。

夏は国内外の避暑地として賑わう野尻湖周辺は、戦国時代は甲越紛争の国堺として激戦区であった。

野尻湖に浮かぶ枇杷島城(野尻城)、その北側対岸には謙信が絶対死守を命じて新たに築城させたという野尻新城(推定)があり、湖岸の南には激しい争奪戦の繰り広げられた割ヶ岳城がある。

野尻新城①
枇杷島城から見た野尻城。ここを野尻新城とする説と国道18号線沿いの土橋城を野尻新城とする説が存在する。

琵琶島城①
野尻湖に浮かぶ枇杷島は野尻城として上杉軍の国境の砦が置かれたが、甲越紛争で武田が一時奪取している。

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近年発見された土橋城。謙信が新たに築城を命じた野尻新城という説もあるが、遺構は古い形態の館城のようにも思える。

薬師岳(信濃町) (49)
信玄が神仏に願文を捧げ、その自落を願ったという上杉軍の「鰐ヶ岳城」(わにがたかじょう)ではないかと言われる割ヶ岳城。

で、今回ご案内するのは、境目の城と伝わるものの、完全に名前負けしていると思われる「信玄城」。

【立地】

黒姫山(20253m)の北の裾野を流れる関川のほとりに突き出た細長い台地上にあり、長野県と新潟県の県境に位置する。上信越道信濃町インターから県道119号線を妙高高原に向かって走り、県境手前から高沢発電所を過ぎたところにある。要害性は低いが、山間の古道が小谷村まで通じていたという。

信玄城 (19)
高沢発電所脇の舗装路を苗名滝方面に向かうとクランクになるので、その先が入口。

信玄城 (2)
城跡には高沢集落の方により祠が祀られているので入口から参道が続いている。

【城主・城歴】

地元の方の伝承として「しんげんじょう」と呼ばれているだけで、史料等もなく詳細は不明であるという。宮坂武男氏の調査によれば「けんしんじょう」という呼び名もあるらしく、名前から甲越合戦の頃の砦だったことからその名が伝承されたと推定している。

信玄城見取図① 001
関川に突き出た台地を利用して作られた関所のような場所である。

上杉軍が小谷村方面からの武田軍の侵入を監視したものか、逆に武田軍が小谷村からの攻略拠点として築いたものかはわからない。このような簡易な作りでは敵からの攻撃には耐えられない。

信玄城 (16)
主郭は台地の先端にあり一段高い場所を削平している。

信玄城 (17)
主郭に設置された祭神不明の小祠。

【城跡】

北側は関川に向けた谷となり、東側は西の沢と呼ばれる川が流れるものの、要害性は乏しく堀切などの防御遺構も見当たらない。
尾根を削平しただけの場所である。
ここから小谷村までの経路は2000m級の山々に囲まれた場所で、果たしてどのように古道が走っていたかも不明だ。

信玄城 (9)
主郭の先端。この先は小さな段郭を置いて関川への谷となっている。

信玄城 (5)
城域東側は緩く削平された跡が残る。

信玄城 (6)
主郭から見た参道。堀切かと思いきや、くぼ地だったりする・・(汗)

甲越紛争時に臨時に置かれた国境の物見か番所跡というのが無難な見方であろうか。

それにしてもこのような場所で見張り番するのも嫌だなあー・・・(笑)

≪信玄城≫ (しんげんじょう) 

標高:780m 比高:45m (関川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:上水内郡信濃町高沢
攻城日:2015年9月13日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:道路脇より5分
駐車場:林道脇の空き地に路駐
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:小型乗用車までなら何とか通行可。
付近の城跡:野尻城、割ヶ岳城、琵琶島城、土橋城など

信玄城 (12)
記録しなければ信玄城という名前さえ後世には伝わら無いと思われる・・















Posted on 2015/11/06 Fri. 12:40 [edit]

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薬師岳 (上水内郡信濃町)  

