らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0328

竜ヶ崎城 (上伊那郡辰野町宮所)  

◆伊那谷の北を固める城◆

気がつけば既に三月も終わりかけている。

北信濃の一部を除けば、ゴールデンウィーク前あたりまでが山城巡りのラストスパートになる。

虫も、蛇も、そして最強のクーさんも活動を再開するのだ。何てこった・・山城ツアラーの皆さん、お急ぎあれ!(汗)

んで、今回ご紹介するのは、伊那谷最北端の要衝を抑えた「竜ヶ崎城」。

丸山秋葉砦(辰野町) (24)
城域の南東にあるJR飯田線の辰野駅付近から見た竜ヶ崎城。

【名前の由来】

天竜川と横川川が合流する南東付近から北を見ると、穴倉山から尾根伝いに長く伸びた先端が小高く盛り上がり、あたかも竜が寝そべっているような姿に見える。
竜ヶ崎の名前の由来はその景色からだといい、昔の人の感性には感心させられる。

竜ヶ崎城(辰野町) (1)
竜ヶ崎城の登り口。城跡は現在公園として整備され辰野町民の憩いの場となっている。

【立地】

竜ヶ崎は、横川川と小横川川の二筋の川が包み込むように守り、北の背後は穴倉山の大きな山塊と細く延びた尾根筋が守る要害の地である。標高865m、比高130mで、南から見れば三角錐の独立した山のように見える。山頂に立てば伊那の谷が一望のもとに見渡せ、しかも、伊那と松本平を結ぶ交通の要衝に位置することから、早くから戦略的に重要な山城としての役割を担っていた。

竜ヶ崎城(辰野町) (5)
登り口から数分で居館跡と推定されている竜ヶ崎公園の平地となる(80m×30m)。日当たりも見晴らしも最高。

竜ヶ崎城(辰野町) (6)
居館跡から見た辰野町中心部。脇を小横川川が流れる。

【宮所居館跡】

かつてここに御射宮司社が祀られており、「急御社宮司蹟」の碑が今にそれを伝える。ここからは守屋山が正面に望め、諏訪信仰の地であったことを伺い知ることができる。

竜ヶ崎城(辰野町) (10)
公園の北側に残る「御社宮司跡」の碑。

【城主・城歴】

中世、広くこのあたり一帯は宮所郷と呼ばれ、諏訪上社に関係の深い地であった。伊那と松本平を結ぶ要衝の地として重要な山城と認識され、神長官守矢満実が記した寛政五年(1464)の記事に「上伊那宮所竜ヶ崎之城」と見え、「諏訪御符札之古書」文明十九年(1487)の記事には、高遠の諏訪継宗が「りうか崎之城」を取立て、知行したことが記されている。

竜ヶ崎城見取図①

竜ヶ崎城(辰野町) (13)
居館跡(公園)の背後の堀切。

【城跡】

典型的な城館一体型の城跡で、背後の城は穴倉山から伸びる尾根の先端を利用した連郭式なのだが、土塁に囲われた主郭以外の郭は小さく、尾根を執拗に建ちきる数条の堀切で構成されている。
また、主郭の西側の斜面には畝状竪掘が四本確認出来る。小笠原氏の縄張の影響を受けているように思える。

竜ヶ崎城(辰野町) (29)
急斜面を登ると最初に郭4がある。

竜ヶ崎城(辰野町) (31)
上巾5mの堀切㋑

竜ヶ崎城(辰野町) (39)
郭2から堀切㋒(上巾7m)とその先の堡塁っぽい郭3を見下ろす。かなり急な斜面を意図的に利用している。

城域の東西の斜面はかなり傾斜がきついので、攻め手は居館を制圧してその大手筋を攻略するしかない。
なので、防御の指向性は南尾根なのだが、本気で守ろうとする意欲が感じられない縄張りだ・・(笑)

竜ヶ崎城(辰野町) (40)
何とも中途半端な作りの郭2とその周辺。

通常であれば斜面に段郭を重ねて敵の侵入速度を落とし、堀切を加えることで正面を厳重に警備するのだが、堀切と痩せ尾根の1本道に頼り過ぎているようだ(汗)近隣との抗争に耐える程度の防御ならこれでも良いが、後詰めを要する大軍相手では支えきれないと思う。(現に武田軍に攻められ落城の憂き目にあったが・・)

竜ヶ崎城(辰野町) (43)
郭2の背後の天水溜め(?)には「コノハナノサクヤビメ」(初代天皇の神武天皇の祖母)の碑が建つ。

竜ヶ崎城(辰野町) (44)
主郭とその手前の大堀切㋓(上巾13m)

