らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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馬場美濃守居館跡 (山梨県北杜市)  

◆武田四天王「不死身の鬼美濃」の居館跡の三連チャン◆

ブログの2/3を書き終えて保存に失敗すると、悲しさと空しさを感じる。

「もう二度と同じ文章は書けない」・・・この事である・・(笑)

小生が修行している寺は「御疲山 肉体疲労寺(おつかれさん にくたいひろうじ)」である。
なので、リポDの効能が素晴らしい・・・・・(爆)

生島足島神社①
小生が甲斐に攻め入る際に無事を祈念する生島足島神社。

さて、らんまるの住む長野県上田市から山梨県北杜市までは、さぞかし距離があるように思えるが、武田軍が軍用道路として利用した大門街道(上田市~長和町~白樺湖~茅野市~原村~富士見町)を利用すると距離で約90km、時間にして約1.5時間ぐらいだろうか。

生島足島神社②
信玄さんも起請文を奉納した由緒正しい神社ですw

※生島足島神社(いくしまたろしまじんじゃ)の由来:生きとし生けるもの万物に生命力を与える「生島大神」と、生きとし生けるもの万物に満足を与える「足島大神」の二神が祀られ、摂社(下社・下宮)には諏訪大神が祀られる信濃屈指の古社。

矢留めを宣言したものの、屋敷探索ならよかろう(?)と思って出陣したのである。

鴨の会話①
まあね、鴨の噂も四十九日とか・・(笑)

んで、今回紹介するのは、武田四天王と云われるなかで最も人気の高い「馬場美濃守信房(信春)」の居館跡と伝わる三ヶ所である。

【馬場美濃守信春の生涯について】

もはや面倒くさいので、恥を承知で簡潔に要約されたウィキペディアを引用したい。

●出生と馬場氏について ※ウィキペディアより

生年に関しては、永正11年(1514年)とも永正12年(1515年)とも言われる。

「馬場家系図」によると馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光の曾孫の源仲政(馬場仲政)を遠祖とする源姓の氏族。摂津源氏の一派である美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫で、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族で、甲斐国教来石村に移り教来石氏を名乗る。信春もまた教来石(きょうらいし)景政と名乗り、後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となる。通称ははじめ民部少輔、のち美濃守。

①教来石氏屋敷跡 現地訪問記

・立地は国道20号線上の下教来石の交差点信号付近で、流川の左岸だとされる。

教来石氏屋敷 (1)
この付近が教来石氏の屋敷跡だというが、地名(屋敷裏・下木戸など)のみで遺構は無い。

教来石氏屋敷 (4)
現在の場所を徘徊しても何も得られるものは無いが、信濃との国境に近く往時は交通の要衝だったという。

教来石氏屋敷 (2)
この辺りが屋敷の中心地点。道路下の畑の石積みは近世のものであろう。

教来石氏屋敷見取図①

教来石氏は武川衆の一員として代々武田家に仕えたという。ここの屋敷は鳥原屋敷へ移転する前に住んでいたらしいがハッキリしたことは分からない。

≪教来石氏屋敷≫ (きょうらいししやしき)

標高:675m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市白州町下教来石
攻城日:2014年7月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:
見どころ:
注意事項:
駐車場:無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)




●信虎時代  ※ウィキペディアより引用

武田信虎の時代から武田氏に仕える。はじめは現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の一員であった。
武田晴信(信玄)の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将・平賀源心を討つという功績を挙げたといわれている。天文十年(1541)の信玄の信虎追放計画に参加していたといわれている。


②鳥原屋敷(殿畑・教来石民部館)

先ほどの教来石氏屋敷から南へ500mほど下った鳥屋集落の北東の台地の所でサントリー白州蒸留所の北側にある。
ここからは東側を流れる釜無川の七里岩の崖上に笹尾塁が見える。

鳥原屋敷(北杜市) (4)
史跡公園として整備されていたようだが、来訪者も絶えたようだ。

鳥原屋敷(北杜市) (2)
草に埋もれた標柱を発見する・・(汗)

ここは教来石民部の館跡という伝承が残るのみでハッキリしたことはわからない。ただ、昭和63年と平成元年に部分的な発掘調査と地中レーダーによる測定が行われ、堀に囲まれた二郭の居館跡だったということが判明しているという。

遺構からの出土物によりこの屋敷は14世紀~16世紀中ごろまでの使用と推測され、教来石民部政景が馬場氏の名跡を継いだ頃に廃館になったのではないかと云われている。

島原屋敷写真①
郭2の部分は観光施設の建設により改変され見る影もない。

鳥原屋敷(北杜市) (3)
郭1の東側の堀切。

鳥原屋敷(北杜市) (7)
大河ドラマも終わっちゃうとこんな有り様になるので寂しいものです。

諏訪氏との国堺で笹尾塁と連携しながら情報を躑躅ヶ崎館に送っていたのでしょうネ。
せっかくの史跡公園なので、定期的に整備して欲しいものです。

≪鳥原屋敷≫ (とりはらやしき)

標高:710m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市白州町鳥原
攻城日:2014年7月2日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:
見どころ:
注意事項:
駐車場:有り
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)
付近の見どころ:笹尾塁、サントリー白州工場(無料見学出来ます・・・笑)



●信玄時代  ※ウィキペディアより引用

信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻めが始まると、これに参加して武功を挙げた。このため信玄から、天文15年(1546年)に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた、甲斐武田氏譜代の名門である馬場氏を継ぐことを許された。このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。

その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げたため、永禄2年(1559年)に120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。永禄4年(1561年)の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任されたと言われている。永禄5年(1562年)には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。

