らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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五十土城 (戸隠栃原)  

◆福平城の南口を守る砦か◆

GW明けは連休も取れずに一週間に一度の日曜休みだけで、これといって観たい映画も無いし、近くの博物館や歴史館も特別に興味のある展示会をやっている訳でもないので、なんとなく一日が終わってしまう焦燥感・・・(汗)

といって蜘蛛の巣や毛虫が降り注ぎ、蛇を警戒しながらスズメバチに追われる夏の山城探索などに出掛ける気にもならない(笑)

かといって天気が良いのにブログ記事を更新するのもどうなんでしょうかねえ・・・今回ご案内するのは戸隠の「五十土城」(いかづちじょう)

戸隠周辺の城と居館①
戸隠地区で残るは「高城」と「志垣城」「猿丸城」の3つでコンプリートなのだが、猿丸城は大藪に阻まれて一度撤退している。

【立地】

旧戸隠村栃原の五十土(いかづち)集落の北側の山裾の高台にある。ここは谷沢の谷に面して断崖となり集落を見下ろす場所に位置している。東の台地上には大昌寺と大昌寺山城、北の大地には福平集落と福平城があり、その台地の南側の登り口にあたる。

五十土城見取図①
まあ、高台にホームベースのような単郭があるだけなのだが・・・(汗)

五十土城 (2)
道路脇から数分登れば高台(主郭)へ。墓地への道路が付いているので軽自動車なら入れる。

五十土城 (3)
主郭の墓地。周辺はかつて耕作地だったようだ。

【城主・城歴】

史料、伝承等無く不明。宮坂武男氏の調査によれば、この南下の家の家号が「十」(じょう)なので、この山が城跡と考えられているという。展望はあまり良くないのが、五十土城の北側の斜面を比高50mほど登れば福平城の外郭に通じる事や、南東の大昌寺山城とは指呼の間にあるので、福平城の砦だった可能性も考えられるという。

五十土城 (6)
主郭の北側は窪地になっていて堀があったと推定してみるがどうであろうか。

五十土城 (1)
西の谷沢方面に下る堀形。それっぽく見えます。

【城跡】

33×38の五角形状の頂部は墓地とかつては耕作地だったようで、「十(じょう)」と呼ばれた麓の家号の家との間に削平地が確認出来るが、これは往時のものかは断定できない。
本郭の南側の断崖に下りる小径の中間に稲荷と数基の石祠が確認出来るが、この城跡との関係は不明である。

五十土城 (5)
東側に福平城の出城と伝わる大昌寺山城。

五十土城 (8)
「十(じゅう)」という家号の家は恐らく五十土城の代々の城守だったのであろう。

≪五十土城≫ (いかづちじょう) 

標高:780m 比高:20m
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:墓地腋
見どころ:特になし
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

五十土城 (11)
高台の南側の斜面には稲荷社と石祠が祀られている。城と何か関係性があるのだろうか?

複雑な縄張図を描くのが面倒だと言って、安易に平地の城館で誤魔化す目論見はもちろんあります・・・(笑)

そうはいっても、誰かが記事にしなければ忘れ去られてしまうのも口惜しいので掲載にしてみました。

そんな小生をSNSで批判ですか・・・心外です甘んじて受けましょう!!(爆)

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Posted on 2018/05/20 Sun. 20:49 [edit]

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0513

追通の栗田屋敷 (長野市戸隠)  

◆戸隠に移住した山栗田氏の最初の居館跡◆

ここを探索したのは2015年8月なので、とっくに記事をアップしたと思い込んでいたが、ダイジェスト版のお知らせのみだった・・・・(汗)

未だに公開出来ずに抱えている在庫の城数はざっと500以上であろうか。

昨日食べた夕飯のメニューすら思い出せないのに、5年も前に探訪した城の写真を見ても、「ここは何処?私は誰?」・・・(笑)

今回ご案内するのは、断片的な記憶を辿りつつ、ボケ防止となるのか的な「追通の栗田屋敷」でございますw

追通の栗田屋敷 (1)
屋敷跡は栃原御厨神明宮の表参道(写真の道)の西側。奥の山が先日ご案内した追通城。

【立地】

裾花川の左岸で、戸隠栃原の追通集落(おっかよしゅうらく)の西端の台地上にある。屋敷のある台地の南側は裾花川の断崖で、西は西浦沢の渓谷が天然の堀切となり、北は追通城の山塊に守られている。正に要害の地である。

