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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0705

水の手城 (リテイク 上田市東内)  

◆2010年の心残りを2015年にリベンジして、2018年ようやくお披露目となる◆

今思えば、初心者の頃は険しい山城に挑む時、気力だけではカバーできない現実を思い知る事が多々あり、数多く挫折してきた。

体力ももちろんだが、積み重ねた経験値が何よりも重要なファクターなのだと最近つくづく思うのである。
といっても、年を重ねれば体力的に到達が困難な山城があるので、行けるうちに行かないと後悔するという矛盾もある・・・(笑)

でもね、あの頃の山城に対する情熱は今の比ではなかったと懐かしくさえ思う・・・「好き」を続ける事は難しい・・・(汗)

今回リテイクしてお届けするのは、駆け出し故の激しさで体力配分を間違えて自滅した水の手城である。

水の手城2 (1)
鳥羽城の攻略後に水の手城へ。途中で足の筋を違えてしまい、苦痛に顔を歪めながらの攻略となってしまった・・(汗)

水の手城2 (3)
A地区の最初の段郭。連郭式で削平も甘く年代もかなり古く、初期の水の手城の姿である。

【立地】

依田窪地区を流れる依田川水系の内村川の左岸、東内の富士嶽山(1034.3m)から南東へ延びた尾根上に水の手城がある。この山は急峻な岩山なので、東尾根筋から登る。

水の手城見取図①
城域は広く、4区域から成る。随時拡張されていったと見るべきであろう。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「和子組 子の方(北)四町山上にあり。東西十五間、南北十間塁址あり。東に古井ありて四時水を湛ゆ。西に大堀切一条あり。深さ一丈八尺、北は峻険歩を進め難し・・・」とあり、城歴についてはふれていない。

水の手城2 (7)
スミマセン、堀切㋐ではなくて㋑でした・・・(汗)

水の手城2 (9)
A地区最終の郭。周囲は岩場で囲まれている。

【城跡】

ここは宮坂武男氏の解説に従い、A・B・C・Dの四区画に分けて見てみよう。年代順に拡張していった経緯が読み取れる。

●A地区

東尾根の先端で三方は急斜面で人を寄せ付けない。二条の堀切を認めるが、郭の削平は曖昧。西端の岩盤で囲まれた高所が往時の主郭であろうか。ここからB地区に行くには岩盤北側の斜面を慎重に移動しないと辿り着けない。

水の手城2 (10)
A地区の最高所から見る鳥屋城。居住区間というよりは物見の部類であろう。

●B地区

堡塁1・2の二つの岩峯と沢筋の平地郡で構成される。堡塁2の背後に二ヶ所大きな平場があり、居住区と推定される。今回は足の故障で探索を断念したが、沢筋に湧水場があり、これが水の手と呼ばれ城の名の由来であろうか。

水の手城2 (13)
A地区からB地区への移動は滑落の危険があるので神経と体力を使う。北側の斜面にう回路があるが獣道である。

水の手城2 (15)
「こんな山の中で何やってんだろうオレ!」・・・自問自答は毎度の事である・・(笑)

水の手城2 (17)
堡塁1。さて、この急斜面を満身創痍でどうやって登れというのか・・・(汗)

水の手城2 (23)
堡塁1から眼下の国道254号線。

水の手城2 (25)
堡塁2に続く尾根筋。西側の居住区(逃げ込み城)の物見であったと想像される。

水の手城2 (29)
B地区の西側の居住区。2010年はここで矢尽き刀折れたのである・・・(汗)

水の手城2 (30)
恐らく沢筋から上がったこの尾根筋(B地区とC地区の境)は古道が走り「乗り越し」であったと思うがどうであろうか。

ここで右足が悲鳴を上げていたが、騙し騙し未だ見ぬC地区・D地区へ・・・・・・・・・・・・・・・辛かった・・・・・。


●C地区

水の手城の中心部分である。主郭の東下に石積みで補強された段郭を置き、主郭は28×11の楕円形で南側に虎口が開く。背後は二重の岩盤堀切が遮断。一条目は北側斜面に竪堀となり下る。オーソドックスな作りだが三方の傾斜が厳しいのでこの程度でも充分な防御力がある。

