らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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馬場美濃守信房の墓 (愛知県新城市長篠)  

◆「不死身の鬼美濃」終焉の地にて落涙◆

武田四天王の一人である馬場信房は、信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、戦場に赴く事およそ七十を超えるも、かすり傷負わなかった彼は「不死身の鬼美濃」と評された。

ちなみに武田四天王の他のメンバーは、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豐(ないとうまさとよ)、春日虎綱(かすがとらつな、または高坂昌信)というのが定説らしいが、個人的には板垣信方さんを入れてあげて!と思ってます。

長篠城 (2)
長篠古戦場を見なければ死ねない・・と思いつつ2012年10月、ようやく訪問。これで寿命が尽きても大丈夫?(笑)

小生は武田フリークでは無いが、築城名人である馬場さんの終焉の地はどうしても見ておきたかった・・・。

設楽原古戦場 (49)
設楽原古戦場(したらはらこせんじょう)にある日本史上で最も有名な(?)馬防柵。

設楽原古戦場 (52)
背の低いポニーのような馬でこんな柵に突進するほど武田軍はアホだったとは思えません・・(汗)

武田の騎馬軍団といえば、西部劇で地元住人のインディアンを駆逐するような背の高い馬をイメージする人が多いと思いますが、背の低い日本人があんな馬に乗れる訳無いでしょう。

それに馬は移動手段として貴重だったので、戦場に投入したとは考えづらいというのが持論です。無論、大将はもちろん、幹部クラスや将校などが退却には使ったと思われます。

設楽原古戦場 (57)

既成概念を打ち破るというよりは、リセットして考えてみる。「この戦争はここで本当にあったのだろうか??」

天正三年(1575)5月21日。「その時 歴史は動いた」 が、武田壊滅の真相は後世の創作が邪魔しているような気がしてならない。


【長篠城攻防戦と設楽原の戦いの真相は謎である】

双方が合戦に及んだ最中に、合戦時に死ぬ奴は少ない。大量の死傷者が出るのは、敗者が退却する時である。勢いに乗った敵方が、戦意を喪失し逃げ支度をしているわが軍に攻めかかれば大量の戦果を挙げられるであろう。

長篠の戦いも、織田・徳川の軍勢が優勢な展開に終始した事も有り、、武田軍の死傷者の数は、退却も含めて相当な数となった。

設楽原古戦場 (45)
設楽原古戦場の遠景。双方合わせて数万の軍勢が雌雄を決した古戦場などとは思えない狭さである。

設楽原の戦い(長篠合戦)における武田方の敗因は諸説あるが、御一門衆である穴山信君(あなやまのぶただ)の命令違反による戦線離脱というのが真相に近いと云う。

山県や馬場が勝頼に、織田・徳川との決戦を避け本国への撤収を諫言したが聞き入れられず、やむを得ず戦端を開いたという説が主流であるが、果たしてそうであろうか?

長篠城の包囲戦を指揮し、設楽原における決戦を主張したのは穴山梅雪(信君)であり、勝頼は意見する事も出来ず戦況が悪化するのを見届けるしかなかったというのが真実に思えてならない。

設楽原古戦場 (60)
敗れた武田軍は信濃に退却するために北へ逃れたと云う。

●馬場美濃守の最期 ※ウィキぺディアより引用

元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは確たる資料に出てくる話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

長篠城 (58)
長篠城近くにある馬場美濃守の墓所。ちょっと分かりづらい場所にある。

小生は武田フリークでは無いが、甲州流の美しく堅固な城を数多く手掛けた馬場美濃守信房の隠れ信者である。

彼の最期の地を訪れるのは巡礼にも似た心境である・・・

長篠城 (59)
馬場美濃守信房の墓所。

武田家の重臣として敗戦の責めを背負い、殿軍(しんがり)として勝頼を守り、武田家の再起を願う彼の想いが聞こえたような気がして、不覚にもその場で落涙した次第である・・・。

設楽原古戦場 (2)
馬場美濃守着用の鎧 (長篠城址史跡保存館)

≪馬場美濃守信房の墓≫ (ばばみののかみのぶふさのはか)

標高:50.0m 比高:-
場所:愛知県新城市長篠西野々51-1
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
付近のスポット:「長篠の戦い史跡めぐりコース」でがっつり見て廻りましょう。 