竜ヶ崎城(辰野町) (53)
主郭から見下ろした堀切㋓と郭2の周辺。

この城跡の最大の見どころは主郭の西斜面の畝状竪堀と、主郭背後の大堀切、東斜面を這う竪掘りの造形美だろうか。

最近は堀切フェチ(?)に傾きつつある小生も、斜面の藪に隠れた畝を見つけると何か嬉しい・・・(笑)

竜ヶ崎城(辰野町) (118)
土塁の全周する主郭(27×11)

竜ヶ崎城(辰野町) (76)
主郭背後の堀切㋔(上巾18m)

竜ヶ崎城(辰野町) (64)
堀切㋔に並行する畝状竪掘。

竜ヶ崎城(辰野町) (70)
西斜面を断ち切る堀切㋔。畝状竪掘りとの組み合わせが効果的である。

大堀切㋔に対する二重堀切として堀切㋕が尾根を切断するのだが、この堀切は平瀬城や塩崎新城に共通する集合堀形式で、小笠原流を踏襲したもののようだ。

竜ヶ崎城(辰野町) (80)
東斜面から見た堀切㋕。

竜ヶ崎城(辰野町) (82)
集合堀となって東の沢に落ち込む。沢からの横移動w意識してかなりの長さで掘りこまれている。

竜ヶ崎城(辰野町) (87)
主郭背後の防御処理は素晴らしい。(堀切㋕の尾根)

WEB上で記載されている竜ヶ崎城の遺構の紹介は、ほとんどがこの二重堀切で終了している。

時間切れなら仕方ないが、「尾根は寄り道しても辿るもの」というのが小生のセオリーで、思わぬ発見もあるものだ。
(というものの、無駄な徒労に終わるケースが大半・・汗)

竜ヶ崎城(辰野町) (91)
少し北へ進むと堀切㋖。

竜ヶ崎城(辰野町) (92)
自然地形の「あれ」っぽいが、北側斜面に掘られた堀切㋗


【武田信玄の福与城攻めと竜ヶ崎城】

天正十三年(1544)、本格的に上伊那新興を開始した武田信玄は、翌十四年には軍を杖突峠より藤沢の谷に進め、高遠を攻めてこれを落とし、引き続き、藤沢頼親(ふじさわよりちか)の立て篭もる箕輪の福与城攻めに取り掛かり、これを包囲した。
この時、頼親に加担した松本之小笠原長時は、大軍を上伊那口に進め、宮所(辰野町宮所)の竜ヶ崎城を拠点に、羽場、北大出付近まで牽制の陣を敷いた。

これに対して武田方は、板垣信方の軍がこれを攻め、小笠原方は奮闘するも敗れ、竜ヶ崎を捨て北に退却した。
(小平物語、高白斉記)

竜ヶ崎城(辰野町) (94)
尾根上の細尾根に堀切㋘。

竜ヶ崎城(辰野町) (102)
城域の最北端となる堀切㋚。この先には何も無い。

城域の北側は茸山(松茸などのキノコ山)になっていて、有刺鉄線が尾根状に張られているので探索の際はケガをしないように注意が必要。

竜ヶ崎城(辰野町) (105)
堀切㋙の東斜面の窪地には井戸跡が確認出来る(残雪の部分)

※福与城の戦いについては、小生の記事の福与城をご参照下さいませ。

小笠原長時らの軍勢は竜ヶ崎に15,000の兵を後詰めとして置き、福与城の南方には鈴岡小笠原(長時の弟)の軍勢が陣を展開し、板垣信方らの武田軍は挟み撃ち状態となり万事休すのはずだった。

普通であれば、ここでイッキに攻めて蹴散らすのが常識なのだが、慢心した長時さんは詰めるどころか窮鼠猫を咬む方式の武田軍の逆襲により敗退してしまう・・おバカ!!(笑)

呆気にとられたのは福与城の藤沢頼親と鈴岡小笠原軍であった。

これじゃ後詰めどころでなく、鈴岡小笠原は退却し、藤沢氏は和議を申し入れて開城を余儀なくされる。

竜ヶ崎城(辰野町) (38)
竜ヶ崎城の見張砦の大城と丸山砦(推定)

下の居館に詰めたとしても15,000の兵隊が籠城するには無理がある。

往時の兵力を1/10としての城に籠れるのは100名でもキツイ。残りは丸山砦や大城周辺に展開していたと思われる。

それにしても長時さん、常識を逸脱した戦闘ぶりは、8億円で熊手を買ったとかいう何処かのボンボン党首と同じ匂いでございますなあー(爆)

冗談はさておき、小さいながらもしっかり遺構の残るお勧めの山城です。景色だけでも価値があります。

≪竜ヶ崎城≫ (りゅうがさきじょう 宮所の城山)