水の手城2 (35)
岩盤で屈強に補強された主郭手前の段郭。

水の手城2 (37)
主郭から見下ろした段郭。その先には内村川流域の旧丸子町の市街地が広がる。

水の手城2 (38)
5年越しのリベンジで辿り着いた水の手城の主郭(28×11) 後方に土塁が確認できる。

水の手城2 (40)
主郭背後の岩盤二重堀切。足の痛みを忘れる一瞬がここにありますw

水の手城見取図①
再度見取図を掲載しておきましょう・・。

水の手城2 (49)
この城域最大の堀切㋒。上巾9mの圧巻の岩盤堀切。

水の手城2 (56)
堀切㋓。上巾3mだが、堀切㋒のサポートなのでこの程度でも機能する。

●D地域

尾根に居住空間を新たに築いたとは言い難く、退路の確保を行うための戦闘空間であろうか。特に堀切も無いので、主郭の後詰めの兵士を置いたようでもある。或いは櫓台でも置いたのであろうか。

水の手城2 (63)
D地区の郭。

水の手城2 (64)
郭の中央にある櫓台跡。

水の手城2 (66)
D地区の西側は堀切など無く尾根伝いで地山に続く。

水の手城2 (4)
水の手城のリベンジには鳥羽城に引き続き「ていぴす殿」にお付き合い頂いた。(写真はA地区)


≪水の手城≫ (みずのてじょう)

標高:900m 比高330m (C地区)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市東内和子
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥羽城、鳥屋城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しのため尾根の北側をトラバースするので滑落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、長野県町村誌など
SpecialThanks:ていぴす殿

水の手城2 (75)
西内郵便局付近から見た水の手城の遠景。

Posted on 2018/07/05 Thu. 21:59 [edit]

CM: 13
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0620

鳥羽城 (上田市腰越深山 リテイク)  

◆7年前の未熟さを3年前にリベンジして、ようやく本日お披露目となりました◆


一昨日発生しました大阪北部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。微力ながら信濃の山国より余震が収まる事を願うばかりでございます・・・・・・・。

さて、今回ご案内するのは鳥羽城のリテイク記事である。2011年といば、小生が山城探訪を始めてまだ2年目の青二才の頃である。

とりあえず見よう見まねで始めたスタンプラリーのような山城巡りだったので、遺構もへったくれも無くて、とにかく城跡の中心に辿り着ければ満足していた。

今思えば、ずいぶんともったいない事をしていたが、その後再訪問する事で二度美味しいと思えるようになったので何より・・(笑)

鳥羽城2 (5)
今回も鳥羽館跡と推定される龍福寺の脇の土手から尾根伝いに登る。

鳥羽城2 (7)
鳥羽稲荷大明神の鳥居の先に尾根があるので迷うことは無い。

【立地】

依田川へ武石川が合流する所の西の山が鳥羽山で、鳥羽氏の居城と伝えている。ここには同氏が安置した矢除観音があり岩堂が三つあり、矢除観音の奥の院で往古戦闘の際に伏兵を置いた所という。
鳥羽館跡から尾根を詰めても攻略出来るが、途中で道が無くなりスリリングな刃渡りを強いられるので体力・技術を要する。

鳥羽城2 (8)
20分ほど尾根を辿ると道が消えるので、手足をフル稼働させて前回主郭と間違えたピークに登って小休止。

鳥羽城2 (14)
転落したら絶対助からないであろう岩場の刃渡り。一人がやっと通れる幅しかないので通過するまでに極度の緊張を強いられる。

鳥羽城岩盤
度胸だけでは通れない岩場。


鳥羽城2 (18)
刃渡りから見た依田川流域の諸城。烽火台としても及第点の立地であることが分かる。

鳥羽城2 (17)
鳥屋城保存会の方々には大変お世話になりながら、恩返しができず申し訳ありません・・・(汗)

鳥羽城2 (20)
丸子城⇒根羽城⇒鳥屋城と峰続きなので縦走した方もいるらしいが、ここは効率を考えると個別攻略が良いかと・・・(汗)

【城主・城歴】

小県郡史(大正十一年発刊)には鳥羽「城址」として以下の記載がある。

鳥羽城は丸子町腰越區鳥羽山の字深山屋敷にある山城なり。本郭は東西十二間半、南北八間半許あり。東に凡二間許低下して一郭あり。二の丸といふ。東西四間半、南北八丁許あり。又下ること三間許にして一郭あり、三の丸といふ。
東西六間半、南北十間半許。本郭より西北に一郭あり。東西六間、南北四間。同じく東南に降りて一郭ありて東西六間、南北十五間。鳥羽山は四方峻険にして、南より西に亘りて依田川をめぐらし、東に深山の集落ありて、丸子・佐久方面に連絡す。里傳に鳥羽氏の居城にして、天文中福島肥後守之に拠るといふ。
福島肥後守は佐久郡芦田城主依田信蕃の組下にして此城に居る(千曲真砂) 天正十一年三月二十二日岩尾城の戦に主従共に戦死して廃城となる(信濃細石)

