らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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井川城 (松本市井川城 市史跡)  

◆女鳥羽川を越える事が出来なかった信濃国守護小笠原氏の北限の居館跡◆

信濃国の戦国時代を語るには、室町時代に守護を任命された小笠原一族の履歴・経歴を学ぶのは必須科目であろう。だが、この一族の信濃時代の動向についての研究は史料が乏しくなかなか解明しきれていないのが現実である。

先日も「信濃小笠原氏」(戎光祥出版 花岡康隆編者)を一読したが、あたしの単細胞のお頭の配線がタコ足状態となりイマイチ理解出来ない・・・・(汗)
ここはひとつ、小学生でも理解できる易しい解説に定評のある平山優氏の登場を密かに期待している次第である・・(笑)

今回ご案内するのは、守護の小笠原氏が風雲急を告げる戦国時代に備え、林大城に居館を移すまで本拠地としていた井川城。

井川城跡 (36)
松本市街地の中心地に遺構が残るとは信じ難いが、誘導看板がある。

なにせ、現在でもここの地名が「井川城」である。「深志」という地名も残るが「深志城」ではない。それだけでも充分凄いと思うが。

井川城跡 (35)
井川城の北側を流れる田川。天然の堀の役割であろう。この写真の左側が井川城の城域となる。

井川城跡 (33)
城域北側にある広正寺のあたりは「中小屋」と呼ばれていたので、館の一部だった可能性がある。

【立地】

松本駅の南側で、薄川と田川の河川が合流する所に位置する。城の名が示すように、このあたりは穴田川、頭無川などの小河川もあり、湧水、沼地等多く、平坦地ではあるがこれらの河川を自然の堀としているので、なかなかの要害の地である。

井川城跡 (26)
県指定史跡の指定に伴う発掘調査が終わった城域北側は、保育園が建設中でした。(もう完成していると思うが・・)

井川城跡 (28)
造成に伴い水路も変更を余儀なくされているが、嘗ての城の堀として利用されたと思われる。

【城主・城歴】 ※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)P57説明文引用

「長野県町村誌」に「井川城墟」として「村之南方にあり。東西五十間、南北七十二間。櫓台高さ六尺、南北に六間東西七間三尺。本城址回字形をなし、東面なり。当城は正和年中(1312-16)正三位小笠原信濃守貞宗、当国の守護となり伊那郡松尾城より之に移り領す。同氏信濃守清宗まで七世居城す。清宗、金華山に城を建築し移る。以後衰廃せしを、寛正年間(1460-65) 小笠原氏再修築を加え林之城より兼持てり。永正元年(1504)小笠原氏族、島立貞永、松本之地へ移すの城墟なり。近き頃迄家臣黒田某之邸地辰巳の方に址あり、池ありて黒田釜と云う。今は田地なり。」として「井川古城墟有形之図」が載っている。
その図で見ると、頭無川と、それに続く北東の水路に囲まれた所を言っていて、民家が入り込んできているが、現状とあまり変わっていないことに気づく。

井川城跡 (22)
城域の西側は頭無川が自然の堀を成し防御構造となっている。

井川城跡 (21)
井川城の中心部(南側より撮影)

現地に建つ、松本市教育委員会の「松本市特別史跡」指定内容を見ると、「小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として、建武二年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。其の後信濃へ国司下向に伴い、守護として国衛の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要から、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。

井川城跡 (16)
松本市の中心部にこれだけの広い土地が手つかずで残っているのは奇跡に近い。

井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では、貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代末にはこの地に移っていたものと考えられるがはっきりしない。
井川の地は薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい、頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に、櫓跡の伝承のある小高い塚がある。
地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁、中の丁のように役所を示すものもある。またこれらの他に、中道の地名もあり、侍屋敷の町割り址、寺などの存在から、広大な居館跡が想像される」(平成11年3月)とある。

井川城跡 (18)
遺構として伝わる櫓台跡。(北側より撮影)

【館跡】

案内板の説明文にもあるように、頭無川が内堀の役目を果たし、穴田川や田川、薄川も外堀の役目をしていて、所々を水路を入れて防衛したことが分かる。その範囲は当初は、頭無川の囲むところあったと思われるが、何回かの改修を経てその範囲は広がり、広正寺のあたりまで拡張されたようだが、その縄張についてははっきりしない。

