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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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吉田城 (愛知県豊橋市今橋町)  

◆石垣見たくて寄り道しただけの城◆

そう書いてしまうと身も蓋も無いし、吉田城愛好家の方から叱られそうだが、事実である・・(汗)

2012年の秋に念願叶って二泊三日で遠江・三河ツアーを敢行。近代城郭など見る気も無かったが、掛川城・浜松城・吉田城は嫌いな徳川さんの城とは言えせっかくなので寄らせていただいた。(笑)
いずれも戦国の城から近世城郭に変貌を遂げた過程があるので仕方あるまい。

吉田城(三河) (3)
今橋城時代の本郭跡と伝わる金柑丸に建つ説明板。この郭の写真は取り損ねた。そんな程度の興味である(笑)

【立地】

三河湾に注ぐ豊川河口から約5kmの川沿いに立地し渥美半島の付け根部分にあたる。伊那街道と東海道が交わる三河の西端にあり古来より要衝の地であったという。

吉田城(三河) (1)
金柑丸の東側の水堀跡。

【城主・城歴】

永正二年(1505)、豊川の一色城主の牧野古自により今橋城が築かれたという。(一説には1496年とも)この時の対抗勢力は田原の戸田氏で、今橋城より東にある二連木城の城主であった。
大永二年(1522)今橋は吉田と改名され、吉田城は戦国時代の争乱の中で、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた。現在の金柑丸が今橋城の本丸であったという言い伝えがあり、豊川を望む台地の縁辺部に沿って郭が連なる形であったと考えられている。

吉田城(三河) (6)
本丸東側の堀。

土塁の堀側は土のままで切岸にして、内側(本丸内部)へは石垣という珍しい方式だが、攻める側からすれば土の壁のが登りづらいという特性を生かしている。

吉田城配置図①
吉田城模式図(豊橋市発行のパンフレットより引用)

近代城郭として整備された現在の吉田城は輪郭方式の縄張りだが、以前は解説にある通り連郭式だったようである。
近年実施された部分的な発掘調査では戦国時代のV字の薬研掘(やげんぼり)と江戸時代の箱掘が並行して散見されるので、酒井忠次時代には既に輪郭式の縄張に改修されていたようである。

吉田城(三河) (7)
土橋から見た本丸裏御門と石垣。

吉田城(三河) (10)
裏御門から見た本丸正面の虎口。南御多門があった。

【酒井忠次と池田輝政の時代】

吉田城は牧野古自の今橋城築城以来、幾度となく争奪戦が繰り広げられたが、永禄七年(1564)に松平家康(徳川家康)が今川方の吉田城代の小原鎮実を攻めて吉田城を奪取すると、酒井忠次を城主としてこれを守らせた。
酒井忠次は吉田城を改修し新たに堀を増設した事が発掘調査より判明している。また、当時の大手は飽海口(あくみぐち)であったとされており、東側が正面んある構造であった。

吉田城(三河) (12)
昭和29年に復興された鉄櫓。吉田城の櫓の中では一番大きく古絵図にはこの櫓を天守と書いているのが何枚かあるらしい。

吉田城(三河) (13)
北側の腰郭との間にある枡形。この城の弱点である豊川側の防御は念入りに作られている。

天正十八年(1590)、徳川家康が関東八州へ転封になり酒井忠次もそれに従い移転。代わって羽柴秀吉の配下である池田照政が岐阜城十三万石から十五万二千石に加増され吉田城へ入った。照政は吉田城を石高に見合う大城郭への改造に着手する。照政時代の遺構には鉄櫓下の石垣があり、当時としては最新の技術で積まれた石垣は豊職系城郭の象徴的な存在である。
照政は家康の娘である督姫を娶り、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に五十二万石へ加増されて姫路へ転封となる。それを機に輝政と改名し現在世界遺産となっている姫路城を築いた。

吉田城(三河) (14)
昔はこういう櫓(建物)にトキメキを感じたが、最近はどーでも良くなった・・(笑)