◆割ヶ岳城の烽火台だったという言い伝えの残る山◆

中世の山城巡りなどという稀有な趣味が、ようやく市民権を得られる寸前まで来ているらしいが、現実は厳しい。

小生も山城徘徊が本格化するとともに、家人からは奇人・変人扱いならまだしも、この時期の山城三昧は家庭崩壊寸前の罵声を浴びる始末である・・・(汗)

IMG_3324.jpg
写真は福平城(長野市戸隠)。ジムニーを手に入れて行動範囲が拡大した事も要因らしい・・・。

家庭を顧みずに趣味に没頭するのなら反省の余地もあろうが、家庭・仕事・趣味の三権分立(?)に日々努力を行っている我が身とすれば、なんとも切ない状況には違いはない。

心が折れぬように懲りもせずまた山へ出かけるばかりである・・・・これじゃ解決策にはならないか・・・(笑)

まだまだ果てしない戦いが続きそうである。で、今回ご紹介するのは、割ヶ岳城の烽火台伝説の残る「薬師岳」。

薬師岳(信濃町) (47)
割ヶ岳城の麓から見た薬師岳(819m)。南へ約1.2kmの至近距離にある。


【立地】

しなの鉄道北しなの線(旧JR飯山線)の古間駅の北側の独立峰が薬師岳で、別名「船岳山」とも呼ばれる。山容は急峻だが、頂上は名前の通り広い舟形をしていて、薬師堂が勧進されている。
北側1.2km先には割ヶ岳城があり、標高は薬師岳のが50m高いので割ヶ岳城の南側の視界を遮る形になっている。越後へ通じる古道が交差する要衝の地でもある。

IMG_3356 (1)
登山道(参道)は山の東側で船岳集落脇の道路から入る。


薬師岳② 001

割ヶ岳城を訪れた事のある人なら、「あー、あの目の前の邪魔な山か!」と思い出すかもしれない。
そして、あの山も城跡じゃないのか?と思った方もいるだろう。小生もずっと気になっていたので、登って確かめることにしたのだ。

薬師岳(信濃町) (4)
つづら折りの参道を20分ほど登ると山頂の薬師堂にたどり着く。(A地点)

【経歴】

「長野県町村誌」には「船岳山」として記載があるが、城跡としての経歴には触れていない。しかし、地元には割ヶ岳城の烽火台だったという伝承があるという。
確かに割ヶ岳城の南側を塞いでしまっているので、野尻城あるいは野尻新城からの烽火を矢筒城や鼻見城へ伝えるには薬師岳を経由させる必要がある。甲越紛争で信玄が上杉軍の野尻城や鰐ヶ岳城(割ヶ岳城とも?)に攻め込んだ際には機能していたことが考えられ、紛争が終息し国境がほぼ固定するに及びその役目は終わったと考えられる。

薬師岳(信濃町) (17)
薬師堂の周囲はコの字型の土塁が囲むが、近年のものであろうか。

薬師岳(信濃町) (8)
神社やお堂を囲む土塁が中世戦国時代の遺構と考えがちだが、即断は危険だ。

【山頂の現在の状況】

今では訪れる参拝者もほとんどいないのか、薬師堂を含めた広い頂上は藪に覆われてしまっている。薬師堂の横には何故か「井戸」の看板があり、藪をかき分けて進むと確かに井戸があった。がしかし、説明版は無い・・・(汗)

薬師岳(信濃町) (16)
藪が生い茂る消えかけた道を50m進むのは違う意味での勇気が必要です・・・(笑)

薬師岳(信濃町) (21)
井戸。せっかく辿り着いたのに何も説明無しとは酷い・・・

宮坂武男氏の縄張図によると、図のCの中間地点に祠があり、更に70mで土塁の残るB地点に出るらしい。
現状の鬱蒼とした林を進むのは結構勇気が要ります・・・(汗)

