らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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高天神城① (静岡県掛川市上土方嶺向)  

◆難攻不落の名城を巡る徳川VS武田の十年間の仁義なき戦い◆

川中島合戦ほど全国区では無いが、「高天神城の戦い」も歴史好きが集う話題である。

「今さら信州の山猿の戯言など聞きとうないわい!」

まあ、そうおっしゃらずに、せっかく遠州まで物見遊山に出掛けたのでお付き合い下さいませ・・(汗)

高天神城(遠江) (2)往時の妄想が掻き立てられる搦め手門跡の看板。(追手門にもあります)

小生が高天神城の攻防を知ったのは新田次郎の小説「武田信玄」であったと思うが、戦国時代だけを生きた稀有な城としてハッキリ認識したのは「戦国の城」(2007年 学研新書 小和田哲男著)であった。

この本は、6年前に頂戴した本で小生が中世城郭についての基礎を学んだ入門書である。

「逢いたい気持ち」を胸に閉まったままの六年間・・・それは長かったような短かったような・・

高天神城(遠江) (5)搦め手の史跡碑。

高天神城の立地と構造、さらに城歴(徳川の城となるまで)の前半の経緯は、小生の拙い文書よりも、小生が尊敬してやまない小和田哲男氏の「戦国の城」から高天神城の解説の記載を引用したいと思います。

※引用元 「戦国の城」 学研新書003 著者:小和田哲男 発行:2007年6月15日

『戦国争乱の舞台となった戦国の城-高天神城の武田・徳川の攻防を例に』

【今井の城から徳川の城へ】

私が、いくつもある城の中からここで高天神城を選んだのは、一つは、この高天神城が戦国時代にしか使われていないからである。典型的な戦国の城といってよく、また、江戸時代には使われていないため、戦国時代の遺構がそのまま残っているのも魅力である。

そしてもう一つは、高天神城を舞台に、武田信玄とその子勝頼と、徳川家康とが、実に10年にもわたって攻防を繰り返しており、戦国の城を舞台にした戦いの様子が、遺構と文献の両方から明らかにできると考えたからである。

高天神城の位置
「戦国の城」序章49頁の高天神城とその周辺地図を引用転載。

まず、高天神城の位置関係を地形について概略をみておこう。上の図に示したように、大井川の南西、遠州灘に近いところに位置し、牧ノ原台地と小笠山陵にはさまれた独立丘陵で、標高132nに鶴翁山(かくおうざん)を中心に、放射状にのびるいくつかの尾根と、尾根にはさまれた谷を使った城である。
麓からの高さ、すなわち比高は104メートルで、ふつう、100メートル以上を山城の範疇に入れているので、ぎりぎり山城に分類される。

東海道(国道1号線)からも、浜街道(国道150号線)からも離れていて、交通上の要衝でも何でもない場所にこの城が築かれたのは、独立丘陵だということと、見晴らしのよさが大きな理由だったと思われる。それとともに、ちょうど、屋根がやつでの葉のように入り組んでおり、谷がいりこむ形の複雑な地形で、防御を主体とする山城にはうってつけの場所だったといえる。
しかも、その周囲には、小笠川などの中小河川が流れ、天然の堀となっていて、守るには守りやすく、攻めるに攻めにくい城ができあがったのである。

高天神城縄張図(見崎閧雄作図)
「戦国の城」序章51頁の高天神城縄張図を引用転載。

さて、その縄張であるが、上記の図に示したように、大木、東峯と西峯という二つの部分からなっていた。一つの山の中に、二つの城をドッキングさせた形である。
この図からもうかがわれるように、小さな尾根が櫛の歯のように出っ張っており、これは、軍学者のいう「横矢掛(よこやがかり)」にうってつけの地勢であった。
城を攻める場合、攻める側は、急な断崖のようになっている斜面をそのまま攻めのぼる事はできず、いきおい、谷の奥に進み、そこから比較的ゆるやかな斜面のところをみつけ、そこにとりついて攻めのぼることになるが、高天神城の場㋐、この図からも明らかなように、橘ヶ谷、鹿ヶ谷、地境ヶ谷などの谷がいりこむ形となっていたため、攻める進路は尾根に築かれた曲輪にはさまえた格好になる。つまり、両サイドから矢とか鉄砲の攻撃をもろに受けたわけである。
高天神城が「難攻不落の名城」とうたわれた理由の一つがこれであった。