井川城とその周辺地図
井川城と深志城、その周辺の地図。館の立地と縄張の決定にあたりいくつかの河川が影響を与えているのが分かる。

宮坂武男氏は、小笠原氏の居館の位置が、井川城にしても林大城にしても、女鳥羽川を越えられなかった事に着目している。
深志城(現在の松本城)は、小笠原時代には家臣の守る支城が置かれた程度で、本格的な運用は武田時代である。
小笠原氏の政権基盤は南信濃であり、守護といえども豪族連合の盟主の立場は脆弱で、北信濃は村上氏、高梨氏が勢力を保持し、権力を盾に彼らの領域をを支配しようとするが、結果として大塔の乱(地方豪族が中央集権に対して反乱を起こした事件)に繋がっていった。

小屋城(村井城)を攻略し、その後深志城を拡張整備し郡代を置いた武田信玄はやはり格上であったのだ。

井川城跡 (12)
城域の南側の外堀としての頭無川。

井川城跡 (11)
櫓台跡。

IMG_0283.jpg
世間では、ここばかり強調されるが、周囲をキチンと見て歩く事も必要だと思うが・・・(汗)

≪井川城≫ (いがわじょう)

標高:585m 比高:-
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市井川城1-4452-ロ
攻城日:2017年2月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:櫓台跡、周辺の河川
注意事項:耕作地、民家が混在するのでプライバシーには注意
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:松本城、林大城、林小城など

井川城跡 (4)
600年前の遺構が残るのも奇跡であろう。

Posted on 2017/07/19 Wed. 23:26 [edit]

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伊深城 (松本市岡田)  

◆長大な竪堀を駆使した小笠原氏城郭群の北の要塞◆

信濃先方衆の編成は、今から遡る事5年前である。

意外と思うかしれないが、我々の初めての顔合わせは生坂村の廃村となった丸山集落の探索であり、城址探訪ではない・・(笑) もっとも、戦国時代に生坂村を領有した丸山氏の出自はこの集落であろうと推定して踏み込んだのだが・・・この話はいずれ何処かでまた触れたいと思う。

今回ご案内するのは、2013年12月に「ていぴす」殿にアテンドしてもらいようやく訪問した伊深城である。果たして写真から4年前の記憶を辿れるのか?(笑) ようやく長期在庫の一つが日の目を見るのである・・・(汗)

伊深城(松本市) (1)
登り口の稲荷社に立つ説明板と宮坂武男氏の縄張図。結構名の知れた山城なのだが、「いつでも来れる病」でやっと初回訪問。

【立地】

女鳥羽川(めとばがわ)の右岸、伊深(いぶか)集落の裏山で山麓には三才山峠や武石峠、田沢・会田へ通じる街道が走り深志(信府)の北辺の交通の要衝である。

伊深城(松本市) (142)
登り口正面で稲荷社西側に鎮座する若宮八幡宮。伊深城主の後庁氏の勧進とされ落城後は集落の氏神とされ今に続くという。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「後庁大内藏ノ城址」として、「村の亥の方にあり。東西廿間、南北廿五間、回字形をなせり。小笠原の幕下、後庁大蔵之に在城す。天文二十二年(十九年の誤り)武田晴信の臣、米倉丹後急に之を攻む。後庁氏、主公長時に援兵を乞ふと誰も至らず、ついに破れて脱去せり。武田の持城となり、部下臣小宮山織部といふものに之を守らしむ。武田没落後、真田昌幸に属し、上田へ入城せり。其後小笠原氏城を穿ち、磧礎尚存せり」とある。

「高白斉記」の「天文十九年(15550)7月15日に、武田軍が「イヌイの城(犬甘城であろう)を攻め落とし、勝鬨(かちどき)をあげ村井の城へ帰ったところ、その夜の内に林大城をはじめとして、深志、岡田、桐原、山家の五城が自落した」という岡田の城が、この伊深城だと考えられている。