薬師岳(信濃町) (22)
C地点の祠発見。お札が入っていたので年一度は誰かが来ているようだ。

薬師岳(信濃町) (24)
ここから70m先のB地点への移動も勇気凛々アンパンマンってな訳で。

薬師岳(信濃町) (29)
B地点のコの字型の土塁

恐る恐る辿り着いたB地点。コの字の土塁が確かに確認出来るのである。

「おや?もう一棟薬師堂があったのかしら? それとも地鎮祭だけで終わったのかしら・・・?」

周囲の杉林を取っ払ってしまえば、さぞかし壮大な眺望だったと思われる。ここに城を築城するという発想は何故なかったのか?
まあ、確かに独立峰なので周囲を囲まれてしまえば脱出不可能で全滅という選択しかなくなるが、割ヶ岳城や野尻城の後詰めを期待しても良いような気もするが・・。

薬師岳(信濃町) (26)
土塁脇には石仏があった。時代とすれば、そう古くはないだろう。

残念ながら烽火台としての痕跡を発見することは出来なかった。薬師堂を勧進した際に取り払われたのかもしれない。

それにしても、そんな理由で踏査した宮坂武男氏には感服するが、わざわざ見に登った小生も奇人変人であろう・・(笑)


≪薬師岳≫ (やくしだけ 船岳山) 

標高:819m 比高:180m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:上水内郡信濃町富濃
攻城日:2015年9月13日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:20分
駐車場:道路脇の空き地に路駐
見どころ:土塁、石仏など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:藪で足元が見えないので蛇対策として登山靴にスパッツを装着したほうがよい。
付近の城跡:割ヶ岳城、鼻見城、野尻城、野尻新城、土橋城など

薬師岳(信濃町) (46)
目と鼻の先に見える割ヶ岳城。境目の城として戦国末期まで改修された。北信濃を代表する山城の一つである。









Posted on 2015/11/01 Sun. 19:44 [edit]

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古海城 (上水内郡信濃町古海)  

◆放射状の竪堀群を備える円郭式の要塞◆

先週の三連休の初日は、身内の軍事訓練の閲覧式(別名:運動会とも)への参加要請があり止む無く参加。

翌日の日曜日は午後から晴れるとの予報を信じて下諏訪方面に出陣するが、雨が止んだのは午後2時過ぎ。しかしスパイクピン付きのゴム長を履いて下諏訪町の「高木城」「山吹小城」「山吹大城」を攻略。感動した・・・。

12日は信濃先方衆の「ていぴす殿」、えいきの修学旅行の管理人である「えいき殿」と3名で夜交氏山城(山ノ内町)、沼ノ入城(中野市)の攻略に成功する。

夜交氏山城(山ノ内町) (158)
Web初公開らしい夜交氏山城(よまぜしやまじょう 夜間瀬城とも)の縦走は忍耐と体力の勝負だった・・(汗)



例のごとく、いつ掲載になるか予告すら出来ない山城の記事などに期待は無用であろう・・(笑)

今回ご紹介するのは、道なき斜面を直登したものだけが堪能出来る「古海城」だ・・・。

古海城(信濃町) (2)
県道96号線の古海トンネルの北出口の最初のカーブ脇から城跡を目指そう。

古海城(信濃町) (88)
宮坂武男氏は南東の鞍部(尾根筋)を目指せというが、どうせ道が無くて藪なら直接斜面を這い上がるのが近道であろう。

【立地】

野尻湖の北東、古海集落の後背の円錐形の山が城山である。南東1.2kmの斑尾山の中腹には貉倉城(むじなくらじょう)があり、この2城は連動していたと宮坂武男氏は推定している。

古海城縄張図② 001
根性で登る比高80mはチョイとキツいが、境目に近い北信濃で武田流築城術とおぼしき放射状竪堀に驚くこと請負いである。

【城主・状歴】

長野県町村誌では、「養和元年(1181)、越後国烏城の城主城長茂(じょうながしげ)、木曽義仲を討の際、築城せしと云ふ。」と記載があるが、そこまで遡るほど古いものではないようだ。

野尻湖の北側に位置する古海集落は、上越の関川や田口に通じる重要な古道が走り湖岸を通じて割ヶ岳城にも繋がっている。斑尾山を超えれば飯山なので、甲越紛争における越軍の最前線として琵琶島城野尻城とともに重要視されたことが考えられる。