追通の栗田屋敷 (4)
表参道から西へ向かう路地に入る。道路の南側の段差にも住宅等が建つが、往時の切岸の跡が伺える。

【館主・館歴】

「長野県町村誌」には「古宅地」として掲載され「本村(栃原村)の西南の方字追通(おっかよう)にあり。東西三十間、南北二十間、面積二反歩。里俗伝にアナタ屋敷と云ひ、又栗田屋敷と云ふ。今畑となる。栗田氏始此に住し後豊岡村に移る。今同氏の末裔連綿して代々戸隠神社の神宮たり。」とある。明暦元年(1655)まで栗田氏(山栗田)が居住したと伝わる。

追通の栗田屋敷 (5)
中屋敷1.この周辺は和田一族が居住している。敷地の西隅に八幡宮があるので、ここが居館の中心地だと思われる。

追通の栗田屋敷見取図
yahooの航空写真を拡大し加筆修正。

追通の栗田屋敷 (23)
北側より撮影した中屋敷1(和田邸)

【館跡】

現在の屋敷地には和田氏一族が居住している。
中屋敷の北側の高台は上屋敷、一段下の南側は下屋敷と呼ばれ道路の開通や宅地による改変はあるものの、栗田屋敷だった往時の面影が残る。
上屋敷の西側には五輪塔が残り諏訪社が祀られている。

追通の栗田屋敷 (25)
中屋敷の西端の八幡宮。

追通の栗田屋敷 (8)
追通城のある山塊を背にした上屋敷。

追通の栗田屋敷 (10)
和田氏の墓地の脇の山際に残る五輪塔。かなり古いものだ。

追通の栗田屋敷 (13)
上屋敷より見た下屋敷方面。

【その後の栗田氏】

追通の山栗田氏は、その後宝光社の東側の原山に移り、最終的には1明暦四年(1658)、二条の堀之内城(栗田屋敷)に居館を移転し江戸末期まで戸隠神領の行政の中心としての役目を果たした。


≪追通の栗田屋敷≫ (おっかよのくりたやしき アナタ屋敷) 

標高:665m 比高:50m(裾花川より) 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★☆☆☆☆
居館跡までの所要時間:-
駐車場:無し
見どころ:-
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地につきプライバシー注意、無断侵入禁止
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿

追通の栗田屋敷 (18)
屋敷地より見た追通集落。十数年後も同じ風景が見られることを祈りつつ・・・・。

Posted on 2018/05/13 Sun. 11:20 [edit]

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追通城 (長野市戸隠)  

◆裾花川流域の古道を見張る物見砦か◆

もはや山城探訪もオフシーズンとなった。

そんなひ弱な戯言を・・・とオールシーズンツアラーの方には叱られそうだが、夏場の城址探訪などまっぴら御免である・・(笑)

夏は古墳とかダムとか博物館とか峠とか・・・・涼を求めて彷徨うのが正しい過ごし方である。(でも峠はどうなんでしょうか・・汗)

今回ご案内するのは、前回鬼ヶ城を攻めた面々が、返す刀で急襲した追通城(おっかよじょう)でございます。

朝日城 (15)
南側の陣場平山(1257m)にある朝日城の手前の林道から見た戸隠の山城群。(ズーム撮影)

【立地】

裾花川の左岸で、追通(おっかよ)集落の後背の山が「城の山」と呼ばれる。ここが追通城である。東西に長い山嶺で、東は滝沢の谷、北も田頭集落に面して急斜面で容易に人を寄せ付けない険しい山体である。西は荒倉山の岩峰が続き、そこに鬼無里に通じる古道があり、祖山地区から七二会(なにあい)に通じる交通の要衝である。

IMG_5953.jpg
郭4と郭1を連結する尾根。

「いかに労せずして遺構(城跡)に辿り着くか・・・」 

我々は山城の位置を特定すると、探訪プランの立案に際して最短距離と最小の体力で到達する方法を真っ先に考える。

往時の城へのアプローチ方法や築城に至ったプロセスよりも、いち早く現場について検証する事が最優先なのである・・・(笑)

追通城見取図①
最近見取図もテキトーだなあ・・・(汗)

