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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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貝梅城 (安曇野市穂高等々力)  

◆烏川の洪水により遺構が消滅したと伝わる在地土豪の居館跡◆

この夏は「ものぐさ太郎」(物くさ太郎とも・・・信濃国筑摩郡の民話)のように無精者になると決め込んでいたが、休日に家でゴロゴロしたりプラモ制作に勤しむのも「ジジむさい」(意味が通じるのか??)と思い、無駄な体力とガソリン代をつぎ込んで信濃漫遊の旅に出ている・・・(笑)

今回ご案内する「貝梅城」(かいばいじょう)は、昨年ブロ友として和親条約(?? どんな条約なのか・・・汗)を締結した 久太郎の戦国城巡り に影響されて未訪だった安曇地方の城館を急遽訪問した中の一つである。

※以下は久太郎さんのブログの最近のトップページです。⇩

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なかなかツボを心得たユーモアにあふれた文章と、さりげなく端的に述べた史実は肩ひじ張らずに読めるのが嬉しい。



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穂高図書館(旧穂高町民会館)裏にひっそりと建つ碑。


【立地】

旧穂高町(現在の安曇野市)の市街地の北方、烏川、穂高川に近いところで、現在穂高町民会館があるあたりが貝梅城の跡と伝わる。宅地開発や鉄道の敷設、町民会館の建設等で遺構は全く確認出来ない。
穂高図書館(旧穂高町民会館)の北東隅に「貝梅城跡」と「東龍寺跡」の碑があり、僅かにその存在を後世に伝えている。

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隣接する「東龍寺」の碑。


【城主・城歴】

長野県町村誌には「貝梅城墟」として、「本村(東穂高村)の北に當、字北城にあり。当時田園となり、城郭石壁等不在。何人の居城や不詳」とある。

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城跡碑の傍らの「由緒」には次のように書かれている。

「此の地には、往古貝梅城と称する古い城郭があり、信府統記によれば、高根伊勢守という人が居館したと言われている。その後中世に在地領主が北城を築き、西隣には五輪の塔があったことを伝える地名があり、南隣には堀を巡らした東龍寺というお寺があった。
天正年間、烏川の洪水により、これらは全て押し流されたと伝えられている。ここに城館並びに寺跡の碑を建立して後世に残すと共に、無縁仏を供養するために併せて供養塔を建立する。
平成二年四月二十九日 貝梅城・東龍寺の碑並びに供養塔建立委員会 」

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「由緒」書き。

≪貝梅城≫ (かいばいじょう)

標高:536m 比高:-
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:安曇野市穂高等々力北城
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:穂高図書館の駐車場借用
見どころ:石碑のみ
付近の城跡:等々力城、古厩城、穂高氏館など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

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残念だが、周辺には何の遺構も確認出来ない。



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石碑は凄く立派なのだが、何故この城にこれだけお金をかけるのか不明だ・・・。

Posted on 2018/08/24 Fri. 21:52 [edit]

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一夜の城 (伊那市富県桜井)  

◆織田信忠の甲州征伐高遠城攻めの陣場と伝わる館城◆

先日、ダムスタンプラリーついでに十年ぶりに高遠城を訪れ、その後にどうしても見たかった「一夜の城」(いちやのじょう)を探し当てた。

信濃の山城と館を専門にしている当ブログで、「今さらなんで?」と思われるかもしれないが、「灯台下暗し」とはそんなものである。

一夜の城 (1)
方形の土塁で囲まれた敷地の東側に唯一開く虎口。


【立地】

三峰川左岸の貝沼地区桜井の八幡社の東に位置する。ここは三峰川の河岸段丘の平地で、特に要害地形では無いが、東に山地を背負い、高遠城まで6kmの位置にある。

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下手な縄張図よりは航空写真のが現実的であろう。

【城主・城歴】

この城は、天正十年(1582)に織田氏の甲州征伐における高遠城攻略の為に築いた陣城という伝承が残っている。
信長より甲州征伐の総大将を任じられた嫡男信忠は、2月3日に出陣し15日には飯田を占領し、29日には飯島へ到着して高遠城を守る仁科五郎盛信に降伏勧告状を送るが、盛信はこれを拒否し使者の僧侶の両耳を削ぎ落し徹底抗戦の意を表したという。
織田軍は高遠城攻めの準備にとりかかり、信忠の陣城を突貫工事で築いたのがこの一夜の城だという。