古海城(信濃町) (3)
藪を掻い潜って南東の斜面を登ると人工的な切岸が現れる。そう、これが横堀+放射状竪堀の痕跡なのだ。

永禄七年(1564)、信玄は謙信が関東へ出陣した隙を突いて野尻城(このときは琵琶島城か?)を攻め落としている。その後すぐに上杉方が奪還しているが、古海城はその時に武田方により改修された事も想定される。

古海城(信濃町) (27)
郭1を囲むように土手付きの郭2が周回する。武者溜りを兼ねているようだ。

古海城(信濃町) (14)
郭1(主郭)は藪が酷く、円形なのが分かる程度で、残念ながら細部まで表面観察が出来ない・・(汗)

【城跡】

古海城だけでなく、北信濃の城跡は年間を通して藪に覆われた場所が多く写真撮影は愚か表面観察すらままならない。

この城は頂部に土塁付の主郭を置き、周囲に円郭式の郭2を置いて傾斜が緩くウィークポイントである東尾根に続く東~南斜面に横堀と放射状の竪堀を穿っている。
この形状は付近の山城にはなく、白馬村や小谷村に一部残る甲州流の築城技術と繋がりがあるように思える。

●主郭と土塁に囲まれた郭2周辺

独立峰に円郭を置くことで全方位の防御が楽になる仕組みを採用している。土塁も「叩き土塁」として頑強仕様になっている。

古海城(信濃町) (64)
主郭の北側に残る土塁痕。土留めの石積みも確認出来る。

古海城(信濃町) (16)
主郭から見下ろした郭2.

古海城(信濃町) (34)
郭2も2/3は藪に覆われているが無理に歩いて撮影して補助線引いてみた・・。

古海城(信濃町) (45)
郭2の北西にある枡形状の虎口。尾根先に小さな段郭があるので、こちらが大手か?

古海城(信濃町) (40)
虎口の断面。単純に盛り土しただけでなく上部を叩いて潰し強固にしているのがお分かりいただけるでしょうか。

●横堀+放射状竪堀

この城の最大の見どころは藪に覆われて表面観察が厳しい。しかし踏査する価値は十分でその遺構は素晴らしい。
椿などの常緑樹が蔓延るので、冬に訪れたとしても写真映えはしないと思われる・・・(汗)

古海城(信濃町) (53)
郭2から見下ろした横堀と竪堀。(補助線が強引過ぎか・・・汗)

古海城(信濃町) (70)
郭2から横堀までの切岸。人工的に斜面を削っているのが分かる。

古海城(信濃町) (73)
横堀を抉じ開けるように竪堀が開口している。

古海城(信濃町) (75)
横から見るとこんな感じ。竪堀は短いが斜面が急なのでこの程度で充分機能したと思われる。

古海城(信濃町) (76)
もう少しシンプルにしてみた。あまり変わり映えしないか・・・(笑)

横堀+放射状竪堀といえば、残念ながら破壊されてしまった白馬村の三日市場城が有名で、ここはそのミニュチュア版といった城だろうか。
一時的に武田軍が野尻湖周辺を制圧した時に短期間で造成された砦とみて差支えないように思える。

古海城(信濃町) (80)
郭2までの比高は結構ある。

古海城(信濃町) (85)
北東尾根の処理状況。

野尻湖の北面の小さな円錐形の山にこんな「お宝」が眠っているとは驚きであった。

謙信の喉元に匕首を立てたようなマニア必見の見事な要塞である。


≪古海城≫ (ふるみじょう 城山) 

標高:803m 比高:135m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市平柴
攻城日:2015年9月13日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:20分
駐車場:古海トンネル脇の空き地に路駐
見どころ:放射状竪堀+横堀、土塁など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館⑧ 水内・高井・補遺編」(宮坂武男著 2014年 戎光祥出版)
注意事項:基本は道なき直登。ひたすら登れば着く。
付近の城跡:貉倉城、野尻城、琵琶城、土橋城など

古海城(信濃町) (1)
古海トンネル出口付近から見た古海城。さほどの威圧感は無いのだが、遺構は一級品である。
















Posted on 2015/10/16 Fri. 22:24 [edit]

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