らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~
「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。
0619
魏石鬼八面大王伝説のふるさと 
◆勇気と優しさを秘めた安曇野の雄が眠る場所◆
お気に入りの映画ベスト5は?と聞かれれば、黒沢明監督の「夢」は間違いなく入る。それほど好きなのである。
「夢」は1990年に公開された日米合作の映画で、「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。黒澤明自身が見た夢を元にしているという。
この映画の最終話の「水車のある村」は、長野県安曇野市にある「大王わさび農場」で撮影された。

すっかり風景に溶け込んでいる水車小屋なので、昔からこの場所にあったと思われる方も多いようだが、実は撮影の為にわざわざ建てたロケ用のセットの名残りである。さすが世界のクロサワである・・(汗)
笠智衆が演じる老人が、水車小屋の前で「私(寺尾聰)」と交わす長閑な会話が風景とマッチする場面は何度見てもイイ。
未だ観た事が無いとそこの貴女(貴方)! 日本人で良かったと思えるお勧めの傑作なので是非ご鑑賞下さい!(笑)

冷たく清らかな北アルプスの湧き水が巡る広大な「わさび畑」。開園は大正十六年(1917年)
「大王わさび農場」とは変わったネーミングであるが、その名は「魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)」の伝説から来ていると云う。
【魏石鬼八面大王】 (ぎしきはちめんだいおう)
その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。
この地の住民たちは、朝廷軍に沢山の貢物(みつぎもの)や、無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。
安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は、そんな住民を見るに見かねてたちあがり、坂上田村麻呂の率いる軍と戦い続けました。
多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でしたが、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。
大王があまりに強かったため、息を吹き返すことを恐れた朝廷軍は、大王の体をいくつかの場所に埋めました。
胴体が埋められたという塚が農場の中にあったことから、この地は大王農場と名づけられ、その塚は後に大王神社として祀られています。
魏石鬼八面大王は、大王農場の守護神であり、安曇野を守って勇士でもあります。
大王の強靭でありながら、人を愛するあたたかな心は、ここを訪れた人にきっと伝わっていくことでしょう。
※大王わさび農場にある説明板より

大王の家来たち。
実は、この伝説も先日ご紹介した「鬼女紅葉伝説」と同じように、当初は「坂上田村麻呂の鬼退治」という武勇伝が「中央政権に対する地方の反乱」という脚本にすり替わっている。
魏石鬼八面大王は地元のヒーローであり、過酷な年貢徴収を行う朝廷の手先である坂上田村麻呂は完全にヒール(敵役)だ。
猟奇殺人の如く死体をバラバラにするのは、死者の復活による報復を恐れる首狩り民族の特徴であろう。

湧き水の水温は平均13℃。この農場の面積は東京ドーム11個分だという。(約15ha)
魏石鬼八面大王の反乱は制圧されるが、その復讐は1400年の大塔合戦で成し遂げられた。
中央政権である室町幕府から任命された信濃の国の守護である小笠原長秀の圧政に対して、信濃の国人連合が戦いを挑み勝利したのである。
だが、結果的にこの勝利で信濃の国は「烏合の衆」から脱却できず、武田信玄に蹂躙されると云う屈辱の歴史に耐える日々を送ることになった。

農場内に祭られている大王神社。
大王の墳墓として古墳の石室のような写真を公開しているブログも多数あるようだが、真相はいかに。

笠智衆さんがひょっこり声をかけてくれそうな幻想的な水車の風景である。
信州においては、「鬼はいつだってか弱い庶民の味方」だったのだ。
慌ただしい毎日に疲れたら、大王わさび農場に寄ってみてくださいませ。
ってか、本日、とあるミュージシャンのPVを発見しましたあ。その名もズバリ「レキシ」・・・・
運命の出逢いかしら・・(笑) 歴史と音楽の融合・・素敵です
お気に入りの映画ベスト5は?と聞かれれば、黒沢明監督の「夢」は間違いなく入る。それほど好きなのである。
「夢」は1990年に公開された日米合作の映画で、「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」「トンネル」「鴉」「赤冨士」「鬼哭」「水車のある村」の8話からなるオムニバス形式。黒澤明自身が見た夢を元にしているという。
この映画の最終話の「水車のある村」は、長野県安曇野市にある「大王わさび農場」で撮影された。

すっかり風景に溶け込んでいる水車小屋なので、昔からこの場所にあったと思われる方も多いようだが、実は撮影の為にわざわざ建てたロケ用のセットの名残りである。さすが世界のクロサワである・・(汗)
笠智衆が演じる老人が、水車小屋の前で「私(寺尾聰)」と交わす長閑な会話が風景とマッチする場面は何度見てもイイ。
未だ観た事が無いとそこの貴女(貴方)! 日本人で良かったと思えるお勧めの傑作なので是非ご鑑賞下さい!(笑)

冷たく清らかな北アルプスの湧き水が巡る広大な「わさび畑」。開園は大正十六年(1917年)
「大王わさび農場」とは変わったネーミングであるが、その名は「魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)」の伝説から来ていると云う。
【魏石鬼八面大王】 (ぎしきはちめんだいおう)
その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。
この地の住民たちは、朝廷軍に沢山の貢物(みつぎもの)や、無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。
安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は、そんな住民を見るに見かねてたちあがり、坂上田村麻呂の率いる軍と戦い続けました。
多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でしたが、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。
大王があまりに強かったため、息を吹き返すことを恐れた朝廷軍は、大王の体をいくつかの場所に埋めました。
胴体が埋められたという塚が農場の中にあったことから、この地は大王農場と名づけられ、その塚は後に大王神社として祀られています。
魏石鬼八面大王は、大王農場の守護神であり、安曇野を守って勇士でもあります。
大王の強靭でありながら、人を愛するあたたかな心は、ここを訪れた人にきっと伝わっていくことでしょう。
※大王わさび農場にある説明板より

大王の家来たち。
実は、この伝説も先日ご紹介した「鬼女紅葉伝説」と同じように、当初は「坂上田村麻呂の鬼退治」という武勇伝が「中央政権に対する地方の反乱」という脚本にすり替わっている。
魏石鬼八面大王は地元のヒーローであり、過酷な年貢徴収を行う朝廷の手先である坂上田村麻呂は完全にヒール(敵役)だ。
猟奇殺人の如く死体をバラバラにするのは、死者の復活による報復を恐れる首狩り民族の特徴であろう。

湧き水の水温は平均13℃。この農場の面積は東京ドーム11個分だという。(約15ha)
魏石鬼八面大王の反乱は制圧されるが、その復讐は1400年の大塔合戦で成し遂げられた。
中央政権である室町幕府から任命された信濃の国の守護である小笠原長秀の圧政に対して、信濃の国人連合が戦いを挑み勝利したのである。
だが、結果的にこの勝利で信濃の国は「烏合の衆」から脱却できず、武田信玄に蹂躙されると云う屈辱の歴史に耐える日々を送ることになった。

農場内に祭られている大王神社。
大王の墳墓として古墳の石室のような写真を公開しているブログも多数あるようだが、真相はいかに。

笠智衆さんがひょっこり声をかけてくれそうな幻想的な水車の風景である。
信州においては、「鬼はいつだってか弱い庶民の味方」だったのだ。
慌ただしい毎日に疲れたら、大王わさび農場に寄ってみてくださいませ。
ってか、本日、とあるミュージシャンのPVを発見しましたあ。その名もズバリ「レキシ」・・・・
運命の出逢いかしら・・(笑) 歴史と音楽の融合・・素敵です
Posted on 2014/06/19 Thu. 23:52 [edit]
0618
鬼女紅葉伝説③ 
◆伝説を史実と錯覚させるほどの名作とその舞台裏◆
「紅葉狩伝説」は紆余曲折を経て、世間で云うところの「判官贔屓(ほうがんひいき)」の作風に落ち着いた。
源九郎判官義経は幼少期を鞍馬寺で過ごし、平家追討の兵を挙げた兄頼朝に従い、軍人としては超一流の戦術を駆使して平家を滅亡に追い込んだ希代の戦略家であり、軍師官兵衛など足元にも及ばない天才であった。

