らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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岩殿城 (大月市賑岡町岩殿)  

◆滅びゆく武田宗家に引導を渡した小山田信茂の英断の真実◆

偉そうに云うつもりはないが、歴史は結果からの考察しか出来ない。

なので、その結果に至る過程は推察でしかない。

常に戦争の勝者には歴史を書きかえる権利が与えられる。敗者のそれまでの為政など上書きされ完璧に消される。

岩殿山城 (63)
昨年6月に世界遺産に登録された富士山。(2013年9月 岩殿山登山口より撮影)

信州に住んでいると、浅間山こそが「おらがまちの文化遺産」と思っているので富士山の有難みが薄れる・・・(笑)
えっ、北アルプス?・・あの異様な大自然の屏風は国宝の審査対象でしょうが・・・・(汗)

今回ご案内するのは、前号でチョコッと紹介した岩殿城。なのでイッキに掲載しますか。

岩殿山城 (1)
駐車場の看板も的確ですが・・・

これから攻め入る場所が遠く果てしなく険しい事は、「頂上が見える場所は楽じゃない」という実戦経験が物語る。

岩殿山城 (61)
ここまで来たら帰れませんよね(笑)

【立地】

桂川の左岸、JR大月駅の北東に聳える岩殿山の山頂部中心に遺構が残る。この独立した岩山は、東側には葛野川、南に桂川、西側には浅利川が流れ、その山体は巨大な岩壁に囲まれ、正に天然の要害である。登路は南山麓から中段の丸山を経て揚木戸に至る道と、東側山麓から馬場に辿り着く遊歩道が整備されていて登り易い。

岩殿城 (62)
遊歩道とはいえ、比高285mを登るのはツライ。慣れていてもイヤだと思う。

【城主・城歴】

「甲斐国司志」の古蹟部「岩殿城跡」に記述があり、小山田氏の要害とされている。しかし、小山田氏の居館のある谷村(やむら 現在の都留市上谷)からは6km以上も離れており本城とは考えにくい。
登り口の説明板にある通り、「岩殿山円通寺」としての経歴から追ったほうが的を得ているようである。

岩殿城 (3)
冠木門の脇に岩殿山の説明がある。

●岩殿山の概略  ※寺社研究サイト「がらくた置き場」様の説明文を引用しています。

創建については「甲斐国志」「甲斐叢記」では棟札現存と云い、
「行基菩薩が大銅(同)元年(806)に建立して以来、永正17年(1520)に至り寺が大破したので、上総国の賢覚阿闍梨が再建のために有志の奉加を求めた…云々 」 (「甲斐国志」)と云い、大同元年行基の開創と云う。
他に創建を伝える資料としては、三重塔の枡形に「承平3年(933)七月廿五日大檀那孝阿禅尼」の銘文があったとする。
 (「殿居風土記」「甲斐国志」「甲斐名勝志」など)
「峡中家歴鑑」北条高順の項には、第一世義秀が承平年中(931~937)に一寺を建立し、これが岩殿山円通寺の始めと云う。

最盛期には三重塔・観音堂・常楽院・大坊・新宮・不動堂など多くの堂宇があり、境内地は岩殿山頂から東麓一帯 を占めたと推定される。
中世には常楽院・大坊が円通寺うを護持し、両者は聖護院末として寺領を保障され、本山派修験の郡内元締めとして勢力を保持する。
またこの頃、郡内では小山田氏が台頭し、長年の抗争の後、武田氏との和睦が成立し、円通寺は武田、小山田の両氏の庇護を受ける。
と同時に戦略上の観点から「岩殿城」が構築される。
江戸期には幕府統制によって寺領や霞場を多く失い次第に衰微する。

明治維新の神仏分離の処置や修験宗廃止の布告(明治5年・1872)などで、常楽院・大坊は復飾(常楽院は神勤か)、大坊 の後裔は 医業を営むと云う。(2011/08/27修正)
かくして、明治8年円通寺(常楽院・大坊)は廃寺となる。(円通寺三重塔、観音堂、不動堂などの多くの建物や資料が失われる。)
ただし、真蔵院は常樂院の内庵であったが、真言宗慈眼寺末であった(「甲斐国志」)ため、廃寺は免れる。