一夜の城 (2)
一夜の城の南側の土塁。高さ3m、長さ47m。

この場所には、もともと在地土豪の居館あるいは屋敷があった事は、平成24年の伊那市教育委員会による発掘調査で判明しており、織田軍は陣場設営にあたり周囲を囲む堀を深く掘り下げて土塁を高くしたと推定されている。

➾詳しくは「長野県の歴史を探し求めて」の一夜の城②を参照願います。

一夜の城 (4)
北側の土塁(高さ50cm×長さ50m)。敷地内の耕作化により土塁の上部は破壊されたのであろう。

一夜の城 (5)
往時の姿を残す北西の隅土塁。現在高さは3mだが、発掘調査では当時はもう少し盛土されていたらしい。

【城跡】

一辺が50mに近い方形の居館跡で、土塁の最高部の高さ3m、土塁底辺の幅は3m程度のものが敷地を全周して東側中央に虎口を開いている。
織田本体の本陣の陣城としては小さいが、中枢部としての防御は周囲に新たに空堀が施工された事を考えるとそれなりの機能を有していたと思われる。

高遠城攻めが一日で終了したために拡張する事も無く終わったようだが、甲州征伐を物語る貴重な遺構ではある。

周囲の生活道路拡張の為に遺構を一部取り壊すような話もあるようだが、後世に残すべく遺跡なので、市あるいは県で指定史跡として指定し保護していただきたいものである。

一夜の城 (8)
南側の土塁はある程度の規模を留めている。(高さ3m×長さ47m)

一夜の城 (21)

西側から見た北東の隅土塁。迫力満点である。

≪一夜の城≫ (いちやのじょう)

標高:711m 比高:-
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:伊那市富県桜井
攻城日:2018年8月5日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し ※付近の道路は狭いので八幡神社の道路脇の路側帯に駐車しましょう
見どころ:土塁など
付近の城跡:黒河内の城、叶尾城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)



一夜の城 (10)
南西から撮影した城内全景。

Posted on 2018/08/17 Fri. 22:38 [edit]

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城山 (北佐久郡軽井沢町峠町)  

◆碓氷峠を見守る眺望に優れた烽火台◆

今年の酷暑は例年になく異常で、寒暖差で日中は気温が高くても夜になれば涼しいはずの信濃国でも寝苦しい夜が続いている。

避暑地の軽井沢も連日の最高気温は30度を超える日も多く、都会並みの人の群れが気温上昇に拍車をかけているようだ。

今回ご案内するのは、そんな軽井沢の旧碓氷峠の城山と呼ばれる見晴らし台(烽火台跡)である。

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碓氷峠の頂上に祀られる熊野神社。城山の対面に位置し神社の西半分は長野県、東半分は群馬県に地籍を置いている。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (28)
お手軽に国境を楽しみたい方はこのプレートの上を反復横跳びすると良いだろう・・・(良い子はマネしないでネ・・・汗)

※この「城山」については、「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)のP172の解説を引用しますのでご了承ください。

【城山】

伝えられている城山は、旧碓氷峠の南西に位置している。現在は峠の名所の一つの見晴らし台となって多くの観光客が訪れ、一望千里の眺めをほしいままにする。
近くを通る碓氷峠は古い時代から交通の要所で、頂上には熊野権現が祀られている。この神社には正応五年(1292)奉納の梵鐘があることから鎌倉時代には鎮座していたと思われる。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (25)
最近はパワースポットとして宣伝されているようで、この日も残雪残る中を女性グループがお参りしていた。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (26)
熊野神社の狛犬。室町時代の作と伝わり長野県では最古の石造の狛犬だという。なかなか愛嬌があってほっこりする。

城山については、大正元年(1912))刊「かるゐざは」と昭和二十八年(1953)刊「町誌 軽井沢」のなかで、戦国時代に烽火陣営の設備があり非常時に備えた事、正平年間(1346-1370)峠での合戦に神宮滋野八郎一族三十余名が新田軍に属し戦った(太平記二十一巻)ことなどを紹介している。