が、残念な事に義経は軍事の天才であっても政治の世界では幼児以下(失礼・・)で、頼朝から奪還を命じられていた三種の神器は平家滅亡と共に海に沈んで行方不明になるし、頼朝に内緒で勝手に官位を授かって面会謝絶になるし・・・おバカ極まりないのである・・(汗)
冷静に考えれば自業自得の義経なのだが、「馬鹿な息子ほど可愛い」という同情と、幕府を作った兄の嫉妬で邪魔者扱いされ都落ちした悲運のイケメンに対する世間の支持率は安倍政権を凌駕したのである・・(笑)
判官贔屓の物語の王道は、下記条件を満たさないと土俵にすら乗れない。(まっ、当たり前の条件ではある)
「由緒正しき血統」(または家柄であること)
「都に住んでいた」(地元とか田舎出身ではダメ)
「故あって地方に流される」(謎の過去を秘めている)
「美男または美女」(ブサイクは救う価値も無い)
「とにかく強い」(卑怯技や裏技もアリ)

最近の傾向としては忠誠を誓えるアイドルであるかというのも重要だという・・。

「萌え~!!」という要素も必要な時代になった・・・(汗)
明治十九年に初版が刊行されたと云う「北向山霊験記(きたむきやまれいげんき)」は、当初は別所北向観音の御利益を宣伝する目的で書かれた伝記だが、判官贔屓の要素を取り入れ反中央政権を盛り込んだ様々な脚本が生まれている。
【北向山霊験記における鬼女紅葉の軍団編成】
●平将門の旧家臣
・鬼武五郎・熊武与惣様・鷲王要・伊賀瀬九郎様の四名とその家来
●鬼族
・おまん(女・年齢23か24歳。運搬能力は七十人力、人間への攻撃力は未知数)
※このお姉さん、紅葉軍が全滅後も生き残るのですが潔い最期を遂げる。感動ものです。
●紅葉
・ラスボス。火炎の術、水遁の術を操り、風も意のまま。攻撃系の妖術を得意とする。
【紅葉軍団の城館】
●鬼の洞窟(荒倉山)
・一般的に紹介されているのはここ。戸隠の荒倉山キャンプ場から徒歩20分。妖艶というよりはチョッと怖い雰囲気。
荒倉山のキャンプ場に車を置いて、「鬼女紅葉伝説を巡るコース」は往復約1時間。
①毒の平(ぶすのたいら) ※謡曲「紅葉狩」
・平維茂が紅葉の様子を探るために法衣をまとってここを通りかかると、美女が宴を催していました。維茂は美女に誘われてこれに列席しますが、すすめられた美酒を毒酒と見抜き、この美女こそが紅葉だとして戦います。

キャンプ場のある辺りが「毒の平(ぶすのたいら)」 ※容姿のブスとは意味が違います・・・汗
②釜背負岩(かましょいいわ)
・キャンプ場からの遊歩道が「釜岩林道」と交差するのを奥に進むと、「鬼の寝た 穴よ朝から 秋の暮」という俳人小林一茶の句碑があります。目的地は岩屋と呼ばれるその「穴」。

実際には一茶が戸隠の宝光院で読んだ句だというが、この場所にこそふさわしい。
紅葉の暮らしぶりに想いを馳せながらしばらく歩いて行くのだが、赤い鳥居がチョッと怖い・・(汗)

鳥居を潜り登って行くと右手に巨大な奇岩が「とうせんぼ」をします。
この岩は鬼が釜を背負った姿に見える事から「釜背負岩」と呼ばれ、鬼の荒々しさを連想させるというのだが、小生には蜂の巣を盗んできたクマのプーさんにしか見えなかった・・・(笑)

釜背負岩(かましょいいわ)。鬼が通せんぼしているようでした。
③舞台岩(ぶたいいわ)
大きな一枚岩の上で、紅葉は朝な夕なに酒宴を開き、舞い踊ったと伝えられています。舞台岩の向こうに眼を馳せれば、屏風を開いたかのように折れ曲がった見事な岩山がまるで舞台の背景のように聳え、舞台岩と併せて一枚の絵のような美しさです。

伝説では、この屏風岩の陰から鬼に変じた紅葉が出入りして、維茂の軍を悩ませたとも云われています。
④紅葉の化粧水(もみじのけしょうみず)
・紅葉はこの清水で朝夕に顔を洗い、化粧をしたと云われています。紅葉の美しさ、若々しさは、この水を使ったからだとか。

二の木戸とはここであろうか?

過激な欲望には「紅葉の化粧水」は対応致しかねます・・・(汗) ※個人差がありますのでご注意・・(笑)
⑤紅葉の岩屋(もみじのいわや)
・「鬼の岩屋」とも云われ、紅葉が隠れ住んだ岩穴です。切り立った崖に、二つの穴がぽっかりと開いています。小さな沢に架かった木橋をゆっくりと渡って穴に近づきます。

向かって左側の小さな穴が、紅葉が根城とした穴だということです。深さは15mほどあって、中はひんやりとして暗く、もの悲しい雰囲気が漂っていました。右側は前庭と呼ばれる10m四方の穴で、こちらには陽が差し込み、謡曲「紅葉狩」の記念の木柱が立っています。

奥から紅葉が手招きしているのが見えるだろうか?洞窟内には清水の湧く井戸があると云う。

謡曲「紅葉狩」の記念柱が多数建つ「前庭」
いわゆる自然地形の天嶮を利用した要害だが、比高差と沢の崖を頼りとした立地で、人工的な工夫は見られない。
こんな鬱蒼とした山の中で何を頼りとしたのであろうか。疑問は尽きない。
●内裏屋敷跡(鬼無里)
前々回の記事で紹介した場所。裾花川の河岸段丘を利用した要害で、立地としても悪くない。

居館を要害化したとする「北向山霊験記」はこの場所を想定しているのであろうか?
●福平城(戸隠)
まあ、この場所は小生が強引に推薦している戦国時代の山城である。(溝口伯耆守の居城とも)
戸隠・鬼無里・小川にある山城の中では規模も大きく縄張りも技巧的である。

長大な横堀と竪堀は武田流であろうか。

福平城から見た戸隠集落。田舎を馬鹿にした平維茂を迎え撃つには素晴らしい縄張である。
まあ、山城としての解説を知りたい方は⇒福平城
【鬼女紅葉伝説に関連する神社・仏閣】
●柵神社(しがらみじんじゃ 戸隠)
・平維茂が紅葉の居場所を突き止める為に放った矢が落ちた場所に建つ神社。

手入れする人も絶えたらしい柵神社。とはいえ、荘厳な作りである。
●権現山 大昌寺(ごんげんやまだいしょうじ 戸隠)
・紅葉と維茂の位牌、紅葉狩の絵画の掛け軸がある。平成三年には紅葉慈母観音が建立されている。

仁王像のある立派な山門。

紅葉慈母観音。実はこの裏山が戦国時代の城跡なのだが、藪が酷く突入も出来ずに未調査のままである・・・(汗)
●紅葉稲荷社(戸隠 荒倉山キャンプ場)
・昭和六十一年の再建。久々に霊気を感じたら、やはり写真にもそれとなく写り込んでいるようだ・・(怖っ)

●加茂神社(鬼無里)
・天武天皇が遷都の地を検分するために派遣した三野王(みぬのおう)が加茂大神宮の称を与えたと云い、また勅使の館を置いたので東京(ひがしきょう)といいます。東京組の産土神(うぶすがみ)で、武御雷明(たけみかづちのみこと)・健御名方命(たけみなかたのみこと)・天思兼命(あめのおもいかねのみこと)を祭神としています。

拝殿は18世紀後期の建築様式とも云われる。
●春日神社(鬼無里)
・天武天皇が遷都の地を検分するために派遣した三野王(みぬのおう)が来村し、白鳳年間に創建した社と云われています。天児屋根命(あまのこやねのみこと)・健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祭神として西京にあります。

拝殿は明治二十四年の再建。
●常楽寺北向山観音
・本尊は千手千眼観音で、北斗星が暗夜の指針となるように、この、北向きのみ仏は、衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光寺と相対し、古来、両尊を参拝しなければ片詣りになると云われている。
天長二年(825)、常楽寺背後の山家激しく鳴動を続けた末、地裂け人畜に被害を与えたので、これを鎮めるため慈覚大師が大護摩を厳修すると、紫雲立ち込め金色の光と共に観世音菩薩像が現れた。
大師自らこの霊像を彫み、遷座供養したと伝えられている。
木曾義仲挙兵の際、焼失したが、源頼朝が再興し、その後北条義政及び代々の上田藩主寄り寺領の寄進があった。