伊深城見取図①
小笠原領の山城に特有の長大な竪堀を多用する縄張。石積みも所々に散見できる。

【城跡】

●東尾根遺構

三方の斜面の傾斜はキツイので、若宮八幡宮の東の稲荷社から東尾根に登る道が大手道だったと推測される。
ここは尾根全体に十段程度の段郭を刻むオーソドックスな防衛方法で初期の普請であろう。登り土塁のような遮断壁を持つ郭4が最初の迎撃基地として機能していたようだ。

伊深城(松本市) (2)
東尾根の郭4の西側は竪土塁が築かれ、最初の侵入者を阻止する仕組み。

伊深城(松本市) (7)
郭4を見下ろして撮影。東尾根に殺到する攻城兵はここから出撃する僅かな守備兵に斃されるのであろう。

伊深城(松本市) (9)
東尾根は十段近くの段郭が連続する。尾根の形状によっては堀切よりも段郭のほうが防御性は高い。

伊深城(松本市) (10)
東尾根の鞍部に出る最終手前の段郭。

伊深城(松本市) (15)
東尾根の鞍部。ここに辿り付ければ、城の中枢部を遮断する堀切㋐まではなんとかと行けそうである。

●中枢部

東尾根と中枢部の接続箇所は堀切㋐と㋑の変則的な二重堀切で落差を付けて遮断している。南斜面に対して約100mの長さの長大な竪堀として南西尾根から延びる二重竪堀の㋘と㋙の先端部分に合流させて集合堀としている。
この竪堀を収斂させる手法は小笠原城郭群では、塔ノ原城平瀬城光城などの境目の城に見られ、長大な竪堀と二重堀切の組合せは小笠原城郭群の共通した特徴と言える。

伊深城(松本市) (21)
郭3から見下ろした堀切㋐。往時は土橋などは無かったはず。

伊深城(松本市) (25)
堀切㋐と郭3の連結部分には遮蔽する壁を盛土して狙撃を可能としている。

伊深城(松本市) (20)
堀切㋐の堀底から見上げた郭3との接続部分。この壁から侵入するのはかなりの困難であろう。

伊深城(松本市) (24)
郭3の虎口は石積みで固めている。

伊深城(松本市) (17)
南斜面に降る竪堀㋐。

伊深城(松本市) (28)
堀切㋑は片堀の竪堀で郭3の南斜面を一気に貫通するように下っている。

主郭防衛の最後の砦となる郭3、郭2、郭2‘との連結は切岸加工のみである。郭2と郭2‘の周囲には畝状竪堀が刻まれたようだが、キチンと確認は出来ないレベル。主郭周辺も含めて阻玖畝掘が確認出来れば、林小城並みの要塞であったと思われる。小生の目は節穴なので、是非貴方の目で確かめて欲しいものである・・・(笑)

伊深城(松本市) (30)
郭3から見た郭2と郭2‘。主郭の切岸もハッキリ確認出来る。

伊深城(松本市) (31)
西側から見た郭3.

伊深城(松本市) (32)
郭2から見た主郭の切岸。ここから郭2‘との間の西側へ回り込んで主郭に入ったものと推定される。

伊深城(松本市) (33)
しっかり削平されている郭2。

伊深城(松本市) (39)
湯郭から見下ろした郭2全景。

伊深城(松本市) (34)
南西尾根からの侵入に対して意図的に傾斜を付けている郭2‘

伊深城(松本市) (40)
主郭から見下ろした郭2‘。こうして撮影すると設計者の意図が見えるような気がしますw

●主郭

伊深城の戦闘指揮所(本郭)は30×15の段差のある楕円形で、北側と東側の縁に土塁が残る。石積みも所々に残っているが、散見する程度である。
主郭の背後の北尾根に対する防御はかなり厳しく、合計8本の堀切で執拗なまでに遮断している。その先に続く馬飼峠、稲倉峠からの敵の来襲に備えたものであろうことが推察できる。

伊深城(松本市) (35)
郭2‘の北側には主郭の虎口に続く通路がある。

伊深城(松本市) (36)
主郭周辺に散在する石積み。

伊深城(松本市) (42)
主郭の西側に開く虎口。

伊深城(松本市) (41)
主郭(30×15)。小生は主郭にこだわりなんぞ欠片もありません・・・(笑)

