らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

1119

清滝城2 (リテイク 長野市松代町東条)  

◆尼巌を城を眼下に収める南北朝時代から続く山城◆

この山城には6年ほど前に2度ほどチャレンジして記事にもしている。

清滝城 挫折編

清滝城 リベンジ編

比高600m以上あり、結構しんどかったのでもう登る事も無いかなーと思ってましたが、今一度ぐらいは遺構を真面目に見ようと思い再チャレンジ!(笑)

中々そういう機会を求めるのは時間的にも体力的にも大変な事なのだが、二度、三度と訪問することで新たな発見がある。

IMG_3081.jpg
清滝城(地元では奇妙山)の登り口の岩沢公民館付近からの風景。

IMG_3082.jpg
善光寺平の山城では認知度抜群の尼巌城(あまかざりじょう)。ここから登ると清滝城⇒尼巌城と体力があれば縦走も可能だ。

「俺の人生、アドリブさ!」 というセリフを耳にするが、人間としての基礎が出来ているから応用が出来るという謙遜であろう。

「俺の人生、思いつきさ!」 というのが小生も自慢であるが、いい加減な人生もここまで来れたら大したもんだと自画自賛(笑)

IMG_3083.jpg
岩沢の登山口までは、小型乗用車以下なら何とか登れて駐車も3台くらいまでは可能だ。


尼巌城へは「玉衣比売命神社」から登るルートが一般的だが、ここから登ると最短で一巡出来るのでお勧めだ。

2周連続の台風の直撃で、登山道はかなり荒れ果ててしまい、尼巌城との分岐の尾根まで30分かかり到達。

IMG_3085.jpg
ここから更に1時間も登るのか・・・

IMG_3088.jpg
ひたすら登る登山は苦手だ。景色でも見えれば良いのだが、高見岩までは退屈な山道が続く。

IMG_3091.jpg
アタック開始から60分で高見岩付近に到着。頂上まで45分とあるが、今回は中高年の意地を見せて20分で踏破したのである(笑)

清滝城を目指す方は、是非とも高見岩からの景色をその目で確かめて欲しい。

かの有名な尼巌城を見下ろす事が出来る唯一の場所であり、その絶景は清滝城(奇妙山山頂)からは現在観ることが出来ないので貴重な風景であろう。

信玄よりここの攻略を命じられた真田幸隆は、搦め手にあたるこの場所から尼巌城へ攻め込んだという説もあるらしいが守備側もかなり厳重な防御体制を敷いていたというから一筋縄では事は運ばなかったと思われる。

IMG_3174.jpg
尼巌城を背後より見下ろすというのは中々壮観である。

IMG_3175.jpg
拡大するとこんな感じ。

IMG_3176.jpg
ここから目視で見える城跡はこんな感じ。

途中小学生の親子連れのハイカーを年甲斐もなく追い越し、ここから老体に鞭打ってラストスパートをかけて清滝城に辿り着く(笑)

最近は縄張図を描く気力も失せているので、再びnaomochi-u氏の芸術作品をお借りした・・・(汗)

清滝城縄張図①

●城跡

頂部に置かれた単郭から分かれる三方向の尾根に数条の堀切と数段の削平地を施した砦で、烽火台として使われたと推定される。標高1,000~1,100mあたりが烽火台の高さの限界で、それ以上になると天候に左右されて麓や他の烽火台からは見づらくなる。

IMG_3098.jpg
登山道に現れる最初の堀形

IMG_3100.jpg
主郭手前の二条目の堀切。ここには「堀切」の説明板があった。

●主郭

主郭は22×11の細長いホームベース状で北側に土塁の痕跡が確認出来る。

IMG_3113.jpg
北側より撮影した主郭

IMG_3107.jpg
北側の低い土塁跡と三角点

IMG_3112.jpg
山頂は北側の一部のみ視界が開ける。

●北東尾根

主郭から北東尾根には段郭を二段連続させて二重堀切で遮断し、更にその下に一条の堀切を穿ち防御を厳重にしている。

IMG_3114.jpg
主郭より段郭を見下ろす。

IMG_3119.jpg
二重堀切

IMG_3127.jpg
東尾根最終の堀切

●南尾根

本郭の南側を二条の堀切で遮断。その先は堡塁でここが城域の終点だと思われる。更に400m先まで進むと岩盤が剥き出しの岩山となり石仏と祠がある。

IMG_3134.jpg
主郭背後の堀切

IMG_3140.jpg
堀と堀の間の郭

IMG_3144.jpg
南尾根最終の堀切

IMG_3147.jpg
城域の終点の堡塁

IMG_3149.jpg
堡塁の上から見た松代町。尼巌城は見えなくなっている。

高所恐怖症なので剥き出しの岩山を探索するのには結構勇気というか、度胸が必要でした・・・(汗)
それにしてもこんな高い場所の岩山に石仏と石祠を運び上げるのには大変な労力を要したと思い、その信仰心には頭が下がる思いでした。

