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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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仁熊城 (東筑摩郡筑北村仁熊)  

◆麓からの道も途絶えた隠れ城◆

2012年12月、我ら信濃先方衆は初めてこの山城に挑み天候の急変により挫折。その4年後の2016年11月に片道90分かけてようやく辿り着いた。

その時のオフショット記事はこちら⇒中信濃のラスボス仁熊城に挑む

あれから2年以上経過してしまい、記憶が確かなうちに記事にしておかないと後悔しそうなので、今回記録することにした・・(汗)

仁熊城(筑北村) (103)
城跡とは全く違う場所に平成23年に建てられた標柱。宮坂氏は平成10年に城址を比定しているが何故ここなのか説明して欲しい。

【立地】

筑北村と生坂村の境界に位置する岩殿山(1007.6m)が南北に形成する山脈の北側の中間点に位置する。山麓の集落の細田地区から直接見る事は出来ない。西側の丸山集落(現在は廃村)のある谷を挟んで生坂村側には大城と京ヶ倉が対岸の山脈に聳えて見え、古来より境目を見張る場所であったようだ。
現在、城址に通じるハッキリとした道はなく、麓の細田集落から鉄塔までの保安道を登りその先は尾根伝いに急峻な獣道を辿り、850mの三角点を目指す。その後尾根を南に縦走すると地理院地図の902m地点手前が城跡である。

仁熊城(筑北村) (98)
前回挫折したルートとは違うルートでチャレンジ。鉄塔から上には道形もなく獣道を這い上がる荒行(毎度の事さ・・笑)

仁熊城(筑北村) (102)
黙々と尾根を辿る途中で見える景色は疲れを癒してくれます。ここが中信濃のスクランブル交差点。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「仁熊古城地 仁熊村ヨリ戌亥ノ方余廿町四十間、本城ノ平長七間、横三間、台所ノ跡ト伝ヘタル所アリ、今モ水少ツツアリ、戌ノ方ニ馬場ノ跡アリ、城ヨリ麓マデ五町四十間、東向ノ城ナリ、青柳伊勢守持チナリ、近江守清長ノ聟仁熊某ト云フ者居レリト云フ、此山松平丹波守領主ノ時ヨリ留山トナス」とある。この記載は「信府統記」の記述をそのまま記載しているという。

この記載から、この城は青柳城を本拠とした青柳氏が隣接する日岐氏との境界を監視する境目の砦として築かれたようである。南北を縦走する尾根伝いの道は古来より間道として利用されていたらしく、岩殿山を越えた南尾根には高松薬師城や高登屋があるので、ネットワークとして機能していいたことも充分考えられる。

仁熊城見取図①

【城跡】

尾根に何ヵ所かピークはあるが、縄張はいずれの頂点も使うことは無い。筑北村の教育委員会が標柱を立てた場所は三角点のある峰のピークの一つには違いないが、人工的な加工はなくただの素山で、素人目にもここが城跡とされた理由が分からない。
そこから二つのピークを越えて南下した尾根と沢筋が宮坂武男氏の比定する城跡で、ここは人工的な削平と盛土(土塁)、そして数段の段郭(居住空間)、井戸跡などがあり、明らかに城跡と判明する。

ここは、当初物見が置かれた単郭であった場所を切羽詰まった豪族が逃げ込み場所として居住空間を増設したものととらえてよいだろう。彼らの敵とは・・・・そう、武田晴信(信玄)であった。

仁熊城(筑北村) (15)
長野県町村誌に「馬場ノ跡」と記載された郭2。×3の北側に突き出した削平地である。

仁熊城(筑北村) (17)
土塁で目隠しされた郭1。物見郭を除けば城域での最高所に位置する。

仁熊城(筑北村) (30)
郭1の南側に削平された郭3が確認出来る。

最初はこの部分だけで物見として利用されていたと思われる。隣接する日岐氏(丸山氏)の領地とは険しい渓谷を隔てているので、攻め込まれる心配もなかったようだ。

仁熊城(筑北村) (37)
鞍部の郭4。ほぼ方形に削平されかなりの広さがある。ここから北西方向の沢に降るように数段の郭が造作されている。

鞍部にはこの城跡最大の広さを誇る郭4があり、そこから北向きの沢筋に向けて6段の削平地が確認出来る。日当たりはともかくとして隠れ家的な分譲地である。掘立建物をテキトーに造作すれば敵が通り過ぎる数週間ぐらいは籠れそうである。(チョッと冬は厳しいが・・・)
天水溜の井戸跡もあり、籠城が長引く事態になれば、最悪は南の尾根伝いに逃げる事も想定していたのかもしれない。