伊深城(松本市) (46)
城址から松本市街地方面を臨む。

伊深城(松本市) (47)
主郭の周囲には石積みが散見出来るが、林大城や林小城とは比較にならないほど少ない。

伊深城(松本市) (54)
主郭の東側に残る畝状竪堀の痕跡。

●北尾根の堀群

伊深城(松本市) (55)
主郭背後の堀切㋓の斜面。この斜度は尋常ではない・・・(笑)

伊深城(松本市) (56)
スパンと切り落とす堀切二重堀切㋓。ここの西側に追加普請した堀切㋒の意味は恐怖に対する対抗装置か?

伊深城(松本市) (58)
追加普請の堀切㋒。

伊深城(松本市) (59)
美しい二重堀切㋓。

伊深城(松本市) (60)
西の沢に長大な竪堀として落ちる堀切㋓。

伊深城(松本市) (64)
この城のハイライトはここから始まる8連の堀切であろう。

伊深城(松本市) (75)
二重堀切㋓に追加普請された堀切㋒。

伊深城(松本市) (77)
土手付き二重堀切の㋕。

伊深城(松本市) (84)
堀切㋖


伊深城(松本市) (93)
北尾根の最終堀切㋗。

●南西尾根

伊深城のウィークポイントは南尾根と東尾根の間の比較的緩い斜面なので、南西尾根の鞍部に竪堀㋘と㋙を穿ち、東尾根から下る竪堀の㋐と㋑を集合させて万全の守りとしている。

伊深城見取図①
記事が長くなっているので、再度見取図を掲載。

伊深城(松本市) (106)
中枢部の郭2‘と南西尾根の堀切㋘との間の斜面に石積みが確認出来る。土留めではなく防御用であろう。

伊深城(松本市) (109)
堀切㋘(上巾5m)

伊深城(松本市) (121)
最終の堀切㋙(上巾8m)

伊深城(松本市) (113)
尾根の脇から見た堀切㋙のシルエット。

伊深城から下山するときは、こ長大な堀切㋙の堀底を歩いて下るのがお勧めだ。途中で合流する竪堀㋐と㋑の豪快な景色が見れる。ただし、夏場は保障の限りではない・・(笑)

伊深城(松本市) (123)
ジグザグな竪堀として沢を下る堀切㋙。

伊深城(松本市) (126)
堀切㋙の堀底から堀切㋘を見上げる。凄い急斜面なのがお分かりいただけるでしょうか。

伊深城(松本市) (130)
ストレートに下る竪堀㋑も合流します。

伊深城(松本市) (132)
凄い斜面を急降下してくる竪堀㋐。

伊深城(松本市) (133)
其の後も巨大な集合堀として沢をくだっていく。堀を辿って歩くのは楽しいのでお試しあれ!

さて、つらつらと写真ばかりを多用してしまいましたが、伊深城は如何でしたでしょうか。

深志城に復帰した小笠原貞慶が、北の防衛ラインとして手を加え改修し、ここから更に刈谷原城一帯を抑え、北の会田領、麻績領に進出する足掛かりとしたようにも思えます。

≪伊深城≫ (いぶかじょう)

標高:916m 比高:200m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市岡田
攻城日:2013年12月15日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:30分
見どころ:土塁、堀切、長大な竪堀、石積み、段郭など
注意事項:この辺りは秋は松茸山で止め山になるので9月~10月末までの訪問は避けよう。
駐車場:神社に駐車スペースあり
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:稲倉城、早落城、三才山砦、横谷入城、茶臼城など
SpecialThanks:ていぴす殿

伊深城(松本市) (140)
東側に早落城(洞城)。赤沢氏の持ち城だったが、後庁氏が長時に頼んで強引に自分の城にしたという。

伊深城(松本市) (141)
北方に稲倉城(しなぐらじょう)と三才山砦。赤沢氏が武田方に降れば伊深城の後詰めはかなり厳しくなる。

伊深城(松本市) (143)
伊深城全景。

Posted on 2017/07/08 Sat. 09:16 [edit]

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三才山砦 (松本市浅間温泉三才山)  