標高:865m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:上伊那郡辰野町宮所
攻城日:2014年3月21日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:無し(墓地脇の空き地へ駐車)
見どころ:居館跡、背後の二重堀切、畝状竪堀、素晴らしいロケーションなど
注意事項:秋は止め山なので主郭背後の尾根には行かない事。有刺鉄線に注意。
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那谷の城」(三浦孝美氏の記述一部引用)「信州の古城」(2007年 郷土出版社)
付近の城址:大城、荒神山陣場、天白の城、羽場城、丸山砦など

丸山秋葉砦(辰野町) (25)
丸山砦から見た竜ヶ崎城遠景。





Posted on 2014/03/28 Fri. 22:57 [edit]

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0322

羽場城 (上伊那郡辰野町伊那富)  

◆戦国末期の様式を残す未完に終わった巨大な城館◆

大雪の為に失われた山城トップシーズンの一ヶ月を挽回するために三連休を取った。

まだまだ居座るつもりの冬将軍の吐息のような時折り粉雪の舞う大門峠を越え、茅野市を通過する。

「懐かしいなあ」

茅野市~諏訪市の湖南にかけては、城跡が多く点在し二年前には毎月のように通った・・が飽きた・・(汗)

大熊城 (23)
諏訪湖南の大熊城から見た茅野市方面。

飽きた場所は捨て置く方針なので(笑)、県道16号線に入り県道50号線で有賀峠を越えて辰野町へ。

今回ご紹介するのは、知名度はメジャー級だが評価はマイナークラスだという辰野町にある羽場城(はばじょう)。

羽場城(辰野町) (56)
踏切を渡った正面の手長神社の境内とその周辺が城跡。南側からは平城にしか見えないが平山城の部類になるという。

【立地】

JR飯田線の羽場駅から北を見ると、鬱蒼とした森が目に入る。その森を中心に約三ヘクタールにわたる羽場城の遺構が残されている。
森のすぐ北は、南流する天竜川が東方に直角に流れを変える深い淵で、淵の南・西岸は流れに洗われ、切り立った岸となっている。この淵を羽場淵と呼び、羽場城館の主であった柴氏にまつわる河童の駒引き伝説(「小平物語」)が残されている。

羽場城(辰野町) (28)
主郭背後から見た羽場淵と天竜川。川が直角に折れる河岸段丘上への立地条件は伊那大島城と全く同じ。

羽場城はいわゆる平山城で、南から見ると堀と土塁で守られた平城であるが、北からは天竜川と高い崖に守られた山城の姿である。平山城は、段丘の発達した伊那谷に多く見られ、羽場城はそれがもっとも洗練された末期の姿といわれ、城というより館としての地割を今に伝えている。

羽場城見取図①


羽場城(辰野町) (23)
主郭跡に鎮座する手長神社の本殿。ここから南の手長の森にあった神社が明治43年に移転されたのだという。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「天文年中小笠原十郎居住すと伝あり」と伝えているが、「小平物語」には、近世初頭に「上伊那十三騎」の一騎として活躍した地侍、柴氏の居住を記している。この城館は未完に終わったと伝えられており、戦国の終わった時期、主郭部のみを柴氏が居館としたものであろうか。柴氏は後に保科正之の移封に従って出羽山形に移った。

羽場城の西北には、北の沢を隔てて古城と呼ばれる舌状の台地があり、小笠原長時旗下の草間肥前居住の跡と伝えている。

羽場城(辰野町) (25)
現在の鳥居あたりには左右の土塁を連結するように大手の正門(木戸)があったと思われる。

羽場城(辰野町) (19)
西側の土塁は鉄道の堀割りで先端が破壊されてしまい、スロープのような傾斜がついてしまった。

神社脇には羽場高砂会の説明板もある。それによると、松尾小笠原貞宗の四男重次郎が天文年間に築城し、武田軍の伊那侵攻に際しては小笠原長時が草間肥前守時信を城代として配備し防戦したという。
その後、武田氏により制圧されると柴氏が入ったが甲州征伐の際に織田軍に攻められ落城したという。

「箕輪記」によれば、柴氏は武田氏による藤沢城攻めの際に羽場在住の伊那籠城衆として名前が見える。草間肥前との関わりは不明である。

羽場古城(道路と鉄道の改修により現在は壊滅した)では手狭になった柴氏が、古城の南側に新たに縄張りをしたというのが事実のようだが、どうであろうか。

羽場城(辰野町) (43)
西側の土塁の上はその広さ故にゲートボールのコースとなっている。(東側も設置されているが・・汗)