高天神城(遠江) (6)搦め手門跡。

高天神城については、江戸時代に書かれた軍記ものとして「高天城軍記」というものがある。それによると、築城者は今川了俊だという。今川了俊が一時期、遠江半国の守護になったことはあるので、全く可能性がないとはいえないが、了俊の時代にはこのような山城はまだ築かれていないので、私は了俊築城説には否定的である。

高天神城(遠江) (9)橘ヶ谷の搦め手。引くも地獄、攻めるも地獄だった場所であろうか。

史料的にかっきりしているのは、戦国大名今川氏の初代になる今川氏親の時代、福島左衛門尉助春(くしまさえもんのじょうすけはる)という重臣がおり、たしかな古文書でこの福島助春の高天神城在城は確認出来るので、十六世紀初頭のの築城と考えられる。
今川氏親が駿河から遠江に版図を広げるとき、遠江侵攻の拠点として築かれ、その後も今川氏によって駿府今川館の有力支城の一つに位置付けられたものと思われる。

高天神城(遠江) (10)天正二年の七月に武田側によって作られたと云う三日月井戸。城中唯一の水の手で、枯れる事は無かったと云う。

その後、城主は福島氏から小笠原氏に代わっており、尾が粟原与八郎氏助が城主となっている。ところでこの小笠原氏助であるが、「高天神城軍記」をはじめとする各種軍記物はどういうわけか名乗りを長忠としている。長忠と名乗った時代があったかもしれないが、たしかな古文書では氏助なので、ここでは氏助としておく。

高天神城(遠江) (14)井戸郭(東峯と西峯の連結部分)からみた南方面の鹿ヶ谷。

小笠原氏助は今川義元の重臣としてこの高天神城をまかされていたが、周知のように、義元が永禄三年(1560)五月十五日の桶狭間の戦いで織田信長に討たれたあと、義元の子氏真はそれまでの今川領国を維持することができず、とうとう、永禄十一年(1568)十二月、東から武田信玄が、西から徳川家康が今川領に同時侵攻し、結局、氏真は駿府今川館を捨て、今川氏は滅亡する事態となっている。

このとき、高天神城主だった小笠原氏助は戦わず家康の軍門に降っているのである。つまり、小笠原氏助は今川氏を見限り、徳川氏に内応した形で、家康もその功を賞し、小笠原氏助にそのまま高天神城主としての地位を安堵したのである。つまり、ここで、高天神城は今川氏の城から徳川氏の城となった。

※引用はここまで。
続きが読みたい方は学研出版サイト「戦国の城」を参考に購入をお勧めします。


高天神城(遠江) (18)東峯の二の曲輪手前の的場郭。


えっ?その後のストーリーがメインで面白いところなのに止めるな?

やはりそこは、ご自身で購読して読みましょうよ・・・(笑)

以下はざっくりとらんまるの解説で。

【武田信玄・勝頼に攻められた高天神城】

武田と徳川には大井川を領土の境界線とする密約があったと云われるが、証拠も記録も無い。

信玄は大井川を越えて遠江に侵略の手を伸ばしたために、家康とは当然敵対関係となった。

高天神城(遠江) (22)主郭手前の段郭。

単独で武田と戦っても勝ち目の無い家康は同盟先の信長を頼りたいのだが、信長も自身が多忙で援軍を回す余裕も無い。

そんな状況を百も承知の信玄は、元亀二年(1571)三月に自ら二万の兵を率いて高天神城攻めを敢行する。
(第一回高天神城の戦い)

この時の籠城兵は二千といわれていたから、実に10倍の兵力差での城攻めだった。

高天神城(遠江) (30)二の曲輪跡。勝頼が攻めた時はここが本郭とも?

楽に落とせるはずが、簡単には落ちなかった。

数日攻めただけで、信玄は兵を引き躑躅ヶ崎館へ帰っていった。

この時の信玄の行動を徳川に対する「威嚇」とする説もあるが、そんな事のために二万の兵で囲むだろうか?

本当に落とせなかったと見るべきであろう。そして撤収の判断も誤りではなかった。

高天神城(遠江) (29)堀切も不要なので土塁も少ない。

翌年十月、西上の軍を起こした武田信玄は再び遠江へ侵入。二俣城を落とし浜松城に迫った。

この時に高天神城は素通りしている。二万五千でも簡単には落とせないなら放っておけばよいのだ。

その後、三方ヶ原へおびき出した徳川家康を散々に蹴散らし、翌年野田城を落とすが、病状が悪化し四月にあっけなく亡くなる。

高天神城(遠江) (34)本郭跡(御前曲輪はここだという説もある)