永禄11年(1568年)の駿河攻めにも参加する。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略した。三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。


③馬場美濃守屋敷 ※らんまる訪問記

立地~釜無川の右岸、中山の北麓にある白須集落の西側が殿町と呼ばれ、ここに馬場美濃守の屋敷跡が伝承されている。信州往還の古道に接する要衝の地である。

鳥原屋敷(北杜市) (12)
白州保育園の場所が屋敷跡だと云う

市の指定史跡になっているようだが、現在は標柱も無いし保育園なので当然立ち入り禁止である。
なぜこの場所が特定されたのか根拠にも乏しいという。

現地を見ても「??」という感じで、標柱も必死に探したが保育園の敷地内にあるのだろうか。
なんで保育園に「セスナ機」が置いてあるのかも良く分からない・・(汗)
カメラ持ってウロウロしていたら確実に通報されるので、そそくさと逃げて来た次第である。

馬場美濃守屋敷①
県道駒ヶ岳公園線の南側から撮影。

馬場美濃守屋敷①
こんな感じかしら?

≪鳥原屋敷≫ (とりはらやしき)

標高:710m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市白州町白須
攻城日:2014年7月2日 
お勧め度:★☆☆☆☆ 
城跡までの所要時間:
見どころ:
注意事項:写真撮影注意
駐車場:無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)



んで、馬場美濃守の終焉の地は次回ご案内しましょうか・・・。

Posted on 2014/07/10 Thu. 08:26 [edit]

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獅子吼城 (山梨県北杜市須玉町江草)  

◆石だらけの岩山だから石を利用する発想という秀逸の城・・made in 武田/Produced by 北条◆

タイトルの文字を見て「ししくじょう」と読める人が果たして何人いたのでしょうか?

小生も漢字の読み方が分からず、漫画の「らんま1/2」(原作:高橋留美子)に出てくる響良牙(ひびきりょうが)の必殺技の「獅子咆哮弾」(ししほうこうだん)の親戚ぐらいに思っていて「ししほうこうじょう」などと間違って覚えておりました・・・(汗)

「獅子吼」(ししく)とは、仏の説法で、獅子が吼えて百獣を恐れさせるように、悪魔・外道(げどう)を恐れ従わせるところから来ているが、この城の命名がこの語源なのかは定かでない。

獅子吼城(北杜市) (3)
江草町の道路には獅子吼城への道案内看板があるので迷わずに登り口まで車で行ける。

かつての大手道は塩川の根古屋集落の「根古屋大明神」の裏側を登るルートらしいので、極めたいならそちらもアリ。

【立地】

北杜市江草の根古屋神社の背後の山(地元では城山と呼ばれている)にあった。甲信国境近くに位置していたため国境(信州峠)監視とともに、当時から佐久甲州街道(現在の国道141号線)の裏街道として知られていた若神子から長野県佐久市に至る道が通っていたことから、この街道を押さえる関門でもある。

獅子吼城見取図①

【防御の指向性】

単純に縄張図だけを見て判断すると、防御施設が城域の東側を重点に置かれた様に見えるが、基本的には全方位であり、立地のウィークポイントが東の尾根側になるので後付けで強化したと見るのが無難かもしれない。

獅子吼城(北杜市) (5)
現在の登り口方面は搦め手方面だった可能性がある。

獅子吼城(北杜市) (10)
最初にお目にかかる竪掘㋑。(上巾8m)

獅子吼城(北杜市) (11)
長大な竪掘として北の斜面を下りていく堀切㋑。

天正壬午の乱における北条側の改修ばかりが宣伝される防御だが、この遺構は武田による末期の改修と見れるが・・。

が、何を根拠に?と云われても「ちょっちねえー、野生の感ってヤツですか・・・」(笑)

獅子吼城(北杜市) (16)
搦め手側も厳重な防御システムなのでビックリ。

獅子吼城(北杜市) (83)
横堀㋕の東端と遮蔽土塁の間にある枡形虎口。この城の防御構造では特筆すべき場所の一つであろう。

【城主・城歴】

ハッキリしたことは不明であるが、以下が獅子吼城の周辺を領有した豪族の履歴であるという。

応永年間(1394~1428年)には江草兵庫助信泰(または信康、甲斐武田氏13代の武田信満の三男)が居城としていたといわれるが、その後、甲斐武田氏の一族の今井氏が居城とした。

1530年(享禄3)、甲斐守護で信玄の父の武田信虎が扇谷上杉朝興と結び、朝興の叔母で山内上杉憲房後室を側室に迎えようとしたことから、今井信是・信元は信虎と対立し、翌年に飫富兵部少輔らと甲府を出奔して大井信業・栗原氏ら甲斐の有力国人領主や信濃・諏訪の諏訪頼満(碧雲斎)を巻き込んだ大規模な反乱へと発展した。諏訪氏と今井氏ら反信虎勢力は信虎が整備した笹尾塁を陥落させて甲府へと進軍したが、同年2月2日と3月3日の合戦で信虎に敗れた。

その後、今井信元は居城の獅子吼城に拠って信虎に抵抗したものの、同年9月に信虎に城を明け渡して降伏した。これにより信虎による甲斐統一が達成された。

獅子吼城(北杜市) (29)
横堀㋕。天正壬午の乱における後北条氏の改修跡だという方も多いが、元々は武田による縄張りだと思うが・・。

1541年(天文10)、信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は信虎を駿河に追放して家督を相続したが、晴信は信州峠、甲州佐久街道を押さえる要所として獅子吼城を整備した。信玄が整備した狼煙台の一つとしても機能していたようである。

獅子吼城(北杜市) (31)
これだけの岩石が露出しているなら、岩を利用するのが無駄の無い築城方法であろう。

獅子吼城(北杜市) (33)
石積みの山城は信濃では珍しくないが、甲斐では貴重なのかもしれない。

天正十一年(1583)6月2日の本能寺の変で信長が死去すると甲斐に一揆が起こり、河尻秀隆は討ち死にした。その後の武田氏の遺領をめぐって徳川家康と北条氏直が対立して両者が争奪戦(天正壬午の乱、甲斐における戦国時代最後の戦い)を繰り広げたが、徳川家康が新府城(韮崎市)を本陣としたのに対し、北条氏直は若神子城(北杜市)を本陣とし、獅子吼城も北条氏の拠点となった。

獅子吼城(北杜市) (40)
石積みによる石塁の構築は後北条氏の改修だと云われているが、どうでしょうか?