吉田城(三河) (15)
鉄櫓の北側と西側の石垣が池田輝政時代の野面積の遺構。(写真は北側・・・草で良くわかんない?・・汗)

吉田城(三河) (19)
しからば新旧対比の写真を掲載してつかわそう・・(笑)

吉田城(三河) (20)
鉄櫓西側の石垣。二度の大地震にも耐えた野面積(のづらづみ)の安定性はさすがでございます。

吉田城の見どころは何といっても石垣で、新旧の見比べと石垣の刻文が見れるとこかしら。
しかも、その石垣も本丸の内側と二の丸の堀の一部にしかない。なんでかって?

池田氏15万石の後に入封したのは徳川家の譜代の大名なんだけど、いずれも3万石~4万石。
とても池田さんの築城工事を継続出来る訳などないし、維持するだけでも大変。名古屋城の余った石垣貰っても「要りません」とはいえずにせっせと積んだのでしょうねえ・・・(悲)

吉田城(三河) (17)
北の豊川に面した帯郭は周囲を総石垣で囲まれている。石垣の刻文は18箇所あるらしい。

吉田城(三河) (18)
敵が川を渡航しても容易に攻め込まれないように落差と折れを付け、登った先は枡形になっている。

吉田城(三河) (22)
天下普請じゃないので、適当に曲がってても藩が取り潰しになることはありません・・・・

【城跡】

豊川と朝倉川を背にして本郭、二の郭、三の郭を重ねていく輪郭式の縄張りでいわゆる「後ろ堅固(うしろけんご)」と呼ばれるものである。弱点としては主郭が川に面して晒されているので、渡航して直接攻撃されるとイッキに崩れる点であろうか。その為、吉田城は腰郭を増設して川手櫓を置き、鉄櫓、入道櫓とを多門櫓で組み合わせて防御をかなり強化している。
排水の陣のような縄張りを嫌って家康は居城にすることは無かったというが、どうであろうか。

吉田城(三河) (24)
本丸西側土塁。土の構造物を見ると安心する(笑)

吉田城(三河) (25)
南西の千貫櫓。.の石垣(東より撮影)

【石垣の刻文(刻印)】

吉田城の石垣にも名古屋城の石垣にあるような、丸に三角や扇子、軍配などユーモラスなしるしがみられます。
これを『刻文』(または刻印)といい、築城工事を分担した大名と家臣のしるしです。苦労して運んだ石を他の大名家のものと間違え、無用なトラブルが起きることのないようにつけたものです。
天下普請の名古屋城で余った石垣が運び込まれたものなので、あって当然でしょうか・・(笑)

吉田城にも約50箇所の刻文があるそうですが、一ヶ所しか見てきませんでした・・・(汗)
興味のある方は全て探し当てて下され!!

吉田城(三河) (26)
この石垣の刻印は土佐藩とか。そんな落書きあるように見えますか?

吉田城(三河) (261)
いかん、トサ(逆文字)の「ト」の位置がずれている・・・・

吉田城(三河) (29)
興味のある方は是非とも宝さがしに来て下さいませ。

【オマケのお話】

元亀二年(1571)4月28日、武田信玄が遠江・三河侵攻作戦を行い、徳川方の吉田城を攻めたという史実が通説となっているが、最近どうやらこの史実に疑義が生じているらしい。

そんな疑問を丁寧に解説しているサイトがあったので、ご紹介しておきます。

静岡県のお城

管理人はTaizoさんという方で、文献史料が専門のスペシャリストのようです。お若いのに凄いなあー(溜め息)

吉田城(三河) (31)
南東の堀び面する切岸は石垣。正面ですものカッコつけなきゃいけません!(笑)

吉田城(三河) (34)
本丸虎口。喰い違い虎口になっている。

≪吉田城≫ (よしだじょう)