本堂。

平維茂が霊験を授かったという北向観音。
【鬼女紅葉の墓】
鬼女紅葉の墓と伝わる場所は、戸隠の柵(しがらみ)地区にある「鬼の塚」と鬼無里の松厳寺の二箇所にある。
●鬼の塚
・紅葉の墓とその部下の墓がある。
近くには紅葉伝説の説明板が設置されている。

紅葉の墓。

部下の墓。

鬼の塚の入口。
●松厳寺
・紅葉及びその部下の墓がある。紅葉の墓には戒名が記されている。

松巌寺。

部下(家臣)の墓

戒名の刻まれた紅葉の墓。
さて、如何だったでしょうか?
史跡巡りをしている小生も、史実だったと誤解しそうな状況でした。
きっと紅葉の妖術にしてやられたのだと思います・・・(笑)
「記録よりも記憶に残りたい」
なるほど、そういうことだったんですね。
戸隠にお越しの際は、紅葉の事を想い出していただけると、嬉しい限りでございますw

「紅葉狩伝説」は紆余曲折を経て、世間で云うところの「判官贔屓(ほうがんひいき)」の作風に落ち着いた。
源九郎判官義経は幼少期を鞍馬寺で過ごし、平家追討の兵を挙げた兄頼朝に従い、軍人としては超一流の戦術を駆使して平家を滅亡に追い込んだ希代の戦略家であり、軍師官兵衛など足元にも及ばない天才であった。

が、残念な事に義経は軍事の天才であっても政治の世界では幼児以下(失礼・・)で、頼朝から奪還を命じられていた三種の神器は平家滅亡と共に海に沈んで行方不明になるし、頼朝に内緒で勝手に官位を授かって面会謝絶になるし・・・おバカ極まりないのである・・(汗)
冷静に考えれば自業自得の義経なのだが、「馬鹿な息子ほど可愛い」という同情と、幕府を作った兄の嫉妬で邪魔者扱いされ都落ちした悲運のイケメンに対する世間の支持率は安倍政権を凌駕したのである・・(笑)
判官贔屓の物語の王道は、下記条件を満たさないと土俵にすら乗れない。(まっ、当たり前の条件ではある)
「由緒正しき血統」(または家柄であること)
「都に住んでいた」(地元とか田舎出身ではダメ)
「故あって地方に流される」(謎の過去を秘めている)
「美男または美女」(ブサイクは救う価値も無い)
「とにかく強い」(卑怯技や裏技もアリ)

最近の傾向としては忠誠を誓えるアイドルであるかというのも重要だという・・。

「萌え~!!」という要素も必要な時代になった・・・(汗)
明治十九年に初版が刊行されたと云う「北向山霊験記(きたむきやまれいげんき)」は、当初は別所北向観音の御利益を宣伝する目的で書かれた伝記だが、判官贔屓の要素を取り入れ反中央政権を盛り込んだ様々な脚本が生まれている。
【北向山霊験記における鬼女紅葉の軍団編成】
●平将門の旧家臣
・鬼武五郎・熊武与惣様・鷲王要・伊賀瀬九郎様の四名とその家来
●鬼族
・おまん(女・年齢23か24歳。運搬能力は七十人力、人間への攻撃力は未知数)
※このお姉さん、紅葉軍が全滅後も生き残るのですが潔い最期を遂げる。感動ものです。
●紅葉
・ラスボス。火炎の術、水遁の術を操り、風も意のまま。攻撃系の妖術を得意とする。
【紅葉軍団の城館】
●鬼の洞窟(荒倉山)
・一般的に紹介されているのはここ。戸隠の荒倉山キャンプ場から徒歩20分。妖艶というよりはチョッと怖い雰囲気。
荒倉山のキャンプ場に車を置いて、「鬼女紅葉伝説を巡るコース」は往復約1時間。
①毒の平(ぶすのたいら) ※謡曲「紅葉狩」
・平維茂が紅葉の様子を探るために法衣をまとってここを通りかかると、美女が宴を催していました。維茂は美女に誘われてこれに列席しますが、すすめられた美酒を毒酒と見抜き、この美女こそが紅葉だとして戦います。

キャンプ場のある辺りが「毒の平(ぶすのたいら)」 ※容姿のブスとは意味が違います・・・汗
②釜背負岩(かましょいいわ)
・キャンプ場からの遊歩道が「釜岩林道」と交差するのを奥に進むと、「鬼の寝た 穴よ朝から 秋の暮」という俳人小林一茶の句碑があります。目的地は岩屋と呼ばれるその「穴」。

実際には一茶が戸隠の宝光院で読んだ句だというが、この場所にこそふさわしい。
紅葉の暮らしぶりに想いを馳せながらしばらく歩いて行くのだが、赤い鳥居がチョッと怖い・・(汗)

鳥居を潜り登って行くと右手に巨大な奇岩が「とうせんぼ」をします。
この岩は鬼が釜を背負った姿に見える事から「釜背負岩」と呼ばれ、鬼の荒々しさを連想させるというのだが、小生には蜂の巣を盗んできたクマのプーさんにしか見えなかった・・・(笑)

釜背負岩(かましょいいわ)。鬼が通せんぼしているようでした。
③舞台岩(ぶたいいわ)
大きな一枚岩の上で、紅葉は朝な夕なに酒宴を開き、舞い踊ったと伝えられています。舞台岩の向こうに眼を馳せれば、屏風を開いたかのように折れ曲がった見事な岩山がまるで舞台の背景のように聳え、舞台岩と併せて一枚の絵のような美しさです。

伝説では、この屏風岩の陰から鬼に変じた紅葉が出入りして、維茂の軍を悩ませたとも云われています。
④紅葉の化粧水(もみじのけしょうみず)
・紅葉はこの清水で朝夕に顔を洗い、化粧をしたと云われています。紅葉の美しさ、若々しさは、この水を使ったからだとか。

二の木戸とはここであろうか?

過激な欲望には「紅葉の化粧水」は対応致しかねます・・・(汗) ※個人差がありますのでご注意・・(笑)
⑤紅葉の岩屋(もみじのいわや)
・「鬼の岩屋」とも云われ、紅葉が隠れ住んだ岩穴です。切り立った崖に、二つの穴がぽっかりと開いています。小さな沢に架かった木橋をゆっくりと渡って穴に近づきます。

向かって左側の小さな穴が、紅葉が根城とした穴だということです。深さは15mほどあって、中はひんやりとして暗く、もの悲しい雰囲気が漂っていました。右側は前庭と呼ばれる10m四方の穴で、こちらには陽が差し込み、謡曲「紅葉狩」の記念の木柱が立っています。

奥から紅葉が手招きしているのが見えるだろうか?洞窟内には清水の湧く井戸があると云う。

謡曲「紅葉狩」の記念柱が多数建つ「前庭」
いわゆる自然地形の天嶮を利用した要害だが、比高差と沢の崖を頼りとした立地で、人工的な工夫は見られない。
こんな鬱蒼とした山の中で何を頼りとしたのであろうか。疑問は尽きない。
●内裏屋敷跡(鬼無里)
前々回の記事で紹介した場所。裾花川の河岸段丘を利用した要害で、立地としても悪くない。

居館を要害化したとする「北向山霊験記」はこの場所を想定しているのであろうか?
●福平城(戸隠)
まあ、この場所は小生が強引に推薦している戦国時代の山城である。(溝口伯耆守の居城とも)
戸隠・鬼無里・小川にある山城の中では規模も大きく縄張りも技巧的である。

長大な横堀と竪堀は武田流であろうか。

福平城から見た戸隠集落。田舎を馬鹿にした平維茂を迎え撃つには素晴らしい縄張である。
まあ、山城としての解説を知りたい方は⇒福平城
【鬼女紅葉伝説に関連する神社・仏閣】
●柵神社(しがらみじんじゃ 戸隠)
・平維茂が紅葉の居場所を突き止める為に放った矢が落ちた場所に建つ神社。