信玄の脅威が去りホッとしたのもつかの間、天正二年(1574)五月、信玄の跡を継いだ勝頼が再び二万五千の兵を率いて高天神城に殺到する。(第二回高天神城の戦い)

「父ちゃんの落とせなかった城を 俺が落として見せる!」

カリスマオヤジの威光を引き継ぎ家臣団の求心力を持続させるには、この方法が手っ取り早かったらしい。

高天神城(遠江) (36)本郭北側の腰郭。

城主の小笠原氏助から家康に対して後詰めの要請が入るが、やはり大軍相手の単独救援は無理で頼みの信長もやはり余裕がなく援軍も出せない。

一ヶ月に及ぶ武田軍の猛攻に籠城兵二千は良く持ちこたえた。堂の尾曲輪、本丸、二の丸を残すだけとなっても徹底抗戦で耐えた。

いつまでたっても落とせない焦燥感と、織田・徳川連合の後詰めがくるかもしれないという焦りから先に折れたのは武田側で、降伏勧告を行った。

これに対して小笠原側も待てど暮らせど来ない後詰めに疲れきっていて不満も噴出していたという。

高天神城(遠江) (40)本郭から見た東方面。

勝頼側からは代替所領を宛がう案が提示されるが、小笠原側は開城後の帰属先は各兵の選択を認めるよう提示があり、武田側もこれを受け入れた。

武田側として高天神城に残った人を「東退組(とうたいぐみ)」、城から出て徳川方に合流した人を「西退組(せいたいぐみ)」と呼んだらしい。

この時、徳川の軍監だった大河内政局(おおこうちまさもと)は降伏を拒否し、城内の石窟(石牢)に幽閉されたという。(7年後、徳川軍の高天神城攻めの際に救出された)

高天神城(遠江) (27)二の曲輪の東の崖淵にある石窟。崩落の危険があり現在は閉ざされている。黒田官兵衛と同じ忍耐力と忠誠心の持ち主だったんでしょう。


まあ、どんな形であれオヤジの落とせなかった高天神城を落とした事で、勝頼は自信を付ける結果となった。

「父、武田信玄を越えて見せる」

偉大な武将を父に持つ子としての宿命であろう。

老舗「武田や」の二代目の若旦那は、煙たい年寄りの番頭さんたちの忠告を無視して拡張路線を走りだす。

次回続編「高天神城を見殺しにした代償」を乞うご期待! (って続くんかい! 怒!)







Posted on 2013/09/08 Sun. 11:55 [edit]

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0907

横須賀城 (静岡県掛川市西大淵)  

◆高天神城の付け城だった「横須賀ストーリー」とは◆

昨日はいきなりラーメンの写真があった為か拒否反応が酷くてアクセス数が落ちたようだ・・・(汗)

城ヲタクの語る「食べログ」など信憑性に乏しい。

山を駆けずり回って昼飯も食べ忘れるようなヤツは何を食べても「旨いのである」(笑)

横須賀城 (1)本丸南下門跡から見た本郭跡。河原石の石垣が珍しい横須賀城。

今回ご紹介するのは、昭和の歌姫で小生が大好きだった山口百恵の詩にもなった「横須賀ストーリー」

「えっ?違うの?」(汗)

百恵チャンが歌った横須賀は神奈川県にある米軍や日本の軍事要塞都市で、今回の横須賀は静岡県にある徳川軍の軍事基地なの?

大好きなF22を待てど暮らせど飛んで来なかったのはそのせいかしら・・・(おバカっ!! 爆)

横須賀城 (4)四層の天守閣があったという本郭跡。

【立地】

小笠山(265m)の南へ伸びる支脈の終点に位置し、同じ支脈上で南東に位置する高天神城とは約6kmの距離である。
遠州灘へは弁財天川沿いで2km上流にあり、城と直結する港(横須賀湊)があったようだが、宝永大地震(1707年)で地盤隆起となり、湊は壊滅したという。

横須賀城見取図①中世城郭の砦(松尾山)を近世城郭に拡張していった様子のわかる見取図。

【城主・城歴】

天正六年(1578)、徳川家康は家臣の大須賀康高に命じて高天神城奪還の軍事拠点として築城させる。
天正九年(1581)に武田方の高天神城が落城すると、それ以降は近隣の領土支配の拠点となり明治維新の廃城まで288年間八家20代の城主を数える。

横須賀城 (11)天守台に残る礎石と背後の土塁。

築城当初は松尾山と現在の本郭からなる陣城だったようだが、その後近世城郭への拡張工事により二の丸、三の丸などの平城部分が加えられた。大手口が二ヶ所あるのも珍しく河原石の石垣も特徴的である。

