らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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横谷入城 (松本市浅間温泉)  

◆浅間地区を領有した赤沢氏の物見砦か◆

湯治場として松本藩のお殿様も通ったという浅間温泉。その歴史は古く、天武天皇に仕えた豪族の古墳も周辺にみられるという。

さて、今回ご案内するのは、その浅間温泉を見下ろす尾根上に築かれた横谷入城(よこやいりじょう)。前回ご紹介した茶臼山城とともに浅間地区を見張る赤沢氏の砦と伝わる砦である。

横谷入城 (1)
登り口のふるさと公園駐車場から横谷入城を見上がる。ピークを二つほど越えた奥側になる。

【立地】

浅間温泉の東方、大正山(1050m)から南東に延びる尾根先の大音寺山(887m)に築かれている。以前は西側の上浅間配水池の沢沿いの道を登るルートだけだったようだが、平成18年に尾根の東側からの遊歩道が整備され、二年前には「浅間温泉ふるさと公園」として西側の御殿山も含めて大規模に整備されたので迷わず城跡まで辿り着ける。
しかし遊歩道の整備に伴い城跡の遺構がかなり崩されてしまい、宮坂武男氏が踏査した平成8年の縄張図とはかなり違ってしまっている。

横谷入城 (3)
ふるさとは公園宿泊客のトレッキング用の遊歩道整備が目的のようだが、効果はどうなんだろうか。

横谷入城 (30)
つづら折れの遊歩道を10分ほど登ると最初のピーク。ここは平場で堀切があるらしいのだが・・・。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では赤沢氏の持ち城で部下に守らせたとあり、「松本市史第二巻」にも「赤沢氏の持城で稲倉城の要砦で物見城とも呼び、天文年間には浅間孫太郎が守っていたが武田氏により落城、破却されたとある。

横谷入城見取図①
宮坂武男氏の縄張図(平成8年)によれば、良好な遺構が残っていたはずなのだが・・・。

赤沢氏の所領は、女鳥羽川上流の稲倉(しなぐら)を中心とした集落と浅間峠を越えた女鳥羽川下流の浅間周辺なので、浅間峠の街道を監視する砦としてはもちろん、烽火台としての機能も併せ持っていたのかもしれない。

横谷入城 (29)
必死に探した堀切㋖。が、土手付きの痕跡すら分からない状態。

横谷入城 (8)
城の中枢部に入る手前の削平地は「アルプス展望台」として新たに標柱とベンチ数台が設置されていた。

横谷入城 (6)
物見としては申し分ないロケーション。

横谷入城 (7)
遠く塩尻市方面まで見渡せる。

【城跡】

頂部に単郭を置き、前後を数条の堀切で防御した簡単な縄張だが、主郭の東側には土留めの石積が確認出来る。
西の沢筋の遊歩道には「空堀」の表示があるが、これは伐木の作業道を兼ねた山道のようであり、竪堀ではなさそうである。
遊歩道の整備に伴い城跡は大規模な伐木が行われた結果、雨水や風雨が地表を削り堀切は崩れてしまったようである。

横谷入城 (9)
城址に立つ新しい標柱。

横谷入城 (10)
22×13の主郭。削平されているだけで土塁で囲まれた痕跡はない。

横谷入城 (25)
主郭の東側には土留めの石積みが散見出来るが西側の斜面には無かった。

宮坂武男氏の縄張図によれば主郭の西側には三条の堀切があったようだが、現在では崩落したか整備過程による改変でその姿がハッキリしない。堀切㋒はほぼ壊滅状態である。

横谷入城 (28)
かすかな堀形を辿るとこんな感じに二重堀切になっていたと思われる。

同じように主郭の東側の鞍部へかけての尾根にも堀切が二条あるがライン、遊歩道整備でエッジラインが欠け、北へ下る竪堀㋑の堀底には切断された倒木が積まれて埋もれていて肉眼での確認も困難な状況に追い込まれている。

横谷入城 (13)
強引に補助線を入れてみたが、チョッと厳しい・・・(汗)