IMG_3163.jpg
岩山の石祠

IMG_3159.jpg
岩山のてっぺんに何かあるぞーと思って近くまで寄ると・・

IMG_3155.jpg
修験者の厚き信仰・・・

IMG_3160.png
ちなみに場所はここです。

IMG_3149.jpg
絶景を堪能するよりは恐怖に慄く

IMG_3156.jpg
昨年登ったノロシ山も良く見える

IMG_3158.jpg
北側に転じると霜台城なんかも良く見えます。

頂上周辺の雑木林を伐木すれば、清滝城から見える景色なんでしょうね。

IMG_3161.jpg
清滝城の南東550mの山(標高1,070m)も調べたかったが、滑落しそうな岩場が連続するので止めておきましたとさ・・(笑)

さて、如何でしたでしょうか?

信濃の山城はその険しさ故に、二度も三度もたやすく訪問することは難しいのかもしれません。

でも再訪することによって新たに発見する何かが必ずあると思うし、其の間に違う山城を訪問した経験から感じる別の何かがあると思われます。小生も今回の訪問でしっかり遺構を確認出来たし、謎の南尾根からの風景も堪能できました。

未訪の方は尼巌城とのセットでの訪問をお薦めします。もちろん、しっかりとした日帰り登山装備はお忘れなく!

≪清滝城≫ (きよたきじょう 英多城・東山城・奇妙山城)

標高:1099.5m 比高:720m (竹原より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市松代町東条
再々攻城日:2017年11月5日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:90分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、堀切など
注意事項:日帰り登山の装備で
参考書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城跡:尼巌城、金井山城、寺尾城、関屋城、ノロシ山、霞城、古城、加増城、霜台城など

IMG_3178.jpg
麓の東条小学校付近より見た清滝城(奇妙山)遠景。


スポンサーサイト

Posted on 2017/11/19 Sun. 15:08 [edit]

CM: 1
TB: 0

1105

鈴岡城 (飯田市駄科)  

◆小笠原氏の内訌から生まれた城◆

昨日、信濃先方衆は北信濃のレアな城巡りと称して飯山市と中野市をブラブラしていたのだが、11月に入ったというのに紅葉は進まず相変わらず藪だらけだし、スズメ蜂には追い回されるし、「なんかオカシイゾ、信州の晩秋」と思った次第・・・(汗)

このまま霜が下りたら広葉樹は紅葉せずに「立枯れ」するんだろうな・・・・で、今回ご紹介するのは松尾城のお隣にある鈴岡城。

鈴岡城(飯田市) (1)
松尾城と鈴岡城は毛賀沢川という深い渓谷を挟んで隣接している。現在は公園化された際に橋が架けられ遊歩道が整備されている。

【立地】

鈴岡城は飯田市駄科の西北部のp段丘上の標高約490mにある。北側は毛賀沢川で比高役50mの渓谷を挟んで松尾城と相対している。
南は伊賀良井(大井)の流れを挟んで松ヶ崎台地や念通寺山などに相対している。東方は段丘崖下に空堀があり、眼下に駄科・長野原集落、天竜川を越えて下久堅・龍江・上久堅などの龍原の村々を経て伊那山脈の連なりが見える。西方は遠見原台地で伊賀良の集落や笠松山などが遠望できる。松尾城に比し眺望はよい。段丘崖を利用して、人手を加えた幾多の堀や郭が設けられ、現存する形で南より二の郭・本郭・出郭などに分けられている。

鈴岡城(飯田市) (2)
毛賀沢川の水道橋を渡り遊歩道を喘ぎながら登ると出丸に到達する。もちろん、往時にこのような道などありません。

鈴岡城縄張図① 001
小生の縄張図には美的センスなどありませんおで、今回もnaomochi-u様の芸術的な縄張図をお借りしました。

鈴岡城(飯田市) (5)
出丸。ほぼ正三角形で主郭から堀切によって切り離されている。隣接する松尾城の監視小屋だったのだろうか?

鈴岡城(飯田市) (3)
出丸からは松尾城と城下町の松尾方面、遠く喬木村まで見通せる。

鈴岡城(飯田市) (65)
もちろん、出丸から松尾城の主要部も良く見える。仲良き時は気にならなくとも、仲違いすれば憎さ百倍か・・・。

【城主・城歴】

ここの城主は鈴岡小笠原氏である。小笠原氏の総領職を巡っての内訌(ないこう)により、深志小笠原氏、松尾小笠原氏、鈴岡小笠原氏の三家に分立した。
鈴岡小笠原氏と松尾小笠原氏の対立については松尾城の項で若干触れているので、ここでは領家の対立の遺構二ついて述べる。