岩殿城 (6)
丸山公園には模擬櫓が建つ。この場所にも円通寺関連の施設があり城の大手口として整備されたと思われる。

戦国時代には、寺社領の保護や寄進を名目として積極的に宗教勢力を抱え込んだ事は周知の事実である。
円通寺とて例外ではなく、修験道場であった岩殿山が相模原の北条氏に備える城砦として要塞化されたとしても不思議はない。

最近の研究では、岩殿城は武田の領国経営における重要な直轄の支城として築城され、相模の北条氏に対しての備えであると同時に郡内を領国とする小山田氏への監視という重要な任務を帯び、国中(府中)から城番を派遣していたという。これは南部を領国とする穴山氏に対しても見られる支配構造で、武田信虎による甲斐統一以降といわれる。

岩殿山城 (8)
岩壁を左へ迂回する遊歩道を黙々と20分間登り続けるのであった・・(汗)

天正十年(1582)三月三日、新府城で軍議を開いた武田勝頼は、迫りくる織田軍を前に岩殿城への撤退を決断する。
この時の岩殿城は小山田信茂の居城のように書かれているが書物が多いが、岩殿城は武田氏直轄の城なので、小山田に遠慮する理由はない。ただ、岩殿城は小山田氏の領地内にあるので、小山田氏が織田への投降を決定すれば入城させないのは当然の話である。(事実そうなったが・・・)

※余談だが、この時の軍議において真田昌幸は勝頼に対して岩櫃城(いわびつじょう)へ退くよう進言したという。(ちなみに岩櫃城は真田の持ち城)
この時すでに昌幸は北条氏と内通していたので、真意の程は定かでない。

岩殿城見取図①

武田が滅亡し、領主であった小山田信茂も主家を裏切る不忠者として織田信長によって処刑される。
その後勃発した天正壬午の乱では、郡内(都留郡)をいち早く占拠した北条方が一時的に岩殿城を対徳川の拠点として利用したらしいが、主戦場が北部だった事もあり、甲斐における徳川の覇権が確立すると同時に廃城になったという。

岩殿城 (9)
揚城戸(あげきど)と呼ばれる石の城門。ここを封鎖されれば攻めようがない。

岩殿城 (12)
揚城戸から郭10への通路。運よく城戸を突破してもこの狭間空間で殲滅させられるのであろう。

岩殿城 (13)
郭11。番所跡という看板があるが、物見台であろう。

【城跡】

城へのルートは三ヶ所あるようで、南側の丸山からのルート、円通寺背後からの東側搦め手ルート、そして今回は時間が無くて断念したが西側の築坂峠・兜岩(稚児落とし)ルート。(甲斐国誌ではこれが大手道だという)

岩殿城 (14)
坂虎口(縄張図で城門とした場所)

岩殿城 (16)
郭10の西端。この先には円通寺の修験者が修行したと伝わる大きな岩がせり出していたが、崩落の危険があるので撤去されたという。

城の居住区は展望台(南物見)のある場所(7・8・9)を中心に、東側の5と6へ続く。
巨大な岩壁の上にこのような場所があるとは想像出来ない。視界も良好である。

岩殿城 (19)
馬屋の標柱が建つ郭7。このような場所まで馬を連れて登れるのだろうか・・・

岩殿城 (24)
郭8。乃木大将の詩碑が建つ。日露戦争の203高地の戦いで無謀な突撃を繰り返して命令した残念な人である。

岩殿城 (27)
「えー、まだ登るの?もう勘弁してちょー!!」(笑)

話は脱線するが、先日届いた「甲斐の山城と館㊦」で城館の位置を示した地図と、ここの展望台から撮影した写真を比べて見ていたら、「妾婦屋敷」(しょうぶやしき)が目の前に写っていた。

岩殿城 (22)
市立図書館の辺りが志賀城の笠原夫人が住まわされた屋敷跡だという。

宮坂武男氏の調査によれば、天文十六年(1547)に行われた佐久の志賀城攻めで、落城後に捕らわれた志賀城主の笠原夫人は戦利品として甲州に連行され、小山田羽州に与えられあっといい、その婦人が置かれた屋敷だと甲斐国誌に記載があるという。