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まあね、お賽銭箱が二つあるので両方入れないと霊験の効果が薄い(碓氷)かと・・・・(笑)

天文・永禄・天正にかけて城山を挟んで合戦があり、ここからほど近い陣場ヶ原では武田軍と上杉軍が大軍でぶつかりあったほか、近傍の烽火台の大塚山にも武田軍が陣地を構えた。
天正十一年(1598)には近辺の堀切で豊臣軍と小田原北条軍の合戦もあった。 ※刎石堀切参照

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (20)
熊野権現の登り口にある地図。陣場ヶ原(じんばがはら)という合戦場跡はこの私設し地図で初めて知った。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (21)
堂峰番所とか坂本城とか懐かしい。

こうした戦の中で城山は砦の役割を持ったようである。
永禄六年(1563)武田軍から軽井沢の佐藤氏に上信国境の警備を命じた文書が残っており、砦と烽火台の役割を持ちつつ街道輸送の重要な拠点でもあった。城山はこのときも何らかの役割を果たしたものと思われる。

※以上、引用終わり。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (17)
見晴らし台は大正七年に名古屋市の近藤友右衛門氏が独力で開発整備を行い、その後軽井沢町に寄付したという。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (4)
城山の頂部。公園化により改変されたが、往時もかなり広い単郭である程度の兵数は収容出来たと思われる。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (5)
味わいのある説明板。

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見晴らし台にも熊野神社同様のボーダーがありまして・・・。

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一望千里とはこのことかしら・・。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (7)
それとも大江千里はニューヨークかしら・・・(笑)

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (8)
厳寒期の冬は使われなかったと勝手に解釈しているが、どうであろうか。

古くは関東から京へ通じる東山道の要衝、江戸時代には江戸に繋がる北国街道の要衝として関所が置かれていた。

最近、城山の近くの碓氷峠にて織豊時代の陣城発見のニュースが世間を騒がせた。
小生もいの一番で陣城の調査に訪問した・・・野次馬根性丸出し・・・(汗)

詳しくは⇒碓氷峠の陣城参照。

ここのロケーションは、碓氷の陣城も利用したと想定される。

景勝・利家そして昌幸も、ここに立ち、北条軍との戦評定をj開いたのかもしれない・・・

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (14)
遺構らしきものは何もないのだが。

≪城山≫ (じょうやま)

標高:1204.9m 比高226m (矢ヶ崎川 二手橋より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:北佐久郡軽井沢町峠町
攻城日:2016年3月6日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分  駐車場:有り(有料なので手前の林道脇に路駐もあり)
見どころ:景色のみ
付近の城跡:熊野権現、碓氷の陣城、城尾根砦
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館① 佐久編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、「定本佐久の城」(郷土出版 1996年)など



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軽井沢駅付近の大賀ホールから見た城山。

Posted on 2018/07/25 Wed. 22:30 [edit]

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水の手城 (リテイク 上田市東内)  

◆2010年の心残りを2015年にリベンジして、2018年ようやくお披露目となる◆

今思えば、初心者の頃は険しい山城に挑む時、気力だけではカバーできない現実を思い知る事が多々あり、数多く挫折してきた。

体力ももちろんだが、積み重ねた経験値が何よりも重要なファクターなのだと最近つくづく思うのである。
といっても、年を重ねれば体力的に到達が困難な山城があるので、行けるうちに行かないと後悔するという矛盾もある・・・(笑)

でもね、あの頃の山城に対する情熱は今の比ではなかったと懐かしくさえ思う・・・「好き」を続ける事は難しい・・・(汗)

今回リテイクしてお届けするのは、駆け出し故の激しさで体力配分を間違えて自滅した水の手城である。

水の手城2 (1)
鳥羽城の攻略後に水の手城へ。途中で足の筋を違えてしまい、苦痛に顔を歪めながらの攻略となってしまった・・(汗)