手入れする人も絶えたらしい柵神社。とはいえ、荘厳な作りである。
●権現山 大昌寺(ごんげんやまだいしょうじ 戸隠)
・紅葉と維茂の位牌、紅葉狩の絵画の掛け軸がある。平成三年には紅葉慈母観音が建立されている。

仁王像のある立派な山門。

紅葉慈母観音。実はこの裏山が戦国時代の城跡なのだが、藪が酷く突入も出来ずに未調査のままである・・・(汗)
●紅葉稲荷社(戸隠 荒倉山キャンプ場)
・昭和六十一年の再建。久々に霊気を感じたら、やはり写真にもそれとなく写り込んでいるようだ・・(怖っ)

●加茂神社(鬼無里)
・天武天皇が遷都の地を検分するために派遣した三野王(みぬのおう)が加茂大神宮の称を与えたと云い、また勅使の館を置いたので東京(ひがしきょう)といいます。東京組の産土神(うぶすがみ)で、武御雷明(たけみかづちのみこと)・健御名方命(たけみなかたのみこと)・天思兼命(あめのおもいかねのみこと)を祭神としています。

拝殿は18世紀後期の建築様式とも云われる。
●春日神社(鬼無里)
・天武天皇が遷都の地を検分するために派遣した三野王(みぬのおう)が来村し、白鳳年間に創建した社と云われています。天児屋根命(あまのこやねのみこと)・健御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祭神として西京にあります。

拝殿は明治二十四年の再建。
●常楽寺北向山観音
・本尊は千手千眼観音で、北斗星が暗夜の指針となるように、この、北向きのみ仏は、衆生を現世利益に導く霊験があり、南向きの善光寺と相対し、古来、両尊を参拝しなければ片詣りになると云われている。
天長二年(825)、常楽寺背後の山家激しく鳴動を続けた末、地裂け人畜に被害を与えたので、これを鎮めるため慈覚大師が大護摩を厳修すると、紫雲立ち込め金色の光と共に観世音菩薩像が現れた。
大師自らこの霊像を彫み、遷座供養したと伝えられている。
木曾義仲挙兵の際、焼失したが、源頼朝が再興し、その後北条義政及び代々の上田藩主寄り寺領の寄進があった。

本堂。

平維茂が霊験を授かったという北向観音。
【鬼女紅葉の墓】
鬼女紅葉の墓と伝わる場所は、戸隠の柵(しがらみ)地区にある「鬼の塚」と鬼無里の松厳寺の二箇所にある。
●鬼の塚
・紅葉の墓とその部下の墓がある。
近くには紅葉伝説の説明板が設置されている。

紅葉の墓。

部下の墓。

鬼の塚の入口。
●松厳寺
・紅葉及びその部下の墓がある。紅葉の墓には戒名が記されている。

松巌寺。

部下(家臣)の墓

戒名の刻まれた紅葉の墓。
さて、如何だったでしょうか?
史跡巡りをしている小生も、史実だったと誤解しそうな状況でした。
きっと紅葉の妖術にしてやられたのだと思います・・・(笑)
「記録よりも記憶に残りたい」
なるほど、そういうことだったんですね。
戸隠にお越しの際は、紅葉の事を想い出していただけると、嬉しい限りでございますw

Posted on 2014/06/18 Wed. 00:31 [edit]
0616
鬼女紅葉伝説② 
◆戦国時代における戸隠と鬼無里の受難◆
戸隠や鬼無里(きなさ)が戦国時代の争乱に巻き込まれなければ、鬼女紅葉伝説は謡曲から変化する理由などなかったと思われる。
北信濃(川中島四郡)の覇権を巡る甲越合戦は、単に領土紛争だけでなく隆盛する信仰拠点善光寺と、戸隠山・小菅山の両修験道場を掌中に収める神仏争奪の戦いでもあった。

以下、戸隠周辺の動向について整理してみた。
●弘治三年(1557)
・二月 武田軍は第二次甲越合戦の講和を破り葛山城を急襲し落城させる。(越軍は雪で動けず)
戸隠に恭順を迫るも拒否されたため、武田軍は戸隠へ侵攻。戸隠衆徒は上杉の庇護を求め越後の関山へ走る。
・四月 上杉軍出兵し北信濃の武田の諸城を攻め落とし尼飾城を攻めるが、武田軍は決戦を避け後退。
・六月 戸隠衆徒が関山より帰山
・八月 上野原の戦い
●永禄元年(1558)
・二月 将軍足利義輝の御内書を受け上杉と武田が和睦。
・八月 武田信玄は戸隠衆徒の内応を取り付け「戦勝祈願状」を戸隠中院に奉納する。以後戸隠は武田方となる。
●永禄二年(1559)
・四月 武田軍北信濃へ出兵。上杉軍は戸隠へ報復目的で侵入。衆徒は鬼無里及び小川へ避難。
・九月 飯山城を除く北信濃を武田軍が奪還。衆徒は戸隠に帰山。

奥社の手前の石仏。動乱の生き証人であろうか。
●永禄四年(1561)
・九月 世にいう川中島大会戦(第四次合戦)
●永禄七年(1564)
・八月 塩崎の対陣(第五次合戦)
戸隠衆徒は謙信の侵略を恐れて武田方の武将の大日方氏の領地である小川筏ヶ峰に三院を移す。
※以後三十年間避難先の筏ヶ峰(いかだがみね)で信仰生活を送る

小川村の筏ヶ峰に残る「奥の院」(長野県指定史跡)

筏ヶ峰の奥の院からは、杉林が刈り払われて、遠く戸隠の山並みと戸隠神社を臨む事が出来る。
●天正十年(1582)
・三月 武田氏滅亡
●文禄元年(1592)
・十二月 秀吉、朝鮮出兵。
上杉景勝は春日山城にいた前別当栄秀の弟子賢栄(永禄十年、別当就任)に戦勝を戸隠第権現に祈らせる)
●文禄二年(1593)
・十月 朝鮮より無事帰国した上杉景勝が戸隠山再興を命じる。
●文禄三年(1594)
・九月 三院の竣工。小川村の筏ヶ峰の衆徒も帰山する。
●慶長十六年(1611)
・徳川家康が千石の神領を寄進。

戸隠 九頭龍社。その名の通り、九つの頭を持つ龍の伝説がある。
【信仰の灯火を継続させた別当の決断と選択】
表向きは武田に屈した戸隠山とその衆徒という話に見えるが、最後のどんでん返しは賢栄別当の周到な生き残り策であるとされ、武田・上杉のどちらかが滅びても戸隠山は生き残ると云う戦国武将さながらの「究極の選択」だったらしい。
※別当とは寺務を統括する僧職の事。
何故に山間部の隠れ家のような「へき地」の戸隠・鬼無里で争奪戦が繰り広げられたかというと、往時の主要道は山岳地帯がメインであり、紛争も局地的なゲリラ戦による一進一退の攻防であった。
なので、千曲川流域の犀川以北の平野部が軍事道として機能するのは信玄の北信濃支配権が確定してからの事である。
そうは言っても、やせ細った耕作地で僅かばかりの農作物の収穫しかない戸隠・鬼無里の里人にとって、武田・上杉の抗争は迷惑以外の何者でもなく、「非業の鬼の所為」としてさぞかし怨んだ事は想像に難くない。

鬼無里の村の風景(松厳寺より)
さて、信玄や謙信を鬼とした戦国時代が終わり徳川幕府の世の中になった慶長十七年(1612)、「戸隠法度」が敷かれ戸隠山は天台宗の寺院組織に改められた。(上野の東叡山寛永寺の系列)
この結果、宗派意外の修験者や神官の住む場所が狭くなり周辺里へ移動し神社を新たに建立したと思われる。
「戸隠の鬼たち」(2003年8月 信濃毎日新聞社)の作者である国分義司氏は、「戸隠山を追われた修験者、神官にとっての鬼は「戸隠法度」に代表される徳川家による新しい秩序そのものだったのかもしれない」としている。
はじき出された才能豊かな修験者たちが、ささやかな抵抗として神社の縁起として「紅葉狩」を利用した・・意外とそうなのかもしれない。
何故紅葉伝説が「鬼女」に仕立てられたのか?
女人禁制が戸隠山にも広がり、女性修験者が追い出された・・・彼女たちの怨みが鬼となった・・・のかもしれない(汗)
まあ、そんな背景を知って頂き、次回は「鬼女紅葉伝説」の史跡巡りでも・・・・。