同年9月、徳川家康配下の服部半蔵と旧武田氏遺臣の津金衆・小尾衆らは、北条勢の籠もる獅子吼城に夜襲をかけて陥落させている。その後、徳川氏と北条氏との間に和睦が成立して、徳川氏による甲斐支配が確定したが、その後間もなく獅子吼城は廃城となった。

獅子吼城(北杜市) (41)
崩れやすい石塁こそ、防御の要であったと思われる。

【城跡】

城域は全てが岩山で、巨石が至る所にありそれらを用いて石塁で覆われた山城としている。
山頂にある主郭は、小生の実測値は30×23であった。現在、主郭からの見晴らしは良くないが、往時は若神子城、新府城、能見城などの周辺の諸城は手に取るようなロケーションにあった。

信玄時代は信州峠に至る裏街道を見張る境目の要衝として、ある程度防御システムの強化を受けたものの、信濃の侵略と国境が固定化すると、お役御免になったのであろう。

獅子吼城(北杜市) (42)
主郭への通路は、人が一人でやっと通過出来る狭さである。

獅子吼城(北杜市) (45)
東側の段郭二段。

獅子吼城(北杜市) (51)
主郭の東に突き出た馬出し部分。

江草富士と呼ばれる独立峰の小山に単郭を置いた単純な山城であるが、防御構造は最先端の技術が用いられているので、武田時代における新府城防衛網としての末期を経て、徳川VS北条の旧武田遺領の争奪戦でも重要なポジションとして改修が加えられたものと推定される。

獅子吼城(北杜市) (66)
南側から見た主郭。

その堅固な構えと城歴から、どうしても天正壬午の乱における北条方の城として脚光を浴びてしまうものの、信玄・勝頼時代には烽火台として重要な役割を担っていたようである。

獅子吼城(北杜市) (50)
武田統治時代は、信州峠に繋がる街道を抑える要衝としての任務もあったのだろう。

獅子吼城(北杜市) (61)
主郭西側の帯郭。

獅子吼城(北杜市) (69)
本来の大手筋であった西側の郭。

信玄が棒道を整備して佐久への出撃を繰り返し行う際には、街道の要衝を抑える重要な拠点として改修が施されたものと推察される。

天正壬午の乱では、若神子城に本陣を構築した北条軍の佐久方面からの兵站を守る基地として更に要塞化されたものと思われる。

獅子吼城(北杜市) (71)
主郭の北側下部の切岸。

前述にもあった通り天正壬午の乱で、この城を落としたのは服部半蔵その配下だという。

なるほど、正攻法で落とせない城ならば、忍者軍団の出番であろう。

「血沸き肉躍る」・・・ゲリラ戦を得意とする特殊部隊を擁する家康ならではの戦術ではある。

獅子吼城(北杜市) (85)
横堀㋕と連結する帯郭㋖。往時は横堀だったと思われる。

獅子吼城(北杜市) (79)
主郭の東側。虎口があったようだが、改変されて良く分からない状態である。

≪獅子吼城≫ (ししくじょう、江草城、江草小屋、城山)

標高:788.4m 比高:125m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県北杜市須玉町江草
攻城日:2013年10月12日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:10分
見どころ:石塁、竪掘
注意事項:特に無し
駐車場:無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊤」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:

獅子吼城(北杜市) (93)
獅子吼城遠景。



【おまけ】

この城は巻尺持参で現地計測を敢行しております。
下記の図はその時の下絵でございますが、自分でも何が何だか酷い落書き・・・(汗)

これはこれで意外と楽しかったりします・・・(笑)

獅子吼城下絵



Posted on 2014/07/06 Sun. 00:11 [edit]

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岩殿城 (大月市賑岡町岩殿)  

◆滅びゆく武田宗家に引導を渡した小山田信茂の英断の真実◆

偉そうに云うつもりはないが、歴史は結果からの考察しか出来ない。

なので、その結果に至る過程は推察でしかない。

常に戦争の勝者には歴史を書きかえる権利が与えられる。敗者のそれまでの為政など上書きされ完璧に消される。

岩殿山城 (63)
昨年6月に世界遺産に登録された富士山。(2013年9月 岩殿山登山口より撮影)

信州に住んでいると、浅間山こそが「おらがまちの文化遺産」と思っているので富士山の有難みが薄れる・・・(笑)
えっ、北アルプス?・・あの異様な大自然の屏風は国宝の審査対象でしょうが・・・・(汗)

今回ご案内するのは、前号でチョコッと紹介した岩殿城。なのでイッキに掲載しますか。

岩殿山城 (1)
駐車場の看板も的確ですが・・・

これから攻め入る場所が遠く果てしなく険しい事は、「頂上が見える場所は楽じゃない」という実戦経験が物語る。

岩殿山城 (61)
ここまで来たら帰れませんよね(笑)