羽場城(辰野町) (74)
東側の堀切。上巾20m、深さ6mは圧巻だ。

【城跡】

主郭は南北、東西とも約50mの方形で、北側は羽場淵の崖を背後の要害とし、田の三方は土塁と空堀を設けている。土塁と空堀は南側の中央が切れており、ここに大手の木戸があったと思われる。

羽場城(辰野町) (14)
東側の堀底から南方面。ここにもマレットのコースがあるが朽ち果てている。もう撤去したら?(笑)

主郭東側の土塁と空堀は往時の姿をよく残し得いる。土塁は主郭面から3mほどの高さに盛られ、その外側の堀は3mほど掘りこまれているので、堀底から土塁の頂部までは約6mの高さ、堀の幅も20m以上に達している。

羽場城(辰野町) (17)
L字に曲がり主郭の虎口へ続く堀。遺構がしっかり残っていて嬉しくなる。

空堀の東に隣接して、南北70m・東西35mほどの方形の郭が設けられ、現在は桜が植えられ、公園となっている。北東の隅には10×10の方形の櫓台と思われる土壇があり、村内から集められた祝殿の祠が並んでいる。

羽場城(辰野町) (75)
二の郭の面影を残す主郭の東側の公園。

羽場城(辰野町) (7)
方形の櫓台。ここで願い事すれば全て叶いそうな勢いで祠が並んでいる(笑)

羽場城(辰野町) (76)
城域の東境だったことを示す土塁。防御手法の「折れ」が作られているのが分かる。

主郭西側も土塁・空堀が東側とほぼ対称に設けられている。しかし残念な事に、今はここに飯田線の鉄道敷が通り、その堀割りによって大きく削られてしまっている。

羽場城(辰野町) (35)
堀底の土橋から南側を見る。飯田線が通らなければ立派なL字の堀が見れたはず。

羽場城(辰野町) (40)
三角形に残った「2の郭」の一部。


さらに、主郭と東西の郭を囲み、南北140m東西220mにわたる大きな範囲に土塁が巡っている。この外土塁は住宅と畑の削平によってかなり破壊が進み、今は僅かな高まりによって確認出来るのみである。しかし道山と呼ばれる無量寿庵跡地付近には、二箇所の小山が残されていて、築城当時の外土塁の規模を知ることが出来る。
また、地元では、土塁南側の小道を堀跡と伝えている。

羽場城(辰野町) (57)
「堂山の十月桜」のある場所が二の郭の外土塁跡。来月にはきれいな桜が咲くらしい。(本郭の南西)

羽場城(辰野町) (65)
10m西の、もう一か所の外土塁には新築の住宅が建ってしまい破壊されたが、奥に続く土塁は辛うじて残っていた。

羽場城(辰野町) (66)
南東に残る土塁跡。


今回、辰野町で一番見たかった城がこの羽場城でした。

「こんなちっぽけな、しかも未完で破壊されてしまった城館に、何故?」と思われる方も多いのではないでしょうか。

実は、回字形の城館跡って南信濃ではほとんど見られない(ってか残っていない?)ので、貴重な遺構だと思うんです。

この場所隅々まで見て1時間も彷徨って「あっ、真田町にある真田居館跡(お屋敷)に似てるのか?」って。

まあ、あそこは単郭なんだけど(笑)、堀穿って背後は川で回字形の城館・・背水の陣か・・(汗)

南信濃へ行ったら、是非訪ねて欲しいらんまるお勧めの場所です。

羽場城(辰野町) (53)
未完に終わった二の郭を電車が走る光景もありかと・・・(笑)

≪羽場城≫ (はばじょう)

標高:720m 比高:18m
築城年代:不明
築城・居住者:柴氏
場所:上伊那郡辰野町伊那富羽場
攻城日:2014年3月21日 
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し(邪魔にならない場所へ路駐)
見どころ:全部。(隅から隅まで見て欲しい)
注意事項:二の郭は民家が多いので撮影注意。線路で遊ばない事(笑)
参考文献:「信濃の山城と館⑤上伊那編 宮坂武男著」「定本 伊那谷の城」(三浦孝美氏の記述一部引用)
付近の城址:竜ヶ崎城、荒神山陣場、天白の城など

羽場城(辰野町) (80)
天竜川を渡った北側から見た羽場城。こっちから見ると平山城。奥の舌状台地には古城跡があったという。


Posted on 2014/03/22 Sat. 13:31 [edit]

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0615

的場城 (伊那市高遠町的場)  

◆高遠城の北を守る詰め城か?◆

北信濃ばかり行っていると、さすがに飽きてくる・・(笑)

4月、南信濃に詳しい「ていぴす」さんにアテンドしていただき、高遠周辺の山城を攻めたみた。

今回ご紹介するのは、ここら辺ではメジャー級の知名度だという「的場城」(まとばじょう)

