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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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藤岡城 (芦田城 藤岡市藤岡)  

◆初代藤岡藩主にして最後の藤岡藩主「松平康真」の居城◆

「この人、いったい誰?」 「徳川の譜代大名?」 

本人もかなり数奇な人生を歩んだのだが、康真の父は「依田信蕃(よだのぶしげ)」という信濃国佐久の国衆で、天正壬午の乱(1582)で徳川家康の配下の部将として信濃侵略を目論む北条方と戦い、佐久平定に大きな功績を残した人物とされている。

藤岡城 (2)
藤岡第一小学校の北側に残る藤岡城(芦田城)の巨大な土塁跡。


【松平康真】 (まつだいらやすざね) ※別名:加藤康寛(やすひろ) 加藤宗月(草月) 天正二年~承応二年

松平康真は兄康国と共に武田・織田等の人質となり流浪し、父の依田信蕃が徳川家康の配下となるとその身は徳川家に預けられる事になった。天正十四年四月に家康自ら康真の髪を整え、諱字・松平の称号・腰物・髭道具等を下賜して元服させたと「諸士先祖之記」「寛政重修諸家請」の記述にある。

天正十八年、康真は兄康国と共に小田原攻めに参戦している。この戦いの陣中で兄康国が殺害され、康真自身も負傷しつつも兄の仇を討ったことを家康に報告したところ、家康の命によりその跡目(小諸城主六万石)を継承することになった。
その後も康真は徳川家家臣として、家康の関東移封に伴い、拠点を信濃国小諸城から上野国藤岡城に移し、三万石を拝領、天下普請命じられる等、城持ち大名としての地位を着実に築きつつあった。

藤岡城 (1)
学校に隣接する史跡としては珍しく緑地公園として一般開放されているが、史跡の説明板などは何もない。

しかし、慶長五年城に(1600)正月、康真は大坂で小栗某という家康配下の者を口論の末に殺害するという刃傷事件を起こしてしまう。高野山に出奔し蟄居したとされるが、改易されて徳川配下の大名としての地位は失われた。

しかし同年、康真は姓名を加藤康寛と改め、徳川家康次男の結城秀康に仕える事になる。「諸士先祖之記」によれば、この時秀康は家康の命で上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという。
慶長十二年、結城秀康の逝去により剃髪して名を宗月と改め、承応二年、その数奇な人生の幕を閉じる。享年八十才であった。

福井松平藩内での家格は、筆頭家老本多家(本多富正を祖とする家)に次ぐ十六家を示す上位の「高知席」(家老五人と家老次席の城代一人を選出する家柄)であった。

藤岡城 (3)
土塁の上の遊歩道。前橋城もこんな頑丈な「叩き土塁」だったよなあー。

【康真が編纂した依田家の由緒書き「依田記」が検証不十分なまま信憑性の高い史料として存在する危うさ】

実は小生も「依田記」を元に記載されたと思われる「依田信蕃ーもうひとつの真田」(市河武治著 郷土出版社 1988年)を読み、いたく感動して佐久地方の春日城、芦田城、岩尾城、田口城、前山城はもとより、彼の勝頼時代の田中城、二俣城まで遠征して彼の足取りを辿った次第である。

「長野県史」や「佐久史誌」ですら、基本的に依田信蕃の父は下野守信守とし、武田氏滅亡後、「佐久の統一をすすめたのは依田信蕃である」とい歴史像を描きだしてきた。しかし信蕃の父信守が真田氏に次ぐ信濃国衆であった」ことや「天正二年頃から佐久全域に及ぶ領主層の盟主的立場にあった」事を裏付けする史料はなにも存在していないという7年前の史料批判を先日読み、茫然自失の日々を過ごしています。
※依田信蕃の隠れファンは意外と多いと思われます。小生もその過去記事でかなり熱い記事を書いてしまいどうしたものかと・・。