横谷入城 (17)
西斜面から竪堀となっている堀切㋑の僅かな痕跡を探してみた。

横谷入城 (21)
堀切㋐も堀底が歩道となり一部破壊されたようだ。

城域の東側の鞍部は平地になっているので小屋掛けが出来そうだ。現在「堀切」と表示された標柱が立つ場所は一見すると確かに竪堀に見えるが元々は古道で沢筋の作業道として拡幅されたものであろう。だが、途中に水源があることからこの砦の登城口だった可能性もある。

横谷入城 (19)
鞍部に接続する堀切遊歩道。平成18年度の整備事業の際に空堀跡の看板が立てられたが、検証する必要はあると思われる。

横谷入城 (14)
鞍部と城域を遮断していれば堀切と考えられるが、乗り越しにもならずに大正山方面に続いている。

武田信玄の中信濃侵攻の際に、この付近の土豪は悉く小笠原を離反し武田の軍門に降っている。赤沢氏もその一人であり、武田統治時代には既に横谷入城はその役目を終えて使われなくなっていたと思われる。
また、ふるさと公園の案内図には「横谷城」という表示があるが特に遺構は確認できないという。


≪横谷入城≫ (よこやいりじょう)

標高:887mm 比高:160m (ふるさと公園駐車場より)
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り(無料)
見どころ:アルプス展望台からの眺望、石積み
注意事項:特にないが、温泉街の道路は狭いので通行に注意。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:茶臼山城、伊深城、早落城など

横谷入城 (32)
浅間温泉の西側の女鳥羽川沿いから見た横谷入城遠景。

Posted on 2018/03/25 Sun. 19:12 [edit]

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茶臼山城 (松本市浅間温泉)  

◆赤沢氏の初期の要害城◆

そろそろ真面目に記事をアップしていかないと過剰な在庫を抱えて倒産しそうである・・・(笑)

写真2~3枚と適当な感想でも書いていけば何のこともないだろうが、地元のヤツがそんな体たらくでは恥ずかしいしネ・・・(汗)

今回ご案内するのは、立入禁止の為に周辺の観察だけで終わった茶臼山城。

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「一人ぐらい見逃してくれよ~いいじゃねえかよ・・・」と思いつつ、不法侵入してはいけません。

【立地】

浅間温泉の後背の山尾根先端部に築かれている。ここは麓からも良く見える。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「本村の卯の方にあり。東西八間、南北十間、赤沢氏の持城たり。籏本姥貝左衛門と云す者に之を守らしむ。武田氏の大軍乱入・・・・・」とある。赤沢氏は小笠原氏に属し、その居館は本郷小学校の校庭あるいは温泉街の枇杷の湯付近にあったらしいが、その後稲倉城の麓の御屋敷平へ移ったという。

茶臼山城見取図

【城跡】

主郭にはかつて古墳があったようだが取り壊されて小屋が建てられている。城の主要部も耕作により改変された上に近年の道路の開通や貯水池の建設で遺構が壊されてしまい、往時の様子は推測するしかない状態。しかも主要部は立入禁止。主郭背後には堀切があったかもしれないがそれすら分からない。説明板には南方に30mの空堀とあるが、城への通路だった可能性もある。

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まあ、踏査出来ないので遠方から見るだけ・・・(笑)

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道路沿いに説明板があるのは有難いのだが、入りたいなあ。

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哀愁を帯びた標柱がイイ!