【立地】

桂川の左岸、JR大月駅の北東に聳える岩殿山の山頂部中心に遺構が残る。この独立した岩山は、東側には葛野川、南に桂川、西側には浅利川が流れ、その山体は巨大な岩壁に囲まれ、正に天然の要害である。登路は南山麓から中段の丸山を経て揚木戸に至る道と、東側山麓から馬場に辿り着く遊歩道が整備されていて登り易い。

岩殿城 (62)
遊歩道とはいえ、比高285mを登るのはツライ。慣れていてもイヤだと思う。

【城主・城歴】

「甲斐国司志」の古蹟部「岩殿城跡」に記述があり、小山田氏の要害とされている。しかし、小山田氏の居館のある谷村(やむら 現在の都留市上谷)からは6km以上も離れており本城とは考えにくい。
登り口の説明板にある通り、「岩殿山円通寺」としての経歴から追ったほうが的を得ているようである。

岩殿城 (3)
冠木門の脇に岩殿山の説明がある。

●岩殿山の概略  ※寺社研究サイト「がらくた置き場」様の説明文を引用しています。

創建については「甲斐国志」「甲斐叢記」では棟札現存と云い、
「行基菩薩が大銅(同)元年(806)に建立して以来、永正17年(1520)に至り寺が大破したので、上総国の賢覚阿闍梨が再建のために有志の奉加を求めた…云々 」 (「甲斐国志」)と云い、大同元年行基の開創と云う。
他に創建を伝える資料としては、三重塔の枡形に「承平3年(933)七月廿五日大檀那孝阿禅尼」の銘文があったとする。
 (「殿居風土記」「甲斐国志」「甲斐名勝志」など)
「峡中家歴鑑」北条高順の項には、第一世義秀が承平年中(931~937)に一寺を建立し、これが岩殿山円通寺の始めと云う。

最盛期には三重塔・観音堂・常楽院・大坊・新宮・不動堂など多くの堂宇があり、境内地は岩殿山頂から東麓一帯 を占めたと推定される。
中世には常楽院・大坊が円通寺うを護持し、両者は聖護院末として寺領を保障され、本山派修験の郡内元締めとして勢力を保持する。
またこの頃、郡内では小山田氏が台頭し、長年の抗争の後、武田氏との和睦が成立し、円通寺は武田、小山田の両氏の庇護を受ける。
と同時に戦略上の観点から「岩殿城」が構築される。
江戸期には幕府統制によって寺領や霞場を多く失い次第に衰微する。

明治維新の神仏分離の処置や修験宗廃止の布告(明治5年・1872)などで、常楽院・大坊は復飾(常楽院は神勤か)、大坊 の後裔は 医業を営むと云う。(2011/08/27修正)
かくして、明治8年円通寺(常楽院・大坊)は廃寺となる。(円通寺三重塔、観音堂、不動堂などの多くの建物や資料が失われる。)
ただし、真蔵院は常樂院の内庵であったが、真言宗慈眼寺末であった(「甲斐国志」)ため、廃寺は免れる。

岩殿城 (6)
丸山公園には模擬櫓が建つ。この場所にも円通寺関連の施設があり城の大手口として整備されたと思われる。

戦国時代には、寺社領の保護や寄進を名目として積極的に宗教勢力を抱え込んだ事は周知の事実である。
円通寺とて例外ではなく、修験道場であった岩殿山が相模原の北条氏に備える城砦として要塞化されたとしても不思議はない。

最近の研究では、岩殿城は武田の領国経営における重要な直轄の支城として築城され、相模の北条氏に対しての備えであると同時に郡内を領国とする小山田氏への監視という重要な任務を帯び、国中(府中)から城番を派遣していたという。これは南部を領国とする穴山氏に対しても見られる支配構造で、武田信虎による甲斐統一以降といわれる。

岩殿山城 (8)
岩壁を左へ迂回する遊歩道を黙々と20分間登り続けるのであった・・(汗)

天正十年(1582)三月三日、新府城で軍議を開いた武田勝頼は、迫りくる織田軍を前に岩殿城への撤退を決断する。
この時の岩殿城は小山田信茂の居城のように書かれているが書物が多いが、岩殿城は武田氏直轄の城なので、小山田に遠慮する理由はない。ただ、岩殿城は小山田氏の領地内にあるので、小山田氏が織田への投降を決定すれば入城させないのは当然の話である。(事実そうなったが・・・)

※余談だが、この時の軍議において真田昌幸は勝頼に対して岩櫃城(いわびつじょう)へ退くよう進言したという。(ちなみに岩櫃城は真田の持ち城)
この時すでに昌幸は北条氏と内通していたので、真意の程は定かでない。

岩殿城見取図①

武田が滅亡し、領主であった小山田信茂も主家を裏切る不忠者として織田信長によって処刑される。
その後勃発した天正壬午の乱では、郡内(都留郡)をいち早く占拠した北条方が一時的に岩殿城を対徳川の拠点として利用したらしいが、主戦場が北部だった事もあり、甲斐における徳川の覇権が確立すると同時に廃城になったという。

岩殿城 (9)
揚城戸(あげきど)と呼ばれる石の城門。ここを封鎖されれば攻めようがない。

岩殿城 (12)
揚城戸から郭10への通路。運よく城戸を突破してもこの狭間空間で殲滅させられるのであろう。

岩殿城 (13)
郭11。番所跡という看板があるが、物見台であろう。

【城跡】

城へのルートは三ヶ所あるようで、南側の丸山からのルート、円通寺背後からの東側搦め手ルート、そして今回は時間が無くて断念したが西側の築坂峠・兜岩(稚児落とし)ルート。(甲斐国誌ではこれが大手道だという)