藤岡城 (5)
井元たい女史の顕彰記念碑と立像。彼女の芦田城の寄付行為には賛否両論あるが、遺構が残ったのは不幸中の幸いである。


【信濃佐久平定のヒーロー依田信蕃は虚像なのか?】

天正壬午の乱が勃発した時に、佐久地方で徳川方に味方した在地土豪は平尾城の平尾氏、耳取城の大井氏、森山城の森山氏、そして春日城(芦田城)の依田氏などのごく少数で、有力な在地土豪の前山城の伴野氏、相木城の相木氏(阿江木氏)、岩尾城の大井氏、与良城の与良氏、平原城の平原氏など多くの地侍は北条方として徳川軍に抵抗していたという。

従って、佐久仕置の主力は徳川軍が大久保忠世・菅沼定利・柴田康忠を派兵し自力で軍事行動に出ざるをえなかったという。
徳川軍が佐久方面で苦戦するに及び家康は天正十年七月、依田信蕃に対して与力を付けた上で更に「諏方・佐久両郡事」を宛がうとして同姓依田一門や親類を家臣化し望み通りの給恩地も宛てがうと約束している。
裏返せば依田信蕃らの佐久国衆は組織化がかなり遅れていたというのが実情のようである。
前山城の攻防戦も依田信蕃の指揮ではなく、柴田康忠の指揮下であり、この時に一族同門の庶流依田信守は家康より感状を賜っている。

これは北条方についていた真田昌幸の寝返り工作においても「諏方郡を宛がう」と家康は約束している。(この空手形がのちに災いになるとは家康も想定していなかったようだが・・・)
最終的には真田と北条の手切れにより北条VS徳川の天正壬午の乱は終息にむかうのだが、岩尾城の攻防戦で信繁は弟の信幸とともに戦死してしまう。

藤岡城 (8)
藤岡城は方形居館の周囲に二重堀を巡らせ南には馬出(枡形虎口)を備えていたと伝わる。

佐久平定がほぼ終わり岩尾城の無理攻めによって依田信蕃・信幸兄弟が鉄炮により戦死したと依田記には書かれているが、「家忠日記」の天正十一年二月二十日条には柴田康忠が甲州の軍勢を率いて佐久郡に軍を発し小諸・岩尾両城を攻撃したとある。
「廿二日 依田信蕃、其弟依田伊賀守信幸、善九郎信春・・・岩尾ノ城ヲ抜カント広言ヲ吐テ・・・・依田兄弟三人各矢ニ中テ死ス」とある。徳川家忠の武家日記では、信蕃・信幸・信春の三兄弟が鉄炮ではなく、矢で死去したとする。史実は同時代史料の信憑性によるべきとすれば、依田記は史実をかなり脚色しているようである。

三兄弟戦死で依田家存続の危機に陥ったとき、家康は人質の総領竹福を松平康国として家督を継がせた。このとき、依田肥前守信守(依田家庶流)は合計四十九騎を同心として康国に預けて家臣に組み込まれた。彼には継子がいなかった為に、故信幸の二男信政が跡を継いで依田源三と称した。(藤岡藩改易後は籏本となりお家存続)

まあ「依田記」では、依田家創業者の信蕃については家の由緒を語る為にかなり誇張や過大評価があり、佐久統一が依田信蕃によるものという旧来の評価は再検討が必要だろうし、徳川軍の軍事行動における信蕃の役割についても再評価が待たれる。

松平康国以降の事績についての「依田記」は正確に記載され依田家資料の裏付けもなされているという。

藤岡城 (10)
土塁の北西のR部分。ここに「芦田城」の銘板が確認出来る。

結局のところ何を言いたいのか支離滅裂な文章の構成になってしまったが、裏付けの史料を欠く由緒書きや家系図、伝記は話半分程度の理解に留めておく、というのが今回の結論である。

もっとも、戦国時代の武将の生涯など、都合のいいように誇大誇張され尾ひれはひれ付いているので、そいつの人生を知っているのはそいつだけという事になる・・・(笑)
真田氏だって幸隆の先代は現時点では不明と言わざるを得ないのは暗黙の了解事項だし・・・(汗)

≪藤岡城≫ (ふじおかじょう 別名:芦田城)

