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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩村城 2017再訪記  

◆10年ぶりに訪れた境目の堅固な山城に感動が蘇る‥◆

先日敢行した「美濃の山城弾丸ツアー」の当初のリストには無くて、相方のていぴす殿が未訪だというので急遽加えられた岩村城。

小生は約10年前の1月に、大坂への出張の帰りに立ち寄った場所である。

みぞれ交じりの雪に覆われた堅固な石垣の城の幻想的な美しさに囚われの身となり、得体のしれない邪気にも取り憑かれた因縁の城でもあった・・・(汗)

岩村城2 (1)
復元された藩邸跡の城門と太鼓櫓がお出迎え

岩村城の探訪記は「美濃の城」の「岩邑城①~岩邑城⑤」に連載しているので、今回は写真と前回と違った視点で見た場所を記載してみたいと思う。

岩村城2 (4)
ではこの案内図をご参考に・・・。

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ピンボケの藤坂。前回訪問時の事件発生場所。やはり何か見えない力で空間が歪んでいる・・・(汗)

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攻城兵にクランクを強いる初門。

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一の門。攻城兵を高石垣から狙い撃ちする位置にあるが、何かチョッと変だなあー。

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良く見れば、二段の高石垣が孕んで崩落しそうになっている。五百年の歳月に耐えてきたが、限界なのか?

【車で本丸まで乗り入れできる事への賛否】

小生も、「ならば楽して山城見物にあやかりたい・・」という不埒な願望に苛まれているが、岩村城の本丸に車で乗り入れ出来る事は今回の下調べで初めて知った。
足弱のご老人や身体障がい者への配慮であったとしても、遺構を破壊してまで本丸への車道の開通が必要であったか?というのは極めて疑問である。

観光客の中には犬の散歩をさせている場違いな方もおるし、全く歴史や城に興味のない子供が親にブーイングしている光景も目にした。竹田城と同じく観光地化が著しいのだと実感するが、このままでは、六段壁の崩落も時間の問題であろうか・・・。

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思いっきりヘアピンカーブさせた通路を塞ぐ「土岐門」。この門の石垣は年代の違いを物語っている。

●畳橋・大手門・三重櫓

岩村城の最も防御が厳重な箇所だ。天主の代りとなった望楼の三重層櫓はここに置かれ、畳橋は木製で有事の際には破却され攻城兵がキルゾーンの阿鼻叫喚地獄に陥るのである。

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大手門の石垣。ここもかなり傷みがひどく修復しなけれなならないようである。

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大手門と三重櫓の石垣。

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畳橋が架かっていた場所。

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晩秋や冬の趣も良いが、時代の違う苔むした石垣を鑑賞できる夏も良いと思う。

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夏場の石垣も悪くないねえ・・(笑)

●謎の三層張りぼて櫓?

車で岩村城に向かっているときに、山裾から岩村城址に何やら怪しい三層の櫓を見た。目の錯覚だろう気にしなかったが、まさか「ここで逢ったが百年目」になるとは思わなかった・・・(笑)

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秀吉の小田原城攻めの石垣城(一夜城)を彷彿とさせる「張りぼて」の三層櫓。

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いったい、何年前に作られたの?

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けが人が出る前に撤去を希望します・・・(汗)

●名所「六段壁」も窮地に・・・

深刻なのは、「六段壁」の石垣も補修が必要になっている現状であろうか。
五百年の歳月の劣化であれば致し方ないが、押し寄せる観光客の無用な登壇によるものだとすれば人的災害であろう。
早急な復帰を望みたい。

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真っ赤なスコーンが痛々しいし、史跡にはそぐわないものである。

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「六段壁」は、最上段の石垣を支える為の土留めとして拡張され続け、六段になったのだという。

●美しき城の中枢部

埋門(うずみもん)を多用する本郭周辺は岩村城独特の構築であろう。武田支配下の秋山虎繁時代の岩村城の縄張りは近代城郭への改修により上書きされてしまい見る影も無いが本丸の位置は代々踏襲されたものと推測される。

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二の丸門。石垣が強力な防御構造であることを思い知る瞬間である。

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二の丸と本丸の接続部分。

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本丸から見た埋門の枡形。

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岩村城の本丸。降って湧いた観光客の切れ間をぬっての撮影。