標高:10.5m 比高:- 
築城年代:不明
築城・居住者:牧野氏、今川氏、松平(徳川)氏、池田氏
場所:愛知県豊橋市今橋町
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:0分 駐車場:有り
見どころ:石垣、高土塁、堀、復元櫓
注意事項:特に無し
参考文献:豊橋市発行の観光パンフレット、その他
付近の城址:長篠城、田峯城、亀山城、岡崎城、浜松城、二連木城など。(あっ、二連木城見るの忘れてた・・)

吉田城(三河) (33)
何の変哲もない二の丸の風景を見ながら吉田城とはお別れです・・・(武蔵の五遁さんをパクったゾ)



吉田城(三河) (21)
同じ築城者なのにねえー、同情しますよ・・(爆)




Posted on 2014/08/14 Thu. 16:11 [edit]

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馬場美濃守信房の墓 (愛知県新城市長篠)  

◆「不死身の鬼美濃」終焉の地にて落涙◆

武田四天王の一人である馬場信房は、信虎・信玄・勝頼の三代に仕え、戦場に赴く事およそ七十を超えるも、かすり傷負わなかった彼は「不死身の鬼美濃」と評された。

ちなみに武田四天王の他のメンバーは、山県昌景(やまがたまさかげ)、内藤昌豐(ないとうまさとよ)、春日虎綱(かすがとらつな、または高坂昌信)というのが定説らしいが、個人的には板垣信方さんを入れてあげて!と思ってます。

長篠城 (2)
長篠古戦場を見なければ死ねない・・と思いつつ2012年10月、ようやく訪問。これで寿命が尽きても大丈夫?(笑)

小生は武田フリークでは無いが、築城名人である馬場さんの終焉の地はどうしても見ておきたかった・・・。

設楽原古戦場 (49)
設楽原古戦場(したらはらこせんじょう)にある日本史上で最も有名な(?)馬防柵。

設楽原古戦場 (52)
背の低いポニーのような馬でこんな柵に突進するほど武田軍はアホだったとは思えません・・(汗)

武田の騎馬軍団といえば、西部劇で地元住人のインディアンを駆逐するような背の高い馬をイメージする人が多いと思いますが、背の低い日本人があんな馬に乗れる訳無いでしょう。

それに馬は移動手段として貴重だったので、戦場に投入したとは考えづらいというのが持論です。無論、大将はもちろん、幹部クラスや将校などが退却には使ったと思われます。

設楽原古戦場 (57)

既成概念を打ち破るというよりは、リセットして考えてみる。「この戦争はここで本当にあったのだろうか??」

天正三年(1575)5月21日。「その時 歴史は動いた」 が、武田壊滅の真相は後世の創作が邪魔しているような気がしてならない。


【長篠城攻防戦と設楽原の戦いの真相は謎である】

双方が合戦に及んだ最中に、合戦時に死ぬ奴は少ない。大量の死傷者が出るのは、敗者が退却する時である。勢いに乗った敵方が、戦意を喪失し逃げ支度をしているわが軍に攻めかかれば大量の戦果を挙げられるであろう。

長篠の戦いも、織田・徳川の軍勢が優勢な展開に終始した事も有り、、武田軍の死傷者の数は、退却も含めて相当な数となった。

設楽原古戦場 (45)
設楽原古戦場の遠景。双方合わせて数万の軍勢が雌雄を決した古戦場などとは思えない狭さである。

設楽原の戦い(長篠合戦)における武田方の敗因は諸説あるが、御一門衆である穴山信君(あなやまのぶただ)の命令違反による戦線離脱というのが真相に近いと云う。

山県や馬場が勝頼に、織田・徳川との決戦を避け本国への撤収を諫言したが聞き入れられず、やむを得ず戦端を開いたという説が主流であるが、果たしてそうであろうか?