鳥羽城見取図②

【城跡】

麓の居館とは別に、険しい岩山の山頂に築かれた詰め城にも戦闘施設と居住空間が区分けされている。
見取図では、鳥羽山のピーク周辺は土塁で囲み三方の尾根を堀切で遮断し厳しい防御を敷くものの、北尾根筋の東斜面は小屋掛けを意識した二つの広い削平地が造成され、段郭まで置かれている。
加工度は高くないが、東西は険しい断崖で人を寄せ付けず、登城口もかなり制限されるので、少数での防衛には向いているだろう。

鳥羽城2 (24)
根小屋か?と思うほど丁寧に削平された郭。小屋掛けに最適である。

鳥羽城2 (25)
この高所では井戸も無理なので天水溜を備えたか。

鳥羽城2 (30)
日当たり良好の優良物件。逃げ込み城としての機能もあったと思われる。

鳥羽城2 (34)
宮坂先生の縄張図では根小屋から東麓の深山集落に通じる山道が描かれていたが、途中で寸断され辿る事は無理だった。

●鳥羽城の中心地区

居住空間から土橋状の土塁を南へ進みピークの主郭を目指す。堡塁から高低差を利用した堀切㋐で遮断された尾根はかなり厳しい処理で攻城兵を迎撃する。

鳥羽城2 (40)
居住区から本城へ。

鳥羽城2 (41)
堀切㋐の手前の堡塁。

鳥羽城2 (44)
高低差を利用した堀切㋐。かなり厳しい落差である。

鳥羽城2 (50)
堀切㋐を西側より撮影。あっ、ていぴす殿が写り込んでる・・・・って心霊写真かい!(笑)

鳥羽城2 (54)
主郭手前の段郭。周囲を囲む土塁は曖昧な処理に終わっている。

鳥羽城2 (58)
石碑の建つ主郭(22×14)。

主郭には「鳥羽氏先世塁址」と記された石碑が建っている。運び上げるのは結構大変だったと思われる。

主郭の石碑は「福嶋氏石碑」で、「長野県町村誌」に宝暦四年「宝暦四年、伊勢御師福島某、本村鳥羽城本丸跡へ石碑を建て、鳥羽氏の旧地のある事を明にす。石碑南向きにして、正面に鳥羽氏先世塁址と記し、左に孝孫従四位下度会神主未済建、右に宝暦四年三月」と詳細が記されているという。

鳥羽城2 (61)
1744年にこの石碑をここまで持ち込む執念とは・・・(汗)

鳥羽城2 (63)
主郭の西側の土塁壁。風化が進んでいる。

●南尾根の処理

主郭から伸びる南尾根には堀切一条を置いて郭4を置いている。依田川からの敵を想定しているが、岩場が連続するので堀切の防御だけで充分だったようである。

鳥羽城2 (65)
南尾根と主郭を遮断する堀切㋓。上巾6m。

鳥羽城2 (66)
郭4(20×10)

●北東尾根の処理

大手を北尾根の麓にある鳥羽館とするか、北東の尾根先の深山集落方面とするかで大きく変わる。
実際に現地を歩くと、大手は深山集落から登る東尾根で、北尾根は搦め手のようである。が、しかしこれは鳥羽城の最終運営時点の話であり、当初は根小屋などなくピークに物見を置いた単純な作りだったと思われる。

鳥羽城2 (74)
主郭と郭2の間の堀切㋑。かなり埋もれてしまい不明確になっている。

鳥羽城2 (75)
北東尾根はオーソドックスな連郭方式。

鳥羽城2 (77)
郭2。

鳥羽城2 (81)
削平の途中で造成工事が止まったような郭3。

郭3の先は段郭を重ねて堀切㋒を間に挟むシンプルな縄張であったが、鳥羽城の正攻法はこのルートなので、セオリー通りの処理であろう。

鳥羽氏の孫が福嶋を名乗り、信玄の幕下となり鳥羽城の城主となって、武田氏滅亡後は依田信蕃の家臣となり岩尾城の戦いで信蕃と共に討死した。
伝承を鵜呑みにする訳にはいかないが、城歴を知る事で鳥羽城への見方が変わるのもまたしかり。

鳥羽城遠景
依田川沿いから見た鳥羽城遠景。

≪鳥羽城≫ (とばじょう)

標高:843.8m 比高:290m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越深山
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥屋城、鳥屋山砦、根羽城、丸子城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しの痩せ尾根は転落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、小県郡史など
SpecialThanks:ていぴす殿

Posted on 2018/06/20 Wed. 21:34 [edit]