仁熊城(筑北村) (50)
大きさをお伝えする為ていぴす殿にご登場願ったが、段郭は居住性を持つ空間であった。

仁熊城(筑北村) (54)
居住区のある北側の沢は最終的に崖となり落ちるので、こちらからの侵入は心配ない。

仁熊城(筑北村) (57)
段郭も竪堀の調査もそうだが、「下りたら上る」という体力消耗は毎度の事ながらキツイ・・・(笑)

【物見砦からの景色】

縄張図にも描いたが、城域の南側の一段高い場所に周囲を岩場で囲まれた剥き出しの物見台がある。ここからの見晴らしは素晴らしいの一言であるが転落注意。
恐らく往時もこの隠れ小屋の物見として使われたのであろう。

仁熊城(筑北村) (80)
対岸には深い渓谷を挟んで、日岐丸山氏の物見砦である京ヶ倉と日岐城の詰め城の大城が指呼の間に見える。

仁熊城(筑北村) (83)
日岐領の北の砦である金戸山(かなとこやま)まで眺望できる。

仁熊城(筑北村) (85)
青柳氏の本城の青柳城も見渡せる。烽火が連絡手段だったと思われる。


【山岳信仰と山城の関り】

近年、山岳信仰を(恣意的に?)利用した山城の築城について掘り下げた議論を耳にするようになった。個人的にも中信濃の山城の多くはこの問題について避けて通る事は出来ないような気がしている。
ただ、何でもかんでも宗教と結び付けて考えるのは短絡的であるし、一時期流行った「神社・仏閣」=「豪族の居館跡」という裏付けのない安易な想定も危惧している。

しかしながら、信濃の山脈(やまなみ)は、北信濃の三大霊場(戸隠・小菅・飯縄山)に集った多くの修験者が己の鍛錬のために登り、縦走し修行をしている。信者も礼拝の為に山道を辿る事も多かったと伝え聞く。

この仁熊城(にゅうまじょう)も単なる逃げ込み城ではなく、こうした宗教に関わる山道を抑える為に構築されたと見れるかもしれない。その事は、小生の今後の山城を研究する上での重要な課題だと認識している。

仁熊城(筑北村) (3)
GPSによる仁熊城の座標。経験の浅い方は遭難の危険があるのでお勧めしません。


≪仁熊城≫ (にゅうまじょう 隠城・細田砦)

標高:870m 比高:200m(大日堂より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:東筑摩郡筑北村仁熊
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:90分 駐車場:無し(邪魔にならないように耕作地の脇に路駐)
見どころ:土塁、削平地、展望
付近の城跡:竹場城、安坂城、日岐大城、京ヶ倉、青柳城など
注意事項:事前の調査とそれなりの装備はマスト。道が無いので険しい山城探訪の経験値の無い方は御法度。遭難します。
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
Special Thanks:ていぴす殿

hikioojyo (41)
対岸の日岐大城から見た仁熊城。こんなショット撮るヤツの気が知れない・・・(笑)


「S」は駐車可能な場所。(付近にお住まいの方にはひと声かけた方が無難です)
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Posted on 2019/02/13 Wed. 22:06 [edit]

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龍岡城の東通用門 (移築 佐久市野沢)  

◆龍岡城の忘れ形見◆

佐久市臼田の龍岡城といえば、函館の五稜郭と並び日本に二つしかない西洋式の橋頭保を持つ城郭である。

小生も何度か訪れて調査しているので、てっきりブログに掲載しているかと思いきや、全くその欠片すら無かった・・・(笑)