「えっ、一番有名なのは高遠城でしょ!」全くノー天気でお気楽極楽とはこのことであった・・・・(爆)

的場城 (90)蓮花寺の裏山が的場城。

的場城は三峰川を挟んだ高遠城の北にあり、不動峰(1374m)の南に張り出す支脈上に位置している。

ていぴすさんに案内してもらい蓮華寺の裏山に繋がる七面堂の脇に、とある方の墓があった。

的場城 (10)

五年前に高遠城を訪れた時に、「絵島囲み屋敷」なる場所を見学した。罪人の独房を再建した珍しい例である。

囲み屋敷見取図

正徳四年(1714)に発生した「絵島生島事件」は、単に江戸城大奥の総取締役と芝居役者の色恋沙汰ではなく、その背後に将軍職を巡る熾烈な権力争いが原因あったことは周知の事実である。

死罪を免れ高遠へ流罪となった絵島は、女盛りの33歳から61歳で亡くなるまでの気の遠くなるような28年間を毎日法華経を唱え、ハメ殺し格子の屋敷の八畳間から見える僅かな空間に四季の移ろいを垣間見ていたのであろうか・・・。

その崇高な精神は、小生のような凡人には真似の出来ないある種の「悟り」の境地だったと思われる。

的場城 (4)蓮華寺から見た高遠城。花見客で満員状態。

さて、話を的場城へ戻そう。

この城の生い立ちや城主・城歴については不明なのだが、昭和52年に事前調査、昭和54年に第一次発掘調査が行われ、築城年代は室町中期~後期であると推定されている。

的場城 (14)城址へは、絵島の墓の上の害獣除けフェンスを開けて入り用水沿いに300mほど歩くと三連の木製橋があるのでそこを渡る。

的場城 (15)橋を渡ると大手道思われる削平地付きの登城口があるので迷わないと思われる。

武田さんの征服前は、諏訪神氏の流れを汲む高遠さんがこの地域の領主で、最後の当主の頼継さん時代の版図が最大だった。

諏訪本家乗っ取りを企んで武田晴信さんに相談して、連合軍として諏訪惣領家の諏訪頼重を滅ぼしたまでは計画通りだったが、その後が何かオカシイ・・(汗)

的場城見取図①

諏訪の惣領家にもなれず、上原城は晴信が占領したし、宮川を堺に分割統治?

「何か話が違うなあー」

頼継さん、よせばいいのに実力行使。上原城を落とし破竹の勢いで諏訪郡を制圧。素晴らしい・・(笑)

的場城 (19)

頼継如きは「ゴキブリほいほい」程度の罠で引っ掛けた晴信さん。

難癖つけて頼重に腹を切らせたくせに、頼重の長子(晴信の妹が生んだ子)「虎王丸」を擁立。諏訪地区の住民に本家がどちらかを問い惣領家の家臣を引き連れて、「打倒頼継」の正当化に成功し、宮川の戦いで頼継を破る。

的場城 (20)三角点を過ぎると郭3への入り口。「要害城へようこそ!」

天文十四年四月、武田軍は杖突峠を越えて高遠へ進軍。高遠頼継は所領を捨てて逃げたという。

的場城の謎を知る手掛かりとして唯一の「高白斉記」には以下の記載がある。

【天文十四年巳年(1545)】

四月十一日癸卯、高遠(諏訪頼継の城)に向け御出馬。雨。

四月十四日未刻、上原へ御着城。細雨。

四月十五日丁未、杖突峠御陣所。取らせられ侯と雄も昼夜雨。

四月十七日己酉、諏訪頼継自落。

四月十八日、高遠屋敷御陣所。

四月二十日壬子節、高遠御立。午刻に箕輸(藤沢頼親の城)へ御着陣

的場城 (21)鋭角に東斜面に落ちる堀切㋑。

果たして、高遠氏の屋敷は何処にあったのか?というのが問題になる。

屋敷の場所は現在の高遠城だったのか、それとも別の場所にあったのか。

少なくともこの城では無かったようだ。

的場城 (24)東斜面を回る堀切㋕。


【天文十六年寅年(1547)】

三月八日庚申。各出府。高遠山の城鍬立。

的場城 (28)郭3の南側に展開する横堀㋕。

高白斉記のたった一行の解釈の違いで、この城(的場城)と高遠城は「俄然違った歴史」になる。

的場城 (31)郭3.南の虎口。


高白斉記でいう「高遠御殿」は高遠城を指し、高遠山城は新たに鍬立てした的場城を指す見方もあるようだ。

それも的を得ているような気がする。

別の見方として、天文16年の新城は南信濃の政庁として現在の高遠城を新たに縄張りしたと考えればどうであろうか。

武田氏進駐以前のこの城は、頼継とそれ以前の高遠氏が居館の詰め城(逃げ込み城)として築かれていたものを、武田さんがある時期に強烈に外敵の侵攻を意識して大改修した山城と見る事も出来るような気もする。