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0610

火打山狼煙台 (佐久市春日)  

◆春日城と芦田城を繋ぐの狼煙台か?◆

戸隠シリーズを一旦終了して舞台を久々の佐久方面へ移そう。といっても、二年前の話ではあるが・・・(汗)

この地域の未訪の山城は小倉城と笠原城を残すのみである。

小倉城は春日城の詰め城で、天正壬午の乱で家康の佐久平定戦で功績のあった依田信蕃(よだのぶしげ)が、大道寺政繁率いる北条の大軍を相手にゲリラ戦を敢行した三沢小屋ではないかと推定されている。今年の晩秋には探訪したいものである。

今回ご案内するのは、依田信蕃の父の信守が防衛上の理由で芦田城から春日城に移転した際に、繋ぎの狼煙台として機能したという火打山狼煙台。

火打山狼煙台(佐久市春日) (24)
春日城の麓から望月カントリークラブに通じる手前道路の最終ヘアピンカーブの北側が遺構である。(鉄塔が目印)

【立地】

春日地区の本郷の西の山頂で、望月カントリーゴルフ場の東の山になる。ここからは春日城、望月城、天神林城が眼下に見えて遠く浅間山連峰も見通すことが出来、狼煙台の立地としては申し分ない。

火打山狼煙台(佐久市春日) (10)
カーブミラーの脇からテキトーに登ると切岸が目の前に現れる。

火打山烽火台見取図①
東京ディズニーランドが35周年とは何の関係もありませんが、そのシルエットが・・・・(笑)


【城主・城歴】

宮坂武男氏の聞き取り調査の過程では栃久保城との関連では伝承が無く、ここが火打山と呼ばれていたことが判明したという。
春日城は山城であるものの、周囲を山に囲まれた谷中の城であったために春日城より70mほど高く芦田城との連携が可能なこの場所に狼煙台を造ったと推定される。

火打山狼煙台(佐久市春日) (8)
方墳と錯覚するような形と切岸。

火打山狼煙台(佐久市春日) (9)
主郭を囲む帯郭。輪郭式の縄張りである。

【城跡】

道路の開通による多少の破壊はあるものの、これが方墳のような主郭を取り巻くしっかりした帯郭とその一段先の平場。南西には小屋掛けできそうな平場も人工的に加工してある。

火打山狼煙台(佐久市春日) (11)
狼煙台の北側は削平され北側に続いている。

耕作地跡か?とも想定するものの、麓からの比高200mで標高960mの高地にわざわざ何をつくるのか・・という事で、往時の遺構であろうという結論付けとなる。

火打山狼煙台(佐久市春日) (13)
ミッキーシルエットの主郭内部。土塁は最初から無かったのであろう。

火打山狼煙台(佐久市春日) (17)
東南にある小屋掛けが想定される削平地。

山城や古城を利用した山城は伝承が数多く残るものの、古代よりの狼煙台となるとその素性は謎な場所が多い。

この火打山狼煙台の設立については不詳であるものの、このスタイルが往時の狼煙台のスタンダードであるとすれば極めて貴重な遺構であろう。公認するかの有無ではなく後世に伝えるべきものであると考える。

火打山狼煙台(佐久市春日) (15)
狼煙台は整然とした方形である。

この日は春日城にも登って写真を撮り直してリテイク記事の準備をしたのだが、それもいつになるやら・・・(汗)


≪火打山狼煙台≫ (ひうちやまのろしだい)

標高:960m 比高180m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:佐久市春日栃久保
攻城日:2016年5月01日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分  駐車場:無し
見どころ:切岸・郭
付近の城跡:春日城、式部城、小倉城、天神林城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館① 佐久編」(宮坂武男著 2012年 戎光祥出版)



火打山狼煙台(佐久市春日) (26)
春日城の麓から見た火打山狼煙台。

Posted on 2018/06/10 Sun. 21:10 [edit]

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針立城 (長野市戸隠栃原)  

◆再調査が必要な居館城跡◆

基本的にはしっかり現地踏査を行った山城や城館を記事として掲載するのをモットーとしているのだが、再調査は直近でも晩秋になりそうなので、流れ的に掲載しておこうと思う。お赦しくだされ・・・。

今回中途半端にご案内することになったのは戸隠シリーズの「針立城」(はりだちじょう)。

針立城 (1)
南側より城跡の西側の堀切を見る。

【立地】

戸隠栃原の福平集落の700m東に位置する針立集落の東の小山になり、城の東側は奈良尾沢の深い渓谷となり天然の要害である。近くには福平城や南に円光寺館などがあり、福平城に関連する城砦と考えられている。