長篠城の包囲戦を指揮し、設楽原における決戦を主張したのは穴山梅雪(信君)であり、勝頼は意見する事も出来ず戦況が悪化するのを見届けるしかなかったというのが真実に思えてならない。

設楽原古戦場 (60)
敗れた武田軍は信濃に退却するために北へ逃れたと云う。

●馬場美濃守の最期 ※ウィキぺディアより引用

元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれたという。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは確たる資料に出てくる話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。享年61。豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

長篠城 (58)
長篠城近くにある馬場美濃守の墓所。ちょっと分かりづらい場所にある。

小生は武田フリークでは無いが、甲州流の美しく堅固な城を数多く手掛けた馬場美濃守信房の隠れ信者である。

彼の最期の地を訪れるのは巡礼にも似た心境である・・・

長篠城 (59)
馬場美濃守信房の墓所。

武田家の重臣として敗戦の責めを背負い、殿軍(しんがり)として勝頼を守り、武田家の再起を願う彼の想いが聞こえたような気がして、不覚にもその場で落涙した次第である・・・。

設楽原古戦場 (2)
馬場美濃守着用の鎧 (長篠城址史跡保存館)

≪馬場美濃守信房の墓≫ (ばばみののかみのぶふさのはか)

標高:50.0m 比高:-
場所:愛知県新城市長篠西野々51-1
攻城日:2012年10月10日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
付近のスポット:「長篠の戦い史跡めぐりコース」でがっつり見て廻りましょう。 







Posted on 2014/07/11 Fri. 23:36 [edit]

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小笠山砦 (静岡県掛川市入山瀬)  

◆若き家康の執念を感じる前線基地◆

田舎ネズミの「おのぼりさん旅行記」はもう少し続くので我慢して頂こうか・・(汗)

高天神城の攻略の為に徳川家康が六ヶ所の付け城を築いていたのは知っていたが、この時の攻城リストには全く無くて、いずれまたの機会があれば・・と思っていた。

小笠山砦 (1)それは決して見てはいけない看板だった。

当日の最終目的だった相良城を見学して、その日は掛川市での宿泊だったので、県道37号線経由で菊川に出るはずが、カーナビ距離優先お任せコースでどういう訳か県道251号線へ入る。

道路のカーブにあった看板には「小笠山砦」

「??????????????」

思わずUターンして確かめる始末であった(笑)

既に夕方も近かったので、「また あ~と~で!」 思い付き人生のノーテンキとはこの事であった・・・(爆)

小笠山砦 (2)小笠山神社社務所。郭跡だったと思われる。

翌日、掛川城の見学時間を大幅にカットして小笠山砦へ突撃する。

予備学習無しに突入するのは気が引けたが、行けば何とかなる?・・・結果、後の後悔先立たず・・・(汗)

徳川家康が高天神城の付け城として築いた六砦(小笠山砦、三井山砦、中村城山砦、能ヶ坂砦、獅子ヶ鼻砦、火ヶ峰砦)の中では規模も技巧も優れたメインの砦が小笠山砦らしい。

小笠山砦 (3)笹ヶ嶺御殿手前の横堀。

何といっても、砦跡のある小笠神社まで車で行けるのが嬉しい。

山城探訪で大切な事は「いかに最短で体力を使わずにその場所に辿り着けるか?」である(笑)

残念ながら小生のような横着者の住む信州では、それを許してくれる城跡は少ないのが現実であろうか(汗)

小笠山砦略図

実はこの砦、帰ってきて後から調べてみると、小笠山の頂上まで遺構があり小生が見てきたのは「笹嶺御殿(ささ
みねごてん)」と呼ばれる入り口の遺構だけだったようである・・・・(悔)

偉そうに云ってるものの、所詮は田舎のネズミ。このことであった(笑)

小笠山砦 (4)遊歩道の設置で改変された笹嶺御殿への登山道。

小笠山砦 (5)櫓台(?)跡。

この砦は、徳川家康が今川氏真の籠る掛川城を攻める際の付け城として築かれたようで、その後の高天神城奪還の戦でも、武田軍の補給路封鎖作戦で重要な役割を果たしたという。

徳川家康が築いた山城という構図はピンと来ないが、徳川さんも山城(陣城)は作れたようである・・(爆)

小笠山砦 (9)いい味出してる堀底の標柱。

陣城(付け城)如きでこれほどで凝るのか?という改修であるが、家康さんは縄張りには関わっていないと見るべき。

何故かって?