「信府統記」にも茶臼山城について記載があるが、「次の曲輪等ハ形崩レテ分明ナラズ」とあるので、この時点で既に主郭以外の郭は不明確に改変されていたようである。

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道路側から主要部分を撮影。この土手を登りたい衝動を抑えるのが難しい・・・・(爆)

小笠原長時の配下として稲倉城を本城とした赤沢氏だが、武田信玄の侵略時に武田方に降る。その後武田氏が滅亡すると小笠原貞慶の部将として刈谷原城主を命じられるが、天正十年(1583)に古厩氏・塔ノ原氏とともに謀反を企てるも事前に発覚し翌年松本城内で切腹となり赤沢氏は絶えた。

≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:720mm 比高:55m 
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (道路が狭いので路駐は広い部分へ)
見どころ:特になし
注意事項:不法侵入禁止。配水池も立入禁止。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」 (宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:横谷入城、伊深城、早落城など

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東側斜面の堀形。かつての登城通路だった可能性もある。

Posted on 2018/03/21 Wed. 14:58 [edit]

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祢津下ノ城2 (リテイク 東御市祢津)  

◆圧巻の長大な土塁付き二重竪堀で武装された東信濃を代表する堅固な山城◆

このところリテイク記事が続き、過去の自分の呪縛から逃れようとする日々が続く・・・(笑)

そんな事をやり始めたら、過去記事を全てリニューアルする羽目になり無限ループの連鎖が始まる・・・(汗)

それでも、「山城は幾度となく再訪することで新たな発見もあり、往時の本当の姿に近づく事が出来るかもしれない・・・」

今回ご案内するのは、幾度となくアテンドした山城マニア垂涎の隠れた名城「祢津下ノ城」(ねつしものじょう)である。

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西側より見た祢津下ノ城の遠景(東御市海善寺より撮影)

今回も縄張図を新たに描く気力などないので、宮坂武男氏の図面を引用させていただき現地で撮影した写真をもとに解説したいと思う。

祢津下ノ城縄張図①
著作権は作図者の宮坂武男氏に帰属します。無断転載はご遠慮ください。

【大手門】

登城口から整備された遊歩道をしばらく登ると、左右に土塁を伴う横堀が現れる。
東側の横堀の端は登り土塁も確認出来、その防御の厳重さからこの場所が恐らく往時の大手門であったと思われる。

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大手口から東側の横堀。(真横から撮影)

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全体を把握するために斜め上から見下ろして撮影。

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大手口と左右の横堀防御を斜め上から撮影。東側の横堀の土塁は一部を残すのみ。

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東側の横堀の先は横移動を制御する登り土塁が確認できる。(同色で見づらいため補助線使用)

【桝形門】

大手門からさらに登り数段の段郭を経ると、急坂を屈折させた左右に土手を伴う狭い場所となる。この場所が恐らく桝形門で、主郭に至る攻城兵を阻止する最終防御ラインであろう。

ここは元々あった帯郭を改修し桝形虎口を開けて土塁を築いて門が置かれたと考えられる。現在遊歩道はこの桝形門の接続する帯郭から直接本郭に通じているが、これは公園化に伴う後世の改修で本来は別の通路があったと考えられる。

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下から見た桝形門。石積みが散見される。

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桝形門の左右の土塁は石積みで補強されていたと推定されるが、後世の改修による破損が酷く往時の状態は不明だ。

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全体像を分かり易くするため桝形を少し登った場所から見下ろして撮影。公園化整備と桜の植樹のため遺構が改変された可能性がある。

【主郭】

南に石積みで補強された虎口を開ける場所以外は土塁が全周していて、主郭背後はかなりの高さがある。一般的には背後の堀切の高低差を稼ぐためと思われがちであるが、それだけではなく、中枢部である主郭を敵に見通せないようにした工夫だともいわれている。

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正面虎口から見た主郭。オレンジシートは烽火リレーイベント用のドラム缶の保護用。正面奥の土塁が一段高くなっている。

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主郭背後の高土塁から撮影した主郭全景。

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主郭虎口の石積み。南側に虎口を開けているが、守備側の実際の出入りは背後の堀切を経由させたものであろうか。

【主郭背後の処理】

信濃の山城の主郭背後はそのままストレートに大堀切で断ち切るケースが多くみられるが、祢津下ノ城は主郭背後に武者溜りのような平場を設置した後に大堀切で断ち切っている。これは、背後の尾根に連続する郭と堀切の高低差を意識したもので、ここに伏兵を置き攻城兵を狙撃させるような意図を感じる。或いは桝形門から北へ回り込み、ここから主郭へ出入りをさせたのかもしれない。