鈴岡城(飯田市) (8)
出丸から見た主郭と間の巨大な堀切。

松尾小笠原定基は鈴岡小笠原政秀と抗争を続け、政秀を滅ぼした。これに対し深志小笠原長棟と下条家氏の連合軍は定基と争い、定基は小笠原家の家督承継の資料を持って武田氏の元に走った。このため松尾城は一旦断絶するに至った。
そこで深志の長棟は二男の信定を鈴岡に送り再興を図ったので、廃絶されていた鈴岡は信定により勢力を盛り返し伊賀良庄を管掌したという。

鈴岡城(飯田市) (11)
主郭と出丸の間の巨大な薬研堀の堀切。この地域の河岸段丘の城の特徴でもある。

天文十七年(1548)に深志小笠原長時が武田勢の攻撃にあい、信定はその支援のため出陣した。しかし長時は信玄に追われ越後の長尾氏に身を寄せたが、その後信定の元へ在居した。
天文二十三年(1553)、武田信玄は長時・信定兄弟の鈴岡城を松尾小笠原信貴を先鋒として攻め落居させたので鈴岡城は廃城となり松尾城が再興された。信定は下条に走り、さらに阿波の小笠原の三好長慶の元に身を寄せたが、のちに戦死した。

※以上の城主・城歴については「定本 伊那谷の城」(1991年 郷土出版社)の鈴岡城の石川正臣氏の記事を引用しました。

鈴岡城(飯田市) (10)
堀跡の植込み。天正壬午の乱では飯田城がメインで使われているが、松尾城、鈴岡城も徳川軍による改修が行われたのであろうか。

【城跡】

主郭は城跡の中央東端にあってほぼ梯形をした地形である。北・西・南に堀をめぐらし東は急崖である。この主郭の平場の広さは、広い部分が約44mあり、幅は約64mである。西縁部に土居が設けられてあり、長さ27m、高さ約14m、底部の幅は約1.8m前後である。

鈴岡城(飯田市) (13)
主郭。

鈴岡城(飯田市) (15)
何故か「鈴岡城址」ではなく「鈴岡公園」の石碑。背後に土塁が巡る。

鈴岡城(飯田市) (28)
結構立派な土塁が本郭に残っているのには驚いた。

二の郭は堀を隔てて主郭の西南に続く鉤状に屈折する平場で、西南は堀で遠見原に対し、南面にも堀があって外方は伊賀良井の谷に傾斜し寺山に対峙する。現在は大部分が畑地として耕作されており、かつてあった井戸は埋められている。北・西・南の三方に土塁があったが、現在は一部残っているのみである。土塁の延長は約45m、高さ1.2m、底部は約2.7mである。

鈴岡城(飯田市) (32)
主郭と二の郭の間の堀切。ここは箱掘。

鈴岡城(飯田市) (33)
北の毛賀沢に向けて薬研堀は竪堀となり落ちていく。

鈴岡城(飯田市) (20)
主郭からは知久氏の神之峰城も視野に入る。

出郭は主郭の北にあって、ほぼ三角形の平場である。主郭との間にほぼ東西に堀切があり、東西の両斜面は急傾斜の断崖で、北側は毛賀沢川の渓谷に臨み松尾城と相対している。

鈴岡城(飯田市) (37)
二の郭を囲む南側の堀切。道路による改修があるものの、かなり幅広く長大である。

鈴岡城(飯田市) (38)
L字形の郭2。以前は畑だったようだが公園整備化に伴い、現在は駐車場と遊園地に変化している。

鈴岡城(飯田市) (43)
昔も今も遊園地さえ作れば住民の同意を得やすいという凝り固まった考えは捨てて頂きたいと思うのだが・・(汗)

鈴岡城(飯田市) (44)
二の郭に残る土塁跡。


外郭のうち、南外郭は二の郭の西方にあって一段低くなっており、「的場」の地名で呼ばれる。南北に長い平場で、長さ90m、幅5~22m、二の郭との間は堀で区切られている。
北外郭は南外郭の北に位置し、遠見原段丘麓を北東に延びて毛賀沢川に突き出したところにある平場で荒小屋と呼ばれる。遠見原との間には堀切があり、ほかの三面は急崖で、東方は谷を隔てて本郭・出郭と相対する。規模は西面の長さ90m、北面約80m、南方は広いところで約51mであるが、現在ではすべて畑地となっている。

鈴岡城(飯田市) (46)
二の郭と南郭の間の堀切。芸術的な美しさである。

鈴岡城(飯田市) (47)
鉄炮の使用を意識していたような幅を持つ堀切。武骨な松尾城とは対照的な機能美に溢れていると思うのだが・・・。

鈴岡城(飯田市) (49)
荒小屋と呼ばれる毛賀沢に突き出した平場。

鈴岡城(飯田市) (54)
的場に隣接する堀切。この仕様は松尾城に共通するものがある。

鈴岡城(飯田市) (56)
巨大であるが美しい堀切。

同行したnaomochi-uさんによれば、この城の訪問は二度目だそうだが、徳川軍による改修が施されたのではないか?と推測されている。
天正壬午の乱では、迫りくる北条軍に対して飯田城で籠城して耐えたという記述はあるが、松尾城や鈴岡城の記載は見られない。ここは、徳川方に付いた小笠原信貴の要請を受けて徳川軍が急遽改修工事を行ったとみたいがどうであろうか・・・。