Posted on 2014/07/11 Fri. 23:36 [edit]

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小笠山砦 (静岡県掛川市入山瀬)  

◆若き家康の執念を感じる前線基地◆

田舎ネズミの「おのぼりさん旅行記」はもう少し続くので我慢して頂こうか・・(汗)

高天神城の攻略の為に徳川家康が六ヶ所の付け城を築いていたのは知っていたが、この時の攻城リストには全く無くて、いずれまたの機会があれば・・と思っていた。

小笠山砦 (1)それは決して見てはいけない看板だった。

当日の最終目的だった相良城を見学して、その日は掛川市での宿泊だったので、県道37号線経由で菊川に出るはずが、カーナビ距離優先お任せコースでどういう訳か県道251号線へ入る。

道路のカーブにあった看板には「小笠山砦」

「??????????????」

思わずUターンして確かめる始末であった(笑)

既に夕方も近かったので、「また あ~と~で!」 思い付き人生のノーテンキとはこの事であった・・・(爆)

小笠山砦 (2)小笠山神社社務所。郭跡だったと思われる。

翌日、掛川城の見学時間を大幅にカットして小笠山砦へ突撃する。

予備学習無しに突入するのは気が引けたが、行けば何とかなる?・・・結果、後の後悔先立たず・・・(汗)

徳川家康が高天神城の付け城として築いた六砦(小笠山砦、三井山砦、中村城山砦、能ヶ坂砦、獅子ヶ鼻砦、火ヶ峰砦)の中では規模も技巧も優れたメインの砦が小笠山砦らしい。

小笠山砦 (3)笹ヶ嶺御殿手前の横堀。

何といっても、砦跡のある小笠神社まで車で行けるのが嬉しい。

山城探訪で大切な事は「いかに最短で体力を使わずにその場所に辿り着けるか?」である(笑)

残念ながら小生のような横着者の住む信州では、それを許してくれる城跡は少ないのが現実であろうか(汗)

小笠山砦略図

実はこの砦、帰ってきて後から調べてみると、小笠山の頂上まで遺構があり小生が見てきたのは「笹嶺御殿(ささ
みねごてん)」と呼ばれる入り口の遺構だけだったようである・・・・(悔)

偉そうに云ってるものの、所詮は田舎のネズミ。このことであった(笑)

小笠山砦 (4)遊歩道の設置で改変された笹嶺御殿への登山道。

小笠山砦 (5)櫓台(?)跡。

この砦は、徳川家康が今川氏真の籠る掛川城を攻める際の付け城として築かれたようで、その後の高天神城奪還の戦でも、武田軍の補給路封鎖作戦で重要な役割を果たしたという。

徳川家康が築いた山城という構図はピンと来ないが、徳川さんも山城(陣城)は作れたようである・・(爆)

小笠山砦 (9)いい味出してる堀底の標柱。

陣城(付け城)如きでこれほどで凝るのか?という改修であるが、家康さんは縄張りには関わっていないと見るべき。

何故かって?

縄張りがキチンと出来る武将が、城攻め(攻城戦)を不得手とするのはあり得ない事ですもの・・・(笑)

小笠山砦 (10)城域西側の薬研堀と切岸。

小笠山砦 (16)御殿跡の説明板。

いつもなら尾根先まで駆け上がるのに、この日はどうしたことか説明板を見て安心してしまった。

見るべき遺構はもっと先にあったのに・・・・・

小笠山砦 (18)笹嶺御殿の先の土橋と天然(?)の堀割。

小笠山砦 (29)御殿下の帯郭。

小笠山砦 (27)南西斜面の竪掘。

高天神城の攻略に対して他の五つの砦の中心となり、南を抑える横須賀城とともに重要視されたのであろう。

「二度、三度訪れてみないと、その城の姿は見えてこない」 まさにその通りである。

しかし、信州からは遠い(笑)

≪小笠山砦≫ (おがさやまとりで 笹嶺御殿)

標高:264.8m 比高:206m
築城年代:永禄年間?
築城・居住者:徳川氏
場所:静岡県掛川市入山瀬
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:数分 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:山頂付近へ向かう途中の一騎駈けの尾根は転落注意だとか・・(自己責任でね)
参考文献:
付近の城址:高天神六砦、掛川城、高天神城、横須賀城など