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郭2から見た主郭背後の防御処理。

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堀切㋐。

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堀切㋐を東斜面から撮影。竪堀としてそれほどの長さは無いが、他の堀切との兼ね合いならばこの程度で充分であろう。

堀切㋐の先には長方形の郭2と扇形の郭3を落差のある切岸で接続させている。郭3の西側の斜面は堀切㋔が竪堀となって接続し攻城兵の移動を制限している。

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郭2。

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郭2から見下ろした郭3。

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郭2と郭3の接続部分の切岸。かなりの落差があり階段が無ければ登れない・・。

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郭3の西側に接続する竪堀㋔。

【長大な二重竪堀を基調とした搦め手の堀切群】

この城の最大の見どころは、搦め手から東斜面を麓まで這う石積み堀底土塁付きの長大な二重竪堀と搦め手を守る竪堀群とのコラボであろう。

滋野一族とはいえ、祢津氏がこの山城にこれだけの土木工事の人的・物量的投下が可能だったのかは疑問が残る。

仮説を立てるとすれば、天正壬午の乱で北条方への従属を決めた祢津氏に対して、信濃へ侵攻した北条軍が北信濃への前線基地として祢津上ノ城を駐屯地として整備し、その守りとして祢津下ノ城を改修したという事はかんがえられないだろうか?
そんな想像も楽しいものである。

祢津下ノ城縄張図①
またスクロールして戻るのも大変だと思うので縄張図に再登場願った・・・(笑)

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郭3から見下した郭4との間の堀切㋑。上から見るとW型の折れを伴う変則的な堀で東斜面で二重竪堀と連結し収斂する。

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郭4に接続する「池」。ここは後世の改変による造作で「水の手郭」ではないらしい。この日は池の水も無く歩いて横断できた。

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搦手の最終で西斜面を豪快に下るW堀切の㋕と㋖。ため息ものですw

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東斜面に対して竪堀となる堀切㋓。本来は㋖と繋がっていたものであろう。

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堀切㋑と㋒。尾根を分断する竪堀は全て東斜面の巨大な二重竪堀に収斂(しゅうれん)する。芸術的な美しさだ。

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二重竪堀との合流地点から見た堀切㋑と㋒。

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堀切㋒。残雪に埋もれた石積みが見えるでしょうか?竪堀の両サイドの土塁は石塁で補強された堅固なものです。


【東信濃では珍しい集合竪掘と石塁で補強された二重竪堀】

中信濃では小笠原系の山城に多く見られる集合竪堀だが、東信濃では上田市の室賀にある竹把城ぐらいで非常に珍しい。更に二重堀切の堀底土塁だけでなく外側の土塁にも石塁を伴うのはかなり特殊である。
周辺の他の山城には見られない特異な防御システムとその設計はこの城の重要性を物語っている。

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東斜面を長大な竪堀となり麓まで下る二重堀切。そのシルエットの美しさには言葉が浮かばない・・・。

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石塁で補強されている堀の外側の土塁。

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途中林道により二重竪堀は2ヶ所寸断されているが、この写真は上側の寸断ヵ所からの撮影。

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林道の上側の寸断された二重竪堀の下方向写真。これだけ残っているのはある意味素晴らしい。

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林道の下側の寸断された場所から見上げた二重竪堀。この土木工事量は凄い。

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上記場所から見た斜面下の写真。

今回のリテイク解説はここまでとしたいが、紛れもなく東信濃を代表する中世の山城である。この地域では珍しい輪郭方式の縄張りと、斜面を這うように作られた長大かつ巨大な二重竪堀は戦国末期の改修のテイストを充分に堪能出来る秀逸さである。

一度と言わず二度、三度と訪れて欲しい山城である事は間違いない・・・・。

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抜群のロケーション。

≪祢津下ノ城≫ (ねつしものじょう )