標高:95.2m 比高:-
築城時期:天正十八年(1590)
築城・居住者:松平康真
場所:藤岡市藤岡
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:藤岡第一小学校を借用
見どころ:土塁
付近の城跡:平井城、平井金山城、高山城など
注意事項:特に無いが、小学校なのでプライバシーに留意
参考書籍「平成23年度 長野県立歴史館 春季展 武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」図録寄港P34「徳川家康と依田信繁・康国-佐久郡の戦国・織豊期について-」(井原今朝男著)より一部引用。

藤岡城 (11)

大道寺政繁を相手に依田信蕃が勝利したという「芦田小屋の戦」の三沢小屋は未訪問なのだが、今回の件で気持ちが萎えてしまった。家康から金子四百両と援軍千人を派遣されているなら、ゲリラ戦というのも怪しい・・・なんもかんも怪しい・・(笑)


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Posted on 2018/12/08 Sat. 20:49 [edit]

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大明神山の砦 (高崎市倉渕町)  

◆VS北条の最前線に新たに築城された技巧的な監視砦◆

10月20日から山城シーズンのオープン戦として群馬県富岡市周辺の山城群を踏査したのだが、最後に攻め込んだ宇田城でチャドクガの幼虫群(毛虫)の衣類を貫通する猛毒毛のステルス攻撃に晒され腹部周辺が被弾、皮膚科で全治二週間の診断となった・・・(汗)

今回ご案内するのは、そんな一筋縄ではいかないグンマ帝国で「Powerd by 真田昌幸」と伝わる対北条軍向けの小さな要塞である。

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登り口は麓にある浅間神社なので迷う事はない。


【立地】

烏川の右岸、浅間神社の裏山の大岩壁の上に造られている。浅間神社の裏側より遊歩道があり、岩山の間を縫うように10分ほど登ると虎口がありそこから堀底道に入り、砦の中心まで遊歩道が整備されている。
チョッとやり過ぎの感はあるが、遺構を大きく改変してはいないので許容範囲かと・・・(笑)

大明神山の砦見取図①
小さいながら洗練されたそのフォルム(縄張)は一切の無駄がない。

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堀切㋑に入る部分は虎口となっている。

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かなり埋まってはいる堀切㋑。掻き上げた土で土塁を作りかさ上げしているのが分かる。

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西側の斜面に竪堀となる堀切㋑。

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堀切㋒。上巾8mぐらいか。

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南尾根の最終堀切㋓。この先は尾根伝いに登ると平場になる。城の搦め手と推定される。


【城主・城歴】

この城についての史料・伝承は不明。立地や縄張から戦国末期の姿を残していることから、この地域が緊張状態にあった天正十年頃、北条氏が吾妻侵入を進めたのに対して真田昌幸が気空いたのではないか、と推定されている。
天正十年、北条氏政は厩橋城に着陣し、岩櫃城攻めを始めるが、真田方の城代矢沢頼綱が諸将を要所へ配備してこれに備えている。大戸口へ続く権田・川浦は最も侵入になり易い地であるために大いに強化されたと思われる。

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削平された場所は郭2。三日月堀のような形状の堀切㋑に対して馬出のように張り出している。

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堀切㋐。郭1への切岸はかなり厳しい傾斜であることが分かる。

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主郭に通じる遊歩道。往時は縄梯子で出入りしたものと推定される。

【城跡】

主郭は山頂にあり、周囲にところどころ土塁が残るが全周せず東側には見当たらない。北から東方面の斜面は岩崖に囲まれていいるのでその必要はなかったようだ。
一段下は横堀㋐が取り巻き、郭2が横堀㋑に突き出る形となり、武田氏の三日月掘と馬出によく似た防御ラインを構成している。
このあたりの巧みな縄張は真田昌幸が武田流を引き継いでいるようにも思えるがどうであろうか。

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北側から見た主郭。

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主郭から烏川を挟んだ対岸の権田城を臨む。北条の侵入に備えた立地であることがよく分かる。