紅葉とその部下の墓がある松厳寺(鬼無里)
戸隠や鬼無里(きなさ)が戦国時代の争乱に巻き込まれなければ、鬼女紅葉伝説は謡曲から変化する理由などなかったと思われる。
北信濃(川中島四郡)の覇権を巡る甲越合戦は、単に領土紛争だけでなく隆盛する信仰拠点善光寺と、戸隠山・小菅山の両修験道場を掌中に収める神仏争奪の戦いでもあった。

以下、戸隠周辺の動向について整理してみた。
●弘治三年(1557)
・二月 武田軍は第二次甲越合戦の講和を破り葛山城を急襲し落城させる。(越軍は雪で動けず)
戸隠に恭順を迫るも拒否されたため、武田軍は戸隠へ侵攻。戸隠衆徒は上杉の庇護を求め越後の関山へ走る。
・四月 上杉軍出兵し北信濃の武田の諸城を攻め落とし尼飾城を攻めるが、武田軍は決戦を避け後退。
・六月 戸隠衆徒が関山より帰山
・八月 上野原の戦い
●永禄元年(1558)
・二月 将軍足利義輝の御内書を受け上杉と武田が和睦。
・八月 武田信玄は戸隠衆徒の内応を取り付け「戦勝祈願状」を戸隠中院に奉納する。以後戸隠は武田方となる。
●永禄二年(1559)
・四月 武田軍北信濃へ出兵。上杉軍は戸隠へ報復目的で侵入。衆徒は鬼無里及び小川へ避難。
・九月 飯山城を除く北信濃を武田軍が奪還。衆徒は戸隠に帰山。

奥社の手前の石仏。動乱の生き証人であろうか。
●永禄四年(1561)
・九月 世にいう川中島大会戦(第四次合戦)
●永禄七年(1564)
・八月 塩崎の対陣(第五次合戦)
戸隠衆徒は謙信の侵略を恐れて武田方の武将の大日方氏の領地である小川筏ヶ峰に三院を移す。
※以後三十年間避難先の筏ヶ峰(いかだがみね)で信仰生活を送る

小川村の筏ヶ峰に残る「奥の院」(長野県指定史跡)

筏ヶ峰の奥の院からは、杉林が刈り払われて、遠く戸隠の山並みと戸隠神社を臨む事が出来る。
●天正十年(1582)
・三月 武田氏滅亡
●文禄元年(1592)
・十二月 秀吉、朝鮮出兵。
上杉景勝は春日山城にいた前別当栄秀の弟子賢栄(永禄十年、別当就任)に戦勝を戸隠第権現に祈らせる)
●文禄二年(1593)
・十月 朝鮮より無事帰国した上杉景勝が戸隠山再興を命じる。
●文禄三年(1594)
・九月 三院の竣工。小川村の筏ヶ峰の衆徒も帰山する。
●慶長十六年(1611)
・徳川家康が千石の神領を寄進。

戸隠 九頭龍社。その名の通り、九つの頭を持つ龍の伝説がある。
【信仰の灯火を継続させた別当の決断と選択】
表向きは武田に屈した戸隠山とその衆徒という話に見えるが、最後のどんでん返しは賢栄別当の周到な生き残り策であるとされ、武田・上杉のどちらかが滅びても戸隠山は生き残ると云う戦国武将さながらの「究極の選択」だったらしい。
※別当とは寺務を統括する僧職の事。
何故に山間部の隠れ家のような「へき地」の戸隠・鬼無里で争奪戦が繰り広げられたかというと、往時の主要道は山岳地帯がメインであり、紛争も局地的なゲリラ戦による一進一退の攻防であった。
なので、千曲川流域の犀川以北の平野部が軍事道として機能するのは信玄の北信濃支配権が確定してからの事である。
そうは言っても、やせ細った耕作地で僅かばかりの農作物の収穫しかない戸隠・鬼無里の里人にとって、武田・上杉の抗争は迷惑以外の何者でもなく、「非業の鬼の所為」としてさぞかし怨んだ事は想像に難くない。

鬼無里の村の風景(松厳寺より)
さて、信玄や謙信を鬼とした戦国時代が終わり徳川幕府の世の中になった慶長十七年(1612)、「戸隠法度」が敷かれ戸隠山は天台宗の寺院組織に改められた。(上野の東叡山寛永寺の系列)
この結果、宗派意外の修験者や神官の住む場所が狭くなり周辺里へ移動し神社を新たに建立したと思われる。
「戸隠の鬼たち」(2003年8月 信濃毎日新聞社)の作者である国分義司氏は、「戸隠山を追われた修験者、神官にとっての鬼は「戸隠法度」に代表される徳川家による新しい秩序そのものだったのかもしれない」としている。
はじき出された才能豊かな修験者たちが、ささやかな抵抗として神社の縁起として「紅葉狩」を利用した・・意外とそうなのかもしれない。
何故紅葉伝説が「鬼女」に仕立てられたのか?
女人禁制が戸隠山にも広がり、女性修験者が追い出された・・・彼女たちの怨みが鬼となった・・・のかもしれない(汗)
まあ、そんな背景を知って頂き、次回は「鬼女紅葉伝説」の史跡巡りでも・・・・。

紅葉とその部下の墓がある松厳寺(鬼無里)
Posted on 2014/06/16 Mon. 07:42 [edit]
0613
鬼女紅葉伝説① 
◆紅葉伝説の基本「紅葉狩」と、いいとこどりの「北向霊験記」◆
「鬼」という言葉を聞くと、恐ろしさよりは興味というか探究心や好奇心で、なんとなくワクワクしている自分がいる。
世間一般では、昔話の桃太郎の鬼退治を思い浮かべる方が多いと思うが、小生は「泣いた赤鬼」が真っ先に浮かび、お次はTVゲームソフトの「鬼武者シリーズ」であろうか。第六天の魔王の化身である信長に、鬼の力を宿した主人公が挑むストーリーは結構面白かったと記憶している・・(笑)
忘れかけていた「鬼」への憧れが、戸隠奥社へのアテンドで復活するとは思いもよりませんでした・・(汗)

↑なんちゃって鬼信仰の信者である小生には解説書が必要だったが、素晴らしい指南書を発見したのである。(平成15年8月刊行 国分義司著 信濃毎日新聞社)
この本の著書である国分義司氏の解説を参考にしながら伝説の謎に近づいてみたい。
【一つではない鬼女紅葉伝説】
謡曲「紅葉狩」(観世小次郎信光 1435-1516))により広く世に知られるようになったが、この物語の主人公は「平維茂(たいらのこれもち)」であり、鬼は女装した「鬼神」であって「鬼女」ではない。また、「紅葉」は鬼の名ではなく季節と舞台を表している。
「紅葉狩」はその後歌舞伎や浄瑠璃などの演芸分野に影響を与え様々な類似作品を生み派生していったが、大部分の作品の鬼は男であったという。
では、「紅葉狩」が鬼女を主人公とする物語に変化したのはいつ?という疑問が募る。国分氏によれば、明治十九年に発行された鬼女紅葉伝説の集大成である「北向山霊験記」以前の伝説を紐解く必要があると云う。

北向山観音のある別所温泉。北向山霊験記ではここにある常楽寺で十七日間祈り、降魔の剣を得たという。
戸隠や鬼無里を訪れた方ならお分かりだろうが、こんな過疎集落(失礼・・汗)にしては神社仏閣の数が異常なほど多い。
そしてそのいずれも寺社の縁起には「鬼女紅葉伝説」が絡んでいて、平維茂が鬼女退治の祈祷を捧げている。
「安和二年(969)、京より来た紅葉と称する官女が悪事を働き、平維茂に滅ぼされる」
集落も形成されていない時期に辺境の地に神社寺院が建たるはずもないが、ほとんどがこの時期を創立期としている。