【郭3とその周辺】

的場城では最大の広さがあり周囲は土塁で囲まれ二ヶ所開口部がある。

的場城 (32)北から見た郭3。

郭の回りには土手を付けた横堀㋕を穿ち、四本の竪掘を放射状に組み合わせている。

ここが主郭と思わせるような徹底した防御構造で、この城の最大の見どころであろう。

的場城 (30)補助線描くと「もう台無し・・」(笑)

的場城 (34)郭2との連結部分。西側に横堀が続く。


【郭2とその周辺】

郭2も土塁が全周し東西に虎口を開いている。大きさは郭3の1/2程度。

東側の斜面は沢が入り込み傾斜がキツいので、西側のみ切岸+横堀+竪掘の三点セット。これで十分だ。

的場城 (35)郭2の内部(北側より撮影)

的場城 (46)東斜面の横堀+切岸の処理。堀に伐木を入れるのはやめましょう(笑)

「どうしたら城址における堀切以外の土の構造物が見えるようになるのですか?」

という質問を良く受けるようになりました。

「経験や訪れた城の数?」いいえ、違います。「その瞬間だけ往時にタイムトリップしているのです」(笑)

的場城 (47)小生には、こんな感じに見えている。


的場城 (48)西側斜面からみた郭2の虎口。


【郭1とその周辺】

おむすび型の主郭は東の虎口周辺のみ土塁が残る。往時は全周していたのだろう。

周囲の切岸の削り角度を厳しくして東斜面にも竪堀を入れ、北の搦め手側へは横堀と放射状の畝竪掘を組み合わせ最後の砦としている。

的場城 (53)西の竪掘㋚の堀底から見た郭1とその切岸。

的場城 (60)郭1。

的場城 (71)背後の切岸と土手付きの横堀。

信州の山城に多くみられる「バン・バン」と豪快に背後の尾根を叩き割る薬研掘ではなく、「横堀+放射状畝堀」という処理が最後の山城の進化系の終点らしい。

的場城 (70)東斜面を落ちる竪掘㋟。

的場城 (63)東斜面を這う土手付きの横堀。


【郭4とその周辺、見張り場】

頑強な防御を誇る連梯式の的場城には、居住区を想定したと思われる郭4が存在する。

丁寧に削平されたその空間は殺伐とした城域の中では異質なもので、この城の特徴であるように思える。

的場城 (74)土橋のように見える東側の塁線。

的場城 (77)丁寧に削平された広大な郭4。

塁線の東側の斜面には水の手郭があり、土手と竪掘に守られている。

万が一高遠城が落城しても杖突街道から後詰めが来るのであれば、何とか持ちこたえるだろう。

的場城 (79)

的場城 (82)郭4の北側は接続郭を経て見張り場へ続いている。

的場城 (88)削平された尾根先端部の見張り場。残念だが景色は見えない(汗)


【高遠城の防衛砦群の要として】

的場城は守屋山城や山田城と共に高遠城を守るネットワークを構成しており、その役割は非常に重要で防御システムも他の山城を遥かに凌いでいる。

天正十年(1542)三月、武田方の高遠城将仁科五郎信盛は織田軍の攻撃を受け壮絶な最期を遂げたのはご承知の通りである。大軍に囲まれ、後詰め無き籠城戦では的場城も出番などあろうはずも無く打ち捨てられたのであろう。

≪的場城≫ (まとばじょう 城山) 

標高:919m 比高160m
築城年代:不明
築城・居住者:高遠氏? 武田氏
場所:伊那市高遠町的場
攻城日:2013年4月14日 
見どころ:土手付き横堀、放射状畝竪掘、切岸、土塁など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:蓮華寺駐車場より30分
注意:害獣防止用フェンスは開けたら必ず閉める事。
付近の見どころ:守屋山城、山田城、高遠城など
参考文献:「信濃の山城と館⑤ 上伊那編 宮坂武男著」
Special Thanks:ていぴす殿

的場城 (40)蓮華寺から見た山田城方面。











Posted on 2013/06/15 Sat. 13:09 [edit]

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福与城 (上伊那郡箕輪町福与)  