鈴岡城(飯田市) (59)
北斜面の防御施設。今回詳細は調査出来なかったが、毛賀沢川に対する斜面に入念な防御施設が構築されているという。

鈴岡城(飯田市) (52)
的場と呼ばれる細長い郭跡。

以前は仲の良かった兄妹縁者が、本家の家督争いで仁義なき戦いを続けた。結果として、信濃国守護職の深志・松尾の両小笠原氏は武田氏のような戦国大名にはなれなかったものの、武田家滅亡後の信濃国における戦国時代の荒波を潜り抜けて家名を存続させることに成功した。卑怯者と罵られようが、その働きは値千金の価値であったと思われる。


≪鈴岡城≫ (すずおかじょう)

標高:485m 比高:93m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:鈴岡小笠原氏
場所:飯田市駄科
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、堀切など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:松尾城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿

鈴岡城(飯田市) (70)












Posted on 2017/11/05 Sun. 21:52 [edit]

CM: 6
TB: 0

1031

松尾城 (飯田市毛賀)  

◆仁義なき戦いを繰り広げた松尾小笠原氏本拠の城◆

最近の記事は「山城探訪記」というよりも、「特攻野郎Aチーム」に近いアドベンチャーアクションシューティング(チョッと何言っているんのか全然わかんない・・・)に変化してしてお叱りを受ける有り様・・・(笑)

真面目に山城を巡っている方から見ると、異端児であろうか・・・(汗)

基本掲載方針は「老若男女を問わず、山城ライフを楽しみましょう!!」 現地探索では「安全は全てに優先する!」がモットーです、ハイ。

今回ご案内するのは、2年前に訪問した南信濃ではメジャーな連郭式の平山城である「松尾城」。城域が広いので楽しむというよりは一回りするだけで疲れた・・・・挙句の果てに撮影した写真は少ないし的外れな写真ばかりで茫然自失・・・・(笑)

松尾城 (1)
初心者なので、説明板は必ず撮影して内容は帰ってから読むようにしています・・・えっ?それじゃダメなの?

【立地】

飯田市松尾西南の伊賀良段丘の先端部毛賀(けが)にある連郭式の平山城である。東方は下段の毛賀の集落から天竜川を隔てて川東を望み、西は名古熊の台地に連なり、北は北の沢を天然の堀とし、南は毛賀沢の谷を挟んで同族小笠原氏の鈴岡城と対している。

松尾城 (29)
松尾城主郭。発掘調査により、建物跡・炭・土器片など出土したという。

松尾城 (30)
本郭北側の帯郭。

【城主・城歴】

松尾城は、鈴岡城とともに小笠原氏の居城であった。小笠原氏は甲斐源氏の後裔で、鎌倉時代の長清の代に伊那郡とのかかわりができ、建武三年(1336)に貞宗が守護職となってから信濃を地盤とし、府中(松本)にあって同族を統括してきた。
康永三年(1344)、貞宗は守護職と伊賀良庄ほかを子政長に譲っており、この頃、子らによって松尾・鈴岡城が造られたとされ、子孫は府中(松本)・松尾・鈴岡の三家に分立した。

松尾城縄張図① 001
城郭探訪のお仲間のnaomochi-u氏より縄張図をお借りして掲載しています。

家督は政長から子の長基、その子長秀、次いで長秀の弟長将ではなく、鈴岡城の弟政康へと渡ったため、三家が抗争する元となり、政康が死ぬと争いは中央の権力争いと連動して激化する。

家系図①
三家の抗争の序列がチョッと分かりづらいので家系図を載せてみました。ピンとくるのは一番下の長時さんぐらいですね(笑)

政康のあとは子で鈴岡の宗康が継いだので、長将の子府中の持長はこれに不満で戦闘となり、宗康は戦死し、宗康の弟で松尾城の光康が継いだが、光康のあとは府中の持長が家督を握った。応仁元年(1467)、宗康の子で鈴岡の政秀は、府中を攻め家伝文書を奪取した。

松尾城 (26)
主郭の周りには石積みの遺構が残る。

のち、松尾・鈴岡両小笠原家は対立し、明応二年(1493)、毛賀沢川を挟んで戦い、鈴岡の政秀・長貞父子は戦死し、鈴岡小笠原氏は断絶した。しかし、勝った松尾城の定基は、鈴岡の残党・下條氏・府中小笠原氏に攻められ、家伝文書を持って甲斐の武田氏を頼った。