明治維新の廃城後、建物や土地は民間に払い下げられ堀も埋め立てられて城跡は景観を失ってしまった。
昭和46年に本丸一帯の宅地化計画が持ちあがると、城跡消滅の危機に住民の保存運動が展開され昭和56年に国指定史跡となり発掘調査と史跡整備が進められて現在に至る。

横須賀城 (16)本丸東側より本丸下門周辺。土塁や切岸が再現され見事な景観。

横須賀城 (24)本丸跡にある3D模型と解説台。お金かかってます(笑)

この横須賀城、さすがに国指定だけあってそれぞれの場所に発掘状況の写真や解説板が置いてある。

城の構造が良く分からない初心者の方にも分かり易く丁寧に書かれている秀逸もの。これは掛川城にも共通するものなので、掛川市教育委員会の発想なのかもしれない。

中世城郭マニアを始めるキッカケになるツールとしては地味ながら効果は絶大かと・・・・(爆)

横須賀城 (26)三日月池周辺の遺構の解説。

横須賀城 (25)掛川城は三日月堀だが、横須賀城は規模が小さいので「三日月池」らしい・・(汗)

近世城郭としての横須賀城は規模も大きく、歴代三万石の大名には身分不相応にも思える。

まあ、万が一西から敵が東海道に入っても、陸路は掛川城で抑え、海道沿いはこの城で抑える防衛構想だったというから、幕府もお金注ぎ込んだと見て間違いないでしょう。

横須賀城 (28)北の丸。

で、信州の山猿としては、チョッとだけ山城の匂いのする松尾山へ行っちゃうんです・・(笑)

近世城郭はすぐに飽きちゃうんです、ハイ。

横須賀城 (30)北の丸から見た松尾山。「山=登る=嬉しい=ビョーキ?」

松尾山は築城初期における重要な郭であり、高天神城方面からの攻撃に備えた防御の要でもあった。

近世城郭へ拡張された時でもその重要性は失われず、郭の東端には多門櫓があった事が江戸時代の図面や発掘調査でも確認されている。

横須賀城 (34)郭内部。奥のビニールシート部分が発掘中の多門櫓跡。

横須賀城 (35)現地の説明板。

この松尾山の周辺は後世も空掘だったようで、唯一築城往時の姿を留めている。

小生が唯一ホッとするくつろぎの空間でもあります・・・(笑)

横須賀城 (39)空堀というよりは谷という表現が似合う強力な防御施設。

横須賀城 (33)松尾山から本丸を見る。築城当時は北の丸は空堀だったように思えるがどうであろうか。

横須賀城 (41)松尾山の北側の空堀。茶畑までの巾らしい。

さあ、いかがだったでしょうか横須賀城。

平城部分??全く興味がないので見ませんでした・・・それじゃダメだって??(汗)

横須賀城 (43)北の丸から見た西側の平城部分。

♪♪これっきり これっきり もう これきっりーですかあー ♪♪

♪急な坂道 駈け登ったら 今も海が見えるでしょうか~ ♪♪ ここは よこすか・・♪

(その横須賀ではありません・・くどいゾ!)

≪横須賀城≫ (よこすかじょう)

標高:40.0m 比高:35m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県掛川市西大淵
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆ 
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:河原石の石垣、天守台跡、松尾山、空堀など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:信州人に聞くなって(笑)


横須賀城 (47)入り口にある古絵図。

毎度の事だが、帰り際に「西の丸」の下が正式な史跡入り口だった事に気が付く・・(汗)

そこにはちゃんと駐車場もあった・・・。なんてこった・・・。

横須賀城 (48)正式な入り口はここらしいので、ここでお別れです。








Posted on 2013/09/07 Sat. 10:18 [edit]

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0905

小山城 (静岡県椿原郡吉田町片岡)  

◆三重の三日月堀が美しき武田の城の最終形◆

先日の日曜日に人生初の「朝ラー」(※朝からラーメン)なるものを食した。

若気の至りなら許せるが、壮年の過ちに近い暴挙であることは、昼飯が全く食べられなかった事が証明した(汗)

朝からカレーは「有り」だが、朝からラーメンは如何なものか・・でも美味いのでやめられない・・(笑)

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らあめんひばりや
〒386-0024 上田市大手1-10-5
TEL 0268-75-7988

上田に攻め入る際に、朝からラーメンを食べたい人にはお勧めだ。ブログを読んでからお店でチャレンジすると、ラーメン100円割引券が貰えるらしい。朝9:00から営業というのも嬉しい。