戸隠の柵(しがらみ)地区の入口にある十二社。例外なく鬼女紅葉の解説版がある。
戸隠・鬼無里の伝説では何故鬼女になったのか・・・
鎌倉時代には既に高野山、比叡山と並ぶ修験道の霊場として全国区となった戸隠には、全国から多くの僧が善光寺詣りとセットで訪れ、僧坊三千を数えたという。
そうした中で戸隠の僧侶も都へ上り、室町時代に上演された「紅葉狩」を観賞し地元へそれを伝えたのであろう。
そして戦国時代となり、鬼は本当に戸隠・鬼無里に来た・・・・武田信玄という名の鬼である。
地元による伝説の脚本はここから大きく変わったと思われる。
【鬼女紅葉伝説の集大成といわれる秀作「北向山霊験記」】
さりとて、伝説の世界の追っかけをするにも「鬼女紅葉伝説」を知らない方も多いと思うので、国分義司氏による「北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之傳」(作者不詳、明治十九年初版)の概要を引用するので、ご一読願おう。
(小生は本編を読んでみたが、句読点がないので読み進めるのが大変難儀であった・・・汗)
清和天皇の貞観八年(866)、応天門の変の罪を問われ、伊豆に流された伴大納言善男の子笹丸は、その後、奥州会津に住む。妻菊代との間に子がなかったので、ある日第六天の魔王に祈願して女児を授かる。

産土社として建立された十二社。お参りして生まれた女子は貴女(鬼女)の如く美しく、男子は維茂の如く強くなると伝わる
呉羽と名付けられたその子は、美貌、理髪のうえ、琴を奏で、裁縫を能くした。成長した呉羽は、言い寄る富農の親子を第六天の魔王の助けを借りて、分身の術をもってだまして大金を奪うと、紅葉と名を変え、都に上る。
やがて琴の音に魅かれ、彼女に近づいてきた源経基(みなもとのつねもと)の寵愛を受けるようになり、まもなく身ごもると、妖術をものする彼女は、経基の正妻を亡き者にしようとたくらむ。
しかしそのたくらみは露見して信濃の国へ流される。戸隠の洞窟に着いた紅葉は、初めは読み書きや裁縫などを教えながら里人にとけこむが、息子の経若丸が成長するにつけ、再度上京の野心に燃えるようになり、平将門の残党や山賊の首領、女傑おまん等と戸隠の荒倉山の洞窟に身を潜め、旅人からの略奪を繰り返す。
彼らの悪行のうわさは、やがて京に達し、平維茂の紅葉退治となる。維茂は、初めは紅葉の妖術に苦しむが、やがて別所(現在の上田市)にある北向観音の霊験により力を得て紅葉を討つ。
※「戸隠の鬼たち」(2003年8月 国分義司緒 信濃毎日新聞社)の「鬼女紅葉伝説1 P112-113」を引用

鬼無里の根上にある内裏屋敷跡。紅葉の居館跡と伝わる。
【里人の紅葉への想いが鬼女を貴女に変化させ、悲劇のヒロインのストーリーへ】
「北向山霊験記」で完結されたかに見えた「鬼女紅葉伝説」は、地元の里人が口伝で語り継がれるようになると、語り部の主観(思い入れ)が強調され、中央集権に対する地方の反乱という図式に変化していったようだ。
以下は、戸隠・鬼無里の村人に伝わる「鬼女紅葉伝説」を国分義司氏が解説したもので、非常に分かり易いので、再度全文を引用させていただく。
十二歳で京に上り、源経基の寵愛を受けた後、正妻からの嫉妬に悩まされた末、京を追われ、当時「水無瀬(みなせ)」と呼ばれたこの深い山里に身を寄せ、ここに小京都と呼ばれるほどの都をつくったというから、彼女は政治的・経済的な手腕があり、建築家でもあったといえる。
西京、東京、四条、五条、内裏屋敷などの地名が、今でもここには残っていて、当時の様子を目の前に浮かばせてくれる。「咲く花のにおうがごとく」美しい都であったことであろう。

東京(ひがしきょう)にある加茂神社。

加茂神社から見た内裏屋敷方面。

西京(にしきょう)にある春日神社。ここの建立も紅葉伝説に関係しているという。
彼女は玉のように美しい容姿の持ち主であったという。彼女は笛、または琴の名人であったともいわれている。般若の面をかぶり、舞を舞って人の心をとかしたというから演劇人でもあった。また彼女は薬草に詳しく、医術もこころえており、村人の命を救うこと数知れなかったそうだ。

内裏屋敷跡の説明看板。訪れる人も少なく、看板も朽ち果てそうなのが寂しかった。
ここでの紅葉の生活は、結果的に経費がかかりすぎ、盗賊の首領とならざるを得ない原因をうみ、京の帝から鬼と名づけられ、その鬼退治のたjめの維茂派遣の糸口を作ってしまった、との説もある。
だが、武人で頭が良く、しかも多くの才能を身につけた少女は、村の人たちからも鬼とされる一面があったと説く人もある。なぜなのだろうか。

道路の反対側にある「月夜の陵(つきよのみささぎ・つきよのはか)」から見た内裏屋敷跡。
善意の医術も、ときには呪術とみなされることもあり、優れた才能は誤解されたり中傷を招くことさえある。並はずれて美しい女性が、美しい曲を奏でながらそこにいる。そのことは、仕事の手を休められぬ農民たち、特に男達にとっては、それだけで目障りであったろう、と想像するのも困難ではない。

供養塔の建つ北西側。この奥の丘に皇族の墳墓と伝わる「月夜の陵」がある。
生涯を通じて、貴族たちの世界に立ち向かう姿勢や、青春の時に受けた傷をいやすための理想高い行為そのものが、おそらく村の人たちの目には怖くさえ映ったことだろう。哀れとは思いながらも、彼女を鬼を名づけた都の権力に迎合するしかなかったのかもしれない。

天武十三年に遷都の為の調査を命じられた皇族がこの地で崩御され、亡き骸を葬ったとされる「月夜の陵」。
それでいてこの「鬼女狩り」のときには、土地の人々はこぞって紅葉の味方をし、維茂軍に対して壮烈な戦いを挑み、最後の戦場となった現在の戸隠中社付近は、棒や鍬を持って抵抗した農民たちの屍が山のように積み重なったといわれている。まるで史実ともとれそうなこの紅葉狩の民間伝説は、聞く人にある種のロマンをかき立たせる。

内裏屋敷跡に建つ紅葉の供養塔。(石碑の裏には戒名と享年33才と彫り込みがある)
戸隠を好んで題材にした詩人の津村信夫は、その著書「戸隠の絵本」のなかで、鬼女紅葉について、「この京から落ちのびてきた女性は、村人にとって一種のフェティシズム(呪物崇拝)の対象になっていたようだ」と書いている。
彼女のゆかりの地である、ここ鬼無里や戸隠を訪ねる旅人たちが、一種のミューズの神のごときものとしてこの女性と親しく接することは、鬼女とされてこの世を去らなければならなかったこの「もみじ」という名の女性の心を、少しでも慰めることになりはしないだろうか。
※「戸隠の鬼たち」(2003年8月 国分義司緒 信濃毎日新聞社)の「鬼女紅葉伝説1 P108-109」を引用

奥裾花自然園は裾花川の源流を遡るのだが、毎年その可憐な姿を見せてくれる水芭蕉も、今年は林道の土砂崩落で見る事が出来ず、復旧のメドもたっていない。
さて、一週間近くもかけて夜な夜な編集していたが、自分でも訳の分からない記事となり反省しきりである・・(汗)
やはり本業の中世城郭を語るのとは勝手が違う・・・(笑)
次回は「紅葉の岩屋とその攻防戦の舞台を訪ねて」 (ってか、まだ掲載するんかい!!)
果たしていつの記載になるでしょうか・・・
↑内裏屋敷はここです。
「鬼」という言葉を聞くと、恐ろしさよりは興味というか探究心や好奇心で、なんとなくワクワクしている自分がいる。
世間一般では、昔話の桃太郎の鬼退治を思い浮かべる方が多いと思うが、小生は「泣いた赤鬼」が真っ先に浮かび、お次はTVゲームソフトの「鬼武者シリーズ」であろうか。第六天の魔王の化身である信長に、鬼の力を宿した主人公が挑むストーリーは結構面白かったと記憶している・・(笑)
忘れかけていた「鬼」への憧れが、戸隠奥社へのアテンドで復活するとは思いもよりませんでした・・(汗)