松尾城 (31)
主郭と二の郭の間の堀。現在は堀の一部は道路となっている。(二の郭より撮影)

天文二十三年(1554)、武田軍が伊那郡に侵攻すると、定基の孫の信貴は武田方の先鋒となり、府中長時の弟信定のいた鈴岡城を攻めて旧領を安堵され、松尾小笠原家を再興した。

天正十年(1582)、織田軍の侵入時、信貴の子信嶺は織田氏に下ったのち徳川家康に属したが、同十八年、家康の関東移封に従って本庄(埼玉県)に移り、松尾城は廃城となった。

※「城主・城歴」については、「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社)のP96松尾城の山内尚巳氏の記事を引用しています。

松尾城 (32)
二の郭から見た本郭。堀というよりは谷という広さの堀である。土橋で連結している。

【城跡】

城址は河岸段丘の三段を利用しており、中段が中枢部で、主郭は先端部にあり、南に三段、北に二段の腰郭がある。周囲は堀で、西方で二の郭と土橋でつながる。

松尾城 (27)
長ごろうやまに繋がる本郭北側の腰郭(段郭)。

二の郭は、南が高く北が低い傾斜地のため三段構成となり、勝手・トヤバ・クラヤシキ・城畑などの地名があり、陶器片が多く出土し二の郭の性格を示している。

松尾城 (34)
クラヤシキ・トヤバと呼ばれる二の郭の北側部分。

松尾城 (33)
北側の遊園地と駐車場の部分へ向けて低くなっていく様子がわかるでしょうか。

松尾城 (37)
二の郭の北側は「城畑」と呼ばれている。その先の沢には数条の竪堀が斜面を走る。

松尾城 (39)
追手口から見たクラヤシキ(二の郭)と三の丸(龍門寺屋敷の地名)との間の堀切。(西の堀)

松尾城 (40)
追手口より撮影した城畑と三の郭の間の堀切。(西の堀)

近世初期に出来た「松尾城絵図」には、西の堀の中央部分に大手口がある。三の郭は二の郭の堀の西側にあり、南から北への傾斜地の為に四段構成である。先の絵図には最高所の一角に「御霊屋」(みたまや)・「龍門寺屋敷跡」(りょうもんじやしきあと)があり、寺畑の地名が残る。三の郭の北方は「片羽」(かたは)といい、南古城・北古城・元本城の地名があり一帯に馬場があったいう。

松尾城 (36)
西の堀を隔てて隣接する北側の三の郭。

松尾城 (41)
今回は時間切れであまり詳しく調査出来なかった三の郭。

【長ごろうやま・サカヤシキ】

本郭の東側には、「長ごろうやま」という本郭とは別の独立した小山があり、更にその東側には「サカヤシキ」と呼ばれる広大な削平地があり、ここまで城域に含まれている。

松尾城 (24)
本郭から下り、長ごろうやまに向かう途中にある堀切。

松尾城 (56)
長ごろうやまの東屋。城郭が拡張される前の物見砦あった可能性が高い。

松尾城 (46)
長ごろうやまからの景色

松尾城 (47)
主郭とサカヤシキとの間には、南の沢に向けて段郭が構築されている。

松尾城 (48)
サカヤシキ西端の段郭群。

松尾城 (52)
現在は耕作地として利用されているサカヤシキ。広大な屋敷跡地だ。

後世における松尾小笠原氏の評判はあまり芳しいものではないが、天正壬午の乱で生き残った数少ない信濃の名族には違いなくて、最終的には越前勝山藩として明治維新まで家名を存続させている。

それにしても、隣同士に城を作るという発想はどうであろうか。仲たがいして戦争に至った最悪のリスクを想定していなかったのだろうか。それとも未来永劫仲良し宣言でもしたのでしょうか・・・。案の定戦争が起きてしまいましたが・・(汗)

≪松尾城≫ (まつおじょう)

標高:488m 比高:96m (天竜川より)
築城年代:不明
築城・居住者:松尾小笠原氏
場所:飯田市毛賀
攻城日:2015年11月23日 
お勧め度:★★★☆☆
城址までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:郭、土塁、石積み、堀など
注意事項:特になし
参考書籍:「探訪信州の古城」(2007年 郷土出版社) 「定本 伊那谷の城」
付近の城跡:鈴岡城、座光寺北城・南城、神之峰城など
Special Thanks:ていぴす殿、naomochi-u殿



松尾城 (43)
ここを下っていくと毛賀沢川を渡り鈴岡城へ着きます。

Posted on 2017/10/31 Tue. 17:24 [edit]

CM: 2
TB: 0

1009

茶臼山陣場 (長野市篠ノ井有旅)  

◆第四次川中島合戦における武田信玄の本陣跡◆

増え続ける城跡の訪問数にブログの更新が追いつく日が来るのだろうか・・・・毎日アップしたとして2年はかかりそうだ・・(汗)