【城主・城歴】

史料なく詳細は不明。麓の追通集落(おっかよ)に「追通の栗田屋敷」(すでに記事を掲載してあるかと思い込んでいましたが、未掲載でした・・・やば)があり、栗田氏関連の城と推定される。

※栗田氏(山栗田・里栗田)に関しては過去記事で⇒栗田城にざっくり書いたのでご参照ください。

追通城 (5)
主郭の切岸。

追通城 (6)
主郭は12×11の平場で三角点がある。

【城跡】

荒倉山の裾野が裾花川に突き出す険しい痩せ尾根を利用した砦で、自然地形の小山や岩場に最小限の加工を施しただけのようだ。主郭は周囲に石積みが見られるのだが、土留めというよりは祠を勧進した時の後世の加工の跡のように思える。
主郭南側の堀切は往時のものであろう。城域は郭2と細長い平場の郭3が終点で、その先は道がしっかりついているので表参道として人々が登ったのであろう。

追通城 (7)
郭1(主郭)から堀切を見下ろす。

追通城 (8)
主郭の石積み。結構しっかりと組んでいるので、祠を勧進したときの施工のように思えるが・・・。

追通城 (9)
堀切の先の南に突き出した岩場。物見兵はここに立って裾花川流域を見張ったのであろう。

【物見からのロケーション】

主郭の南の岩場からの景色は素晴らしく、何故ここに物見が置かれたのかを雄弁に物語る。

追通城 (10)
麓の栗田屋敷。目と鼻の先である。

追通城 (11)
対岸の山脈を越えれば善光寺平である。

追通城 (15)
郭2の小山。ほぼ地山のままだ。

追通城 (18)
郭3の削平地。ここは後世の参道だったように思えるが・・。

【城へのアクセス】

田頭集落から林道経由で城の西側の平場の近くまで軽自動車ならアスクセスが可能。これが最短距離で比高差は最小限となるが、ある程度歩く。夏場は休耕地の笹薮が酷くお勧めできない。麓の追通栗田屋敷から大手道があるらしいが不明。

追通城 (1)
我々の当日のGPSログ。


≪追通城≫ (おっかよじょう 城の山) 

標高:877.9m 比高:250m(国道より) 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠栃原
攻城日:2018年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分(上入林道途中より)
駐車場:林道脇に路駐
見どころ:石積みのある主郭、頂上からの景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:痩せ尾根につき岩場からの転落注意。
付近の城跡:栗田屋敷、福平城、中尾城、上祖山城、鬼ヶ城など
SpecialThanks:ていぴす殿、えいき殿(越後国)、小太三郎殿(相模国)



追通城 (22)
田頭集落入口から見た追通城。

Posted on 2018/05/10 Thu. 20:34 [edit]

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0504

鬼ヶ城 (長野市戸隠)  

◆信濃に三ヶ所ある「鬼ヶ城」のミッションコンプリート!◆

以前も書いたが、だいたい「鬼」とか「猿」とかの名の付く山城は人を寄せつけない非常に厳しい場所にある。

特に「鬼ヶ城」と名の付く城は、「長野県の中世城館跡」では以下の三ヶ所である。

①小県郡真田町(現在は上田市)の角間渓谷

kakumaoni (41)
角間温泉の入口から見上げた鬼ヶ城。

②小県郡武石村(現在は上田市)の焼山

鬼ヶ城(上田市焼山) (27)
焼山沢より見上げた鬼ヶ城。

③上水内郡戸隠村(現在は長野市)の荒倉山

IMG_5989.jpg
戸隠の円光寺館から見た鬼ヶ城。

これらの城を中世城郭としてとらえて良いものかどうかは別として、城と名が付く以上は一度は現地を踏査したいと思ってしまう。

もちろん、それら三ヶ所の鬼の城は宮坂武男氏が「図解山城探訪」(復刻版:信濃の山城と館シリーズ)に掲載されているので、何を今更・・・と思ってはみても「怖いもの見たさ」の深層心理とご理解いただければ幸いである・・・(笑)

今回ご案内するのは、その三ヶ所の鬼ヶ城の最後の難関だった戸隠荒倉山の「鬼ヶ城」である。

IMG_5974.jpg
登り口の戸隠栃原の田頭集落から見た鬼ヶ城。かなりの距離があるが大丈夫か?