縄張りがキチンと出来る武将が、城攻め(攻城戦)を不得手とするのはあり得ない事ですもの・・・(笑)

小笠山砦 (10)城域西側の薬研堀と切岸。

小笠山砦 (16)御殿跡の説明板。

いつもなら尾根先まで駆け上がるのに、この日はどうしたことか説明板を見て安心してしまった。

見るべき遺構はもっと先にあったのに・・・・・

小笠山砦 (18)笹嶺御殿の先の土橋と天然(?)の堀割。

小笠山砦 (29)御殿下の帯郭。

小笠山砦 (27)南西斜面の竪掘。

高天神城の攻略に対して他の五つの砦の中心となり、南を抑える横須賀城とともに重要視されたのであろう。

「二度、三度訪れてみないと、その城の姿は見えてこない」 まさにその通りである。

しかし、信州からは遠い(笑)

≪小笠山砦≫ (おがさやまとりで 笹嶺御殿)

標高:264.8m 比高:206m
築城年代:永禄年間?
築城・居住者:徳川氏
場所:静岡県掛川市入山瀬
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:数分 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切など
注意事項:山頂付近へ向かう途中の一騎駈けの尾根は転落注意だとか・・(自己責任でね)
参考文献:
付近の城址:高天神六砦、掛川城、高天神城、横須賀城など

小笠山砦 (31)山麓の国道409号線から見た小笠山砦。










Posted on 2013/09/27 Fri. 07:27 [edit]

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設楽城 (愛知県北設楽郡東栄町)  

◆別所街道を見張る要塞◆

先日は甲斐国へ遠征し五ヶ所攻め落とす予定が移動時間を読み違えて三ヶ所で終了するおバカな遠征軍(笑)

然らば返す刀で山布施、七二会にある四つの城へ攻め入るが、得体の知れないケモノの威嚇に恐れおののく(汗)

「真面目にブログ更新しろよ!!」     仰せの通りでござる・・・・(爆)

今回ご紹介するのは、奥三河の隠れた名城の誉れ高き「設楽城(したらじょう」

設楽城(三河) (28)素敵な地名です。

この城、元々今回の攻城戦ツアーのリストには無くて、湯谷温泉で一泊して別所街道経由で信州へ帰る途中で偶然看板見つけて攻め込んだ次第。

お城の匂いがすれば、何処でも攻め込むってワケさ・・(笑)

設楽城(三河) (4)道広げ過ぎでしょ!

説明板によれば、建久元年(1190)設楽資時が設楽八名の領主となり、正和元年(1312)に設楽重清が岩瀬郷へ配置換えとなるまで約120年間を設楽氏が治めたという。築城時期もその頃らしい。

そんでもって気になったのが駐車場の説明板に書いてあった最初の文。

「この城跡は、三河山間部に多い山城のうちの最古のものの一つで、鎌倉時代初期の形式を良く残している。設楽氏の居城であったと云われ、戦国時代にはすでに城がなくなったと推測されている」

設楽城(三河) (1)

「へえー、鎌倉時代の山城なんだあー(汗)」

鎌倉時代初期の形式ってどんな定義なんだろう?教えて欲しいなあ・・・

戦国時代には無かった?小生のようなシロウトが見ても、戦国時代末期までバリバリ現役だったと思えるんですが、どうでしょうか?

設楽城(三河) (5)郭2背後の大堀切。

【立地と概要】

大千瀬川が北へ大きく蛇行する場所に突き出た半島状の小山でまさに要害の地である。現在は国道151号線が城域の南側を通っているが、往時の別所街道は川の北側であり三河と信州を結ぶ間道としても重要だったと思われる。
城域は南北約300mで四つの曲輪からなり大手は鞍部付近であろうか。
城の東側にある加賀野集落と先林を繋ぐ橋の名は「戦橋」と呼ばれ、籠城時には破壊され敵の侵入を防いだものと思われる。

設楽城縄張図①まさに「背水の陣」の縄張りである。

三河の城は川を背後にした造りが多いと思うのは気のせいであろうか?