水の手城2 (3)
A地区の最初の段郭。連郭式で削平も甘く年代もかなり古く、初期の水の手城の姿である。

【立地】

依田窪地区を流れる依田川水系の内村川の左岸、東内の富士嶽山(1034.3m)から南東へ延びた尾根上に水の手城がある。この山は急峻な岩山なので、東尾根筋から登る。

水の手城見取図①
城域は広く、4区域から成る。随時拡張されていったと見るべきであろう。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「和子組 子の方(北)四町山上にあり。東西十五間、南北十間塁址あり。東に古井ありて四時水を湛ゆ。西に大堀切一条あり。深さ一丈八尺、北は峻険歩を進め難し・・・」とあり、城歴についてはふれていない。

水の手城2 (7)
スミマセン、堀切㋐ではなくて㋑でした・・・(汗)

水の手城2 (9)
A地区最終の郭。周囲は岩場で囲まれている。

【城跡】

ここは宮坂武男氏の解説に従い、A・B・C・Dの四区画に分けて見てみよう。年代順に拡張していった経緯が読み取れる。

●A地区

東尾根の先端で三方は急斜面で人を寄せ付けない。二条の堀切を認めるが、郭の削平は曖昧。西端の岩盤で囲まれた高所が往時の主郭であろうか。ここからB地区に行くには岩盤北側の斜面を慎重に移動しないと辿り着けない。

水の手城2 (10)
A地区の最高所から見る鳥屋城。居住区間というよりは物見の部類であろう。

●B地区

堡塁1・2の二つの岩峯と沢筋の平地郡で構成される。堡塁2の背後に二ヶ所大きな平場があり、居住区と推定される。今回は足の故障で探索を断念したが、沢筋に湧水場があり、これが水の手と呼ばれ城の名の由来であろうか。

水の手城2 (13)
A地区からB地区への移動は滑落の危険があるので神経と体力を使う。北側の斜面にう回路があるが獣道である。

水の手城2 (15)
「こんな山の中で何やってんだろうオレ!」・・・自問自答は毎度の事である・・(笑)

水の手城2 (17)
堡塁1。さて、この急斜面を満身創痍でどうやって登れというのか・・・(汗)

水の手城2 (23)
堡塁1から眼下の国道254号線。

水の手城2 (25)
堡塁2に続く尾根筋。西側の居住区(逃げ込み城)の物見であったと想像される。

水の手城2 (29)
B地区の西側の居住区。2010年はここで矢尽き刀折れたのである・・・(汗)

水の手城2 (30)
恐らく沢筋から上がったこの尾根筋(B地区とC地区の境)は古道が走り「乗り越し」であったと思うがどうであろうか。

ここで右足が悲鳴を上げていたが、騙し騙し未だ見ぬC地区・D地区へ・・・・・・・・・・・・・・・辛かった・・・・・。


●C地区

水の手城の中心部分である。主郭の東下に石積みで補強された段郭を置き、主郭は28×11の楕円形で南側に虎口が開く。背後は二重の岩盤堀切が遮断。一条目は北側斜面に竪堀となり下る。オーソドックスな作りだが三方の傾斜が厳しいのでこの程度でも充分な防御力がある。

水の手城2 (35)
岩盤で屈強に補強された主郭手前の段郭。

水の手城2 (37)
主郭から見下ろした段郭。その先には内村川流域の旧丸子町の市街地が広がる。

水の手城2 (38)
5年越しのリベンジで辿り着いた水の手城の主郭(28×11) 後方に土塁が確認できる。

水の手城2 (40)
主郭背後の岩盤二重堀切。足の痛みを忘れる一瞬がここにありますw

水の手城見取図①
再度見取図を掲載しておきましょう・・。

水の手城2 (49)
この城域最大の堀切㋒。上巾9mの圧巻の岩盤堀切。

水の手城2 (56)
堀切㋓。上巾3mだが、堀切㋒のサポートなのでこの程度でも機能する。

●D地域

尾根に居住空間を新たに築いたとは言い難く、退路の確保を行うための戦闘空間であろうか。特に堀切も無いので、主郭の後詰めの兵士を置いたようでもある。或いは櫓台でも置いたのであろうか。

水の手城2 (63)
D地区の郭。

水の手城2 (64)
郭の中央にある櫓台跡。

水の手城2 (66)
D地区の西側は堀切など無く尾根伝いで地山に続く。

水の手城2 (4)
水の手城のリベンジには鳥羽城に引き続き「ていぴす殿」にお付き合い頂いた。(写真はA地区)