今回は合同踏査ということで、毎度お馴染み信濃先方衆のていぴす殿に加えて、越後国よりえいき殿、相模国より小太三郎様をお迎えして「秘境に挑む」のであった・・・・。

IMG_5950.jpg
林道の終点から適当に見当をつけて尾根に向けて直登するしかない。

【立地】

裾花川の左岸で旧戸隠村と旧鬼無里村の境に聳える荒倉山の支尾根上にある。尾根伝いに北上すれば砂鉢山(1431.6m)を越えて紅葉の岩屋を越えて戸隠三社に通じ、南に下れば裾花川を渡り小虫倉山(1269m)越えて犀川沿いの集落に繋がる古道の要衝だったという。
戸隠の田頭集落から沢伝いに尾根を越え、更にその先の沢を詰めた場所にあるので容易に人を寄せつけない。

IMG_5947.jpg
ここから鬼ヶ城のある尾根まで比高100mの藪漕ぎ。岩山の斜面を木につかまりながら這い上がるのである。

戸隠の田頭集落から鬼ヶ城の直下まで通じている「林道上入線」がどこまで辿れるのか?が今回のチャレンジのポイントだった。道路状況によっては最悪断念することも考えていたが、幸いな事に倒木や落石なども無くなんとか終点まで辿り着いた・・(汗)

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直登して何とか城の手前1,100mの鞍部に辿り着く。尾根筋にはしっかりと道がついているので驚いた。

【城主・城歴】

戸隠地方に伝わる「鬼女紅葉伝説」の場所で、鬼無里を追われた紅葉が荒倉山に逃れ最初の拠点としてここに砦を築いたという。
他の中世城館や山城と違い伝説の域ではあるが、古道の要衝を見張る位置にあることから戦国時代にも物見が置かれた可能性は否定できないと思う。

鬼が城1
この岩場から城域が始まる。今回初参戦の相模国の猛者の小太郎さん(中央)と、久々参戦のえいきさん(手前)。

「長野県町村誌」にも「鬼ヶ城」として、「本村(戸隠村)の西の方にあり、高凡九十間周囲凡百五十間、孤立山にして築立せるが如し。頂上は平行にして方二十間あり、往昔、鬼女紅葉の住せし所なりと云ふ。嶮にして登る事難し。」とある。

鬼ヶ城見取図①
砦というよりは修験者の遥拝所だった可能性もあるだろう。

【城跡】

鞍部から歩くと岩場の登りとなる。一騎駆けのような痩せた岩尾根を過ぎ山頂部に入ると人の手の加わった場所に入り平場が連続する。

見取図の3が頂部であるが、そこから下ると石積のある郭1となる。石積みは祠の基壇か積石を信仰の対象として設置された可能性がある。一段下の郭2は先端に土塁のような形状を持つが防御構造とは言い難い。
その先に三角点があり、段郭の先は下りとなり城域はここで終わるようだ。

鬼ヶ城(戸隠) (9)
郭1の平場(15×8)

鬼ヶ城(戸隠) (11)
郭1にある石積み。祠の跡というよりは修験者が積石を重ねて遥拝所としたように思えるが。

鬼ヶ城(戸隠) (14)
郭2。南側に土塁のような盛り上がりもあり連続する平場の中では一番広い。

鬼ヶ城(戸隠) (16)
郭2を下った先の三角点(1133.9m)。ここも郭のようだ。

鬼ヶ城(戸隠) (17)
三角点の先の郭。ここで城域は終わるが、道は南尾根伝いに続いている。

鬼ヶ城(戸隠) (18)
この時期は頂上からの景色はぱっとしないが、往時は裾花流域や鬼無里方面、戸隠もしっかり監視出来たと思われる。

宮坂武男氏もここを城跡とみるかは問題を提起している。

えいきさんと話をした中では、戸隠山の宗徒が修験道の霊場または遥拝所として自然地形に多少手を加えた場所であろうという見解に達した。戦国時代、甲越紛争に翻弄された戸隠山の宗徒が防衛の為に見張りを置いた事も充分考えられる。

鬼ヶ城(戸隠) (22)
最高所の郭3は視界が開けて東側の彼方に善光寺平が見える。

鬼ヶ城(戸隠) (26)
郭4。西側に土塁のような跡があるが、削り残しであろうか。

鬼ヶ城(戸隠) (21)
城域の尾根は十個以上の平場が連続している。

以上、信濃の鬼ヶ城のラストであったが、一番砦らしい鬼の城でした・・・。

もっとも林道が無ければ行く気にもなれなかったと思うのですが・・・(笑)