明日の事は誰にも分からないので、せめて心残りの無いように精進するとしよう・・(笑)

今回ご紹介するのは、4年前に訪問した武田信玄本陣跡と伝わる茶臼山陣場。もはや当時の記憶など断片的でしかない・・(汗)

茶臼山陣場 (1)
長野市篠ノ井駅から県道86号線に入り茶臼山動植物園の入口を過ぎて信里小学校前を右折し農道を200mほど入る。Y字路を左へ

【立地】

長野市篠ノ井の西方丘陵上に茶臼山がある。この山稜は南北に伸びる 平頂山稜で、現在では茶臼山北峯(標高730m)のみ姿を見ることができるが、地すべ り発生前はその南に並んで茶臼山南峯(推定標高 720m)が存在していた。この南峯の 頂上が割れ、東側の斜面に地すべりが発生し失われた。現在地形は大きく変わってしまったが、この山上の平坦地一帯が川中島合戦時の陣場跡と考えられている。

茶臼山陣場 (2)
稜線に沿った農道の北側に旗塚の標識が見える。

茶臼山陣場 (4)
稜線の北側は地滑りで崩落しているが、その内側に数ヶ所旗塚が残っている。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」の旧石川村の古蹟に「茶臼山の砦」で、「村の北方にあり。東西十間南北九間の平坦にして四郡を一望に観る。中央に大山祇命を祭る。里俗伝に永禄四年(1561)九月甲越戦争の際武田信玄は本郡有旅村の茶臼山に本陣を据へ、弟刑部小輔信廉此砦に将となり、以て上杉謙信が妻女山の動静を候がひしと云ふ。」とあり、「茶臼山砦ノ図」が載っている。
隣接する山布施村にも川中島合戦における信玄の本陣との言い伝えが残り、ここを有旅城とする説もあるが、それらしい遺構は見当たらない。

茶臼山ノ砦
「長野県町村誌」に掲載されている茶臼ノ砦図。※長野県町村誌より転載。

茶臼山陣場 (5)
No.8の旗塚。旗塚は全部で9基あったようだが、現地で確認出来るのは6基のみである。

【城跡】

茶臼山の北嶺の山頂はここから北東350mにあり、その間の部分は地滑りで大きく崩落している。ここの山頂部は狭く南側を除く三方は地滑りで出来た崖に囲まれかつての面影は知る由もないが、昭和初期の写真には崩落前の南峰と北峰が写っている。
これだけの旗塚があれば、北峰と南峰の稜線の間に砦としての遺構が残っていても不思議でないが、大規模な地滑りで崩落している現状では確認のしようがない。
大軍を率いて武田軍が陣地として布陣したのは、旗塚のある稜線から信里小学校までの緩い南向きの台地上と推測される。ここからは川中島の様子が手に取るようにわかる位置である。

茶臼山陣場 (16)
武田軍が駐留したであろう南斜面。

茶臼山陣場 (26)
旗塚の東端には武田信玄陣場跡の石碑が建立されている。

茶臼山陣場 (21)
尾根の稜線の北側は抉れるように崩落している。

茶臼山陣場 (22)
指呼の間に川中島が見下ろせる。

茶臼山陣場 (24)
尾根先は断崖に囲まれているが、かつてこの先に南頂と東小屋があったらしい。

【茶臼山の地滑りについて】 ※長野市立博物館のHPより引用

地すべりの発生は、1847年(弘化4年)の善光寺地震によって地下に割れ目が生じたことが原因と考えられます。1884年(明治17年)に南峰頂上に地割れが生じ、その後山体の東側が徐々に沈みはじめ、山腹の各所にも亀裂が生じました。1930年(昭和5年)になると、梅雨期の長雨を契機に地すべりが活発化し、地すべり地上部全体で移動が始まりました。その後長いあいだ地すべりが続き、地すべりの先端は2km下の山麓まで達しましたが、1965年(昭和40年)から深井戸や排水トンネルの掘削などの強力な排水工事が実施されたことにより、次第に安定化しました。地すべりがおさまった後、広大な地すべりの跡地は恐竜公園や自然植物園として整備され、市民の憩いの場となっています。

茶臼山陣場 (25)
ここから北峰の頂上を目指す事も出来るようだ。

妻女山に陣を敷いた謙信が動かないのを見た信玄は、茶臼山の陣を引き払い海津城へ入城したという。
その後、謙信が妻女山から霧に紛れて兵を移動させ、武田軍の背後を突き、大規模な軍事衝突となるのである。

茶臼山陣場 (18)
石碑の横に「川中島の戦いゆかりの会」の方々が建てた解説版があります。


≪茶臼山陣場≫ (ちゃうすやまじんば)