小笠山砦 (31)山麓の国道409号線から見た小笠山砦。










Posted on 2013/09/27 Fri. 07:27 [edit]

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設楽城 (愛知県北設楽郡東栄町)  

◆別所街道を見張る要塞◆

先日は甲斐国へ遠征し五ヶ所攻め落とす予定が移動時間を読み違えて三ヶ所で終了するおバカな遠征軍(笑)

然らば返す刀で山布施、七二会にある四つの城へ攻め入るが、得体の知れないケモノの威嚇に恐れおののく(汗)

「真面目にブログ更新しろよ!!」     仰せの通りでござる・・・・(爆)

今回ご紹介するのは、奥三河の隠れた名城の誉れ高き「設楽城(したらじょう」

設楽城(三河) (28)素敵な地名です。

この城、元々今回の攻城戦ツアーのリストには無くて、湯谷温泉で一泊して別所街道経由で信州へ帰る途中で偶然看板見つけて攻め込んだ次第。

お城の匂いがすれば、何処でも攻め込むってワケさ・・(笑)

設楽城(三河) (4)道広げ過ぎでしょ!

説明板によれば、建久元年(1190)設楽資時が設楽八名の領主となり、正和元年(1312)に設楽重清が岩瀬郷へ配置換えとなるまで約120年間を設楽氏が治めたという。築城時期もその頃らしい。

そんでもって気になったのが駐車場の説明板に書いてあった最初の文。

「この城跡は、三河山間部に多い山城のうちの最古のものの一つで、鎌倉時代初期の形式を良く残している。設楽氏の居城であったと云われ、戦国時代にはすでに城がなくなったと推測されている」

設楽城(三河) (1)

「へえー、鎌倉時代の山城なんだあー(汗)」

鎌倉時代初期の形式ってどんな定義なんだろう?教えて欲しいなあ・・・

戦国時代には無かった?小生のようなシロウトが見ても、戦国時代末期までバリバリ現役だったと思えるんですが、どうでしょうか?

設楽城(三河) (5)郭2背後の大堀切。

【立地と概要】

大千瀬川が北へ大きく蛇行する場所に突き出た半島状の小山でまさに要害の地である。現在は国道151号線が城域の南側を通っているが、往時の別所街道は川の北側であり三河と信州を結ぶ間道としても重要だったと思われる。
城域は南北約300mで四つの曲輪からなり大手は鞍部付近であろうか。
城の東側にある加賀野集落と先林を繋ぐ橋の名は「戦橋」と呼ばれ、籠城時には破壊され敵の侵入を防いだものと思われる。

設楽城縄張図①まさに「背水の陣」の縄張りである。

三河の城は川を背後にした造りが多いと思うのは気のせいであろうか?

長篠城も吉田城も二俣城もそんな感じ(笑)

設楽城(三河) (16)南側の高土塁が丸馬出しを彷彿とさせる郭2全景。

設楽城(三河) (6)堀埋めちゃったみたいです。

設楽城(三河) (12)東側の沢に残る堀切。


この城の最大の見どころは「郭2」であろう。

武田流を思わせる丸馬出しっぽい半円形の土塁。三日月堀だったら最高なんですが残念!!・・(爆)

設楽城(三河) (7)イイねえー。

えっ?他も一応見たいって?

本郭は慰霊碑建立で改変されたようで、唯一残っているのは背後の土塁が一部分。全周していただろう土塁は削られたんでしょうか。

設楽城(三河) (14)こんなんイランわ!

設楽城(三河) (9)土留めの石積みの残る土塁跡。

設楽城(三河) (23)細長いだけの郭3。

設楽城(三河) (26)鞍部の最終の堀切。大手はこの方面だったか?

城域はそんなに大きくないが、三方を川と断崖絶壁に守られた要塞である。

その気になればある程度の期間は敵を引きつけておけるだけの機能は充分にある。

武田統治時代に大幅な改修を受けて戦国末期まで使われたと思われるが、如何でしょうか?