◆武田氏も落とせなかった堅守の城◆

おかげ様で(?)、このブログも長野県の区分けでいう「北信(ほくしん)」「東信(とうしん)」「中信(ちゅうしん)」はなんとか充実した城攻め記録になりつつあるが、「南信(なんしん)」と呼ばれる伊那・飯田・木曾地方は全く手つかずの状態である・・・(汗)

正直なところ、上田から攻めるには遠いのである(笑)

かといって言い訳もみっともないので、木曾の王滝城に続いて伊那の福与城について掲載してみようと思う。

福与城 (1)乳母屋敷跡にある訪問者用の駐車場。

福与城は箕輪町福与地区の北西に位置し、天竜川の左岸段丘上に築かれた城である。

この城が歴史上で有名になったのは、武田軍が天文十四年(1545)に伊那谷へ侵入した際、上伊那の諸氏を結集して五十日間に及ぶ籠城戦を展開した事による。

福与城 (3)本郭へ向かう道の両側は南城の郭址。

この城が武田軍相手に持ちこたえられたのは、その地形と縄張りであると思われる。

福与城縄張図①三方急の地形で攻め口は搦め手方面のみ。

「城正面」とか「後ろ堅固」という堅城の縄張り要件を示す言葉が使われるが、福沢城の立地条件は東側が鎌倉沢と呼ばれる断崖に続き、城の西と南側は天竜川を臨む深い谷になっていて、攻め口は僅かに地続きの東南方面だけである。

まさに「後ろ堅固」の要件を満たしているという点では、遠江の小山城、諏訪原城に地形が良く似ている。

福与城 (4)堀に土橋?土管?(笑)

現在の史跡には巨大な空堀に土橋状の通路と土管が構築されているが、後世の造作物。堀底から主郭手前の段郭に登る通路は「勘解由坂」と呼ばれていたらしい。

福与城 (5)北の鎌倉沢へ続く堀切㋑。

福与城 (6)堀切㋑は本郭と二の郭の間の堀切(現在は埋没)に連結していたのだろう。

城域で「本城」と呼ばれる部分は、本郭と二の曲輪、姫屋敷で構成され、周囲を堀切で守られていたと推定される。

福与城 (10)本郭南側の腰郭。

福与城 (11)主郭の東端には物見櫓台の跡らしき高台がある。

三方を天然の沢と断崖で守られた福与城を攻めるには南東の搦め手方面だけであり、防御施設もこの方面に集中していたと推測される。

福与城 (77)「ふるさと農道」側が搦め手で堀切が推定される。

搦め手から入ると一段高い場所に「権次郭」と呼ばれる場所があり、藤沢頼親の弟の権次郎を配して守りを固めた場所だと伝わる。

福与城 (59)権次郎郭。


福与城 (55)宗仙屋敷。権次郎郭の北西に隣接している。

一族郎党の名前を冠した郭には、戦国期の緊張感が甦るようである。


福与城 (13)本郭跡。

藤沢氏の出自は諏訪神氏の出自とするのが定説らしいが、相州藤沢の住人藤沢義親の枝流藤沢行親が建武の功により箕輪六郡を賜り福与に城を築き住すという説もあるらしい。

福与城 (16)本郭から見た堀切㋐と北城。

福与城 (18)加工度の高い堀切㋐。厳しい防御だ。

【福与城の戦い】

「高白斎記」によれば、天文十四年(1545)四月十一日「高遠城ニ向御出馬」とあり、十五日に杖突峠に陣所を置き高遠城に向かった。高遠頼継は戦いもせず十七日には自落し、高遠には武田の陣所が置かれた。ここから福与城の戦いが始まる。

四月二十日、高遠城を発った武田軍はその日のうちに箕輪に着陣し、直ちに城攻めが行わたものと思われる。二十九日には武田方の将の一人であった「鎌田長門守討死」とあり、この日は激しい攻防戦があったと推測される。

福与城 (35)広大な二の曲輪。

この戦いには松本と下伊那の両小笠原が参戦しているが、これは頼親が小笠原長時の妹を正室を迎えていることによる。

五月に入っても福与城の守りは固く城は容易に落ちそうもなかった。そこで武田勢は小笠原長時の後詰めの本拠地である龍ヶ崎城(辰野町宮所)の攻略にかかった。激しい攻防戦のあと、六月上旬には城は落ち、長時軍は松本へ引き揚げてしまい、また、伊那軍まで出陣していた下伊那の小笠原軍も十分な連絡が取れず戦わずして帰陣してしまった。