岩殿城 (14)
坂虎口(縄張図で城門とした場所)

岩殿城 (16)
郭10の西端。この先には円通寺の修験者が修行したと伝わる大きな岩がせり出していたが、崩落の危険があるので撤去されたという。

城の居住区は展望台(南物見)のある場所(7・8・9)を中心に、東側の5と6へ続く。
巨大な岩壁の上にこのような場所があるとは想像出来ない。視界も良好である。

岩殿城 (19)
馬屋の標柱が建つ郭7。このような場所まで馬を連れて登れるのだろうか・・・

岩殿城 (24)
郭8。乃木大将の詩碑が建つ。日露戦争の203高地の戦いで無謀な突撃を繰り返して命令した残念な人である。

岩殿城 (27)
「えー、まだ登るの?もう勘弁してちょー!!」(笑)

話は脱線するが、先日届いた「甲斐の山城と館㊦」で城館の位置を示した地図と、ここの展望台から撮影した写真を比べて見ていたら、「妾婦屋敷」(しょうぶやしき)が目の前に写っていた。

岩殿城 (22)
市立図書館の辺りが志賀城の笠原夫人が住まわされた屋敷跡だという。

宮坂武男氏の調査によれば、天文十六年(1547)に行われた佐久の志賀城攻めで、落城後に捕らわれた志賀城主の笠原夫人は戦利品として甲州に連行され、小山田羽州に与えられあっといい、その婦人が置かれた屋敷だと甲斐国誌に記載があるという。

史実自体は「高白斉記」に書かれているので間違いは無いが、果たしてここなのか?という疑問は残る。
それにしても彼女の過酷な運命には同情を禁じ得ないものがある(涙)

岩殿山城 (23)
桂川の流域東側の史跡群。

岩殿城 (28)
郭9。(兵舎の標柱)

話を元に戻そう。
城跡には至る所に標柱があるが、あまり参考にはならない(汗)
まあ、確かに馬は大事だが、こんな山の上にまで連れてくるだろうか?カモシカなら理解できるが。

岩殿城 (32)
郭6は東へ向けて傾斜地になっている。馬場跡らしいが馬場邸跡ではなかろうか・・(笑)

岩殿城 (33)
長屋のような掘立の建て物があったのだろうか?

岩殿城 (35)
看板のある辺りが郭4。

電波塔のある場所が最高部で主郭になる。改変は最小に抑えられたようで、北側の土塁も残存している。
背後には二条の堀切があり防御しているが、この尾根から攻め上がるのは至難の技だ。

岩殿城 (38)
史跡も大事ですが、大月市民のテレビ受信には必要な施設です。(郭1)

岩殿城 (40)
烽火台の標柱が突き刺さる土塁跡。

岩殿城 (42)
堀切㋐(上巾13m)を見下ろす。

岩殿城 (47)
堀切㋑(上巾9m)

武田さんちの山城としては、非常にシンプルな作りです。もっとも、これだけの天然要害に立地しているので、縄張で工夫する必要も無かったのでしょう。

最期に水の手のご案内。

こんな山の上でも水が出るってのは驚き・桃の木・山椒の木・・(古いっ!)

岩殿城 (51)
右が飲料用の亀ヶ池、左が兵士や馬の水浴び用の馬洗水と呼ばれる。

さて、如何でしたでしょうか?

掲載している小生も、だんだん面倒くさくなって記事も雑になり、写真も工夫するのが億劫になってきました(笑)

岩殿城 (60)
丸山公園のふるさと館では無料のトレッキング地図が貰えます。ありがたい。


【小山田信茂の心変わりについて】

御一門衆と呼ばれた穴山梅雪の徳川への寝返りは、武田軍団の崩壊を決定的なものとした。

信茂は譜代衆として信玄・勝頼の二代に仕え、特に長篠の合戦では、武田軍最大の三千の兵を率いて戦い千名の死者を出したと云う。穴山梅雪がロクに戦いもせずに引き上げたのとは対照的である。

「もはや これまでか・・・」

血縁関係を結んだとはいえ、信虎と和睦し臣従する前の小山田家は秩父氏の流れを組む郡内を領有したいた国人衆である。
このまま勝頼が小山田信茂の領地内にある岩殿城へ撤退・入城し籠城戦になれば、小山田の領民が戦禍に巻き込まれるのは避けられない。また、北条勢が呼応して相模から攻め込めば、郡内そして小山田氏の本拠地である谷村(やむら 現在の都留市)も戦場となるのは目に見えていた。

滅ぶ武田家に殉ずるよりも、家名を存続し領土領民をまりたい・・・・・彼の脳裏に浮かんだのはこのことであった。

岩殿城 (5)
小山田信茂の英断により戦禍を免れた岩殿城の城下(大月市)

残念ながら、勝頼を最後に裏切ったという印象の為に評価の低い小山田信茂。

裏切られた勝頼もまた、オヤジの遺産を食いつぶした放蕩息子という残念な評価。

敗者の名誉回復のお役に立てたら・・と切実に思っているが、どうでしょう?(笑)

≪岩殿城≫ (いわとのじょう)

標高:637.5m 比高:285m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県大月市賑岡町強瀬
攻城日:2013年9月21日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:30分
見どころ:土塁、揚城戸、水の手の井戸、岩壁、物見台からの絶景など
注意事項:特に無し
参考文献:「甲斐の山城と館㊦」(2014年 宮坂武男著)
付近の城址:記事参照

岩殿城 (65)
岩殿城全景。

稚児落としの伝説は、またいつかお話しましょうネ。



Posted on 2014/06/29 Sun. 16:29 [edit]