長篠城も吉田城も二俣城もそんな感じ(笑)

設楽城(三河) (16)南側の高土塁が丸馬出しを彷彿とさせる郭2全景。

設楽城(三河) (6)堀埋めちゃったみたいです。

設楽城(三河) (12)東側の沢に残る堀切。


この城の最大の見どころは「郭2」であろう。

武田流を思わせる丸馬出しっぽい半円形の土塁。三日月堀だったら最高なんですが残念!!・・(爆)

設楽城(三河) (7)イイねえー。

えっ?他も一応見たいって?

本郭は慰霊碑建立で改変されたようで、唯一残っているのは背後の土塁が一部分。全周していただろう土塁は削られたんでしょうか。

設楽城(三河) (14)こんなんイランわ!

設楽城(三河) (9)土留めの石積みの残る土塁跡。

設楽城(三河) (23)細長いだけの郭3。

設楽城(三河) (26)鞍部の最終の堀切。大手はこの方面だったか?

城域はそんなに大きくないが、三方を川と断崖絶壁に守られた要塞である。

その気になればある程度の期間は敵を引きつけておけるだけの機能は充分にある。

武田統治時代に大幅な改修を受けて戦国末期まで使われたと思われるが、如何でしょうか?

≪設楽城≫ (したらじょう 城山)

標高:294.0m 比高:47m
築城年代:不明
築城・居住者:設楽氏、大勢力?
場所:愛知県北設楽郡東栄町
攻城日:2012年10月11日 
お勧め度:★★★☆☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
注意事項:特に無し
参考文献:
付近の城址:

設楽城(三河) (29)城市(しるいち)からみた設楽城全景。













Posted on 2013/09/23 Mon. 12:02 [edit]

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掛川城 (静岡県掛川市掛川)  

◆信玄も捨て置いた遠江に刺さる徳川領境目の堅城◆

見出し(サブタイトル)には結構こだわっているので、それが決まらないと(ってか気に入ったタイトルでないと)記事も書く気になれない・・(笑)

日本100名城巡りの様相を呈してきたようで恐縮だが、田舎ネズミの「オノボリサン」の道中日記として読んでいただければ幸いである(汗)

掛川城 (2)大手門番所。安政六年(1859)の建築。何故か掃除中(?)


大手門が現存する城郭は多いが、大手門番所が残っているのは非常に珍しいという。小生も初めてお目にかかった。

廃藩の際に建物を藩士が譲り受け移築したものを、大手門の再建に伴い寄贈を受けたという。ありがたい。

掛川城 (1)復元された大手門の奥に見えるのが番所。

「いきなり番所かい!」

だって、現存する建物の中では一番お気に入りですもの。二番目は太鼓櫓。まして山内一豊は嫌いだし(爆)


【城主・城歴】

掛川古城は現在の場所から東へ500mの逆川の北側にあり、駿河の守護大名今川氏が遠江支配の拠点として重臣朝比奈泰煕(やすひろ)に築城を命じたのが始めと伝わる。(1497~1501)

その後、今川氏の勢力拡大に伴い、永正九年(1512)に現在の地点場所に新たに縄張りをしたという。

桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られると、武田と徳川は今川領に侵攻し今川氏真は駿府を逃れ掛川城へ籠城。

徳川家康はこれを攻めるが、容易に落ちない為、力攻めを諦め和睦にて開城させる。

家康は掛川城の城将を石川家成(石川数正の従兄)に命じ、武田軍の侵攻に備えた防御拠点とした。

掛川城 (12)相変わらずアングルがヘタクソ極まりない(笑)

不思議な事に、信玄は遠江侵略において高天神城を囲み、諏訪原に砦を築いても掛川城は無視し続けた。

蹴鞠しか能の無い氏真でも守れる城を徳川が守れば手強い・・・そう感じたのであろうか?