標高:699m 比高:50m (信里小学校より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市篠ノ井有旅
攻城日:2013年2月3日 
お勧め度:★☆☆☆☆
本丸までの所要時間:10分 駐車場:なし
見どころ:旗塚、石碑
注意事項:転落注意
参考書籍:「長野県町村誌」
付近の城址:石川城、二ツ柳城、須立之城、飯森城、篠の城

茶臼山陣場 (32)
茶臼山陣場遠景。(奥の右側の峰が茶臼山の北峰)



Posted on 2017/10/09 Mon. 06:09 [edit]

CM: 6
TB: 0

0810

楡沢山城③ (別名:木曽義仲の隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆荒行の果てに見た伝説の城址の景色とは◆

「結界は越えたが、一線は越えておりません・・・・」(らんまる攻城戦記管理人談)

何処かの国の育児放棄したシングルマザーを名乗る元アイドルの一年生議員さんと「やっちゃえ日産」よろしくGT-Rを操る関西方面の市会議員さんの税金を使った火遊びと、我々水曜特集の川口浩探検隊の「一線」の意味は全く違う。とはいえ、前人未踏の地なのにテレビカメラが先回りして撮影し、我ら国民を巧妙に欺いたという点では川口探検隊も立派な詐欺師であろう・・・(笑)

「城跡としてのWEB初公開」・・・この言葉の誘惑には勝てない。「一線」とはこの事を示すのかもしれない・・・(汗)

楡沢山城 (110)
楡沢山城から南西方面の木曽平沢駅の北側の高台より撮影。坊主林道ですら簡単に登れる高さではない。

楡沢山城 (32)
平場と平場を区切る石の列の跡。人工の造作物と見れるかは微妙だ。

烽火台も含めた山城の標高の限界が1000m~1200mといわれるのは、その高さが天候に左右されるギリギリのラインだからである。もちろん、麓からの比高も勘案されるだろうが、狼煙をあげるにも女子供や老人が逃げ込んで敵をかわすにもこの高さが「結界」であり、一つの目安であろうか。

楡沢山城 (45)
ニセピークから熊笹を掻き分けて北へ歩く事5分。とうとう我々は楡沢山城の中心部に辿り着いたのである。

【城の伝承と履歴】

標高1,760mの楡沢山山頂にある事から通常は「楡沢山城」(にれさわやまじょう)と呼ばれているが、楢川村贄川(ならかわむらにえかわ)や平沢においては「木曽義仲の隠れ城」とか「木曽義仲の夏城」と言われている。また、辰野町川島では「瀬戸城址」と呼んでいる。「木曽義仲の隠れ城」(島田安太郎・舟木慎吾著 昭和四十八年刊行)では研究会のメンバーの提案により「朝日ヶ峯城址」と呼称を統一したようだが、浸透しなかったようである。

楡沢山城 (47)
1754mのピークの北側の削平地。主郭であろうか。V字形の二段でかなり広い。

楡沢山城 (46)
腰の高さまで生い茂る熊笹が城跡一面に広がる。何十年かに一度笹が枯れて城跡が鮮明になるようだが、いつになるやら・・。

「長野県町村誌」の贄川村「楡沢山の砦」の項に、「木曽氏砦の其一にして、本村の南にあり。中山道々路に続す。峻山にして其高さ百廿丈余、嶺上に至り四方を眺望すれば、数里外の村落と雖も一目瞭然足り。故に木曽氏茲に砦を築き、常に兵士を置き、之を守らしむ。敵襲来するの時い当り、是を遠見し狼煙を挙げて、鳥井峠の砦に報ず。同所の守兵これを見るや山吹山(日義村にあり)の砦に報ず。於茲再び烽火を挙げ、以って木曽氏の本城福島に報じ、敵兵防御の軍備をなせしと云ふ。嶺上東西三十間南北五十間平坦なる地あり。今に至って尚所々残礎を存す」とある。

楡沢山城見取図①
頂上付近の平坦地を等高線に沿うような形の横堀でガードしたような縄張。

郷土史研究家で、「木曽義仲の隠れ城」の共同著作者である舟木慎吾氏によれば、この城の築城目的は信濃に落ち延びてきた義仲を匿い育てる為であったという。知識も経験も不足している小生は否定も肯定もしないが、そんな思い入れもありかなーと思う。

楡沢山城 (49)
山頂は土塁状の5×50mの痩せ尾根にある。熊笹に覆われて何が潜んでいるのか分からない・・・(汗)

【城跡】

平均して腰の高さ、場所によっては胸までの高さがある大熊笹が城域一面を覆っているので、細部は捉えきれない。が、笹の海の高さの変化=地形を示しているので凡その見当はつく。ハッキリ確認出来るのは横堀と伝承されている見取図における㋐・㋑・㋒などの堀形である。
宮坂武男氏が指摘している通り、この横堀は「線状凹地」(せんじょうおうち)と呼ばれる等高線に生じた山塊の地層のズレや地滑りの跡で、南アルプスの山脈には多く見られる地形らしい。