◆稲倉城の東の防衛拠点◆

次回と書いてしまったので、楡沢山城のレポートを期待した諸氏には申し訳ありません。物事には順序がありまして・・(汗)

それに、最近の我ら信濃先方衆は、「あぶない刑事」の再来ではないか・・・はたまた「川口探検隊」張りの特攻野郎Aチームか?(笑)つまらない世間の評判を気にしつつ、「良い子はマネをしてはいけません」。遭難者が出たら洒落になりませんもの。

今回ご案内するのは、その道無き直登の険しさ故に敬遠されている「三才山砦」(みさやまとりで)。残念ながら単独訪問です(笑)

三才山砦 (101)
松本市と上田市を結ぶ国道254号線の松本市浅間温泉地籍の小日向集落の脇に聳える目立つ山の山頂に砦がある。

【立地】

筑摩郡と小県郡を結ぶ街道沿いにあり、群の境は武石峠または三才山峠で結ばれる。また、ここから西へ進めば府中(深志)または安曇野郡に容易に出れる位置であり、三才山の谷筋を見張る要衝の地である。

三才山砦 (2)
登り口が分からず集落に入ってみる。メインストリートは狭い!

三才山砦 (3)
結構昔からある由緒正しき集落のようで、あちらこちらに史跡と説明板がある。

三才山砦 (7)
三才山砦の説明板を見つけて喜ぶのもつかの間、途中で道は消える。地元の方に聞いたらすでに道は消滅していると聞き落胆。

三才山砦 (96)
休耕地の間の農道を登りながら、比高310mはチョッチねえ~ヤバくね?なんて思いながら今さら引き返せない・・・(汗)

三才山砦 (106)
農道の終点からテキトーに西尾根先へ向けて比高150mほど傾斜40度の斜面を息絶え絶えになりながら直登する。

三才山砦 (1)
写真の場所は地形図で見るとこの辺り。尾根はもうすぐですね。

三才山砦 (8)
尾根に出て楽できるかと思いきや、登り坂は続きますw

三才山砦 (2)
上記の場所はこの辺り。残りの比高役00mで城域。最後の踏ん張りが結構キツイんです。

時々、「こんな淋しい山奥で何をしているのだろう?」 と自問自答しますが、すぐに忘れます・・・(笑)

【城主・城歴】

「信府統記」には「三才山古城地として「三才山村より丑寅(北東ノ方)、本城ノ平、戌ヨリ辰(西北西から東南東)ノ二十四間、未ヨリ丑(南南西より東北東)ノ七間、此所一説御射山ト云フ、是、諏方御射山ヲ勧進セリ、当地モ赤沢氏の領ナレハ彼要害ニヤ」とあり、赤沢氏の砦であろうと言っている。
「長野県町村誌」には記載がないが、位置から推察すると赤沢氏の本城である稲倉城(しなくらじょう)の東口を守る支城で、南口の早落城と共に守りを固めていたと思われる。また、「松本市史」の2巻では赤沢氏の詰め城と書かれているようで、結構な高所にありながら加工度は高いのでその可能性は充分考えられる。

三才山砦見取図①
南に張り出した尾根上にも遺構が残るらしいが、今回はパスした。

三才山砦 (13)
尾根の急坂を登ると堀切㋐が現れ、城域に辿り着いたんだなあーと実感する。

三才山砦 (15)
南側から撮影した堀切㋐の断面。前後の縁を掻き上げた堀の土を盛り上げて土塁で深さを稼いでいる。

三才山砦 (20)
堀切㋐からストレートに主郭の平小口が開いているが、これは秋葉社を勧進した時のものであり、往時は北を迂回させ東から入ったのであろう。

【城跡】

南側の一部を除き、ほぼ全周する土塁に囲まれた主郭を犬走のような細い段郭が巡り、その前後を堀切で穿っている。西側の堀切㋐は前後を土手で盛り上げた長大な堀切でかなり埋まっているが南側の沢に落ちて斜面の横移動を制限している。主郭背後は段差を付けた堀切㋑とその手前の小さな堀の組合せで二重堀切として堡塁を接続しその背後を堀切㋒で断ち切る。さらにその先の鉄塔の立つ鞍部の手前を長めの堀切㋓で区切り、搦め手を確保しているようだ。