≪設楽城≫ (したらじょう 城山)

標高:294.0m 比高:47m
築城年代:不明
築城・居住者:設楽氏、大勢力?
場所:愛知県北設楽郡東栄町
攻城日:2012年10月11日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:
付近の城址:

設楽城(三河) (29)城市(しるいち)からみた設楽城全景。













Posted on 2013/09/23 Mon. 12:02 [edit]

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掛川城 (静岡県掛川市掛川)  

◆信玄も捨て置いた遠江に刺さる徳川領境目の堅城◆

見出し(サブタイトル)には結構こだわっているので、それが決まらないと(ってか気に入ったタイトルでないと)記事も書く気になれない・・(笑)

日本100名城巡りの様相を呈してきたようで恐縮だが、田舎ネズミの「オノボリサン」の道中日記として読んでいただければ幸いである(汗)

掛川城 (2)大手門番所。安政六年(1859)の建築。何故か掃除中(?)


大手門が現存する城郭は多いが、大手門番所が残っているのは非常に珍しいという。小生も初めてお目にかかった。

廃藩の際に建物を藩士が譲り受け移築したものを、大手門の再建に伴い寄贈を受けたという。ありがたい。

掛川城 (1)復元された大手門の奥に見えるのが番所。

「いきなり番所かい!」

だって、現存する建物の中では一番お気に入りですもの。二番目は太鼓櫓。まして山内一豊は嫌いだし(爆)


【城主・城歴】

掛川古城は現在の場所から東へ500mの逆川の北側にあり、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕(やすひろ)に築城を命じたのが始めと伝わる。(1497~1501)

その後、今川氏の勢力拡大に伴い、永正九年(1512)に現在の地点場所に新たに縄張りをしたという。

桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られると、武田と徳川は今川領に侵攻し今川氏真は駿府を逃れ掛川城へ籠城。

徳川家康はこれを攻めるが、容易に落ちない為、力攻めを諦め和睦にて開城させる。

家康は掛川城の城将を石川家成(石川数正の従兄)に命じ、武田軍の侵攻に備えた防御拠点とした。

掛川城 (12)相変わらずアングルがヘタクソ極まりない(笑)

不思議な事に、信玄は遠江侵略において高天神城を囲み、諏訪原に砦を築いても掛川城は無視し続けた。

蹴鞠しか能の無い氏真でも守れる城を徳川が守れば手強い・・・そう感じたのであろうか?

その後、家康の関東入国に伴い、掛川城には秀吉子飼いの武将山内豊一が天正十八年(1590)五万石で入城する。

慶長六年までの10年間で彼は戦乱に明け暮れた領国の治世と城下の整備に努め、掛川城も石垣と天守閣を持つ近世城郭に変貌を遂げた。

掛川城 (13)打込みハギが美しい太鼓櫓の石垣。

掛川城 (14)四足門から見た太鼓櫓。

江戸時代の掛川城は徳川譜代大名の城として石高では2.5万石~7万石程度の11の大名家の居城となった。

天守閣は嘉永七年(1854)の東海大地震で倒壊し再建されることは無かったが、幸いに二の丸御殿、太鼓櫓、蕗の門は無事で、明治二年の廃城まで残ったという。(御殿は現在も残り公開されている)

天守閣の再建は平成六年で木造による。

掛川城 (15)俗に言う「日の丸撮影」(笑)中心に撮影の被写体を取り込む手法だが、城の撮影ではアングルをうまく使えば充分に「有り」だという。

「青空の背景」「白亜の天守」「石段」「切岸」「打込みハギの石垣」

これだけ揃ったら、近世城郭に夢中になった過去を充分思い出せる。

「しかし、過去は振り返らない。振り返るな、君は美しい・・・・」(何か歌の歌詞にあったなあー・・爆)

掛川城 (18)天守閣入り口から「振り返る」

地震は起きてしまったが、幸いにして徳川の支配以降は、戦乱に巻き込まれる事が無かったのは幸いであろう。

籠城戦で派手に活躍した城ばかりが有名になる傾向があるので、掛川城を擁する市民としては姫路城バリの有名税が欲しいというのは文句が言えない。

しかし、小生、この日に掛川城へ入城する際にとても嫌な思いをした。

今流行の「お・も・て・な・し」の心など、窓口で対応した職員には微塵もなかった。

開門時間は9:00、小生が辿り着いたのは8:55.