詳しくはらあめんひばりやのブログをチェック!!らあめんやのオヤジのブログとは思えない秀作である。

話は逸れてしまったが、今回ご紹介するのは遠江に信玄が楔を打ち込んだ要害「小山城」。

小山城(遠江) (1)東名高速の吉田ICから南東1kmの能満寺公園が城跡である。

立地は牧之原台地から東南の大井川に向けた河岸段丘の先端にある。

ここから大井川の上流10kmには諏訪原城があり、徳川との盟約上の領土境界線の防衛最前線という見方も出来るが、徳川領へ侵入するための境目の城と見て間違いないだろう。

小山城(遠江) (4)登り口にある能満寺。往時は泥田あるいは湿田だったのだろうか?

【城主・城歴】

永禄十一年(1568)、武田晴信(信玄)は今川領であった駿河に侵攻。その年の四月、今川方の小山城の城将窪田介之丞は戦死。翌月に徳川方の松平真乗が小山城に入る。(どうやら漁夫の利だったらしい)

翌年二月に武田軍が駿河に再度侵入し小山城から松平真乗を駆逐し、三月には駿河全土を掌握し武田領とした。

小山城(遠江) (6)能満寺曲輪への登り口。

五月に徳川軍は遠江の掛川城を制圧し、大井川を境とする取り決めが武田と徳川との間で交わされる。

「約束は破るためにある」

信玄がそう云ったか知らないが(笑)、大井川を越えた遠江領の金谷に砦を築き(諏訪原城の前身)、元亀元年(1570)になると、徳川に譲渡した小山城を急襲し金山付近に滞留していた徳川軍を蹴散らす。

小山城(遠江) (7)能満寺曲輪に建つ虚空蔵尊。

家康は抗議するが、役者が二枚も三枚も上手の信玄はのらりくらりとこれをかわし、元亀二年(1571)に城を大幅に改修し、城将として大熊備前守長秀を置く。縄張りは馬場信春の監修らしいが、定かではない。

※この大熊さんは、もともと長尾景虎(上杉謙信)の配下の武将であったが、出奔を繰り返していた景虎に愛想を尽かし武田氏に鞍替え。武田氏滅亡後は真田昌幸の配下として活躍して真田信之の松代移封に従っている。

小山城見取図①敢えて小山城の最大の売りである二の郭にある三日月堀と丸馬出しを点線で表記した訳は?

元亀三年に武田信玄は西上の軍を起こし、三万(または三万五千)の兵で遠江・三河へ侵入するも、翌年四月に病死。

跡を継いだ勝頼は秋に諏訪原城を築城し、天正二年(1574)には信玄も落とせなかった高天神城の奪取に成功する。

小山城(遠江) (8)周囲三方を険しい崖淵で守られた本郭。

勝頼の得意絶頂は張り詰めた糸であり、天正三年(1575)五月の長篠の戦いであっけなく音を立てて切れた。

その後の武田家の凋落は今さら小生が解説するまでも無いが、小山城は天正十年(1582)二月に甲州征伐で武田家が滅亡しても、武田の城として生きながらえたのである。

家康が城攻めがヘタクソだったと云う事を差し引いても(爆)、駿河の田中城(城将:依田信蕃)、遠江の小山城(城将:大熊長秀)は優秀な指揮官のもとでは、絶対に落城しない縄張りだった事が証明された。

小山城(遠江) (14)模擬天守は余計な造作物だが、丸馬出しや三重の三日月堀を上空から観察する施設と考えれば腹もたつまい・・(笑)

防御構造や縄張りにおいての諏訪原城は規模も大きく小山城よりも優れているように見えるが、籠城戦における「城正面」という原点を考えた場合、尾根が広がり過ぎた諏訪原城は兵力を分散してしまう欠陥があった。