三才山砦 (22)
主郭と堀切㋐との間の帯郭。主郭を囲むように全周している。

三才山砦 (37)
西側からみた主郭の東半分。堀切㋐から南側の帯郭を通して入ったであろう虎口が確認出来る。

三才山砦 (43)
東側より見た主郭の西半分。秋葉社が勧進されたいたようだが、現在はその欠片も無い。

三才山砦 (49)
主郭背後の堀切。宮坂氏は二連としているが、手前の堀切は微妙である。

三才山砦 (53)
堀切㋑の尾根の断面。

三才山砦 (56)
南斜面に落ちる堀切㋑。約30mほどの長さがあるようだ。

高所にある支城ながら、結構手が入れてあり驚く。稲倉城の赤沢氏は武田氏の信濃侵略において武田方につくものと、長時に従って越後の上杉氏を頼って落ち延びたものと分かれたという。武田氏に降った赤沢氏は、後丁氏に奪われた支城の早落城の攻略で武田氏を手引きし落城させ忠誠心を示したという。
深志から上田小県への要衝にあたるこの地は、武田軍も重視したと思われ引き続き改修されたのではないかと推察する。

三才山砦 (62)
堀切㋒と接続する平場。

三才山砦 (80)
堀切㋒に接続する平場から主郭方面を振り返る。結構な落差(比高差)があることが感じて頂けるでしょうか。

三才山砦 (71)
城域最終の堀切㋓。西側の縁は土塁でかさ上げしている。

三才山砦 (70)
堀切㋓で城域は終わる。鉄塔の先は西の沢から登る品庄沢(ひんしょうさわ)からの山道が入っている。

三才山砦の秋葉様には、その昔、祭りの為に子供たちも登ったのだという。もはやその声を聴くことは出来ないと思うと、寂しい限りである。

≪三才山砦≫ (みさやまとりで 秋葉様)

標高:1,111m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市浅間温泉三才山
攻城日:2016年4月10日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:60分
見どころ:土塁、堀切、段郭など
注意事項:途中から道無き直登となるのでそれなりの装備と体力が必要。
駐車場:集落手前の空き地に路駐。(集落内は駐車厳禁)
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:稲倉城、早落城、伊深城、横谷入城、茶臼城など

三才山砦 (100)
本城の稲倉城は指呼の間である。(大日方集落の入口から撮影)

三才山砦 (102)
麓には御屋敷館跡(小日方公民館の周辺だという)がある。

Posted on 2017/07/04 Tue. 22:09 [edit]

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鳴雷城 (塩尻市宗賀床尾)  

◆木曽へ通じる境目の烽火台として利用された砦◆

ブログを始めてから来月で8周年を迎えようとしている・・・・。

飽き性の小生が、「継続は力なり!」などと偉そうに言うつもりは全く無くて、明日更新が止まっても不思議ではない・・・(笑)

全く読者もいない状態から始めたブログが、今では毎日300を超える皆様に見て頂ける日が来るなんて夢にも思わなかった・・(汗)

この場を借りてご来城頂いた皆様には厚く御礼申し上げますともに、どこかの総選挙のようなまさかの「結婚宣言」は今のところありません(重婚は日本国内では認められておりません・・・・笑)。
が、いつか来るかもしれない「離婚宣言」(三行半)には恐れ慄いております・・・・・(爆)

鳴雷城 (59)
砦の東尾根に立つお地蔵様。ここの山道が嘗ては生活道路だったことを物語る証人である。

今回ご案内するのは、塩尻市にある「鳴雷城(なるかみじょう)」(読み仮名をふらないと読めませんよネ)

鳴雷城 (2)
塩尻市宗賀の床尾(とこお)集落にある床尾神社に車を止めさせていただき5分ほど南に向かうと登山口の看板がある。

【立地】

塩尻市の桔梗ヶ原から奈良井川沿いの木曽路の洗馬宿に入る手前の西側の独立峰が鳴雷山である。山頂からの眺望に優れ、後世には鳴雷神社が勧進されて雨乞いの場所となる。毎年八月のお盆明けに雨乞いの火祭りが行われ、地元の床尾神社から松明の灯が夜通しで山頂の鳴雷神社まで連なる。
隣接する霧訪山(きりとうやま 1305.7m)、大芝山(1210m)との間には尾根伝いに山道が網の目のように通じており、小野と洗馬、床尾や平出を結ぶ生活道路だった事が伺える。また、奈良井川を挟んだ西の対岸には、三村氏の居城だった妙義山城がある。

鳴雷城 (61)
登山口より約200mほど登ると二股の分岐(比高850m付近)になるので左へ。大門先は通行困難とあるが・・従来の大手か?