入場券売り場には職員らしきオバさんがいたので、入場券を買い求めようとしたら拒否された。

「9:00までお待ちください!」

小生の他にもう一人観光客がいたが、小生の問答を聞いたらしく引き下がった。

掛川城 (24)天守閣の展望台から見た二の丸御殿。

小生が立腹したのは、小山城の方は10分前でも「嫌な顔一つせずに入れてくれた」事実と比較してしまったからである。

お役所の役人根性か・・・時間正確に始まり、どんなに仕事が残っていても時間通りに止めてサッサと帰るのだろう。残念だった。

山内一豊が嫌いだったので、掛川市も余計に悪い印象となった。

掛川城 (25)

遠くから足を運んでくれた観光客にこのような対応をいつもしてるのか心配になった。

上田市も他人事じゃないよなーって思った。

掛川城 (10)十露盤堀(そろばんほり)のアップ。由来はもちろん「巴の算盤」(笑)

掛川城 (11)武田流の三日月堀なのだが、山内一豊が監修?

掛川城 (37)十露盤堀と太鼓櫓。

まあ、あまり良い思い出が遺せなかった掛川城だったが、「戦国の城」の一部分が残っている。

それは、二の丸御殿の東側の「黒塀」と呼ばれる土塁であった。

掛川城 (42)

害した気分が救われました。(ホッ!)

掛川城 (40)近世城郭ファンには垂涎の一枚だろう。

≪掛川城≫ (かけがわじょう)

標高:50.0m 比高:27m
築城年代:不明
築城・居住者:朝比奈氏、徳川氏、山内氏、他
場所:静岡県椿原郡吉田町片岡
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:大手門番所
注意事項:開館は絶対に9:00です(笑)
参考文献:
付近の城址:高天神城、諏訪原城、小山城など






Posted on 2013/09/18 Wed. 22:53 [edit]

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長篠城 (愛知県新城市長篠市場)  

◆山家三方衆の明暗を分けた難攻不落の城◆

【長篠城主 菅沼正貞の誤算】

元亀二年(1571)、それまで徳川家康の配下であった三河の山家三方衆の奥平氏(作手)、菅沼氏(田峯)は信玄の調略により武田方へと切り崩された。

田峯菅沼氏の分家であった長篠菅沼氏の6代目当主正貞は、武田家への寝返りを良しとせず抗戦するも、秋山信友の家臣や同族への懐柔策が功を奏し正貞も仕方なく武田方に転じたという。

長篠城 (35)

翌元亀三年(1572)十月、西上作戦を敢行した信玄に菅沼正貞も山家三方衆として山県昌景の与力として従い転戦する。

翌年四月に甲府への帰還途中で信玄が亡くなった事を確信した奥平氏は、六月に家康より出された破格の誓紙を信用して九月に領地の作手(つくで)を脱出し徳川軍へ合流。

同年七月、動きのとれない武田軍を挑発するように家康は長篠城を囲む。

おそらくこのタイミングで、奥平氏への調略同様に菅沼正貞にも誘いがあったと見るべきであろう。

「ここらへんで城を明け渡して、徳川さんに恩を売っておきましょうか・・」

長篠城 (3)帯郭跡(二の曲輪)。奥の土塁の高さに注目。

ここで、正貞にまさかの事態が発生してしまう。

来ないと確信していた後詰め部隊(武田信豊)がすでに三河へ進駐していたのである。

が、冷静沈着にアリバイを完璧にして徳川方に寝返った際の保障も取り付け、とりあえず武田軍に合流する。

奥平氏の出奔に衝撃を受けた武田軍は、山家三方衆の他の二家の動向に疑惑を抱いていたのである。

長篠城推定見取図①看板の縄張図もいいけど、自分で描いてみる縄張図も捨てたもんじゃない?