標高:826m 比高:130m
築城年代:不明
築城・居住者:祢津氏
場所:東御市祢津
再踏査日:2018年2月4日・11日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:10分
駐車場:登山口脇に数台のスペースがあるが、途中の道路が狭く急坂ですれ違いも難しいので城前集会所を借りよう。
見どころ:東斜面を下る長大な二重竪堀、主郭背後の堀切群、大手門、枡形門、主郭周囲の土塁・石積など
注意事項:林道経由で搦め手まで登るなら軽のオフロード4WD以外は無理なので注意。
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」(縄張図)


登り口はここ。

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Posted on 2018/02/20 Tue. 22:27 [edit]

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霞城2 (リテイク 長野市松代町大室)  

◆山城ガイドブックに決して載る事のない北信濃を代表する美しき石積みの平山城◆

先日、えいきの修学旅行の管理人のえいきさんよりお誘いがあり、信濃先方衆の相方ていぴす殿と共に上田市西部公民館主催講座で、長野県立歴史館主任の遠藤公洋氏による「中世城館跡から何が分かるか~城はどのように使われたか」を受講してきた。

霞城201801 (1)
旧上田警察署の跡地に移転新築した上田西部公民館。

最近は体力勝負の現地踏査ばかりが主体になっているので、スキルアップの為にこういう講座で学習するのも必要なのである。

霞城201801 (3)
色々と山代の現地踏査の写真なんかも入れていただき大変勉強になりました。

霞城201801 (2)
地元の山城ファンのメーリングリストの募集チラシなんかもありまして。

公開講座は思いのほか盛況でして、50人ぐらいは集まったみたいです。年配者ばかりと思いきや女性の参加者も多く、この趣味もようやく認知されつつあるんだなーなんて実感しました・・(笑)

で、今回の遠藤公洋氏の講座でメインの素材として取り上げられていたのは「霞城」(かすみじょう 長野市松代町大室)。

なるほど、周辺の山城とは明らかに性格が違い、規模も大きく石積みを多用した霞城は北信濃の山城群の中でも特殊な立ち位置にあるのに商業主義のガイドブックで取り上げられたのを見たことが無い・・・言われてみれば確かにそうだ・・・(汗)

●2014年発刊 「長野の山城ベスト50を歩く」 屋代城、鞍骨城、松代城、尼巌城、井上城

●2017年発刊 「甲信越の名城を歩く」 屋代城、鞍骨城、松代城、尼巌城、井上城

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二条の堀切を越えて忽然と現れる折れを伴う石垣は、いつ訪れても言葉に出来ない感動を与えてくれます。(2018年1月撮影)

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まあ、しっかり遺構を見たいなら秋口でしょうか・・・(手前は副郭を囲う北側の石積みで、奥に主郭の石積囲み 2016年3月撮影)


【地元では大手石門と呼ばれる霞城の遺構の謎】

今回の公開講座で取り上げた霞城について、遠藤氏は現地の遺構概要図(縄張図とは呼ばないのがポイント)について問題提起を解説した。これが非常に興味深いもので、プロジェクターで投影された宮坂武男氏の図面と河西克造氏の図面の比較を見せられて、小生も大いに驚いたのである。

宮坂武男氏の図面には描かれていない遺構が、河西克造氏の図面に描かれているのである。

霞城遺構図①
河西克造氏の霞城遺構図。赤丸で囲んだ部分が宮坂氏の縄張図には描かれていない場所。

遠藤先生はこの場所について河西氏が遺構として図面に描くべきなのかかなり迷ったと推測している。何故なら宮坂武男氏がこの場所について描いていないからである。(宮坂氏が見落としたとは考えにくく、後世の造作物として遺構とは認めず割愛したのかもしれない)

残念な事に小生はこの城を四度も踏査しながら、この場所については知る由も無かったのである・・・(汗)

そして、遠藤先生はこの場所を実際に踏査し断言は避けるものの、この遺構が霞城のものであろうという結論に達したという。
西側の登城口を左右の石積群によって桝形を形成し、攻城兵を足止めする防御構造で、しかもこの場所を頭上より守備兵が狙い撃ちする場所も現地踏査で確認出来たという。