小山城は三重三日月堀が実戦において恐ろしい威力を発揮することを見事に証明した。

小山城(遠江) (25)二の曲輪外側の土手付き堀切。

小山城(遠江) (26)水堀だったのかは不明だが、空掘だとしても箱掘として一定の深さがあるので問題ないでしょう。

丸馬出しと三日月堀は甲州流築城技術の特徴と云われる。

徳川家康は武田滅亡後に、武田信玄の領土であった信濃と甲斐を手に入れる事に執念を燃やしたが、武田氏の旧臣と召抱えと軍事機密の掌握と踏襲にも力を注いだのだという。

武田氏所領時代に築かれた武田流の城(改修も含む)は数多く残っているが、武田氏の遺領を拝領した徳川氏は既存の武田氏の城を改修した例が多いと聞き及ぶ。

なので、純粋に甲州流の築城方式を残した城跡は皆無ではないのか?という疑問もあるという。

小山城(遠江) (32)意図的に高低差を付けたであろう二の曲輪の箱掘。美しい。

小山城は甲州征伐が始まると同時に城兵が逃亡し、徳川が接収した。

諏訪原城は早い段階で徳川が攻め落とし、高天神城攻めには重要な拠点だったし、戦後も地域における抑えの城として改修を受ける。

それに対して小山城は特に手を加える事もなく、廃城になったと思われる。

この城の特徴は何と言ってもその美しき巨大な三重の三日月堀であろう。

小山城(遠江) (39)三日月堀。

小山城(遠江) (42)堀底に立って撮影。かなりデカイ。


小山城(遠江) (44)巨大な土手付きの堀は壁のようでもある。

ここまで見た方は「えっ?有名な丸馬出しは?」と思うだろう。

仰せの通り、二の曲輪には立派な丸馬出しと三日月堀が復元されている。

小山城(遠江) (11)

畑となり埋まっていたものを掘り起こし再現したようだ。

存在は否定しないが最終形の縄張りでは邪魔なのである・・(笑)

小山城(遠江) (20)まさしく整形美人である。

二の曲輪で、こんなに面積を取る防御施設が必要だろうか?

築城初期の段階では良かったが、城の拡張に伴い三重の三日月堀を施工した時点で潰されたのではないか?と思うが如何でしょうか?

小山城(遠江) (34)擬似大手門も復元されているが、擬似天守閣同様にやり過ぎ感は否めない。

小山城(遠江) (70)主郭を囲む土塁。往時はもっと高かったんでしょうね。

まあ、それでも小山城に賭ける地元の方の熱意がひしひしと伝わってきます。

上田城もあんな腐りかけた博物館でいいのか?というやる気の無さとは対称的です・・(汗)

小山城(遠江) (73)このアングル・・好きです(笑)

天守閣は博物館になっています。お金を払って入城する価値はあります。

丸馬出しや城の縄張りがじっくりと観察できますもの。

小山城(遠江) (84)

小山城(遠江) (88)三連の三日月堀は残念ながら林の中で観れません。

小山城(遠江) (91)駿河湾方面。絶景でございますw

なんやかんや云いましたが、そうは云っても甲州流の築城方式の素晴らしさを全身で感じる事の出来る城跡です(おおげさかいなあー 笑)

≪小山城≫ (こやまじょう)

標高:40.0m 比高:35m
築城年代:不明
築城・居住者:今川氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県椿原郡吉田町片岡
攻城日:2012年10月8日 
お勧め度:★★★★★(色々ケチつけても満点!) 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:三重の三日月堀、復元丸馬出しと三日月堀など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:沢山あります(笑)

小山城(遠江) (97)駐車場からみた小山城全景。







Posted on 2013/09/05 Thu. 07:35 [edit]

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0902

鳥羽山城 (愛知県浜松市天竜区二俣町)  

◆戦後は新二俣城として居館機能を施された付け城◆

鳥羽山城は標高108mの鳥羽山(本城山)に築かれ、二俣城とは別郭一城の関係で城館的色彩の濃い平山城だという。

天正三年(1575)の二俣城の攻防戦では、徳川家康が本陣を鳥羽山に本陣を置き、天竜川の対岸和田島と二俣川の向こう毘沙門堂に砦を置き包囲網を敷いたと云う(砦は合計五ヶ所とも)

鳥羽山城(三河) (3)大手門の石垣と枡形。

鳥羽山城から二俣城へは約300mの至近距離である。

「そんな場所に付け城なんて置けるの?」と思う諸氏も多いと思う。当然でしょう。

地元の話で恐縮ですが、善光寺平の葛山城と旭山城も隣り合わせに立地していても、上杉VS武田の臨戦状態(汗)

敵の兵士が立ちションしているのすら見える位置なんで、当時は何の不思議も無かったんでしょうね。

鳥羽山城(三河) (6)大手門に残る野面積み(乱積み?)