あっさりと長篠城が陥落した事実に納得のいかない武田軍は、正貞を信州の小諸城に幽閉し徹底的に調べ上げる。

武田氏が疑い深いのではなく、いつの時代でもそうだが一度裏切ったヤツは信用されないのだ。

証拠は出なかったものの、武田氏滅亡まで収監され続けて天正十年(1582)に獄死。

その後、密約の事実を知る正貞夫人が家康に直訴し、嫡子は徳川頼宣付けとして登用されたという。

長篠城 (4)主郭と帯郭の間の堀(東側)。往時は水堀という描写が多いが、水量を調節した泥堀に近いものだったと思うが。


【一度きりのチャンスに全力で立ち向かった奥平貞昌の奮戦】

天正元年(1573)九月、奥平貞昌は武田氏に叛いて亀山城を逃げ出し徳川軍に合流したものの、しばらく捨て置かれ、寝返りの約束を記載した誓紙に書かれた長女亀姫との結婚も反故にされつつあった。

「我慢比べか・・・」

天正三年(1576)、山家三方衆としてともに戦場を戦った長篠城の菅沼正貞が城を明け渡し、徳川が接収して城番制を敷いていたのは聞いていた。

長篠城 (6)堀の角度と高土塁の角度が一致していない西側の空堀跡。意図的だとすると、かなり技巧的で面白い。

同年の二月二十八日、家康に呼び出された奥平貞昌は以下の厳命を賜る。

「三月より長篠城の城代を命じる。武田勝頼の侵攻に備え死守せよ!」

(お前は絶対に武田に叛ることはできない身である。だから徳川のために命懸けで働いて、この城を守り抜く以外に生きる道はないのだぞ)

そして間もなく一万五千の武田軍に包囲された。

後詰めの保証無き籠城戦の90%の絶望の中で彼が信じたのは織田・徳川の援軍ではなく、10%の己が生への執念だったのであろう。

長篠城 (13)意外に狭い主郭。

「命からがら作手から脱出し生きながらえたのだから、今度だってうまくいく。必ず生き残ってやる」

城主の意気込みも約五百の籠城兵たちの士気も高く、武田の猛攻に耐えた。

だが時が経過しさすがの要害長篠城も力攻めに押されて二の曲輪と本郭を残すのみとなり、兵糧も尽きてきた。

「鳥居強右衛門は、無事に辿り着いて使命を果たしたのだろうか・・・」 (長篠~岡崎は約50km)

長篠城 (33)城内から鳥居強右衛門の磔場所を臨む。充分に声が届く位置である。


そして鳥居右衛門(とりいすねえもん)の磔(はりつけ)事件が起きた。

「援軍は来る! この眼で確かに見て来た! あと二、三日、堅固に守れ!」

城内に戻る所を武田軍に捕まり、対岸から城内の兵に向けて援軍は来ないから降参するように言え、と強制されるが、彼もまた死を覚悟で自分の運命に賭けたのである。

足軽の身分で一生を終るか、それとも援軍が到着し味方が勝ち長篠城を救った英雄として名を残すか。

後者を選び処刑されたが、彼の子孫は最終的に千五百石取りの上級武士となり人々の尊敬を受け続けた。

長篠城 (30)本郭から野牛郭を見下ろす。


城主の奥平貞昌は長篠の戦いの功績により名声を得て、織田信長からは褒美として一字を下賜され信昌と改名した。家康は約束通り亀姫を彼に与えた。

それからの信昌は出世街道を走り続け、天正十八年(1590)の家康の関東移封では上州小幡三万石の大名となり、関ヶ原の跡には美濃加納十万石を貰った。

信昌の四男忠明は松平の姓を貰い播州姫路の城主となり十八万石を領した。一族はことごとく栄えた。

長篠城 (60)弾正郭(民家のため撮影不可)脇の標柱と堀跡。

長篠城 (65)道路開発と宅地化により改変され面影すら残らない二の曲輪付近。ここも含めて標柱だけってのが結構多い。

さて、長篠城に関わる漢(おとこ)たちの物語、如何でしたか。

えっ、今回は真面目一辺倒??まあ、たまにはそんな気分の時もありますね。

退屈な方⇒漢(おとこ)のサムライ度チェックで自己分析をお勧めします。

※ちなみに小生はハラキリ度100%でしたあ・・めでたしめでたし・・(笑)

長篠城 (2)このコースを実際に歩いてきましたよ。


≪長篠城≫ (ながしのじょう 末広城 扇城)

標高:50.0m 比高:-
築城年代:永正五年(1508)
築城・居住者:菅沼氏、徳川氏、武田氏
場所:愛知県新城市長篠市場
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:「武田信玄 アルバム&エッセイ」(新田次郎著)
付近の城址:設楽原古戦場も必見









Posted on 2013/09/16 Mon. 10:24 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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