「こりゃー現地踏査に行くしかあるまい・・・」 この事であった。

しかし、このあと全国的に大雪に見舞われてしまったのは周知の通りである。だが、見たいものは見たい・・・ビョーキであろう(笑)

霞城201801 (4)
永福寺の登り口。木曽福島城の探索で積雪30cmの雪中行軍を経験しているのでこの程度は想定内。

霞城201801 (8)
途中には色違いの石祠が勧進されている。遠藤先生によればこの石祠は上田小県に多く見られここが信仰の山を物語っているという。

霞城201801 (12)
スパイクピン付きのゴム長でゆっくり10分も登れば主郭に辿り着く。良い子はマネしないでネ(笑)

実はこの霞城、小生の初期のブログ記事⇒霞城の出来栄えが酷いのでリテイクしようと昨年の3月に再訪問して各箇所の写真を撮りなおしたのだが、そのまま在庫として今日に至る・・・。その時もこの大手の石積は知らずにいたのである・・・(汗)

今回、一部藪化している西斜面を南尾根側の古墳群から回り込んで念入りに踏査してみた。

その結果、後世の耕作化に伴う石積みも見られるので、どこまでが往時の遺構と判断するのかかなり線引きが難しいのを実感した。宮坂武男氏が大手石門を縄張図から外したのはそうした判断からであろうし、河西克造氏はその遺構を忠実に描いたのは実際にそれを見た人の判断に委ねたいと思ったのであろう。

霞城201801 (14)
南西斜面の石垣。これは石の種類や積み方が明らかに違うので後世の造作である。

霞城201801 (20)
大手石門の南隣の石積群。城の主要部と同じ種類の夥しい石で構成された石積みが斜面を覆っているのが分かる。

霞城201801 (21)
近くに寄ってみると乱積みなのだが、見せる為の石積であればこの程度で充分であろう。

霞城201801 (22)
考え方によっては、この場所で大量の石を採掘して主要部の石積の造成を行ったともかんがえられないか?


【西大手石門】

石ガレの斜面を落ちそうになりながら西斜面を横移動すると、目の前に折れを伴った見事な石積み出現した。

「ああ、これが大手石門か!!」

明らかに通路の桝形を囲む石積みが設置され、その門の両サイドを扇方で守るように更に石積の壁がある。

「これは凄いや・・」

霞城201801 (25)
大手門右側を守る石積の「壁」。二段構えである。

霞城201801 (26)
大手門の右側。美しい。

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桝形門の中央開口部。

霞城201801 (30)
桝形門から西斜面を見下ろす。確かにここが霞城の大手道にふさわしい厳重な防御である。

霞城201801 (28)
城の中枢部に比べると結構雑な積み方だが、工事を急いだと考えればわざわざ後世の人々が造作したとは思えないシロモノだ。

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麓から見上げると相当な威圧を受けたであろう大手門の石積群。視覚効果もバッチリである。


さて、遠藤先生はこの場所が大手桝形門であったとすれば、攻城兵が殺到する門に対して頭上攻撃が可能な場所があるはずだと申されていた。
ここを見下ろす場所は確かに存在するのである。

霞城201801 (32)
大手桝形門を見下ろせる位置から撮影してみた。屈折を強いられる攻城兵はここで頭上から鉄砲や弓の洗礼を受けるのであろう。

さて、「霞城の大手門の謎に迫る編」は如何でしたでしょうか・・(笑)

取り急ぎ記事にしてしまったので、本当はリテイク版としてもう少し他の郭なども触れたかったのですが、そうしているとアップが来年になりそうなので止めました・・・(汗)

城主・城歴としては上杉景勝の配下となった土豪の大室氏の居城と伝わるようですが、これだけの石積を多用する大きな城郭の普請は無理だと思われます。天正十年における景勝の普請あるいは織田方武将の普請も充分想定されるように思います。

遠藤公洋氏が言われるように霞城はもっと取り上げられても良い城なのですが、文献資料に現れない事が要因なのか残念な扱いです。他にも長野市周辺には大峰城・霜台城・枡形城なんかも遺構は凄いのに知名度はイマイチなんて城が沢山あります。

まあ、小生の地道な布教活動で霜台城は訪問者が増えてきているので嬉しい限りです。

霞城201801 (38)
霞城から見た鳥打峠方面。

このブログを読まれたあなたは、霞城の大手石門についてどのように思われるでしょうか?