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岩村城の本丸その2。

●美しき石垣の山城

とかく忘れがちなのは、この城が山城であることだ。これだけの高所に石を運び石垣を造作するのはかなりの難作業であったと思われる。

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六段壁に繋がる美しい二の丸の側壁。

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出丸(駐車場)側の壁面を形成する二段の美しい石垣。

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出丸側から撮影した本丸の側壁。


●中世山城の遺構

秋山時代の中世の山城の遺構を求めて、我々は出丸の隣の南曲輪に突入した。
石垣に魅了された我々ではあるが、土の城探索となると何故か嬉しくなる・・・(笑)

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南曲輪の最初の堀切跡。

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南曲輪を探索するも藪が酷く写真は無理っぽい。

●再訪によせて

「境目の城」・・・我々はその言葉の響きに、その時代の背景を思い起こしてみる。

織田方との最前線にあった武田方の近畿方面作戦司令官「秋山虎繁」はここで何を想い、そして散ったのであろうか・・。

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さほど険しい山城ではありませんので、坂道と石垣を楽しみながら散策して見て欲しいお勧めの山城ですw

Posted on 2017/08/27 Sun. 22:34 [edit]

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小幡陣屋 (別名:楽山園 群馬県甘楽郡甘楽町)  

◆信長公の次男信雄が非凡なる才能を示した美しい大名庭園◆

偉大な親父を持った息子の苦悩なんぞ、他人には分かる訳がない。

その親父が後継者として指名した長男ともどもあっけなく討死してしまったら、本家を継ぐと言いだしたものの心の準備など無理であろう。御神輿に担がれたまでは良かったが、百戦錬磨の妖怪たちに翻弄され坂道を転がり落ちてしまった。

今回ご案内するのは、土壇場で踏みとどまり家名を明治維新まで存続させた織田信雄の作と伝わる「楽山園」(らくさんえん)。

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楽山園の注文。高さ7m、門柱間4.5mで、屋敷の公式な出入り口であったという。

【立地】

信濃との国境の秩父山地から東へ派生する関東山地の稲含山を源流とする雄川(おがわ)が、富岡市で鏑川と合流する3km手前の小幡地区の河岸段丘上に位置する。陣屋の西側は雄川を挟んで紅葉山があり屏風の役目となっている。
江戸時代初期の築城で、小幡藩の藩邸として行政上の拠点としての機能なので要害性はあまり考慮していないようだ。

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中門を内側より撮影。意外と「門フェチ」だったりする・・(笑) 門の内側は桝形。

【藩邸とその周辺の構築物】 

建物は現存していませんが、藩邸としてある程度の軍事的な防御機能はキチンと施してあり、有事の際に備えています。といっても一時的な抵抗の為のものでしょうか。
それではツラツラと写真紹介しましょうか・・・(笑)

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中門の枡形を抜けて分岐点①。庭園よりもこの石垣と土塁にどうしても目が向く。

全体図①
パンフレットからの全体図。結構広い庭園なので、この図に基づいて掲載してみましょう。


元図①
入口の中門とその付近。

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西側より見た拾九間長屋。藩邸の使用人たちの居住地。現在は事務所と資料館になっている。


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この日の午前中に雨天決行して登った小幡氏の居城だった国峯城が背後に見える。ってか何で餅つき大会?

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庭よりもこのアングルに萌える・・(笑)

元図②
参考にしてください・・・

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北裏門。出口専用なのでご注意。

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北隅には作事小屋跡。

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分岐②から見た御殿(藩邸)方面。背後中央の山は国峯城(しつこい・・笑)

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藩邸北側の区画。

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藩邸跡(御殿)。奥に見える建物は「梅の茶屋」

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桶屋長屋から見た藩邸跡と庭門。中央奥の山城は「●●城」です・・・ハイ、正解ですw

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金明水井戸とその周辺。

【楽山園について】 ※甘楽町作製のパンフレットより引用

江戸時代初期に織田氏によって作られた小幡藩邸の庭園。池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)の借景庭園で、「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園と位置付けられ、京都の桂離宮と同じ特色がある。