CIMG1836.jpg
ここは龍岡城の北側の枡形。本体とは離れているので案外見落としがちな場所。

CIMG1856.jpg
皆さまがよくアップされる龍岡城の表門の標柱はこちらですw

龍岡城2016 (18)
龍岡城が函館の五稜郭とは違って実戦を想定した戦闘用の城ではない事は、この狭い堀幅を見れば一目瞭然であろう。

日本国内にある洋式の城郭は北海道の函館五稜郭と佐久の龍岡城五稜郭の二つだが、陣屋や台場を含めると合計六カ所あるそうです。

●弁天岬台場(北海道函館市)
●戸切地陣屋(へきりちじんや 北海道上磯町)
●函館四稜郭(北海道函館市)
●品川台場(東京都品川区) ※最近「続日本100名城に追加あれたとか・・

いずれ巡ってみたいものです。

今回ご案内するのは、未アップの龍岡城ではなくて、龍岡城の移設された東通用門を偶然に見つけた、というコアな記事・・(汗)

五稜郭俯瞰図
※龍岡城の資料展示室(お休み処 であいの館)の俯瞰図に加筆させていただきました。

龍岡城の縄張図は領民に完成間近の時に公開されたと伝わる。通常、軍事機密の縄張図を公表するなんてありえないので、龍岡城はお殿様の研究発表の試作だったんだろうね・・・。


【龍岡城の東通用門の移築先】

信州の佐久地方は、全国でも有数の長寿の里として知られている。そこで、当時の佐久市長の三浦氏がご当地名物として売り出したのが「ぴんころ地蔵」(正式名称は長寿地蔵尊)である。

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ぴんころ地蔵様。

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ぴんころ地蔵様の由来とお参り作法についての説明板。

先日、家人と佐久市のイオンモール佐久店に出掛けたついでに「ぴんころ地蔵」が見たいというので、お連れした次第。実は小生も場所は知っていたものの、実物をみたのは今回が初めてでした・・・(汗)

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野沢本町の商店街を過ぎると立派な門前町の佇まい。

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元々は成田山薬師寺で、ぴんころ地蔵様は最近の設置らしいが参道では定期的に市が開かれているようです。

まあね、老後は誰しも寝たきりや認知症などの介護状態で家人に迷惑を掛けずにコロッと死ねれば本望。
このお地蔵さんにすがりたい気持ちは痛いほどよくわかりますw

そんな事を思いながらお地蔵様にお祈りを捧げて、ふと脇の看板を見ると・・・

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「龍岡城の東通用門はここに移築されていたのか・・・・」

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薬師寺の山門として現在に至る龍岡城の東通用門。

徳川一族といえども、城持ち大名にはなれぬ家柄の大給松平氏。その定めに挑み、陣屋と称して西洋式の橋頭保を信濃の山奥に築城した松平乗謨(まつだいらのりかた)。
※彼の偉業はネットでご確認ください・・・(笑)

CIMG1878.jpg
龍岡城の東通用門のあった場所。


≪龍岡城東通用門≫ (たつおかじょう ひがしつうようもん)

標高:676m 比高:-
築城時期:慶応三年(1867)
築城・居住者:松平乗謨
場所:佐久市野沢 成田山薬師寺
攻城日:2018年12月9日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:ぴんころ地蔵様駐車場
見どころ:山門
付近の城跡:伴野城(薬師寺より歩いて数分)、前山城、龍岡城、田口城など
注意事項:特に無し

taguti (4)
対岸の田口城の物見郭から見下ろした龍岡城の全景。計算された五角形の西洋式橋頭保であることがよく分かる。


Posted on 2018/12/14 Fri. 21:51 [edit]

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堀金氏館 (安曇野市堀金烏川)  

◆戦国期に活躍した仁科一族堀金氏の居館◆

この度の北海道における震災被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

一昔前なら「百年に一度の災害」とか「異常気象」とかで片づけた事象が、これからは当たり前の事になるのでしょうか・・・(汗)