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0624

白山城 (韮崎市神山町)  

◆駿河方面からの侵攻に備えた新府城の支城◆

そのうち「日本むかし話と幻魔大戦」とか「不思議の国のらんまる」にタイトルが変わりそうな勢いである・・・(笑)

軍事構築物の更新記事を待っている方の為にも、本業(?)に戻ろう・・(汗)

今回ご紹介するのは城郭研究者から絶賛されているという甲斐の「白山城」(はくさんじょう)。

シロウトに毛が生えた程度の小生が掲載するのも恐れ多いが、百聞は一見に如かずという事で。

白山城(韮山市) (3)
白山城の搦め手方面に位置する武田八幡宮二ノ鳥居(県指定文化財)

なんせ猪武者なものですから「山梨は拙者のウサギ小屋の庭のようなものよ!!」と嘯いてロクに下調べもせず突入。

案の定、武田八幡宮の入口を右往左往して近所のオバちゃんに「白山神社」から登りなさい」と教えを請うた・・・(汗)

白山城(韮山市) (2)
全部見て廻るには半日かかりそうなので、また今度じっくり出直す事にします。

【立地】

南アルプスの広大な裾野の東端で釜無川の右岸に位置する独立峯のように見える通称「鍋山(なべやま」)の山頂に築かれている。新府城は釜無川の対岸約4km北側にある。

せっかくオバちゃんに教えてもらったもののチンプンカンプン。農道脇に車を捨てて神社らしき建物を探して10分徘徊。
ようやく見つけました。国指定史跡なら誘導看板ぐらい建てて欲しいものです。この時点ですでに15時30分。間に合う?

白山城(韮山市) (80)
神社の手前に「通せんぼ」のフェンスしたら、近くに行かないと分かんないでしょ!(怒)

白山城(韮山市) (5)
神社から城跡までの比高は約70m。

白山神社の入口には先客がいて、やはり入口が分からず迷ったという。聞けば既に夕暮れが近づいているので登城は諦めるらしい。

「これから登城するのですか??」 初老のいかにも歴史好きといった風情の方が小生に尋ねる。

「せっかく来たのですから、登りますよ・・」

ここまで来て妖怪が出ようがクーさんが出ようが引き返したのでは「男が腐る廃る」・・・この事である・・(笑)

白山城(韮山市) (7)
一応説明板にある縄張図を頭の中に入れようとするが、ザックリとした感じで・・・

白山城(韮山市) (8)
残念ながら白山神社の縁起は未調査です。

【城主・城歴】

白山城がある武田の集落には武田八幡社がひっそりと森の中に静観しているが、この地は武田氏の祖となった武田信義入郷の地である。信義は甲斐源氏の惣領的地位になり、館を構えて発展に努め鎌倉幕府の創立の功労者でもあったが、巨大な勢力ゆえに頼朝に警戒され失意の日々を過ごしたと云う。
白山城は信義の要害として築城されたと伝わるが、仮にあったとしても見張り程度の簡素なものであろう。

白山城(韮山市) (12)
登り始めて最初に現れる門跡。その裏側は空堀というよりは塹壕仕様であろう。

白山城(韮山市) (18)
大手口方面の斜面を八の字で守る竪掘㋑。横移動を制限し敵の攻め口を限定させている。

その後、武川衆(むかわしゅう)の中心的な人物に青木氏がいたが、青木氏は武田氏に仕え、この白山城を守備していたといわれている。青木信種のとき、二男信明が分派して山寺氏を称し、この辺りを領有するようになった。
武田氏滅亡後、山寺氏は徳川氏に従い、もとの本領を安堵されている。(甲州古文書)
このことから武田氏滅亡後も白山城が使用されていたことは事実であり、天正壬午の乱における徳川VS北条の戦いの時にも修築されたとみるべきであろう。

白山城縄張図(山梨県韮崎市)
一生懸命描くと雑になる縄張図(笑)

白山城(韮山市) (20)
屈折とか屈曲とか横掛り。攻め手にとっての難関には違いないし、少数精鋭で守るには技巧を駆使した要害だ。

【城跡】

白山神社からしばらく上ると左右に土手の付いた土塁が目に入る。恐らく門が置かれ、周囲は逆茂木の柵で囲まれていたと思われる。本郭の内枡形の虎口との間にもう一ヶ所門があったようだ。
独立峰に築かれているので防御指向は全方位で、搦め手の郭3(馬出しか?)にも内枡形の虎口が設置されている。
主郭は高い土塁で覆われ、周囲の北と東には武者走りを置き、大手方面には郭2を置く。

白山城(韮山市) (22)
芸術的な落書きである・・(笑)

白山城(韮山市) (33)
意図的に敵の侵入を誘う構造の内枡形(うちますがた)。罠と気づいた瞬間に死に至る恐ろしい構造である。

さらに横堀を周回させ、感覚を開けて放射状の長い竪掘を斜面に落とし横移動を制限している。
残念ながら北~東方面の横堀は埋まりかけていて往時の面影は消えつつある。

白山城(韮山市) (32)
主郭西側の高土塁。攻め登る敵に狙いを付けるには効果的な高さである。

白山城(韮山市) (37)
南側から見た主郭(26×28)。掘立小屋があったという説もあるが、短期決戦の城には邪魔だというのが持論である。

突拍子もないシロウトの暴言を許して頂けるとするなら、築城技術や縄張設計における武田と上杉の格差は雲泥の差だったと思われる。謙信公や景勝時代の城を全て見た訳ではないが、北信濃の城は特に武田流の築城技術のテイストが強い。
連続畝掘を特徴とした上杉方の築城技術だが、城造りに関してはかなり遅れていたようである。
領土拡大の野心など無い清廉潔白の義の人にとって、城をネチネチとこねくり回す暇など無かったと思われる・・(笑)