元図③
チョッと見づらいですが、ご参考までに。

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南東から見た昆明池を中心とした庭園。

「景石」の置かれた池を中心として、「中島」や「築山」を築いて起伏のある地形を造りだし、「梅の茶屋」や全国的にも珍しい五角形の形状をした「腰掛茶屋」など複数の茶屋を配し、それらを巡る園路にも工夫を凝らしています。

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梅の茶屋から見た庭園。

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梅の茶屋から見た五角形の腰掛茶屋。織田一族は多角形が好きなんだ。

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梅の茶屋から見た南東庭園方面。

借景庭園としても秀逸で、庭園の西側にある雄川(おがわ)を挟んで紅葉山、南方の連石山、熊倉山などの山並みを借景として取り込み、豊かな広がりを演出している空間構成は、「庭園美」の極みと言えます。

さらに、複数の茶屋を配していることから。「織田氏を茶事」との関連も深く伺うことができ、歴史的・文化的にも価値のある庭園です。

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背後を流れる雄川とその背景。残念ながら雨天の為「借景」は一部のみ。

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梅の茶屋。詫び寂びが分かる年頃になりたい・・・(笑)

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梅の茶屋の内部はこんな感じ。

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南東庭園の築山と泉水(せんすい)

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南東庭園の築山の上から見た風景。「借景」とは背後の山を借りたこのような構成をいうのであろうか。

楽山園という名前の由来は、「知者(ちしゃ)ハ水ヲ楽シミ、仁者(じんじゃ)ハ山ヲ楽シム」という「論語」の故事から名付けられたといわれています。群馬県内に唯一存在する貴重な大名庭園で、国の名勝に指定されています。
(※引用終わり)

≪小幡陣屋≫ (おばたじんや 楽山園)

標高:210m 比高:-m
築城年代:江戸時代初期
築城・居住者:織田氏
場所:群馬県甘楽郡甘楽町小幡648-2
攻城日:2017年8月15日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
館跡までの所要時間:- 駐車場:無料 入園料:300円
見どころ:庭園、藩邸跡など
注意事項:特になし
参考書籍:甘楽町パンフレットなど
付近の城址:国峯城、内匠城、八幡山砦など
SpecialThanks:清之介様(ブログ情報を参考にさせていただきました)⇒そよ風訪城日記

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史料館に展示してある復元模型。



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拾九間長屋(資料館)の小幡藩初代藩主織田信雄公の木造。信長公の文化人としての才能の血を受け継いだのであろう。

Posted on 2017/08/20 Sun. 11:31 [edit]

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刎石堀切 (安中市松井田町坂本)  

◆大道寺駿河守政繁の碓氷峠の悪あがき◆

真田パパ幸の思惑は外れ、「徳川内野聖陽家康とゆかいな仲間たち」は事もあろうに北条高島氏政と和睦してしまった・・(汗)

ドラマでは、堺信繁が小諸城と碓氷峠の兵站補給を遮断するよう進言し策が採用されているが、ここで残念ながら脚本から割愛された武将が二名ほどいる。パパ幸を徳川方に引き入れる調略をした依田信蕃と、北条方の小諸城将として松井田城より赴任していた大道寺駿河守政繁である。

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依田信蕃が信濃において初めての大名の地位となるまであと一歩の夢を絶たれ討死した岩尾城。(佐久市 長野県指定史跡)

徳川家康の天正壬午の乱における対北条戦の圧倒的に不利な戦いを五分五分まで挽回出来たのは、依田信蕃の功績が一番で、その信蕃の調略に応じた真田パパ幸が二番であろう。
※依田信蕃の生涯については岩尾城を参照願います。

松井田城跡 053
松井田城遠景(2009年6月撮影)

さて、肝心の大道寺家であるが、後北条氏の宿老として代々仕え、政繁のパパ重興(異説あり)の代から関東七名城の一つである川越城代を任されていたという。父の跡を継いだ政繁は氏綱、氏政、氏直の三代に仕え、名だたる合戦には参戦し数々の武功を挙げたという。

松井田城跡 047
松井田城の安中郭に建つ大道寺政繁の記念碑。(2009年6月撮影)