是非、現地を訪れていただき、その目で確かめていただきとう存じますw

霞城201801 (40)
主郭に建つ説明板には石門の事が書かれている。


≪霞城≫ (かすみじょう)

標高600m 比高60m
築城年代:不明
築城・居住者:大室氏?
場所:長野市松代町大室
最新攻城日:2018年1月28日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城址までの所要時間:10分
見どころ:折れを多用した縄張と荘厳な石積み、石門と呼ばれる大手門、稜線からの景色、大室古墳群
その他:駐車場は大室神社を利用。※登り口の永福寺も可だが集落の路地が狭いので軽自動車でなければ難しい。

【大手石門への行き方】

永福寺から登り尾根に出ると二条の堀切がある。二番目の堀切の手前に「石門登り口」の矢印看板があるので、その方向に進み斜面を下って行くとストレートに着きます。

霞城201601 (24)


Posted on 2018/02/01 Thu. 22:40 [edit]

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平瀬南城 (松本市島内下田)  

◆平瀬本城の南を守る竪堀の美しい砦◆

今週初めに遊びに来た娘と孫の置き土産「インフルエンザB」に罹患し絶賛悶絶中である・・・・(笑)

健康の有難味が心に染み入る今日この頃ではある・・・(爆)

さて、今回ご案内するのは「いつでも行ける」と思いつつ今回やっとその気になった「平瀬南城」である。

平瀬南城 (68)
保存会の方の努力で最近見学者用駐車場が整備されました。ありがたい事ですw

【登り口】

ここは信濃先方衆の同僚である「ていぴす殿」が保存会に入っているので、事前に聞いておけばよさそうなものを、例の如く思い付きで攻め込んでしまったので、直登は覚悟したものの「さあて、どう登りますか・・・」(汗)

犀乗沢沿いに本城方面へ向かい登れそうな斜面を探すが結構キツそうだ。北沢と南沢の川が合流する木橋付近に何かあるぞ・・。

平瀬南城 (2)
おお、ここに看板があるではないか。素晴らしい(笑)

が、道らしきものなどない。険しい尾根先が川に落ちる斜面に辛うじて獣道らしき跡が付いているだけ。

「さて行きますか!!」いつもの事である・・・(笑)

先日、盟友ていぴす殿にお聞きしたら、南沢の砂防ダム沿いに遊歩道を設置する計画はあるが教育委員会の許可待ちとの事。いつになるか分からない様なので、「転落注意」の装備で挑む事をお勧めします。
※ちなみに小生はこの時期はスパイクピン付きゴム長が主力装備。抜群の安定感とコスパだが、防寒対策を忘れずに!

平瀬南城 (3)
比高60mほど登ると緩い下りの尾根(郭3)に到達。笹薮が酷いが歩けないほどではない。

【立地】

芥子望主山(けしぼうずやま 891.6m)の支脈が犀川に突き出る手前の尾根に築かれている。同一尾根の東側の山田集落付近には信玄本陣跡の伝説が残るという。南沢を挟んだ対岸の尾根には平瀬本城(714m)、平瀬山北の城がある。

平瀬南城縄張図
今回は「長野県の歴史を探し求めて」の管理人ていぴす殿の縄張図を借用しました。(無断転載禁止)

平瀬南城 (6)
続いて郭2.