≪水の手城≫ (みずのてじょう)

標高:900m 比高330m (C地区)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市東内和子
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥羽城、鳥屋城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しのため尾根の北側をトラバースするので滑落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、長野県町村誌など
SpecialThanks:ていぴす殿

水の手城2 (75)
西内郵便局付近から見た水の手城の遠景。

Posted on 2018/07/05 Thu. 21:59 [edit]

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鳥羽城 (上田市腰越深山 リテイク)  

◆7年前の未熟さを3年前にリベンジして、ようやく本日お披露目となりました◆


一昨日発生しました大阪北部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。微力ながら信濃の山国より余震が収まる事を願うばかりでございます・・・・・・・。

さて、今回ご案内するのは鳥羽城のリテイク記事である。2011年といば、小生が山城探訪を始めてまだ2年目の青二才の頃である。

とりあえず見よう見まねで始めたスタンプラリーのような山城巡りだったので、遺構もへったくれも無くて、とにかく城跡の中心に辿り着ければ満足していた。

今思えば、ずいぶんともったいない事をしていたが、その後再訪問する事で二度美味しいと思えるようになったので何より・・(笑)

鳥羽城2 (5)
今回も鳥羽館跡と推定される龍福寺の脇の土手から尾根伝いに登る。

鳥羽城2 (7)
鳥羽稲荷大明神の鳥居の先に尾根があるので迷うことは無い。

【立地】

依田川へ武石川が合流する所の西の山が鳥羽山で、鳥羽氏の居城と伝えている。ここには同氏が安置した矢除観音があり岩堂が三つあり、矢除観音の奥の院で往古戦闘の際に伏兵を置いた所という。
鳥羽館跡から尾根を詰めても攻略出来るが、途中で道が無くなりスリリングな刃渡りを強いられるので体力・技術を要する。

鳥羽城2 (8)
20分ほど尾根を辿ると道が消えるので、手足をフル稼働させて前回主郭と間違えたピークに登って小休止。

鳥羽城2 (14)
転落したら絶対助からないであろう岩場の刃渡り。一人がやっと通れる幅しかないので通過するまでに極度の緊張を強いられる。

鳥羽城岩盤
度胸だけでは通れない岩場。


鳥羽城2 (18)
刃渡りから見た依田川流域の諸城。烽火台としても及第点の立地であることが分かる。

鳥羽城2 (17)
鳥屋城保存会の方々には大変お世話になりながら、恩返しができず申し訳ありません・・・(汗)

鳥羽城2 (20)
丸子城⇒根羽城⇒鳥屋城と峰続きなので縦走した方もいるらしいが、ここは効率を考えると個別攻略が良いかと・・・(汗)

【城主・城歴】

小県郡史(大正十一年発刊)には鳥羽「城址」として以下の記載がある。

鳥羽城は丸子町腰越區鳥羽山の字深山屋敷にある山城なり。本郭は東西十二間半、南北八間半許あり。東に凡二間許低下して一郭あり。二の丸といふ。東西四間半、南北八丁許あり。又下ること三間許にして一郭あり、三の丸といふ。
東西六間半、南北十間半許。本郭より西北に一郭あり。東西六間、南北四間。同じく東南に降りて一郭ありて東西六間、南北十五間。鳥羽山は四方峻険にして、南より西に亘りて依田川をめぐらし、東に深山の集落ありて、丸子・佐久方面に連絡す。里傳に鳥羽氏の居城にして、天文中福島肥後守之に拠るといふ。
福島肥後守は佐久郡芦田城主依田信蕃の組下にして此城に居る(千曲真砂) 天正十一年三月二十二日岩尾城の戦に主従共に戦死して廃城となる(信濃細石)

鳥羽城見取図②

【城跡】

麓の居館とは別に、険しい岩山の山頂に築かれた詰め城にも戦闘施設と居住空間が区分けされている。
見取図では、鳥羽山のピーク周辺は土塁で囲み三方の尾根を堀切で遮断し厳しい防御を敷くものの、北尾根筋の東斜面は小屋掛けを意識した二つの広い削平地が造成され、段郭まで置かれている。
加工度は高くないが、東西は険しい断崖で人を寄せ付けず、登城口もかなり制限されるので、少数での防衛には向いているだろう。