天正十年六月、信長が本能寺で横死すると、東国では武田遺領をめぐり上杉vs北条vs徳川の争奪戦が始まる。(天正壬午の乱)
上野国に侵入した北条氏直は、織田方の将である滝川一益を神流川の戦いで破ると信濃との境に位置する重要拠点の松井田城の城代として大道寺政繁を任命し、そのまま信濃に進駐。小諸城を拠点として圧倒的な軍事力を背景に佐久・小県の国衆を降し北信濃に進出していた上杉景勝と決着を着けるべく対峙。

小諸城 (16)
天正壬午の乱で、北条軍の信濃侵攻の拠点だった小諸城。大導寺政繁が城代に任命されていたという。(写真は三の門)」

だが、上杉方の海津城代だった春日信達の北条方への内通が露見し景勝により成敗されると、氏直は上杉方との決戦を回避し甲斐へ進駐していた徳川家康の排除に向かう。

北条との兵力差では絶体絶命の徳川軍であったが、依田信蕃の進言により真田昌幸を北条方より寝返らせ、碓氷峠を越えて伸びる北条軍の兵站補給の遮断に成功すると息を吹き返し、佐久の国衆は依田・真田の勧誘工作で徳川に寝返り、甲斐の緒戦では北条方に勝利し、氏直は和睦せざるを得ない状態に陥ったのである。
この時北条方の信濃の拠点であった小諸城には大道寺政繁が残り、指揮を執っていたと伝わる。

さて、真田丸の復習はそれくらいにして(笑)、松井田城代の大道寺駿河守政繁が築いたという「刎石堀切(はねいしほりきり)」をご案内しよう。

刎石堀切 (2)
坂本宿側から見た碓氷峠の登り口と刎石山。あの険しい山の尾根伝いに峠道が通っている。ここからの比高差は300m。

【立地】

旧中山道の坂本宿から碓氷峠に入り、群馬県と長野県の県境にある熊野神社へ向かう途中で、刎石山(標高810m)と栗ヶ原との鞍部に立地する。坂本宿から登ると旧国道18号線の東屋の脇に中山道の峠道への入口があり、愛宕山城と堂峰番所が守っている。

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堂峰番所跡。ここから北東の尾根筋に愛宕山城がある。

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堂峰番所から登ると刎石坂の手前に「覗」(のぞき)という場所があり、坂本宿を一望出来る。ここで一休み。俳人の小林一茶はここで「坂本や袂(たもと)の下の夕ひばり」と詠んだという。

堂峰番所を過ぎてしばらくすると碓氷峠の最大の難所と言われた刎石坂(はねいしざか)の急坂があり、登り切る場所に弘法の井戸、その先に刎石茶屋跡がある。この辺りからは平坦な道となり、途中には東山道時代の碓氷坂の関所推定地とされる場所に東屋が立つ。そこから10分ほど下り鞍部に出た場所が堀切跡である。

刎石堀切 (59)
碓氷峠の最大の難所と云われた刎石坂。

刎石堀切 (10)
茶屋跡。嘗ては四軒の茶屋で賑わっていたという。

刎石堀切 (12)
茶屋の先に進むと「碓氷坂の関所」推定地がある。899年に東山道の関所が置かれたという。

刎石堀切 (18)
刎石山の尾根伝いの平坦な峠道をひたすら歩く。この先で猿軍団(または秀吉軍?)と遭遇し焦ったが何とか通してもらう・・・(汗)

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こんな感じの現地状況図。


【堀切の設営】

天正十七年(1590)、秀吉による小田原攻めが全国の諸大名に発令されると、北条家家臣で松井田城代の大道寺駿河守政繁は、東山道を攻め上がる北国・信濃勢(前田・上杉・真田・松平・小笠原)を阻止する為に碓氷峠の刎石に堀切を穿ちこれに備えた。
同年三月、前田利家を総大将とする豊臣軍35,000は碓氷峠に向かう。松井田城の大道寺駿河守政繁はこれを迎撃せんと刎石の堀切付近に展開するが、予想以上の寄せ手の大軍勢に驚愕し慌てて撤兵し、松井田城での籠城に作戦を切り替えたという。