本郭は土塁+石垣で補強されているが、石垣が積まれたのは堀尾忠氏(吉晴の弟)が二俣城主を務めた時代で1590年~1600年と云われる。二俣城の石垣も同時期の改修工事と見て良さそうだ。

鳥羽山城見取図②

「別郭一城??」

大久保忠世が二俣城主として入城した際に、政庁としての機能を出丸のような位置にある鳥羽山に持たせたと考えたいのだが、如何であろうか。

二俣城は小数の兵士を率いての籠城戦用の城としては申し分無いが、居住性や眺望には欠けいる。

地続きの鳥羽山は、南の浜松方面を含めたロケーションも良く、天竜川のL字に背後を守られ、詰めの城として二俣城を置く発想にすればこれ以上贅沢の云えない縄張りとなる。

なるほど、別郭一城というのはこういう発想の事であろう。

鳥羽山城(三河) (8)平時における居館の置かれた本郭。

鳥羽山城(三河) (9)何故か嫌味を感じない物見台(笑)

昭和五十年の発掘調査では、本郭周辺に侍屋敷や蔵屋敷、岩盤を利用した枯山水の庭園などが発見されたという。

恐らく戦乱の止んだ堀尾氏時代の遺構で、来客をもてなす為の武家の暮らしをそこに感じる事が出来る。

鳥羽山城(三河) (10)物見櫓からみた浜松城方面。確かに二俣城からは見え無い景色だ。

鳥羽山城(三河) (12)本郭の土塁上にはタイムマシーンがあった(笑)

鳥羽山城(三河) (14)基本単郭と見るので、本郭の北側はすぐに搦め手門になる(汗)

浜松城主だった堀尾さんは、関ヶ原の前哨戦で武功を立て、戦後に出雲松江24万石を拝領し転封となる。

関ヶ原の戦の前に、東海道を進む家康の軍に掛川城を献上し戦場での働きも無しに土佐二十万石を得た山内一豊は、戦後東軍の諸将から散々バカにされ悪口を言われたが、その原案は堀尾吉晴が考案したものと云われる。

「やったもん勝ち」??(笑)

鳥羽山城(三河) (17)埋め門説もある東側の虎口。

鳥羽山城(三河) (18)「わんぱく広場郭」??

堀尾氏の転封後は廃城になったという。

しかし、平成の大合併でここも浜松市となってしまった。

静岡県の半分ぐらいを浜松市が占めているので、浜松県として分離独立しそうな勢いである(汗)

それでも凄いと思うのは、浜松市の遺跡に対する執念。

長野県も浜松市に見習って欲しいと思うのは、私だけであろうか・・・・(爆)

鳥羽山城(三河) (20)二俣城方面の出丸「笹郭」

≪二俣城≫ (ふたまたじょう)

標高:108.0m 比高:56m
築城年代:天正三年(1575)
築城・居住者:徳川氏、堀尾氏
場所:静岡県浜松市天竜区二俣町
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:郭、堀切、石垣など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:沢山あります(笑)

鳥羽山城(三河) (21)笹郭から見る青谷集落を見ながら鳥羽山城とはお別れです・・・・(パクリは販促ですか?・・笑)





Posted on 2013/09/02 Mon. 22:20 [edit]

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二俣城 (静岡県浜松市天竜区二俣町)  

◆徳川・武田が執念を燃やし続けた怨恨の城◆

有名どころの城を信濃の山猿風情が知ったかぶりで記述するのも如何なものかと思うが、田舎モンが見た憧れの二俣城の感想も気になるでしょう・・(笑)

高天神城も、二俣城も、そして長篠城も、武田VS徳川が死闘を繰り広げて争奪を繰り返した戦略上の重要拠点。

信玄公の西上作戦で最初の標的になったのは二俣城。ここに匕首を突き付ければ家康は死んだも同然だった。

二俣城 (1)まあ、日本でも有名な城跡なんで迷う事はありません(笑)

全く関係無いのだが、この日の午前中はお腹の調子が絶好調で「下り龍状態」であった・・(汗)

甲越戦争を「越後の龍、甲斐の虎」と称したものだが、二俣城の攻防は徳川VS武田なので、徳川はきっと「下り龍」だったのだろう。

横須賀城⇒小笠山砦⇒二俣城・・・・この日の午前中の行軍過程では、常に緩いお腹の調子を伺いながらトイレタイムの地獄であった・・・(笑)

二俣城 (2)櫓台の野面積みの石垣。その昔は石垣フェチだったのでつい「魅せられて」しまったが・・(汗)

【立地】

二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である姫街道が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。(Wikipediaより)

二俣城を山城と記述している文献を多くみかけるが、比高100m以下(実際は40m程度)であれば平山城と分類するべきであろうか。

二俣城見取図①背後を天竜川に守られた難攻不落の要塞である。

【城主・城歴】

戦国時代の初めには今川氏と斯波氏の係争地となるが、今川氏が笹岡城(現在の天竜支所付近)を築き被官の松井氏を置き領有したという。この時に城館背後の天竜川を望む小山に現在の二俣城が新たに築城されたという。