鳴雷城 (4)
毎年とは限らないようだが、火祭りで松明が登るらしいので登山道はキチンと整備されている。

鳴雷城 (6)
登り口の分岐点が再び合流する地点の道標。(1030m) 大横手?大手口を横に進む道の呼び名か?初めて聞いた・・(笑)

【城主・城歴】

史料・伝承等不明だという。山麓の宗賀地区は「長野県町村誌」によれば、古来は嶋立氏、水上氏の所領とあり、後に小笠原氏、武田氏、武田氏滅亡後は再び小笠原氏と領主が目まぐるしく変転している。戦国期には府中と木曽の境目の烽火台の中継地点としてその役割を果たしていたのであろう。

鳴雷城 (7)
大手口は道がハッキリしないので、大横手方面に向かい東尾根の堀切㋐を目指す。(ピンボケごめんなさい・・笑)

鳴雷城見取図①
何年縄張図を描こうと、二番煎じはテキトー故に本物を越えられない・・・(汗)

鳴雷城 (8)
大横手道から見上げた堀切㋐。ようやく城域に入ったという実感を感じるひと時です。

鳴雷城 (14)
東尾根に堀切3本。こちらを警戒していたらしい。

鳴雷城 (23)
西尾根から見た堀切㋐とその先のお地蔵さん。

【城主・城歴】

史料・伝承等なく不明だという。麓からは目立つ独立峰の山なので、雨乞いの儀式に適していたのかもしれない。松本平の最南端に位置し、桔梗ヶ原が木曽路に通じる洗馬や本山との境目に当たるので、戦国時代には府中や木曽方面からの烽火の中継地点として活用されたと思われる。

鳴雷城 (28)
東尾根を進むと堀切㋒(上巾7m)。

鳴雷城 (29)
東尾根からは三段の削平地を辿り本郭へ。

鳴雷城 (32)
簡単な烽火台ではあるが、円郭をさ重ねる縄張。

【城跡】

現在「通行困難」となっている床尾からの直線登山道が大手道だったようである。現在、舞台のある場所から北側の参道は使われていないようで、道も消えかけている。舞台の一段下の段郭は両サイドに竪堀を備えているがほとんど埋まっている。
三方の尾根を持つ独立峰の烽火台は、北側を大手とし南を搦め手としていたようだが、東尾根は緩い鞍部に生活道としての山道が走っていたせいか、二重の堀切を穿っている。

鳴雷城 (33)
やっとの思いで主郭に辿り着く。松明を持って毎年登るという地元の小学生に笑われそうである・・・(汗)

鳴雷城 (35)
主郭に建つ鳴雷神社の本殿。

鳴雷城 (37)
北側の大手から見るとこんな感じです・・・(笑)

鳴雷城 (36)
本郭の南側の堀切㋓。藪に埋もれていて探すのに難儀した。

現代では考えられないが、この時代は山道が最も安全で最短の交通の主要手段であったようだ。
川沿いは氾濫の危険があるし、平地では危険に対して身を隠すことが出来ない。明治時代に鉄道が敷設されたことにより、それまでの交通路は劇的に変化し、生活道路だった山道は次第に廃れていく運命を辿った。

鳴雷城 (44)
堀切㋓を西側より撮影。

鳴雷城 (38)
舞台の一段下の腰郭(5×18) 両サイドに竪堀の跡がみられる。

≪鳴雷城≫ (なるがみじょう)

標高:1093.5m 比高:310m
築城年代:不明
城主;不明
場所:塩尻市宗賀床尾
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:45分
見どころ:堀切、段郭など
注意事項:9月~10月末は松茸山として止め山になるのでこの期間は避ける事。
駐車場:床尾神社借用
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霧訪山狼煙台、川鳥城、上田城、妙義山城、本山城など