刎石堀切 (20)
堀切の手前200mぐらいからは峠道を挟むような地形。伏兵を置き上から攻撃出来そうだ。

刎石堀切 (22)
堀切手前100m地点。上から攻撃されれば反対側は急斜面なので逃げ道が無い。

刎石堀切 (26)
堀切手前50m。両サイドのコブを利用して挟撃が可能だ。

【堀切跡】

幅数メートルの岩の細尾根に続く鞍部の平坦地を両側を削って幅を狭くし土橋に加工してある。攻め手は並列から縦列に展開せざるを得なくなり、そこを守備側が道の両サイドの小山から攻撃しようと意図して造作されたものであろう。
ゲリラ戦で敵を一時的に足止めしようとしたらしいが、想像を絶する大軍に歴戦の猛将の大道寺駿河守もさすがに「無駄な抵抗」として諦めたのかもしれない。

刎石堀切 (51)
狭間を抜けた先の緩い下りの右カーブの先に土橋と堀切が見える。

刎石堀切 (30)
ここが「刎石堀切」(はねいしほりきり。または大道寺堀切の名も)

もっと長大で巨大な堀切かと期待していたのだが、チョッと短い。土橋など残さずにいっそ断ち切ってしまえば良かったようにも思えるのだが、時間が無かったのか人手不足だったのか、中途半端な構築で終わっている。
二、三千程度の軍勢ならば何とか時間稼ぎも出来たであろうがその10倍は想定外か・・・(笑)

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堀切跡には説明板が建つ。

それでも碓氷峠では怒涛の如く押し寄せる豊臣軍と迎え撃つ北条方の大道寺軍とで多少の小競り合いがあったらしいが、この程度の防御施設では支えきれなかったのであろう。

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西側の沢に向けて落ちる堀切。

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東側の沢に落ちる堀切は一部が杉林となっているが、往時はもちろん何もなかったはずである。

この峠道を前田利家、上杉景勝、真田パパ幸、松平康国(戦死した依田信繁の嫡男で小諸城主)、小笠原貞慶らの北陸勢・信濃勢三万五千の大軍が威風堂々と行軍していたかと思うと鳥肌(チキンスキンとも・・・・笑)ものである。
二列縦隊で通ったとしても全軍が峠を下りるには三日三晩は要したのかもしれない。

刎石堀切 (42)
看板裏の西側の堀切の拡大写真。

刎石堀切 (50)
南東側から見た東側の堀切。尾根を大きく抉っているのが判る。

実はこののち、碓氷峠の中山道を再度大軍が通る事があった。そう、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠率いる徳川軍の主力部隊でその数は三万八千であったと伝わる。
第二次上田合戦の伏線となった碓氷峠越えが、真田丸ではどのように描かれるのか楽しみであるが、案外一瞬でワープすると思われる・・・・吉田剛太郎の本能寺の変なんて瞬殺でしたもの・・・・(笑)

刎石堀切 (34)
堀切の北側の通路は痩せた岩尾根を縫うように栗ヶ原に続いていた。

それにしても、たかがこれだけの遺構の為に往復6kmの碓氷峠の中山道を歩くヤツがいるだろうか?

最近では、同業者の富岡武蔵さんが徘徊したと聞き及び、あのお方ならそのまま軽井沢町の熊野神社まで走破する比類なき偉業を達成したと思われる・・・最近ご無沙汰しているが、本人に聞いてみたいものである・・・(笑)


≪刎石堀切≫ (はねいしほりきり 大道寺堀切)

標高:780m 比高:300m
築造年代:天正十六年~十七年
築造者:大道寺駿河守政繁
場所:安中市松井田町坂本刎石山
訪問日:2016年3月6日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
堀切跡までの所要時間:片道70分 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:大堀切とその周辺の陣地遺構
注意事項①猿軍団(秀吉とウザい仲間たち)と遭遇したら目を合わせることなくひたすら進む。決して威嚇してはいけない。②刎石坂付近では落石に注意。装備はトレッキングと同じレベルで登山ステッキか登山用のポールがあれば楽です。
参考文献:「信濃をめぐる境目の山城と館」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、堂峰番所など