↑なんちゃって鬼信仰の信者である小生には解説書が必要だったが、素晴らしい指南書を発見したのである。(平成15年8月刊行 国分義司著 信濃毎日新聞社)
この本の著書である国分義司氏の解説を参考にしながら伝説の謎に近づいてみたい。
【一つではない鬼女紅葉伝説】
謡曲「紅葉狩」(観世小次郎信光 1435-1516))により広く世に知られるようになったが、この物語の主人公は「平維茂(たいらのこれもち)」であり、鬼は女装した「鬼神」であって「鬼女」ではない。また、「紅葉」は鬼の名ではなく季節と舞台を表している。
「紅葉狩」はその後歌舞伎や浄瑠璃などの演芸分野に影響を与え様々な類似作品を生み派生していったが、大部分の作品の鬼は男であったという。
では、「紅葉狩」が鬼女を主人公とする物語に変化したのはいつ?という疑問が募る。国分氏によれば、明治十九年に発行された鬼女紅葉伝説の集大成である「北向山霊験記」以前の伝説を紐解く必要があると云う。

北向山観音のある別所温泉。北向山霊験記ではここにある常楽寺で十七日間祈り、降魔の剣を得たという。
戸隠や鬼無里を訪れた方ならお分かりだろうが、こんな過疎集落(失礼・・汗)にしては神社仏閣の数が異常なほど多い。
そしてそのいずれも寺社の縁起には「鬼女紅葉伝説」が絡んでいて、平維茂が鬼女退治の祈祷を捧げている。
「安和二年(969)、京より来た紅葉と称する官女が悪事を働き、平維茂に滅ぼされる」
集落も形成されていない時期に辺境の地に神社寺院が建たるはずもないが、ほとんどがこの時期を創立期としている。

戸隠の柵(しがらみ)地区の入口にある十二社。例外なく鬼女紅葉の解説版がある。
戸隠・鬼無里の伝説では何故鬼女になったのか・・・
鎌倉時代には既に高野山、比叡山と並ぶ修験道の霊場として全国区となった戸隠には、全国から多くの僧が善光寺詣りとセットで訪れ、僧坊三千を数えたという。
そうした中で戸隠の僧侶も都へ上り、室町時代に上演された「紅葉狩」を観賞し地元へそれを伝えたのであろう。
そして戦国時代となり、鬼は本当に戸隠・鬼無里に来た・・・・武田信玄という名の鬼である。
地元による伝説の脚本はここから大きく変わったと思われる。
【鬼女紅葉伝説の集大成といわれる秀作「北向山霊験記」】
さりとて、伝説の世界の追っかけをするにも「鬼女紅葉伝説」を知らない方も多いと思うので、国分義司氏による「北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之傳」(作者不詳、明治十九年初版)の概要を引用するので、ご一読願おう。
(小生は本編を読んでみたが、句読点がないので読み進めるのが大変難儀であった・・・汗)
清和天皇の貞観八年(866)、応天門の変の罪を問われ、伊豆に流された伴大納言善男の子笹丸は、その後、奥州会津に住む。妻菊代との間に子がなかったので、ある日第六天の魔王に祈願して女児を授かる。

産土社として建立された十二社。お参りして生まれた女子は貴女(鬼女)の如く美しく、男子は維茂の如く強くなると伝わる
呉羽と名付けられたその子は、美貌、理髪のうえ、琴を奏で、裁縫を能くした。成長した呉羽は、言い寄る富農の親子を第六天の魔王の助けを借りて、分身の術をもってだまして大金を奪うと、紅葉と名を変え、都に上る。
やがて琴の音に魅かれ、彼女に近づいてきた源経基(みなもとのつねもと)の寵愛を受けるようになり、まもなく身ごもると、妖術をものする彼女は、経基の正妻を亡き者にしようとたくらむ。
しかしそのたくらみは露見して信濃の国へ流される。戸隠の洞窟に着いた紅葉は、初めは読み書きや裁縫などを教えながら里人にとけこむが、息子の経若丸が成長するにつけ、再度上京の野心に燃えるようになり、平将門の残党や山賊の首領、女傑おまん等と戸隠の荒倉山の洞窟に身を潜め、旅人からの略奪を繰り返す。
彼らの悪行のうわさは、やがて京に達し、平維茂の紅葉退治となる。維茂は、初めは紅葉の妖術に苦しむが、やがて別所(現在の上田市)にある北向観音の霊験により力を得て紅葉を討つ。
※「戸隠の鬼たち」(2003年8月 国分義司緒 信濃毎日新聞社)の「鬼女紅葉伝説1 P112-113」を引用

鬼無里の根上にある内裏屋敷跡。紅葉の居館跡と伝わる。
【里人の紅葉への想いが鬼女を貴女に変化させ、悲劇のヒロインのストーリーへ】
「北向山霊験記」で完結されたかに見えた「鬼女紅葉伝説」は、地元の里人が口伝で語り継がれるようになると、語り部の主観(思い入れ)が強調され、中央集権に対する地方の反乱という図式に変化していったようだ。
以下は、戸隠・鬼無里の村人に伝わる「鬼女紅葉伝説」を国分義司氏が解説したもので、非常に分かり易いので、再度全文を引用させていただく。
十二歳で京に上り、源経基の寵愛を受けた後、正妻からの嫉妬に悩まされた末、京を追われ、当時「水無瀬(みなせ)」と呼ばれたこの深い山里に身を寄せ、ここに小京都と呼ばれるほどの都をつくったというから、彼女は政治的・経済的な手腕があり、建築家でもあったといえる。
西京、東京、四条、五条、内裏屋敷などの地名が、今でもここには残っていて、当時の様子を目の前に浮かばせてくれる。「咲く花のにおうがごとく」美しい都であったことであろう。

東京(ひがしきょう)にある加茂神社。

加茂神社から見た内裏屋敷方面。

西京(にしきょう)にある春日神社。ここの建立も紅葉伝説に関係しているという。
彼女は玉のように美しい容姿の持ち主であったという。彼女は笛、または琴の名人であったともいわれている。般若の面をかぶり、舞を舞って人の心をとかしたというから演劇人でもあった。また彼女は薬草に詳しく、医術もこころえており、村人の命を救うこと数知れなかったそうだ。

内裏屋敷跡の説明看板。訪れる人も少なく、看板も朽ち果てそうなのが寂しかった。
ここでの紅葉の生活は、結果的に経費がかかりすぎ、盗賊の首領とならざるを得ない原因をうみ、京の帝から鬼と名づけられ、その鬼退治のたjめの維茂派遣の糸口を作ってしまった、との説もある。
だが、武人で頭が良く、しかも多くの才能を身につけた少女は、村の人たちからも鬼とされる一面があったと説く人もある。なぜなのだろうか。

道路の反対側にある「月夜の陵(つきよのみささぎ・つきよのはか)」から見た内裏屋敷跡。
善意の医術も、ときには呪術とみなされることもあり、優れた才能は誤解されたり中傷を招くことさえある。並はずれて美しい女性が、美しい曲を奏でながらそこにいる。そのことは、仕事の手を休められぬ農民たち、特に男達にとっては、それだけで目障りであったろう、と想像するのも困難ではない。

供養塔の建つ北西側。この奥の丘に皇族の墳墓と伝わる「月夜の陵」がある。
生涯を通じて、貴族たちの世界に立ち向かう姿勢や、青春の時に受けた傷をいやすための理想高い行為そのものが、おそらく村の人たちの目には怖くさえ映ったことだろう。哀れとは思いながらも、彼女を鬼を名づけた都の権力に迎合するしかなかったのかもしれない。

天武十三年に遷都の為の調査を命じられた皇族がこの地で崩御され、亡き骸を葬ったとされる「月夜の陵」。
それでいてこの「鬼女狩り」のときには、土地の人々はこぞって紅葉の味方をし、維茂軍に対して壮烈な戦いを挑み、最後の戦場となった現在の戸隠中社付近は、棒や鍬を持って抵抗した農民たちの屍が山のように積み重なったといわれている。まるで史実ともとれそうなこの紅葉狩の民間伝説は、聞く人にある種のロマンをかき立たせる。