その後、今川義元が桶狭間に敗れると徳川家康が攻め込み松井氏を追放し鵜殿氏長を城代にしたという。

今川氏が滅亡し武田晴信との緊張が高まると、家康は城将を中根正照に変えた。

二俣城 (6)蔵屋敷郭と二の郭の間を走る堀切と土塁。

【二俣城の戦い】

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『三河物語』)。(Wikipediaより)

二俣城 (8)薬研掘ばかり見ていると箱堀は新鮮に思えるのだ(笑)

信玄の西上軍は二俣城を落とすと遠州になだれこみ、浜松城を攻めると見せかけて反転。三河へ向かう。

我慢のならなかった徳川家康は三方ヶ原で信玄の巧妙な罠に引っ掛かり大敗を喫してしまう。

三河防衛ラインの野田城も落とされ、絶体絶命のピンチとなったのは周知のとおりである。

二俣城 (5)東側からみた枡形門。

西上作戦の途中で信玄は亡くなるが、要衝である二俣城には信濃先方衆の依田信蕃が勝頼の命により城将として入城する。

そう彼こそが、小生もブログのお仲間である「武蔵の五遁さん」も愛してやまない信濃初の戦国武将となるその人であった。

二俣城 (11)一の門から見た天守台の石垣。

【その後の二俣城】

家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年(1573年)6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。(Wikipediaより)

二俣城 (12)近世城郭として使われた時代もあったので、本郭はかなり丁寧に整備されている。

大久保忠世は、信濃信州惣奉行として小諸城に在番した為、二俣城を留守にすることが多かったという。

その大久保忠世と依田信番は不思議な縁で結ばれている。

二俣城を明け渡し駿河の田中城の城将に転じた依田信蕃はここでも徳川相手に奮闘し武田滅亡の事実を確認するまで城を守り通した。城の受け取り人には、二俣城攻防戦で死闘を繰り広げた大久保忠世を指名している。

その後、徳川方として信濃佐久地方の平定戦において北条相手に凄まじい活躍をみせ、佐久の戦国大名にまでのしあがるったが、岩尾城の攻防戦で功を焦り討死してしまう。

徳川家康は、依田信蕃の嫡子の竹福丸を元服させ「康」の字を一字与え松平康国として小諸城主六万石を与えた。

その時の後見人として指名されたのが、大久保忠世であった。

二俣城 (14)喰違い虎口。

また、二俣城は家康の長男である松平信康の終焉の地でもあった。

果たして真実だったとは言えない内通を疑われる情報で、将来有望な後継ぎを自刃に追いやり信長に服従しなければならなかった家康の苦悩を感じられる場所でもある。

二俣城 (21)天守台跡から望む天竜川と鳥羽山の付け城方面。

天正十八年(1590)に家康の関東移封に伴い、大久保忠世も移封となる。代わって堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城もその支城となるが、慶長五年(1590)に転封となると廃城になったという。

二俣城 (15)二の郭。

二俣城 (23)背後の「暴れ天竜」。現在は上流に数ヶ所のダムで堰き止められ水量も少ない。

二俣城 (30) 北曲輪。

何年か前には一夜城と称して組み立て式の二層天守閣が組まれてお披露目されたという。

天守台=天守閣が存在したという安易な発想で、ロクな調査もせずに怪しい天守を常設しちゃう自治体が多いが、町おこしで着脱可能な天守というのは案外いいかもしれない(笑)

地元の方々・・特に小中学生には「二俣には全国に名を馳せた難攻不落の城があったのだ」という意識付けには絶好ですよね。

二俣城 (33)城跡から見下ろす二俣の街並み。

せっかくなので、藪漕ぎして南曲輪を攻めてきましたが、写真を撮っても何が何だか・・(汗)

二俣城 (34)南曲輪の堀切。

城跡に立ち、遠き戦国の世に想いを馳せる・・静かな空間がそこにはありました。


≪二俣城≫ (ふたまたじょう)

標高:92.0m 比高:40m
築城年代:不明
築城・居住者:松井氏、徳川氏、武田氏
場所:静岡県浜松市天竜区二俣町
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆ 
城跡までの所要時間:5分 駐車場:有り
見どころ:郭、堀切、石垣など
注意事項:特に無し
参考文献:-
付近の城址:沢山あります(笑)

二俣城 (36)北側の天竜川沿いから見た二俣城遠景。













Posted on 2013/09/01 Sun. 08:22 [edit]

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