鳴雷城 (64)
床尾地区から見た鳴雷城。

Posted on 2017/06/26 Mon. 21:57 [edit]

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0620

中山砦と鍬形原烽火台 (松本市中山)  

◆巨大霊園に眠る遺構も伝承も不確かな砦跡◆

取材したまま眠る約300城に及ぶ過去の在庫をどうしたものかと思案中である・・・(汗)

城名と写真2~3枚と場所を提示するだけなら、毎日更新すれば来年の今頃にはスッキリするだろう。(それも大変な労力だが・・)

んーん、それはそれで姑息な手段と誹りを受けそうなので、精一杯、そして少し手を抜きながらペースアップするという結論・・(笑)

なので、今回手を抜いて(ってか、遺構が無いので)ご紹介するのは「中山砦と鍬形原烽火台」

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松本市街地の南東に位置する巨大な中山霊園。北端には桜の名所として有名な弘法山古墳がある。(県道63号の南側より撮影)

【立地】

松本市街地の南南東で、市営の巨大な霊園の墓地が山塊を埋め尽くす中山の頂部に中山砦と鍬形原烽火台が存在したと考えられている。背後の鉢伏山の山稜からは独立した峰であるため、頂上からは松本盆地の眺望は素晴らしく要害地形であるが、山頂部は開発等により広範囲で平坦地化されてしまい往時の遺構は消滅している。

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山頂に残る鍬形社跡の鳥居。全山霊園になっているが、頂部は公園で運動場やマレットゴルフ場がある。

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中山砦跡に残る鍬形社の石碑。ここの参道に近年まで堀形が存在していたようだが、殆んど消滅している。

【城主・城歴】

「信府統記」や「長野県町村誌」にも記載が無く、史料・伝承等もはっきりしない。ただ、「松本市史第二巻」に「鍬形原烽火台(中山)」について発掘調査の結果が記載されている。また「東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第二巻」にも小笠原氏の砦群として地図に四つの矢印があり、その一つとして(あるいは二つ)該当する可能性があるという。※「信濃山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年戎光祥出版)より一部引用。

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鍬形社と烽火台跡(三角点のある場所)の間はマレットゴルフ場に改変され段差(切岸)も消滅したらしい。

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おお、堀形or古墳の石室と思いきや、マレットゴルフの池跡らしい(紛らわしいわい!!・・・怒)

【砦跡】

宮坂武男氏の調査記録が平成6年なので、それから23年経過し、さらに状況は酷くなっている。宮坂氏の報告では三角点の北方の尾根には堀切が認められ、三角点の廻りも辛うじて円形の土壇が残り狼煙台跡の痕跡を残していたようだが、その後改変されたようで三角点以外は何も確認出来なかった。

DSCF2625.jpg
三角点は生垣に囲まれていたが、周囲の段差は何もなかった。

DSCF2626.jpg
ここの生垣が三角点。鍬形原烽火台はこの場所だったらしい。

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三角点の先の北尾根遊歩道にはかすかに堀形が確認出来る。唯一の遺構であろう。

山全体が霊園になっているので、非常に珍しい。何度も付近を通過していたが、この霊園に立ち入るのは初めてである。
あの世に行ったからといってこの景色がみえるのだろうか?

天邪鬼と言われようが、生きて見るからこそ価値があるように思う。

皆さんも生きているうちに、色々なところに出掛けて、沢山の素敵な風景を心にその目に焼き付けてくださいネ・・・。

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砦跡付近の霊園から見た南松本・塩尻市方面。

≪中山砦と鍬形原烽火台≫ (なかやまとりでとくわがたはらのろしだい)

標高:836m 比高:215m
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市中山
攻城日:2016年11月6日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:景色のみ
注意事項:近くにサッカー用の運動場がありプライバシーに注意
駐車場:公園用の駐車場有り
参考書籍:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:小池砦、馬場家屋敷、赤木北城、赤木南城、八間長者城、埴原城など。



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全景。


Posted on 2017/06/20 Tue. 22:41 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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