白山城(韮山市) (40)
これだけ写真に妄想で落書きする城郭探訪家はいないと思われる・・・・(汗)

白山城(韮山市) (42)
郭3の枡形虎口。(ってか補助線の引き方が雑・・・汗) 搦め手側の北からの侵入に備えている。

本来の防衛の主旨から云えば、防衛拠点の外側で敵を殲滅するのが理想であるが、敵を油断させて郭の内部へ誘導し閉塞空間でより多くの敵を討ち取る。
内枡形虎口(うちますがたこぐち)というこの防御構造は一見危うい構造に思えるが、少数で守る側には理に叶っている。

白山城(韮山市) (48)
搦め手方面最終の堀切。これより北側に防御構造はなく、武田神社へ下りていく道があるだけだ。

白山城(韮山市) (52)
郭3の北側(武田神社方面)の削平地。増築または修築の途中で放棄されたのだろうか?

よく観察して見ると、城域の東側は西側に比べると傾斜が緩いので、10本の竪掘で警戒している。
対する西側は八幡沢川が流れる急斜面なので、犬走りも置かずに横堀に数本の竪掘で凌いでいる。
この防御構造から考察すると、やはり東からの敵を想定し新府城への行軍を遮断する意図が見て取れる。

白山城(韮山市) (54)
郭3の西側の横堀。

白山城(韮山市) (55)
主郭の西側の横堀。傾斜がキツイのでこの程度でも落差があるので充分な防御構造である。

白山城(韮山市) (56)
郭3の南にある堀切㋔から見た東斜面。気合の入った切岸と二段の構え、放射状の竪掘に圧倒される。

白山城(韮山市) (61)
現在は帯曲輪のように見えるが、かつては横堀だったと思われる。

この城を踏査していて思い出したのが、高遠城の支城として急遽築城されたと想定される的場城であった。

的場城は雌山の尾根を利用して築かれているので雄山の白山城とは立地が若干違うが、防御指向や縄張りにおける基本的なコンセプト、そして使用しているパーツも極めて類似している。

恐らく築城(改修)時期も同時期と推定され、織田・徳川の武田領侵攻に備えた防御ライン構築の一環として武田流築城を受け持つプロの設計施工であると思われる。

白山城(韮山市) (30)
郭1から見下ろした郭2.

白山城も的場城も長期間の籠城に耐えうる作りではない。

この二つの城の果たすべき役割は「敵の攻撃を分散化する」事であり「後詰め到着までの時間稼ぎ」であろう。

高遠城においては上原城から出撃する武田勝頼本隊の後詰めであり、新府城においては同盟軍である上杉景勝の援軍だったと思われる。

白山城(韮山市) (72)
郭1と郭2の間には堀切があったようだ。

白山城(韮山市) (74)
郭4との間にある堀切㋘。独立峰にするために南西の尾根を断ち切ったのであろう。

【らんまるの考察】

もともとは砦程度のものが新府城の築城に伴い、その支城として大規模な手を入れられたものと推定する。
非常にコンパクトでありながら、二、三百人が籠る城としては技巧に優れた城であり寄せ手もかなり手こずる城であろう。

がしかし残念な事に、高遠城の落城をもって武田軍の織田・徳川への抵抗は終止符が打たれ、勝頼も天目山にて一族郎党とともに自刃して果てたと云う。

その後、信長が本能寺の変で死ぬと、武田氏の旧領を巡り天正壬午の乱が勃発し、新府城と白山城は徳川方の城として対北条戦においてその縄張の有効性を実証する。築城ヲタクの北条を相手に徳川如きが勝利するのだから、本家本元の武田が織田相手に奮戦する様を見たかった様な気もする。

諸説あるものの、信濃の山城にその血統を受け継がれた「武田流の放射状の竪掘の元祖」としては必見であろう。

今回は夕闇が迫る中での調査で細部を見ることが出来なかったが、もう一度来てキチンと調べてみたい秀逸の山城である。

白山城(韮山市) (76)
白山神社脇の削平地。ここに居館など平時の施設があったと推定される。

≪白山城≫ (はくさんじょう 鍋山城)

標高:567m 比高:110m
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:山梨県韮崎市神山町鍋山
攻城日:2013年9月21日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:15分
見どころ:放射状竪掘、土塁、横堀など
注意事項:特に無し
参考文献:「戦国武田の城」(中田正光著)、「甲斐の山城と館㊤」(宮坂武男著)
付近の城址:新府城

白山城(韮山市) (87)
南東の白沢川方面から見た白山城遠景。









Posted on 2014/06/24 Tue. 22:51 [edit]

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1013

笹尾城 (山梨県北杜市小淵沢町)  

◆信州諏方口を抑える境目の城◆

「そうだ、甲斐へ行こう!!」いつもの悪いクセである・・・・(笑)

小谷村周辺の城の掲載は中断するが、同じ「境目の城」なのでお許しいただこうか。

んで、今回ご紹介するのは笹尾城。

お1人様旅行 062全く関係無いが城跡の対岸にはSuntoryの白州工場があるので、工場見学もイチオシである(笑)

【立地】

八ヶ岳の編笠山(2524m)の南に広がる裾野が釜無川によって浸食された小淵沢の河岸段丘上にあり、北西3kmで信州との境の国界橋に至る要衝の地になる。また釜無川からは比高差が120mあり、三方を急崖で囲まれている天然の要害の地でもある。