今回ご案内するのは、「しつこいぞ!!」と叱られても止める気の無い城館巡りの「堀金氏館」でございますw

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堀金屋敷の正面虎口の近くにある双体道祖神の前に車を駐車して探索開始です。


【立地】

角蔵山(1163.6m)の東側に広がる烏川扇状地形の上堀地区の千国街道沿いに位置し、戦時の城とされた岩原城からは南東約3.6kmである。

堀金氏館見取図①

ここは昨年、ブロ友の久太郎さんが管理人の 「久太郎の戦国城巡り」に掲載があり、「地元民が知らずしてどうする」と重い腰を上げて出掛けた次第です・・・(笑)


【城主・城歴】

仁科一族の堀金氏の初見は「高白斎記」の天文二十年に記載があり、武田氏の平瀬城攻めの際に、堀金氏は出仕し臣従している。以後、天文二十一年の小岩嶽城攻め、弘治三年の小谷平倉城攻めに参加、その戦功により千国六ヵ村の地頭に任じられている。
二代目の堀金安芸守政氏は永禄四年の川中島の戦いで戦死し、三代目の平大夫盛広は永禄十年(1567)の生島足島神社の起請文に「仁科御親類被官」にその名が見える。その後、渋田見氏と縁組したが、信玄より不届きとされて地頭職を失い、その後武田領内を追われ越中国に逃れて没落したという。

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屋敷の南入口は「大庭」と言い上堀郷倉と山車蔵の址が残る。

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北側より見た堀金氏館。道路沿いなので、うっかり通り過ぎてから気づく。

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居館の北側には僅かに土塁痕が続き、その内側を堀が巡っていたと推測される。

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館の北東は鬼門にあたるので、「隅欠け」として市神の牛頭大王を祀る堀金社が安置されている(ピンボケご容赦!)


【館跡】 ※館跡地には現在も居住されている方がいるので敷地内への無断侵入は不可。

一辺が約80mほどの方形居館で、北東及び南の三辺に土塁が残り、その内部に堀跡が残る。屋敷の北東は隅欠けにして市神が祀られている。屋敷の虎口は南側で入口から外は「大庭」と呼び村の広場になっていた。道路を挟んだ反対側には土塁で囲った構えがあり、屋敷地の址の遺構と考えられている。
比較的遺構は良く残っている。

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堀金氏館入口。土塁と堀形が比較的良い状態で残っている。

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東側の土塁の雑木林の中に朽ちた標柱を発見。22年の歳月の重みを感じる・・・(気のせいか・・・)

IMG_1892.jpg
館の東側の道路を挟んだ反対側に残る土塁跡(構え)。この場所に堀金氏に関わる家臣の屋敷があったのであろうか?

肝心の岩原城について、このブログで記事にしていないことに気が付く。そのうち書かないと、記憶が薄れていく・・・(汗)


≪穂高氏館≫ (ほりかねしやかた)

標高:573m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系堀金氏
場所:安曇野市堀金烏川上堀
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:土塁・堀跡など
付近の城跡:矢原北村堀ノ内、矢原東村の堀ノ内、岩原城
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)







Posted on 2018/09/09 Sun. 14:41 [edit]

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穂高氏館 (安曇野市穂高)  

◆地名と土塁の一部のみ残る居館◆

この度の台風21号の被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

「明日は我が身・・・」もはや数十年に一度の異常気象ではなく、これからは毎年「生命の危険」に備えるべきでしょうね。

「自分だけは大丈夫」とかは通用しない自然災害なんだと肝に銘じて、逃げる事も選択肢の一つになりました。

今回ご案内するのは、「穂高氏館」(堀屋敷)。写真3枚で完結する記事はもちろん、「テ・ヌ・キ」です、ハイ!(笑)

DSCF5082.jpg
通称「堀屋敷」と呼ばれる穂高氏館全景。(西側より撮影)