その後、家康の関東入国に伴い、掛川城には秀吉子飼いの武将山内豊一が天正十八年(1590)五万石で入城する。

慶長六年までの10年間で彼は戦乱に明け暮れた領国の治世と城下の整備に努め、掛川城も石垣と天守閣を持つ近世城郭に変貌を遂げた。

掛川城 (13)打込みハギが美しい太鼓櫓の石垣。

掛川城 (14)四足門から見た太鼓櫓。

江戸時代の掛川城は徳川譜代大名の城として石高では2.5万石~7万石程度の11の大名家の居城となった。

天守閣は嘉永七年(1854)の東海大地震で倒壊し再建されることは無かったが、幸いに二の丸御殿、太鼓櫓、蕗の門は無事で、明治二年の廃城まで残ったという。(御殿は現在も残り公開されている)

天守閣の再建は平成六年で木造による。

掛川城 (15)俗に言う「日の丸撮影」(笑)中心に撮影の被写体を取り込む手法だが、城の撮影ではアングルをうまく使えば充分に「有り」だという。

「青空の背景」「白亜の天守」「石段」「切岸」「打込みハギの石垣」

これだけ揃ったら、近世城郭に夢中になった過去を充分思い出せる。

「しかし、過去は振り返らない。振り返るな、君は美しい・・・・」(何か歌の歌詞にあったなあー・・爆)

掛川城 (18)天守閣入り口から「振り返る」

地震は起きてしまったが、幸いにして徳川の支配以降は、戦乱に巻き込まれる事が無かったのは幸いであろう。

籠城戦で派手に活躍した城ばかりが有名になる傾向があるので、掛川城を擁する市民としては姫路城バリの有名税が欲しいというのは文句が言えない。

しかし、小生、この日に掛川城へ入城する際にとても嫌な思いをした。

今流行の「お・も・て・な・し」の心など、窓口で対応した職員には微塵もなかった。

開門時間は9:00、小生が辿り着いたのは8:55.

入場券売り場には職員らしきオバさんがいたので、入場券を買い求めようとしたら拒否された。

「9:00までお待ちください!」

小生の他にもう一人観光客がいたが、小生の問答を聞いたらしく引き下がった。

掛川城 (24)天守閣の展望台から見た二の丸御殿。

小生が立腹したのは、小山城の方は10分前でも「嫌な顔一つせずに入れてくれた」事実と比較してしまったからである。

お役所の役人根性か・・・時間正確に始まり、どんなに仕事が残っていても時間通りに止めてサッサと帰るのだろう。残念だった。

山内一豊が嫌いだったので、掛川市も余計に悪い印象となった。

掛川城 (25)

遠くから足を運んでくれた観光客にこのような対応をいつもしてるのか心配になった。

上田市も他人事じゃないよなーって思った。

掛川城 (10)十露盤堀(そろばんほり)のアップ。由来はもちろん「巴の算盤」(笑)

掛川城 (11)武田流の三日月堀なのだが、山内一豊が監修?

掛川城 (37)十露盤堀と太鼓櫓。

まあ、あまり良い思い出が遺せなかった掛川城だったが、「戦国の城」の一部分が残っている。

それは、二の丸御殿の東側の「黒塀」と呼ばれる土塁であった。

掛川城 (42)

害した気分が救われました。(ホッ!)

掛川城 (40)近世城郭ファンには垂涎の一枚だろう。

≪掛川城≫ (かけがわじょう)

標高:50.0m 比高:27m
築城年代:不明
築城・居住者:朝比奈氏、徳川氏、山内氏、他
場所:静岡県椿原郡吉田町片岡
攻城日:2012年10月9日 
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:-分 駐車場:有り
見どころ:大手門番所
注意事項:開館は絶対に9:00です(笑)
参考文献:
付近の城址:高天神城、諏訪原城、小山城など






Posted on 2013/09/18 Wed. 22:53 [edit]

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