鳥羽城2 (24)
根小屋か?と思うほど丁寧に削平された郭。小屋掛けに最適である。

鳥羽城2 (25)
この高所では井戸も無理なので天水溜を備えたか。

鳥羽城2 (30)
日当たり良好の優良物件。逃げ込み城としての機能もあったと思われる。

鳥羽城2 (34)
宮坂先生の縄張図では根小屋から東麓の深山集落に通じる山道が描かれていたが、途中で寸断され辿る事は無理だった。

●鳥羽城の中心地区

居住空間から土橋状の土塁を南へ進みピークの主郭を目指す。堡塁から高低差を利用した堀切㋐で遮断された尾根はかなり厳しい処理で攻城兵を迎撃する。

鳥羽城2 (40)
居住区から本城へ。

鳥羽城2 (41)
堀切㋐の手前の堡塁。

鳥羽城2 (44)
高低差を利用した堀切㋐。かなり厳しい落差である。

鳥羽城2 (50)
堀切㋐を西側より撮影。あっ、ていぴす殿が写り込んでる・・・・って心霊写真かい!(笑)

鳥羽城2 (54)
主郭手前の段郭。周囲を囲む土塁は曖昧な処理に終わっている。

鳥羽城2 (58)
石碑の建つ主郭(22×14)。

主郭には「鳥羽氏先世塁址」と記された石碑が建っている。運び上げるのは結構大変だったと思われる。

主郭の石碑は「福嶋氏石碑」で、「長野県町村誌」に宝暦四年「宝暦四年、伊勢御師福島某、本村鳥羽城本丸跡へ石碑を建て、鳥羽氏の旧地のある事を明にす。石碑南向きにして、正面に鳥羽氏先世塁址と記し、左に孝孫従四位下度会神主未済建、右に宝暦四年三月」と詳細が記されているという。

鳥羽城2 (61)
1744年にこの石碑をここまで持ち込む執念とは・・・(汗)

鳥羽城2 (63)
主郭の西側の土塁壁。風化が進んでいる。

●南尾根の処理

主郭から伸びる南尾根には堀切一条を置いて郭4を置いている。依田川からの敵を想定しているが、岩場が連続するので堀切の防御だけで充分だったようである。

鳥羽城2 (65)
南尾根と主郭を遮断する堀切㋓。上巾6m。

鳥羽城2 (66)
郭4(20×10)

●北東尾根の処理

大手を北尾根の麓にある鳥羽館とするか、北東の尾根先の深山集落方面とするかで大きく変わる。
実際に現地を歩くと、大手は深山集落から登る東尾根で、北尾根は搦め手のようである。が、しかしこれは鳥羽城の最終運営時点の話であり、当初は根小屋などなくピークに物見を置いた単純な作りだったと思われる。

鳥羽城2 (74)
主郭と郭2の間の堀切㋑。かなり埋もれてしまい不明確になっている。

鳥羽城2 (75)
北東尾根はオーソドックスな連郭方式。

鳥羽城2 (77)
郭2。

鳥羽城2 (81)
削平の途中で造成工事が止まったような郭3。

郭3の先は段郭を重ねて堀切㋒を間に挟むシンプルな縄張であったが、鳥羽城の正攻法はこのルートなので、セオリー通りの処理であろう。

鳥羽氏の孫が福嶋を名乗り、信玄の幕下となり鳥羽城の城主となって、武田氏滅亡後は依田信蕃の家臣となり岩尾城の戦いで信蕃と共に討死した。
伝承を鵜呑みにする訳にはいかないが、城歴を知る事で鳥羽城への見方が変わるのもまたしかり。

鳥羽城遠景
依田川沿いから見た鳥羽城遠景。

≪鳥羽城≫ (とばじょう)

標高:843.8m 比高:290m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越深山
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥屋城、鳥屋山砦、根羽城、丸子城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しの痩せ尾根は転落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、小県郡史など
SpecialThanks:ていぴす殿

Posted on 2018/06/20 Wed. 21:34 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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