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主郭の北側は数段の段郭が残る。

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横堀㋐の北側の処理。かなり曖昧になっている。

力で押し寄せる北条軍にはゲリラ戦で対抗するのが効果的だということは、信州における依田信蕃との共同戦線で実証済みの昌幸である。敵の動きをいち早く察知し、先手を打つためにはこのような砦をいくつも臨時に築き出鼻を挫く作戦が功を奏したのであろう。

お手軽に登れて、made in Sanada の技巧がしっかりと味わえるお勧めの砦である。


≪大明神山の砦≫ (だいみょうじんやまのとりで 駒形砦)

標高:570m 比高:90m 
築城時期:戦国末期
築城・居住者:真田氏
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:浅間神社の駐車場
見どころ:土塁、二重横堀など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、権田城、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特に無いが、ガレ山なので足元や頭上に注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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Posted on 2018/11/02 Fri. 21:26 [edit]

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郷士谷津の砦 (群馬県富岡市)  

◆ほとんどの中世城郭跡は私有地だという認識を肝に命じて欲しい◆

中世の山城や城館巡りをしていると、時々残念な表示板を目にする。

「私有地につき立入禁止」

よほどの観光地でない限り、我々が趣味で巡る場所は私有地であり、そこには必ず土地の所有者が存在する。

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郷士谷津の砦の段郭に建てられた「立入禁止」の表示板。

大抵の場所は、柵や出入り禁止のロープなどがなく地主様の暗黙の了解(ご厚意)があり、隅々まで見る事が出来る。じつはこれ、実にありがたい事なんです。
国や自治体の史跡指定を受けていなくても、地主さんが私有地を解放してくださるのは、その場所が未来に語り継ぐ場所だと承知しての大判振る舞いなんです。

今回訪問した「郷士谷津の砦」(ごうしやつのとりで)は、残念ながら真新しい「立入禁止」の標識があった。
城跡訪問者とは断定できないまでも、地主さんがわざわざ標識を立てるということは、重大なマナー違反があったのであろう。


【立地】

高田川の右岸の丘陵上の郷士谷津集落の後背の小山に立地する。城跡へは郷士谷から城内を通る林道経由で登れる。
※現在城跡へは立入禁止

【城主・城歴】

確かな事は不詳だが、里傳では稲葉筑前守が築いたとされ、稲葉氏は高田氏に関連する人物と伝わる。

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城内を貫通する林道より一段下の段郭。


【城跡】

宮坂武男氏の縄張図によれば、独立した小高い小山の頂部に主郭を設け、周囲を数段の段郭が囲み主郭背後の尾根を長大な堀切が遮断する構図である。
残念ながら立入禁止看板により実際の現地調査は叶わず推定だけである。

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従来のSNSの記事を見ても、特に出入り禁止については書かれていなかったので、最近の出来事らしい。

確かに耕作地を踏み荒らされたり、ゴミが落ちていたりすれば気分が悪くなるのは当たり前の事だ。

という訳で、今回は「郷士谷津の砦」を踏査出来なかった。いつか再び解放していただけるとよいのですが・・・。

城跡訪問時は当たり前のマナーを守る事・・・これ大事です。

出入り禁止になると、その次に訪問予定されている方々が締め出されてしまいます。お互い、肝に命じましょうネ。


≪郷士谷津の砦≫ (ごうしやつのとりで)

標高:280m 比高50m
築城時期:不明
築城・居住者:稲葉氏
場所:富岡市妙義町
攻城日:2018年10月21日
お勧め度:-
城跡までの所要時間:-
見どころ:-
付近の城跡:菅原城、神成城など
注意事項:現在は立入禁止
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

Posted on 2018/10/28 Sun. 20:37 [edit]

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権田城 (高崎市倉渕町権田)  

◆権田淡路守が築き大戸但馬守が居城したと伝わる城◆

10月初旬の三連休だったが、山城への訪問意欲も湧かずどうしたものかと・・・・(汗)

その気の無い女子を口説いても仕方がないので、その気になるまで待つ・・・そんな心境ですかネ(笑)