刎石堀切 (73)
東屋の観光案内板の地図ではそれほどの大変さは伝わらない。

刎石堀切 (79)
旧中山道碓氷峠の安見絵図には「ほりきり」と書かれており、刎石坂は「はんねいし」と表記され箱根よりも難所と書かれている。

さあ、あなたも吟遊詩人となり、中山道は碓氷の峠道を歩いてみましょう。自分探しの旅はここから始まる・・・・(笑)











Posted on 2016/03/12 Sat. 21:49 [edit]

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横川関所 ・堂峯番所(安中市松井田町横川)  

◆信濃国と坂東を分け隔てる峠にして古来よりの最大の難所◆

某国営放送局の大河ドラマで草刈正雄が演じる「真田パパ幸」の黒さは限度を超えている・・・・(汗)

「そこまで描いていいのか?」と史実を知る中世城郭ヲタの我々が危惧するぐらいに放送事故寸前の際どさがある。

脚本を手掛けた三谷幸喜なる人物こそ、「表裏比興の者」であろう・・・(笑)

今回ご案内するのは、天正壬午の乱で北条氏政・氏直を見限り、甲斐で北条軍と対峙し窮地に陥っていた徳川家康の調略に応じて徳川に臣従した「真田パパ幸」が北条方の兵站補給路となっていた碓氷峠の封鎖に成功した上野国側の起点の横川。

横川関所 (4)
横川の碓氷関所跡の碑

天正十年十月、徳川方の依田信蕃、真田昌幸は北条方となっていた国衆の調略を行い切り崩しに成功。また、上野から碓氷峠経由で甲斐前線の北条本隊に送られていた荷駄隊を襲いこれを封じた。これにより佐久での足場を失い兵站補給すら不可能となった北条氏直は、圧倒的な大軍を擁しながら徳川家康との和睦に応じるほかなかったのである。

横川関所 (1)
横川関所は元和九年(1623)に江戸幕府により設置されたが、それ以前にも見張小屋が置かれていたのかもしれない。

【碓氷横川関所の立地】

碓氷峠の東麓、坂本宿の東、旧JR信越本線横川駅の西側になり、霧積川と碓氷川が合流する所に接する位置になる。付近は信越本線の廃線に伴い大きく改変されたが、旧街道の県道沿いには、東側に諏訪神社、茶屋本陣があり、街道より一段高い場所に関所跡が残っており、復元された東門から往時の面影が偲ばれる。

碓氷峠の変遷
碓氷峠における交通の変遷(※ウィキペディアの「碓氷峠」の補助資料を引用添付しています)

戦国時代の碓氷峠越えは、最も北側の中山道ルートの旧碓氷峠とほぼ同じだったらしく、江戸時代に整備されたという。

横川関所 (3)
旅人はどんな思いで通行手形を出したのだろうか・・

【碓氷関所の沿革】

東海道箱根関所と並び称される中山道碓氷関所が、現在地に設置されたのは元和九年(1623)でした。横川は碓氷峠山麓の三つの川が合流し、険しい山が迫って狭間となり、関東の境を守る関所要害としては最適の場所でした。

寛永十二年(1635)に参勤交代が行われるようになると、徳川幕府は関所で「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まりました。関所手形を提出させ、鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれることや、人質として江戸に住まわせておいた大名の妻子が国元国え元h逃げ帰るのを防いだのです。

しかし十八世紀後半以降になると、街道交通の増大に対応を迫られ、関所改めも緩やかになります。享和三年(1803)以後は「女改め」が簡略化え、ついに徳川幕府が倒れると、新政府は明治二年(1869)二月に関所を廃止しました。

碓氷関所の構えは、中山道を西門(幕府管理)と東門(安中藩管理)で区切り、あいだの五十二間二尺(約95m)を関所内として木柵などで囲い、碓氷峠の登り口に堂峯番所を置いて二重に監視しました。
※碓氷関所保存会の現地説明版より引用

碓氷関所見取図
碓氷関所絵図(現地説明版より引用添付)

天正十八年(1590)、秀吉による小田原征伐が始まると、東山道方面からは前田・上杉・真田を中心とした約35,000の軍勢が碓氷峠を越え、小田原城を目指した。

そんな歴史的背景も思い浮かべながら峠道を歩くのもなかなかいいものですw

【堂峯番所】

復元された横川碓氷関所の東門だけ見ても実感のわかない方は、ここから旧国道18号線を3kmほど北西に辿ると「堂峯番所(遠見番所)」があるので、訪ねることをお勧めします。