【立地】

穂高駅の南側で穂高神社の南西部に位置する。穂高神社との深い関係性が読み取れる。


【城主・城歴】

穂高氏には細萱系穂高氏と仁科系穂高氏の二系統があったようである。

この堀屋敷は仁科系穂高氏の居館と伝わる。天文二十二年に武田の支配下になると、武田氏は仁科盛国の二男を穂高に入れて統治を命じた。初代は武田軍に従い白馬小谷方面の制圧作戦に転戦するが平倉城の飯森盛春攻めにて戦死。
武田氏滅亡後、後継ぎの穂高内佐(盛員)は日岐丹波守(盛武)とともに、小笠原貞慶に抵抗するも、後に配下となり700石を拝領したという。

DSCF5081.jpg
居館の南側の堀跡(推定)


【館跡】

現在は個人の宅地となっており、鳴庵西部に土塁の址が一部残るのみで、その他は改変により明確な遺構は確認出来ない。
広さは70×80の方形居館で東と南には水路がある。大手は穂高神社側の西側かもしれない。
唯一残る土塁には稲荷社が祀られているという。

DSCF5080.jpg
居館の遺構の土塁の一部。イチイの巨木が生い茂る。


≪穂高氏館≫ (ほたかしやかた)

標高:548m 比高:-m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系穂高氏
場所:安曇野市穂高本郷
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (穂高神社借用)
見どころ:土塁の一部 ※標柱などもありません
付近の城跡:等々力城、主水城、等々力氏館など
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

※今回プライバシーに配慮して場所の地図は掲載しませんが悪しからず。

Posted on 2018/09/05 Wed. 21:34 [edit]

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等々力氏館 (安曇野市穂高等々力)  

◆等々力城に移転する前の居館跡か?◆

安曇野市の穂高周辺の山城は小岩岳城とか、岩原城ぐらいで、あとは豪族の居館が平地にかなり多く点在している。

各個撃破するもの面倒だし、平地の居館はプライベート空間が多いので下手にカメラを構えると通報されるリスクを伴う。

それでも、せっかく訪問したからには写真の1枚でも掲載しないと苦労が報われませんよね・・・(笑)

今回ご案内するのは前回ご案内した等々力城の移転前の居館と考えられる等々力館(とどりきやかた)である。

DSCF5053.jpg
等々力館近くにある東光寺の吉祥門にある巨大な下駄。仁王様にお参りして願掛けして下駄をに乗ると願いが叶うという。

♪あいつのGET A NOTEの音がしたんだ~、あいつのGET A NOTEの音がしたんだ・・・♪

アニメ ゲゲゲの鬼太郎のエンディングに似合いそうな巨大な下駄のレプリカです。

DSCF5055.jpg
古木の栗の木が目印の居館跡。

【立地】

安曇野市の穂高等々力地区の東光寺の南100mの位置に等々力氏館と言われる俗称「内堀」がある。西北300mが等々力城である。
ここは旧千国街道に接していて、平坦地で、南北に長い町並みがあり、そのほぼ中央にあたる。道の南北の端には鉤の手があり、北端には東光寺、南端には「関口」の地名が残る。

DSCF5056.jpg
館の中心部。

【館主・館歴】

※等々力氏については前回記事の等々力城を参照願います。

【館跡】

内堀という屋敷跡は50×45ほどで、北西隅に栗の木があり、屋敷を囲む池(堀跡か?)ではスケートをやったという。内堀の北側が「蔵屋敷(倉屋敷)」と言われていたらしく、その辺まで含めて居館跡だったと推測されている。

DSCF5057.jpg
内堀西側の堀の痕跡。

≪等々力氏館≫ (とどりきしやかた)

標高:533m 比高:-m
築城時期:不明
築城・居住者:等々力氏
場所:安曇野市穂高等々力
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:東光寺の駐車場借用
見どころ:特になし ※標柱などもありません
付近の城跡:等々力城、主水城、穂高氏館など
注意事項:プライバシーに注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)



DSCF5052.jpg
この下駄で明日の天気占いは、ゲゲゲの鬼太郎でも骨折すると思います・・・(笑)  mee to・・・・

Posted on 2018/09/03 Mon. 21:34 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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