鬼ヶ城(戸隠) (1)
当日のGPSログ

≪鬼ヶ城≫ (おにがじょう) 

標高:1140m 比高:195m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠荒倉山
攻城日:2018年4月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:30分(上入林道終点より)
駐車場:林道終点
見どころ:岩場の連続した郭、頂上からの景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:単独は避けよう。林道走破なのでオフロード車でないと無理。直登のため目印を付けて登ろう。
付近の城跡:追通城、福平城、中尾城、上祖山城など
SpecialThanks:ていぴす殿、えいき殿(越後国)、小太三郎殿(相模国)



鬼ヶ城(戸隠) (34)
林道上入線の途中から見た鬼ヶ城全景。

Posted on 2018/05/04 Fri. 11:28 [edit]

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多胡氏館 (長野市田子)  

◆若槻氏の分派である多胡氏の居館跡◆

例年であれば、北信濃や白馬・小谷方面はGW期間中が山城シーズンラストの見頃となるのだが、今年の異常な気温上昇の為に新緑が覆い始めており、終了のゴングが鳴り響いている・・・(汗)

近い将来、山城のトップシーズンは12月~3月末が定着するのでろう。降雪多い地域の山城探訪は12月上旬と3月下旬の1ヶ月に限定となる日は近いのではないかと真剣に心配している次第である・・・。

今回ご案内するのは、夏場の城館巡りに推挙したい「多胡氏館」(たごしやかた)である。

多胡氏館(長野市) (1)
田子公民館の脇の道路の鳥居が居館跡への入口の目印だ。

多胡氏館(長野市) (3)
居館の南側には、田子池と接続する泥田か水沼のような堀が存在したという。

【立地】

先日ご紹介した多胡城の東側の麓で田子神社と田子池の間の丘陵が多胡氏の居館跡と伝わる。

多胡氏館(長野市) (4)
居館の正面には地元の田子地区の方が平成24年に説明板を立ててありました。有難い事ですw

多胡氏館(長野市) (6)
居館の中心とその周囲。果樹園として耕作地化しているが、往時もさほど変わりなかったように思える。

【城主・城歴】 ※現地の解説版を引用

若槻里城に本拠を構えた若槻氏一族は、鎌倉後期から南北朝・室町を経て戦国時代に至るまで繁栄を続けた。「尊卑分脈」によれば、源義家の孫頼隆の曾孫頼仲が、若槻庄内の多胡・押田の両郷を相伝し開発を進めている。

多胡氏館見取図①
yahooの航空写真に加筆修正して往時の縄張図を推察するとこんな感じであろうか。

居館跡については、明治十四年(1881)編纂の「田子村々誌」に、「村の子の方、字北村耕作地柏木山林の麓にあり。東西四十間・南北五十間、東南の二方一段低く堀跡なりtぴう。今は水田となれり。西北は山を負う。多胡氏代々之に居る。里俗伝に該氏は源義家の孫頼隆の三男多胡宗太なる者、当地の郷士となり是に居り、数世の後、某代なるか村上氏の幕下となる。
天文二十二年(1553)八月、村上義清国退去の後、多胡大内蔵義際武田氏に属すると云う。伝記詳ならず」と記されている。

多胡氏館(長野市) (12)
居館の南側の堀跡。その先には多胡城が見える。

【居館跡地】 ※現地説明板より引用

田子神社の東南東約百メートルの八幡平と呼ばれる高台に位置し、西方から南方にかけて幅員10~20メートルの濠状の低湿地が取り囲み堀跡を偲ばせていたが、現在は埋め立てられ、耕地や原野となっている。また、東方は田子池に接続する丘陵台地で、いかにも往昔の古館の跡を彷彿とさせる。

多胡氏館(長野市) (16)
田子池に接続する濠状の濠跡と台地。

多胡氏館(長野市) (17)
「八幡平」という名は、この居館の主が源氏に由来している事を指すのであろう。

≪多胡氏館≫ (たごしやかた) 

標高:420m 比高:6m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市田子
攻城日:2016年5月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:公民館の駐車場を借用
見どころ:濠跡
参考文献・書籍:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:耕作地なので無断侵入不可
付近の城跡:多胡城、土京城、鐘撞堂山、若槻山城など


Posted on 2018/05/02 Wed. 06:07 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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