今回ご案内するのは、高崎市倉渕町シリーズ第三弾の「権田城」(ごんだじょう)。

権田城 (39)
城址周辺の生活道路は狭いので、麓の東善寺の駐車場をお借りして車を捨てて徒歩で巡りましょう。

【立地】

高崎から東吾妻へ向かう草津街道(国道406号線)の倉渕町権田、倉淵小学校の裏手の丘陵上の高台に位置する。ここからは権田地域はもとより烏川流域の交通路や大明神の砦、天狗山の砦と連絡が出来る。この場所は、吾妻郡の大戸口あるいは大笹口へ通じる交通の要衝で、軍事的にも重要な拠点であった。麓の元村には刀工権田政重の屋敷跡が残る。

権田城見取図①
耕地化による改変もあるものの、往時の凡その縄張りはそのまま残っているようだ。

権田城 (3)
堀切㋐は耕運機置き場のようだが、しかっり残っている。

適当に登って城跡の標柱を見つけてひと安心・・(笑)
農作業中のおじさんが地主さんだったので、許可を頂き権田城の見学。信州上田から来たといったら驚いてましたが。

権田城 (5)
郭1と接続する長大な竪堀㋒の間に農道が通るが、本来は何もなかったはずだ。

【城主・城歴】

口碑によれば、この城は権田淡路守の居城であると言われている。その後、箕輪の長野氏に属した大戸城の大戸真楽斎の支配下に入り、権田城はその舎弟大戸但馬守が居城とした。武田軍の上州への侵攻が始まると大戸氏はいち早く武田氏に降り、真田氏の配下として大戸の要衝を守った。
武田氏が上野国の西毛地区を占領すると、大戸真楽斎は石倉の砦の守備についたり、勝頼に従って広木大仏の戦いに大戸八郎三郎を派遣している。

権田城 (6)
北側に土塁の残る主郭は40×38の方形。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死すると、上野国を支配していた滝川一益は上方に去り、北条が上州の支配を狙い岩櫃城の攻略の為に大戸へ侵入してきた。
勝頼亡き後、岩櫃城の城代であった真田昌幸の配下となった大戸真楽斎は、舎弟の但馬守と共に三ノ倉で北条勢を迎え撃つが、多勢に無勢でこれを支えきれずに大戸城まで後退。大戸城で三日間の籠城戦に及ぶが衆寡敵せず大戸真楽斎は討死し、大戸城は落城し北条勢により大改修され岩櫃城攻略の最前線の拠点となった。

権田城 (9)
郭1と郭2の間の堀切㋑は上巾12m。耕地化により埋められたようだが、辛うじてその痕跡は残っている。

大戸兄弟による三ノ倉迎撃戦で、権田城は大明神山の砦や天狗山の砦と共に防衛拠点として機能していたと思われるが、圧倒的な兵力差に為すすべもなく自落したと考えられる。

権田城 (15)
郭2から対岸の天狗山の砦と大明神山の砦を臨む。

「加沢記」によれば、北条勢に占拠された大戸城は、真田信之の奇襲により奪還されたとするが、信憑性は定かではない。
その後も東吾妻郡への北条勢の侵攻は続くが、小田原の役が勃発すると撤兵。
その後、徳川氏の北条領への転封により、大戸、権田、三ノ倉は松平近正に与えられ、三ノ倉城を居城とした。権田城はその後廃城になったと思われる。

権田城 (17)
鷹さ6mの切岸を介して郭3.

権田城 (19)
なーんだ、農地かーと思うと見落としてしまう土塁。

権田城 (20)
高さ7mの切岸を介して郭4.

【城跡】

城は上ノ久保から東は鉄火、北は高座、南は花輪に至る南北に、300m。東西最大幅150mの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。
東西50m南北40mの本丸と、その南側の空堀と接して二の丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦め手は北にあり、南西には珍しい笹曲輪がある。
※標柱の説明板より引用

権田城 (24)
3と3‘は農道で分断されているが、元々は一つの郭であろう。

権田城 (12)
城域の東側には長大な箱掘。途中埋められているが、全長は200mに及ぶ。

権田城 (35)
巨大な箱掘は通路としての機能もあるようだ。北条氏による改修も考えられると思うが、どうだろうか?