針立城見取図①

【城主・城歴】

史料・伝承等無く不明。立地からは福平城の溝口氏に関係のある人物の城館と推定されている。

針立城 (4)
まあね、夏場は城館といえども突入するのは勇気がないと・・・(汗)

【城跡】

宮坂武男氏の踏査報告によると、土塁を伴う最高所の主郭の前後に三ヶ所の副郭を伴う城館で、周囲は深い渓谷に面しているため地続きの南側にのみ堀が穿ってあったようだという。
今回は藪が酷いのと本能的に警鐘が鳴っていたので探索は諦めて、周囲の地形観察に留めた。
都合が合えば、改めて調査してみたい城跡である。

針立城 (5)
この時は何故か突入するのを躊躇(ちゅうちょ)した。無理してはいけないのである・・・。

針立城 (10)
郭4は耕作化により改変されているが、切岸は往時のままだと思われる。

≪針立城≫ (はりだちじょう 沢尻の城)

標高:818.2m 比高9m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2016年5月22日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分
見どころ:不明
付近の城跡:大昌寺山城、福平城、円光館など
注意事項:耕作地は無断侵入禁止  駐車場:無し
参考書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

針立城 (7)
城の南側の堀跡(推定)

Posted on 2018/06/01 Fri. 22:32 [edit]

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五十土城 (戸隠栃原)  

◆福平城の南口を守る砦か◆

GW明けは連休も取れずに一週間に一度の日曜休みだけで、これといって観たい映画も無いし、近くの博物館や歴史館も特別に興味のある展示会をやっている訳でもないので、なんとなく一日が終わってしまう焦燥感・・・(汗)

といって蜘蛛の巣や毛虫が降り注ぎ、蛇を警戒しながらスズメバチに追われる夏の山城探索などに出掛ける気にもならない(笑)

かといって天気が良いのにブログ記事を更新するのもどうなんでしょうかねえ・・・今回ご案内するのは戸隠の「五十土城」(いかづちじょう)

戸隠周辺の城と居館①
戸隠地区で残るは「高城」と「志垣城」「猿丸城」の3つでコンプリートなのだが、猿丸城は大藪に阻まれて一度撤退している。

【立地】

旧戸隠村栃原の五十土(いかづち)集落の北側の山裾の高台にある。ここは谷沢の谷に面して断崖となり集落を見下ろす場所に位置している。東の台地上には大昌寺と大昌寺山城、北の大地には福平集落と福平城があり、その台地の南側の登り口にあたる。

五十土城見取図①
まあ、高台にホームベースのような単郭があるだけなのだが・・・(汗)

五十土城 (2)
道路脇から数分登れば高台(主郭)へ。墓地への道路が付いているので軽自動車なら入れる。

五十土城 (3)
主郭の墓地。周辺はかつて耕作地だったようだ。

【城主・城歴】

史料、伝承等無く不明。宮坂武男氏の調査によれば、この南下の家の家号が「十」(じょう)なので、この山が城跡と考えられているという。展望はあまり良くないのが、五十土城の北側の斜面を比高50mほど登れば福平城の外郭に通じる事や、南東の大昌寺山城とは指呼の間にあるので、福平城の砦だった可能性も考えられるという。

五十土城 (6)
主郭の北側は窪地になっていて堀があったと推定してみるがどうであろうか。

五十土城 (1)
西の谷沢方面に下る堀形。それっぽく見えます。

【城跡】

33×38の五角形状の頂部は墓地とかつては耕作地だったようで、「十(じょう)」と呼ばれた麓の家号の家との間に削平地が確認出来るが、これは往時のものかは断定できない。
本郭の南側の断崖に下りる小径の中間に稲荷と数基の石祠が確認出来るが、この城跡との関係は不明である。

五十土城 (5)
東側に福平城の出城と伝わる大昌寺山城。

五十土城 (8)
「十(じゅう)」という家号の家は恐らく五十土城の代々の城守だったのであろう。

≪五十土城≫ (いかづちじょう) 

標高:780m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:墓地腋
見どころ:特になし
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

五十土城 (11)
高台の南側の斜面には稲荷社と石祠が祀られている。城と何か関係性があるのだろうか?

複雑な縄張図を描くのが面倒だと言って、安易に平地の城館で誤魔化す目論見はもちろんあります・・・(笑)

そうはいっても、誰かが記事にしなければ忘れ去られてしまうのも口惜しいので掲載にしてみました。

そんな小生をSNSで批判ですか・・・心外です甘んじて受けましょう!!(爆)

Posted on 2018/05/20 Sun. 20:49 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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