笹尾城(北杜市) (2)発掘後だったら堀も郭も土塁も潰して駐車場にするという神経を疑いたくなる3の郭。(現地図では空堀で区切られた二つの郭だったらしい)

城山公園という名の正義を語り、数多くの中世城郭が改変され或いは現状を留めないほどに潰されてしまったのは周知の事実であろう。

笹尾城の駐車場には幻滅したが、幸いな事に二の郭の東屋(展望台)は史跡に配慮して建てられたようだ。

笹尾城見取図①

【城主・城歴】

「戦国武田の城」(中田正光著 昭和63年)に詳しいので一部引用させていただく。

信州諏方上社の記録である「当社神幸記」に、「甲州錯乱而、当方篠尾(笹尾)ニ要害ヲ立候テ、下宮牢人衆ささえられ候、彼の城も廿二日夜自落。此方本意之分にて、弥武田方難儀」とある。
これは享禄三年(1530)の条に記されたもので、築城年代が明記されている点で貴重な史料となっている。
文中の廿二日とは享禄四年のことであり、信虎が下宮(下社)の牢人衆を使って築かせた笹尾城が諏方勢により落とされ、武田勢は苦境に立たされた事を語っている。 ~引用終わり~

笹尾城(北杜市) (49)郭3(45×50)の東には堀切跡がある。(見取図の堀切㋔)

笹尾城(北杜市) (52)郭3と郭4の接続部分の切岸。往時のものとは言い難い。

武田信虎の評価も後世ではイマイチというかイマサンぐらいの評価なのだが、他国からの侵略を退け土豪同士の内乱の続く甲斐国統一を果たした彼の偉業が無ければ、信玄のその後はあり得なかった。

諏訪頼満と武田信虎との抗争は、天文四年(1535)九月の堺川の和議まで一進一退を繰り返す。

笹尾城は諏方氏との境目を抑える城として、武田信虎そして晴信(信玄)に重要視されたのであろう。

笹尾城(北杜市) (53)郭4.削平は甘いが往時のままと思われる。

笹尾城(北杜市) (56)堀切㋖。

天文八年(1539)に頼満が亡くなり孫の頼重が諏方宗家を継ぐ。頼重は信虎の三女の禰々(晴信の妹、輿入れ時は13歳だったという)を正室とし武田との関係を密にするが、その努力もむなしく諏方家は滅亡する。

笹尾城(北杜市) (61)南端の郭5と堀切。城域はここで終わる。(ピンボケご容赦!)

【城跡】

三方を崖に囲まれる立地なので、必然的に南へ開口する連梯式の縄張となる。

この城の見どころは郭2と郭3の間にある三日月状の横堀とそれを見下ろす位置に囲むように築かれた高土塁である。恐らくこの造りが後の丸馬出しと三日月堀と云う甲州流築城の原点になったのではないか?と思われる。

笹尾城(北杜市) (4)土橋脇の説明板。それによると「笹尾塁」としている。

二の郭と本郭(郭1)は笹尾城が単なる物見や烽火台の類ではなく、まさに実践を想定した城の造りである事が分かる。

笹尾城(北杜市) (6)圧巻の三日月状の横堀。攻城兵を土橋へ集中させる得意な形状。

笹尾城(北杜市) (11)行き止まりの曲輪と呼ばれる武者溜り。攻守で重要な役割を持つ。

笹尾城(北杜市) (9)加工度の高い郭1の切岸。さすが武田というのを感じる。

言葉は悪いが信濃の諸城における土塁というのは「囲む」という防衛概念で造られているような気がする。(もちろん全てがそうだと云っている訳では無い)

笹尾城の土塁は「攻め」の概念である。

「横矢」とか「狭間」という専守防衛。「簡単にやられはしない・・」

そこが凄いのである。

笹尾城(北杜市) (19)高さ3mの土塁に囲まれた郭2.

横矢掛けの土塁と虎口を限定し誘導することで敵を殲滅する。

笹尾城(北杜市) (31)郭1と郭2の境界は、攻め手から見ると、土塁と堀切に支配された生き地獄であろう。

笹尾城(北杜市) (33)本郭の上巾2mの高土塁。もち武者走りの戦闘用である事が分かる。

笹尾城(北杜市) (34)実測値40×15の本郭。

実は、笹尾城を訪問した時に先客の方がいらっしゃいまして、巻尺を使用するのを控えてました(汗)

まあね、そうは云っても時間が無いので50mの巻尺を縦横無尽に目の前で披露してしまい反省しております(汗)

笹尾城(北杜市) (37)高土塁の上も戦場なのだ。

笹尾城(北杜市) (39)背後は崖。城正面の宿命であろうか。

和議に同意した諏方氏は再び国境を超える事は無かった。

そして何年か後に甲州征伐で侵入した織田・徳川連合軍の前には無人の砦であったのかもしれない。

笹尾城(北杜市) (40)城跡から見る釜無川方面。

笹尾城(北杜市) (43)城跡は数値を実測すると面白いのだと云う事が最近分かった(笑)

≪笹尾城≫ (ささおじょう 笹尾塁跡)

標高:759m 比高:119m(釜無川より)
築城年代:1531年
築城・居住者:武田信虎
場所:山梨県北杜市小淵沢町下笹尾
攻城日:2013年10月12日 
お勧め度:★★★★☆  
城跡までの所要時間:- 駐車場:城山公園専用駐車場有り(皮肉)
見どころ:三日月形の堀、高土塁
注意事項:特に無し
参考文献:「戦国武田の城」(中田正光著)
付近の城址:中谷城








Posted on 2013/10/13 Sun. 21:32 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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