横川関所 (10)
坂本宿を過ぎ、旧国道18号線の脇の東屋から中山道を10分ほど歩くと堂峯番所跡がある。

横川関所 (7)

実はこの堂峯番所の東側には武田が築き北条が改修したと伝わる愛宕山城があり、見学予定だったが日没が迫り泣く泣く断念・・(汗)

まあ、お楽しみは欲張らずに残しておきましょう・・・(笑)

横川関所 (8)
堂峯番所の石垣跡。


≪横川関所≫ (よこかわせきしょ)

標高:405m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し 路駐
見どころ:往時の木材を一部使用して復元された東門
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:松井田城、松井田西城など




≪堂峯番所≫ (どうみねばんしょ)

標高:570m 比高:-
建築年代:元和年間(1615~1623)
管理者:江戸幕府
場所:安中市松井田町横川
訪問日:2016年3月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
館跡までの所要時間:- 駐車場:無し(東屋の脇に路駐)
見どころ:石積み跡
注意事項:特になし
参考文献:現地説明板
付近の城址:愛宕山城、坂本城、虚空蔵山狼煙台、刎石堀切など





Posted on 2016/03/05 Sat. 09:06 [edit]

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箕輪城 1 (高崎市箕郷町西明屋)  

◆百戦錬磨の「土の城」の最終進化形・・・只今整備中です◆

我が師匠の「あおれんじゃあ」殿も「いつでも行けるからイイや、と思っている城には中々行かない」とおっしゃていた。

そう、小生にとって上野国の名城「箕輪城」は常に素通り。

真田丸に出ちゃったし、武田の郡代も置かれた重要なお城だし、こりゃー行っておかねば笑いものになること必死かと・・(笑)

箕輪城2016(高崎市) (1)
箕輪長野氏時代はこちら側が大手口だったらしい。

後発組のよそ者の小生が「日本百名城」であることすら知らない箕輪城を語るのは恐れ多いので、今回は城歴について何の知識も持たない素人目線で書いてみたいと思う。

【立地】

箕輪城は、群馬県高崎市箕郷町にあり、榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。
その地形は正に要害の地であり、長野氏全盛時代を築いた長野業正は、武田信玄の幾度かの侵攻を防ぎきり難攻不落の名城を誇っていたという。

箕輪城縄張図① 001
高崎市役所の整備箇所が記された秀逸なパンフレット。これさえあれば、余計な能書きは不要だ。

まず驚くのは城域の広大さでろう。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なもので、全ての詳細を踏査するには丸一日かけても難しいと思われる。

今回、小生は三時間弱で一回りしたが、時間が許せばもう一度トライして詳細を確認したいというのが本音である・・(汗)

箕輪城2016(高崎市) (7)
北条時代の角馬出の名残りであろうか。

箕輪城2016(高崎市) (15)
搦手馬出と稲荷郭との間の水堀跡(本丸の側)。鉄砲を意識した広い堀。

箕輪城2016(高崎市) (24)
本丸北の御前曲輪(ごぜんくるわ)とは高低差70mの稲荷曲輪(いなりくるわ)

箕輪城2016(高崎市) (30)
稲荷曲輪と新曲輪の間の堀跡。新曲輪(しんくるわ)の中に「丸馬出」が置かれている状況から考えると、新曲輪は北条あるいは徳川(井伊直政)時代の普請と考えられる。

箕輪城2016(高崎市) (32)
箕輪城の最北端の新曲輪。北の守りを強化した事が伺える。

箕輪城2016(高崎市) (46)
うっかり通り過ぎてしまいそうな丸馬出。規模から見ると武田時代の遺構のように思えるがどうであろう。


【長野業正の死】

関東管領である山内上杉氏家に従い、山内上杉家没落しても義理立てし北条氏につくことも無く、武田信玄ですら退けた「孤高の戦士」であり名君の誉れ高き長野業正であったが、永禄四年(1561)に死去。享年71歳だったという。
業正は死去する前、嫡男の業盛を枕元に呼び寄せて、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」と遺言したという(関八州古戦録)