史実自体は「高白斉記」に書かれているので間違いは無いが、果たしてここなのか?という疑問は残る。
それにしても彼女の過酷な運命には同情を禁じ得ないものがある(涙)

岩殿山城 (23)
桂川の流域東側の史跡群。

岩殿城 (28)
郭9。(兵舎の標柱)

話を元に戻そう。
城跡には至る所に標柱があるが、あまり参考にはならない(汗)
まあ、確かに馬は大事だが、こんな山の上にまで連れてくるだろうか?カモシカなら理解できるが。

岩殿城 (32)
郭6は東へ向けて傾斜地になっている。馬場跡らしいが馬場邸跡ではなかろうか・・(笑)

岩殿城 (33)
長屋のような掘立の建て物があったのだろうか?

岩殿城 (35)
看板のある辺りが郭4。

電波塔のある場所が最高部で主郭になる。改変は最小に抑えられたようで、北側の土塁も残存している。
背後には二条の堀切があり防御しているが、この尾根から攻め上がるのは至難の技だ。

岩殿城 (38)
史跡も大事ですが、大月市民のテレビ受信には必要な施設です。(郭1)

岩殿城 (40)
烽火台の標柱が突き刺さる土塁跡。

岩殿城 (42)
堀切㋐(上巾13m)を見下ろす。

岩殿城 (47)
堀切㋑(上巾9m)

武田さんちの山城としては、非常にシンプルな作りです。もっとも、これだけの天然要害に立地しているので、縄張で工夫する必要も無かったのでしょう。

最期に水の手のご案内。

こんな山の上でも水が出るってのは驚き・桃の木・山椒の木・・(古いっ!)

岩殿城 (51)
右が飲料用の亀ヶ池、左が兵士や馬の水浴び用の馬洗水と呼ばれる。

さて、如何でしたでしょうか?

掲載している小生も、だんだん面倒くさくなって記事も雑になり、写真も工夫するのが億劫になってきました(笑)

岩殿城 (60)
丸山公園のふるさと館では無料のトレッキング地図が貰えます。ありがたい。


【小山田信茂の心変わりについて】

御一門衆と呼ばれた穴山梅雪の徳川への寝返りは、武田軍団の崩壊を決定的なものとした。

信茂は譜代衆として信玄・勝頼の二代に仕え、特に長篠の合戦では、武田軍最大の三千の兵を率いて戦い千名の死者を出したと云う。穴山梅雪がロクに戦いもせずに引き上げたのとは対照的である。

「もはや これまでか・・・」

血縁関係を結んだとはいえ、信虎と和睦し臣従する前の小山田家は秩父氏の流れを組む郡内を領有したいた国人衆である。
このまま勝頼が小山田信茂の領地内にある岩殿城へ撤退・入城し籠城戦になれば、小山田の領民が戦禍に巻き込まれるのは避けられない。また、北条勢が呼応して相模から攻め込めば、郡内そして小山田氏の本拠地である谷村(やむら 現在の都留市)も戦場となるのは目に見えていた。

滅ぶ武田家に殉ずるよりも、家名を存続し領土領民をまりたい・・・・・彼の脳裏に浮かんだのはこのことであった。

岩殿城 (5)
小山田信茂の英断により戦禍を免れた岩殿城の城下(大月市)

残念ながら、勝頼を最後に裏切ったという印象の為に評価の低い小山田信茂。

裏切られた勝頼もまた、オヤジの遺産を食いつぶした放蕩息子という残念な評価。

敗者の名誉回復のお役に立てたら・・と切実に思っているが、どうでしょう?(笑)

≪岩殿城≫ (いわとのじょう)

標高:637.5m 比高:285m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県大月市賑岡町強瀬
攻城日:2013年9月21日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:30分
見どころ:土塁、揚城戸、水の手の井戸、岩壁、物見台からの絶景など
注意事項:特に無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊦」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:記事参照

岩殿城 (65)
岩殿城全景。

稚児落としの伝説は、またいつかお話しましょうネ。



Posted on 2014/06/29 Sun. 16:29 [edit]

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