内裏屋敷跡に建つ紅葉の供養塔。(石碑の裏には戒名と享年33才と彫り込みがある)
戸隠を好んで題材にした詩人の津村信夫は、その著書「戸隠の絵本」のなかで、鬼女紅葉について、「この京から落ちのびてきた女性は、村人にとって一種のフェティシズム(呪物崇拝)の対象になっていたようだ」と書いている。
彼女のゆかりの地である、ここ鬼無里や戸隠を訪ねる旅人たちが、一種のミューズの神のごときものとしてこの女性と親しく接することは、鬼女とされてこの世を去らなければならなかったこの「もみじ」という名の女性の心を、少しでも慰めることになりはしないだろうか。
※「戸隠の鬼たち」(2003年8月 国分義司緒 信濃毎日新聞社)の「鬼女紅葉伝説1 P108-109」を引用

奥裾花自然園は裾花川の源流を遡るのだが、毎年その可憐な姿を見せてくれる水芭蕉も、今年は林道の土砂崩落で見る事が出来ず、復旧のメドもたっていない。
さて、一週間近くもかけて夜な夜な編集していたが、自分でも訳の分からない記事となり反省しきりである・・(汗)
やはり本業の中世城郭を語るのとは勝手が違う・・・(笑)
次回は「紅葉の岩屋とその攻防戦の舞台を訪ねて」 (ってか、まだ掲載するんかい!!)
果たしていつの記載になるでしょうか・・・
↑内裏屋敷はここです。
Posted on 2014/06/13 Fri. 23:00 [edit]
0609
伝説に魅せられし者となるのか(序章) 
◆鬼を探し求めて戸隠・鬼無里の里へ~◆
昨年五月に戸隠の城攻めを敢行した時に、この地に伝わる「鬼女紅葉伝説(きじょもみじでんせつ)」という物語を初めて知った。
謡曲「紅葉狩」のヒロインとしてつたえられているこの鬼女は、平将門の残党と組み、妖術を武器に交通の要所を襲う群盗の女首領で、のちに平維茂に滅ぼされてこの世を去った、いわれている。
※謡曲「紅葉狩」は観世小次郎信光(1435-1516)の作で「女装・宴会・鬼退治」というトレンドを用い大衆に受け入れられた

戸隠の志垣にある「鬼の塚」。紅葉とその配下の墓がある。
この物語が単純な勧善懲悪ならば、さして感心も持たなかったのだが、悪の化身であるはずの紅葉が里人にとっては「貴女」であり、村のヒロインとして伝承されているというから驚きであった。

「柵(しがらみ)の里」大昌寺には紅葉と維茂の位牌があり、紅葉慈母観音が建立されている。
史実としては存在しない「鬼退治」の伝承を調べる気になったのは、紅葉が美女と伝わるからであろう。
悲しい男の性である・・・(笑)
が、しかし、「浪漫」とはそういうものであろう・・・(懸命な言い訳・・・見苦しい・・・汗)

荒倉山にある紅葉の軍事拠点を探索する。オカルト映画真っ青の不気味な山中である。

紅葉の根城であった「鬼の岩屋」
こんな伝承(伝説)を検証するような物好きな人などいないと思ったが、いたのである・・(汗)
次回からは、その方の著書を参考に、史跡の写真とともにご案内したいと思います。

鬼無里の松厳寺。紅葉の菩提寺で、ここにも墓があり、戒名まである。

水芭蕉で有名な奥裾花自然園に向かう道路の途中になる紅葉の内裏屋敷跡。
【おまけ】
二週連続で戸隠・鬼無里を訪問したし、せっかくなので地元の温泉に浸かって蕎麦を食べる事にした。

鬼無里の湯。日帰り入浴は510円。(税込)
フロントのお姉さん、「紅葉」さんを彷彿とさせるベッピンさんで、チョッとドキドキ。(変態中年かっちゅーの!)
ラッキーな事に先客も上がったあとで貸し切り状態。

もちろん天然温泉。原泉は11.5℃なので加熱し循環させている。無色無臭ですべすべの泉質。
原泉かけ流しばかりが強調される温泉業界だが、殺菌消毒という衛生面では循環型に軍配が上がる。
ちょっと遅めのお昼は鬼無里蕎麦。(税込703円)もちろん手打ちで信州産の蕎麦粉使用。(大盛りは200円増し)

戸隠蕎麦ばかりが有名路線になっているが、麺よりも「そばつゆ」・・特に「かえし」で全体が決まる。
信州に生まれ育った小生ではあるが、旨いと思ったお気に入りの蕎麦屋は数店しかない。
星の数ほどあるラーメン屋と違って(決して愚弄している訳ではないが・・)、誤魔化しの利かない蕎麦屋さん、大変である。
小生のお勧めの蕎麦屋さんは、そのうちボチボチと紹介します・・・(笑)
次回から始まる「鬼女紅葉伝説」~その実像と虚像に迫る~をお楽しみに・・・・(爆)

ジキルとハイド。天使と悪魔。その二面性を兼ね備えた紅葉と維茂の壮絶な攻防戦は次号から・・・・・
昨年五月に戸隠の城攻めを敢行した時に、この地に伝わる「鬼女紅葉伝説(きじょもみじでんせつ)」という物語を初めて知った。
謡曲「紅葉狩」のヒロインとしてつたえられているこの鬼女は、平将門の残党と組み、妖術を武器に交通の要所を襲う群盗の女首領で、のちに平維茂に滅ぼされてこの世を去った、いわれている。
※謡曲「紅葉狩」は観世小次郎信光(1435-1516)の作で「女装・宴会・鬼退治」というトレンドを用い大衆に受け入れられた

戸隠の志垣にある「鬼の塚」。紅葉とその配下の墓がある。
この物語が単純な勧善懲悪ならば、さして感心も持たなかったのだが、悪の化身であるはずの紅葉が里人にとっては「貴女」であり、村のヒロインとして伝承されているというから驚きであった。

「柵(しがらみ)の里」大昌寺には紅葉と維茂の位牌があり、紅葉慈母観音が建立されている。
史実としては存在しない「鬼退治」の伝承を調べる気になったのは、紅葉が美女と伝わるからであろう。
悲しい男の性である・・・(笑)
が、しかし、「浪漫」とはそういうものであろう・・・(懸命な言い訳・・・見苦しい・・・汗)

荒倉山にある紅葉の軍事拠点を探索する。オカルト映画真っ青の不気味な山中である。

紅葉の根城であった「鬼の岩屋」
こんな伝承(伝説)を検証するような物好きな人などいないと思ったが、いたのである・・(汗)
次回からは、その方の著書を参考に、史跡の写真とともにご案内したいと思います。

鬼無里の松厳寺。紅葉の菩提寺で、ここにも墓があり、戒名まである。

水芭蕉で有名な奥裾花自然園に向かう道路の途中になる紅葉の内裏屋敷跡。
【おまけ】
二週連続で戸隠・鬼無里を訪問したし、せっかくなので地元の温泉に浸かって蕎麦を食べる事にした。

鬼無里の湯。日帰り入浴は510円。(税込)
フロントのお姉さん、「紅葉」さんを彷彿とさせるベッピンさんで、チョッとドキドキ。(変態中年かっちゅーの!)
ラッキーな事に先客も上がったあとで貸し切り状態。

もちろん天然温泉。原泉は11.5℃なので加熱し循環させている。無色無臭ですべすべの泉質。
原泉かけ流しばかりが強調される温泉業界だが、殺菌消毒という衛生面では循環型に軍配が上がる。
ちょっと遅めのお昼は鬼無里蕎麦。(税込703円)もちろん手打ちで信州産の蕎麦粉使用。(大盛りは200円増し)

戸隠蕎麦ばかりが有名路線になっているが、麺よりも「そばつゆ」・・特に「かえし」で全体が決まる。
信州に生まれ育った小生ではあるが、旨いと思ったお気に入りの蕎麦屋は数店しかない。
星の数ほどあるラーメン屋と違って(決して愚弄している訳ではないが・・)、誤魔化しの利かない蕎麦屋さん、大変である。
小生のお勧めの蕎麦屋さんは、そのうちボチボチと紹介します・・・(笑)
次回から始まる「鬼女紅葉伝説」~その実像と虚像に迫る~をお楽しみに・・・・(爆)

ジキルとハイド。天使と悪魔。その二面性を兼ね備えた紅葉と維茂の壮絶な攻防戦は次号から・・・・・
Posted on 2014/06/09 Mon. 22:45 [edit]
« p r e v | h o m e | n e x t » |