権田城 (30)
郭5から郭3方面。改変が著しいが、ここらへんが城の最南端であろう。


≪権田城≫ (ごんだじょう)

標高:556m 比高:85m (国道406号線より)
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏、大戸氏
場所:高崎市倉渕町権田
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:東善寺借用
見どころ:土塁、堀切、切岸など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、大明神山の砦、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:農耕地なので、許可なく農地に入らない事
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



権田城 (1)
東善寺の駐車場より見た権田城。

Posted on 2018/10/08 Mon. 21:09 [edit]

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天狗山の砦 (群馬県高崎市倉渕町)  

◆北条の侵入に備えて真田昌幸が築いたと伝わる砦◆

前回の記事の巻頭カラーの迷彩塗装の軽空母「大鷹」が好評だった・・・全く本文と関係ないのだが・・・・(笑)

今回ご案内するのは高崎市倉渕町シリーズ第二弾の「天狗山砦」である。

昌幸パパの名前さえ出せば、閲覧数はうなぎのぼりになるのか・・・??

天狗山の砦 (1)
登り口は麓の「角落山大権現」(つのおちやまだいごんげん)の赤い鳥居。ここからひたすら参道を登る。

【立地】

烏川の右岸、大明神山の砦のすぐ南500mの位置に天狗山がある。大明神山と同様、烏川を挟んで権田城と対峙して烏川の谷筋を見張る形である。登り口は東麓の内手橋のすぐ隣にある「角落山大権現」の赤い鳥居のところから山頂への参道がある。農道と参道の分岐点が不明確で幸い畑に住民の方がいたので教えて頂いた。
参道は直線で尾根筋を登るので結構しんどい。

天狗山の砦 (26)
参道は砦の廃城後に大権現を勧進したときに造られたもので、往時の大手とは違うだろう。

天狗山の砦 (24)
急坂を登ると一度尾根の削平地に出るが、ここは城域には含まれないようだ。


【城主・城歴】

史料・伝承は無いが、この地域の諸城砦は権田城を除いて他のものは武田氏の下で吾妻地方の経略に関わった真田昌幸が天正記に入って北条氏の侵入に備えて築いたものと考えられている。
北条は大戸の手丸子城を手中にするが、天正十八年の侵入も小田原の役の開戦で中断し、それ以後は、下室田松山城に居城した上田上野介の支配下に入り、天正十八年北条氏滅亡後は徳川領となり、松平近政が大戸・権田・三ノ倉五千石を知行し三ノ倉に居城するが、その他の城砦は必要が無くなり廃城となる。

天狗山の砦見取図①

天狗山の砦 (21)
主郭手前にある四段の段郭のうちの一つ。

天狗山の砦 (18)
主郭には大権現社が建ち、周囲は砦の遺構の土塁が周回している。

天狗山の砦 (17)
勧進による破壊は最小限に抑えられたようだが、風化と共に土塁もはっきりしなくなっている。

【城跡】

山頂の主郭は三角形で周囲を土塁が取り巻いている。南東尾根の一段下には台形の副郭が置かれ、その先は堀切で穿ち平場の尾根を遮断している。この方角が搦め手であったようだ。現在参道の登る東尾根には四段の段郭が認められる。
おそらくこの砦は烽火台と物見の役割を担い、権田城、大明神山の砦と共に善光寺道と草津街道を監視したものと考えられる。

天狗山の砦 (13)
主郭を周回する土塁。

天狗山の砦 (10)
北西尾根の副郭と堀切。

天狗山の砦 (7)
堀切を挟んだ先には平場があるが遺構は特に認める事が出来なかった。

天狗山の砦 (4)
沢を挟んだ対岸500mには大明神山砦が連携して備えている。


≪天狗山の砦≫ (てんぐやまのとりで)

標高:590m
築城時期:不明
築城・居住者:真田氏?
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:無し(鳥居近くに路駐)
見どころ:土塁、堀切など
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特になし
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



天狗山の砦 (2)
登り口からみた砦跡。

Posted on 2018/09/25 Tue. 21:44 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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