楡沢山城 (50)
城址ピークの南側の「舟くぼ」と呼ばれる線状凹地(見取図の㋐) 巨大な土塁状の壁が深さを際立たせている。

この巨大な線状凹地(舟くぼ)が源平合戦の頃に構築されたという説が正しいのか、ていぴす殿の被写体で検証してみよう。

IMG_1931.jpg
舟くぼ(堀切㋐)に突撃していく「ていぴす殿」

IMG_1932.jpg
長さ50mほどある横堀㋐。ここで彼は得体のしれない巨大なタランチュラに似た生物に遭遇し恐ろしさに声も出なかったという。

楡沢山城 (54)
城域のピークの1754m付近。三角点は元々ないが、この状態では確認など無理である。

IMG_1937.png
12:30に楡沢山城のピークへ到達。しかし、相変わらず笹薮に覆われたここで昼食や休憩がとれるはずも無い。

ピークから北西の斜面には数段の平坦地が認められる。人工的に手を加えたとしても、この高地ではごく僅かな作業に留まったと思われる。

楡沢山城 (61)
主郭と思われる平場。

楡沢山城 (67)
主郭の北側斜面に展開する段郭。

【舟木慎吾氏の作製した説明板の痕跡】

「木曽義仲の隠れ城」の著者である舟木慎吾氏は楡沢山城の研究・執筆とともに、城址に畳一畳の自作の説明板を背負いあげて立てたという。平成13年の調査時に宮坂武男氏は、朽ち果ててはいたが、その熱く語られた説明板の半分を確認したという。
我々も必死にその痕跡を探した。圧倒的な熊笹の藪に諦めかけたが、見事発見したのである。

飽くなき城への探求心とその情熱。我々も見習いたいものである。

IMG_1940.jpg
標柱(説明板)が固定されていたであろう支柱の跡。

【笹薮の海と線状凹地】

それにしても一面の笹薮。岩原古城も酷かったが、ここも似たようなものだ。足下に何が潜んでいるかも確認できない状況はかなり辛いし、ヘタに休息すらできない。外気温の上昇に伴いハエが顔の周囲を飛びイライラしてくる・・・。

楡沢山城 (72)
城域北限の郭。この台地は「神を祀るという台地」という名がついている。

楡沢山城 (76)
見取図における横堀㋑。曖昧だが等高線をなぞるような窪地である。

楡沢山城 (78)
横堀㋑から見上げた城域。こんな標高の高い場所にこれほど広い場所があるとは。

楡沢山城 (81)
城域ラストの横堀㋒。(南側より撮影)

楡沢山城 (83)
巨大な線状凹地の㋒。人工造作物であれば、御坂城の横堀に勝るとも劣らない。

楡沢山城 (84)
㋒の拡大。自然の造形にしては限りなく人工の造作物に近く、我を忘れて撮影する美しさがあった。

当日のルート
さあ、城ヶ平経由で帰りましょうか。

【城ヶ平】

城域を離脱した我々は、城ヶ平に向かった。幸いなことに北へ向かう尾根上には辛うじて道形が残っていたので相変わらず腰まで生い茂る熊笹行軍であったが下りだったので精神的には楽だった。

楡沢山城 (89)
城ヶ平に向かう途中にも線状凹地の堀形が何ヵ所か確認できた。

楡沢山城 (90)
城ヶ平。ここから坊主林道までは道など無い。結構な傾斜地で疲労困憊の足腰にはキツイ下り坂であった。

楡沢山城 (91)
途中の下り斜面で視界が開けるポイントがあったが両足の痙攣で横移動が叶わず望遠撮影。道の駅まで比高600mぐらいか?

楡沢山城 (93)
坊主林道に戻れた時には、正直なところ、嬉しかった・・・(笑)


≪楡沢山城≫ (にれさわやまじょう 瀬戸城 一夜城 木曽義仲隠れ城 要害城 朝日ヶ峯城)

標高:1,754m 比高:865m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山
攻城日:2017年6月24日 
お勧め度:☆☆☆☆☆ (遭難の恐れ有り 経験・装備がない限りお勧めしません 自己責任で)
館跡までの所要時間:4時間30分 駐車場:道の駅ひらさわ借用
見どころ:線状凹地
注意事項:遭難の危険あり。単独訪問不可。熊生息。熊笹ラッセル必須。
参考文献:「信濃の山城と館④ 松本・塩尻・筑摩編」(2014年 宮坂武男著 戎光祥出版 P249参照) 
付近の城址:奈良井城、本山城など
SpecialThanks:ていぴす殿 (感謝感謝でございますw)

楡沢山城 (5)
さすがに日本最高所のラスボスは、手強かったのである。

楡沢山城 (111)
贄川宿より見た楡沢山城。

楡沢山城 (112)
拡大写真。二度・・・は無いだろうなあー(笑)

Posted on 2017/08/10 Thu. 22:50 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top