また、「業正ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と武田信玄が嘆くほど長野業正は信玄をてこずらせたという。

箕輪城2016(高崎市) (55)
稲荷曲輪と本郭の間の巨大な水堀跡。

【その後の箕輪城は?】

まあ、上野国を語るには「黙れ、こわっぱ!!」と上野国衆よりお叱りを受けそうなので、ちゃんと調べてそのうち掲載します・・・(笑)

なので、箕輪城の写真オンパレードでも・・・・

箕輪城2016(高崎市) (64)
井伊時代の石垣。(御前郭の西側の堀底にあり、土留めも兼用していた。

箕輪城2016(高崎市) (75)
この辺の堀の普請は徳川時代であろう。

箕輪城2016(高崎市) (97)
三の丸付近に残る井伊時代の石垣跡。ここに三の丸門があり、西側に下ると大手門(追手門)があった。

箕輪城2016(高崎市) (194)
郭馬出(二の丸の南の出郭)に建設中の二階建て櫓門。無理に再現するのはどうかと老婆心(笑)

箕輪城2016(高崎市) (202)
発掘調査も行われている事を示すトレンチ。(二の丸)


【城跡を隅々まで見たいなら2時間~3時間は必要】

平成23年度から始められた整備事業は平成26年度で終了予定だったらしいが、まだ終わらない・・・(汗)
高崎市が主体となり2億5000万円をかけて整備事業を継続中である。

郭だった平坦地は伐木し、切岸などの傾斜地は間伐することで全体の遺構がハッキリしてきている。
トイレや東屋が本当に城跡の中に必要な施設なのかは疑問に思うが、戦国末期まで使用され江戸時代の最初まで現役だった中世の山城は全国的に見てもそう例が無い。

箕輪城2016(高崎市) (204)
二の丸南側の堀底から見た二の丸と郭馬出を繋ぐ土橋。

城への入口は、「搦め手口」、「榛名口」、「観音様口」、「大手尾根口」、「大堀切口」、「大手虎韜口」、「霊置山口」の七か所がある。その全てを制覇し城の遺構を堪能するには、最低3時間は必要だろう。
弁当持参で来ても後悔しないだけの価値はあると思いますw

箕輪城2016(高崎市) (123)
城域の南端の大手門と丸戸張付近。

箕輪城2016(高崎市) (189)
広大な城域を分断する通称「大堀切」

箕輪城2016(高崎市) (237)
本丸跡の碑

箕輪城2016(高崎市) (251)
広大な本丸は北条時代の普請と拡張によるものだという。

箕輪城2016(高崎市) (275)
本丸の北に隣接する御前郭。

偉大な戦国時代の名将長野業正の後は14歳の業盛が継いだ。箕輪衆を率いて信玄の侵攻を一度は喰い止めたが、永禄九年(1566)に二万の大軍を率いて上野国に侵攻してきた武田軍に攻められて落城。上杉謙信に応援を請うも援軍は現れず9月29日に本丸北側の御前曲輪において父業正の位牌の前で一族郎党自害して果て、長野氏は滅亡。(業盛の享年24歳)

箕輪城2016(高崎市) (260)
御前曲輪に建つ箕輪城将士慰霊碑。

関東管領の謙信さん、国内の反乱分子も鎮圧出来ず、まして武田と北条退治も同時進行ではチョッとキツイか・・・(汗)

それにしても、素晴らしい名城である「箕輪城」

久しく行っていない方、整備がもうすぐ終わるので再訪お勧め。もちろん初回の方も大歓迎!

≪箕輪城≫ (みのわじょう)

標高:280m 比高:60m
築城年代:永正九年?
築城・居住者:長野氏、武田氏、北条氏、井伊氏
場所:高崎市箕郷町
訪問日:2016年2月27日 
お勧め度:★★★★★ (満点) 
城跡までの所要時間:- 駐車場:三ヶ所
見どころ:全て
注意事項:特になし
参考文献:適当
付近の城址:いっぱいあります(笑)

箕輪城2016(高崎市) (213)
長野氏時代の復元予想図なんかもありました。せっかくなのでこの看板もリニューアルして欲しいものですw




















Posted on 2016/03/01 Tue. 07:33 [edit]

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