【城跡】

尾根先に郭を三個繋げた一見何の変哲もない連郭式の砦なのだが、主郭の東サイドに横堀を加工し、背後を四重の加工度の高い堀切を穿ち、竪堀として斜面に落として最終的に南沢に収斂(しゅうれん)させている。
平瀬本城ほど複雑な処理はしていないが、同時期に加工されたものであり、斜面煮立って眺めると感動する美しさである。

平瀬南城 (10)
主郭(27×16)西側に土塁が盛られている。

【横堀】

傾斜の緩い南沢側に対する備えとして横堀を入れ更にその先を竪堀として落とすことで侵入を制限している。
砦とか支城というレベルではなく独立した一つの城としての防御機能である。

平瀬南城 (12)
主郭の東側に横堀が走る。

平瀬南城 (17)
主郭背後との接続部分(堀切①)

平瀬南城 (14)
横堀は北斜面に竪堀として落ち、途中で郭3に接続している竪堀と合流する。

平瀬南城 (15)
かなり浅くなっているが段郭ではなく横堀である。

【連続堀切と集合堀の処理】

尾根の背後に連続竪堀を数条入れ、更に長大な竪堀として斜面を走らせ最終的に集合掘とさせる技法はこの地域の山城の特徴であり、小笠原氏関連の山城で多く見られる。
平瀬南城も例外では無く、その特色を踏襲している。(もちろん平瀬本城も同じである)
この加工度の高さは戦国末期の改修であろう。

平瀬南城 (18)
尾根を断ち切る堀切②

平瀬南城 (23)
城域最大の堀切②は上巾11m。巨大な竪堀として斜面を下る光景は圧巻である。

平瀬南城 (25)
堀切②は西斜面側にある程度延長している。

平瀬南城 (28)
西側斜面を竪堀として落ちる堀切②

堀切②の先の南尾根を断ち切る堀切③・④・⑤についてはかなり埋もれているが、南沢に向けて竪堀となり集合掘りとなる光景は素晴らしいの一言である。

平瀬南城 (29)


平瀬南城 (31)
南尾根はこんな感じ。

平瀬南城 (34)
水の手方面に落ちる堀切④

平瀬南城 (45)
水の手から見上げた堀切⑤

平瀬南城 (44)
四条の竪堀は水の手付近で合流し1本の集合掘となって南沢に向かう。

平瀬南城 (47)
集合堀の拡大。

平瀬南城 (51)
写真ではそのスケールの大きさをお伝え出来ないのが残念・・・・。

平瀬南城 (50)
このような土の構築物を見て感嘆している姿を人に見られたら「関わらない方がいいよ・・」とか言われそう・・・(笑)

平瀬南城 (53)
集合掘の北側にも一条竪堀を穿って斜面からの侵入を防いでいる。

さて、如何でしたでしょうか?

解説能力の無さを写真で補おうという姑息な手段はいつもの事なのでご勘弁くだされ・・・(笑)

平瀬南城は平瀬本城の支城という位置づけですが、かなり加工度は高く、少数の精鋭が立て籠もれば数日間は敵を引きつけておけるだけの戦闘力があるように思えました。
平瀬城(北城・本城・南城)ですが、武田の改修というよりは、小笠原貞慶が安曇野・小谷方面への軍事拠点として新たに築城したのではないか?という説もあります。色々と想像力を膨らませるのは楽しいですよネ。

平瀬南城 (32)
主郭からみた奈良井川と梓川の合流地点。武田が攻略した平瀬城はあの場所になる平瀬氏居館だというのが最近の定説だとか。

≪平瀬南城≫ (ひらせみなみじょう 平瀬南支城)

標高:677mm 比高:107m (犀川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市島内下平瀬
攻城日:2018年1月7日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:片道15分 駐車場:有り
見どころ:堀切、長大な竪堀、集合堀、水の手
注意事項:登り口は急なので手袋、滑りにくい靴は必須
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編 宮坂武男著」
付近の城址:平瀬本城、平瀬北の山城、平瀬氏居館跡、光城、田沢城など

Posted on 2018/01/13 Sat. 19:32 [edit]

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