この戦況において、さすがの頼親も戦いを終結させる方策を考えなければならなかったと思われる。

福与城 (36)北城との間を遮断する堀切㋐。

武田軍にしても、今川方に援軍まで求めるような決して楽な戦いではなく、しかも二ヶ月近くに及ぶ攻防戦は予想もしなかったであろう。

戦い終結の協議「和ノ義」は、六月八日頃とされ、その時の様子は次のように記されている。

「六月十日、藤沢二郎和ノ義落書、十一日藤沢二郎身血、其上藤沢権次郎人質トシテ穴山陣所へ参ル、敵城放火」

福与城 (37)姫屋敷。

頼みにしていた小笠原軍も引き揚げてしまい、孤立無援となった福与城は開城ののち焼却されてしまった。
後詰め無き籠城戦など犬死に等しく諦めたのあろう。

伊那谷の咽喉の位置にあった福与城での戦いは、伊那谷全体の諸氏にとっても重要な意味を持つものであった。

また、五十日に及ぶ籠城戦を守り抜いたこの戦いは、上伊那武士の力を示したものであり「妙法寺記」などの甲州の記録にも、二ヶ月近くも城を攻めたが「サレドモ城落チ申サズ候」と記されている。

福与城 (38)二の曲輪から見た市街地方面。

その後、藤沢頼親は武田に仕えるが、天文十七年(1549)上田原の合戦で武田が敗北すると再び小笠原長時に仕え一時期はうらぶれた長時さんが世話になったという三好長慶の元に身を寄せたという。

福与城 (44)二の曲輪から見た主郭方面。

天正十年三月に武田氏が滅亡すると、藤沢頼親は再び箕輪の地に戻り領主として復帰し、福与城の南東約1㎞の新たに平城の田中城の築城を始める。

主家筋である小笠原貞慶は徳川の後ろ盾で深志城に復帰し頼親もその恩恵に預かっての事だろう。

しかし同年七月、北条氏直の大軍が諏訪を制圧し徳川が撤退に追い込まれると、徳川は筑摩方面の実効支配を企てたために貞義は北条氏と誼を通じ徳川に叛く。
主家の北条氏への従属表明で徳川方だった藤沢頼親も北条側につくが、隣接する徳川方の高遠城の保科正直よりの降伏勧告を拒否したために、同年十一月保科に攻め込まれて落城、藤沢頼親は自刃し、孫の左門は小笠原貞慶の元へ放逐されたという。(「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」 平山優著 参照)

田中城は六角形の空堀に土塁を持つ異形の城だったらしいが、完成を見ることなく終わり、現在は土塁が一部残るだけだという。

福与城 (48)どうしても撮影したかった土管(おバカ!)

話は脱線したが(笑)、高白斎記には天文十八年(1549)七月に箕輪城に着いた武田晴信が鍬立てをしたとある。

福与城の説明板にはその城が福与城であるとしているが、果たしてそうであろうか?

武田氏は敵の城を占領しこれを利用する場合は縄張りを改めているケースが大半であるという。

高遠城も大島城も例外ではなく大規模な改修が行われている(船山城、飯島城も手が入っているとも)

手を入れるつもりなら、開城後に焼き払う必要など無いし縄張りも手を加えた跡など見られない。
(まあシロウトの小生が偉そうに言えるべき事ではないが・・・汗)

福与城 (54)権治曲輪から見た乳母屋敷。

30年後に復帰した藤沢頼親も恐らく利用しなかったのだろう。

では武田氏が鍬立てしたという「箕輪城」とは何処にあったのか?

福与城の西1.5kmに養泰寺があり、その寺の墓所のある丘も箕輪城と呼ばれているが周囲を土塁で囲んだ単郭のある古めかしい砦で、とても武田の縄張りでは無い。

「後究に待つ」とはこのことであった(笑)

福与城 (66)南城の西先端の郭。

福与城 (69)道路で改変を受けた竪掘㋒

福与城 (71)巨大な沢となり西斜面に落ちる堀切㋑

福与城 (74)「しんたく洞」と呼ばれる堀切㋐の西斜面

ツラツラと写真を並べてしまったが、上伊那における中世城郭の遺構が残る保存状態の良い城です。

信玄公を相手に50日間も籠城したなんて、信じられない広さですが・・・・。

福与城 (82)城の東側の鹿垣公民館よりみた全景。

≪福与城≫ (ふくよじょう 箕輪城 鎌倉城) 

標高:715m 比高50m
築城年代:不明
築城・居住者:藤沢氏
場所:上伊那郡箕輪町福与
攻城日:2012年10月11日 
見どころ:堀切、郭群など
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:駐車場より5分
注意:畑は無断侵入しないこと。
付近の見どころ:養泰寺にある箕輪城、綿半センター近くの田中城
参考文献:「探訪 信州の古城 湯本軍一監修」「「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望 平山優著」

福与城 (84)天竜川より見た福与城遠景。












Posted on 2012/11/21 Wed. 17:46 [edit]

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