らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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保科前の山砦 (長野市若穂保科)  

◆霜台城の大手を守る物見砦◆

毎年の事ながら、GWが終わると山城探訪のトップシーズンも終わりを告げるのである。

そんな事にはお構いなしに年がら年中城跡探索を敢行する山城ツアラーもいらっしゃるようですが、小生は一休みでございますw

今回ご案内するのは、6年前に記載した霜台城をリテイクする為の再調査で立ち寄った「保科前の山砦」。前回は素通りしてしまったので、今回は新しい記事として掲載させていただこうと思う。

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登り口の須釜集落から撮影した前の山砦と霜台城。

【立地】

保科川の右岸、霜台城のある山の南西に張り出した尾根の中段に前の山砦がある。現在はトレッキングコースとして保科地区から前山砦~弾正岩~霜台城~クマ太郎岩~太郎山のルートが整備されている。(6年前は標柱など無かったが・・)
麓からの比高は105mの南へ向いた尾根の先端の弛みであるが、霜台城はここから弾正岩を経由し200mの比高を登る。長野市誌では「前山城」と言っているが、小出では前の山と言っているので、この名から「保科前の山砦」と宮坂武男氏が命名している。

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6年前はこのような看板も無かったが、今ではトレッキングコースとして整備されている。

【城主・城歴】

保科氏の出城の一つと考えられている。一説には、小井底五郎左衛門尉(こいていごろうさいもんのじょう)が伊那郡小井弖荘(こいでしょう 現在の伊那市小出)から移住し、小出砦に拠って村上氏に仕え、地名をもって小出姓を名乗ったという。その子小出大隈守は、元禄の初めに仙仁城(現在の須坂市)に移るという。

保科前の山砦見取図①
前回紹介した加増城よりも更に曖昧な縄張である。

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登山口から約10分で砦跡に辿り着く。看板もあるとは驚きであった。

霜台城2 (5)
砦の南先端部。街道を見張るにはちょうど良い高さと見晴らしである。

霜台城2 (6)
砦の中心部分の全長は葯27mとかなり広い。

霜台城2 (7)
主郭の背後は土塁が盛られ背後の堀切・土橋に続く。

【城跡】

尾根の中段の弛みへ上巾9mの堀を入れ、掘った土を内側へ土塁として盛土してある。堀は土橋で渡るようになっている。郭の両サイドの切岸は加工度も低く自然地形のままであろうか。北側に続く尾根を除くと三方が急斜面なので加工する必要性は無かったのかもしれない。
霜台城の比高が高いので、有事の際以外はこの砦に歩哨を置き警戒していたのだと思われる。

霜台城2 (8)
主郭から見た東側の土塁と背後の堀切。

霜台城2 (9)
堀切と土橋。

霜台城2 (12)
西側の沢に落ちる堀切。かなり埋まっているが上巾9mは圧巻である。

霜台城2 (14)
北側から見た堀と土橋。

以上、見てきた通り、堀切は立派なのだが郭が曖昧である。平時は物見砦として、そして戦時は霜台城へ向かう攻城兵を阻止する出城としての機能であればこれで十分かもしれない。

≪保科前の山砦≫ (ほしなまえのやまとりで)

標高:525m 比高:105m
築城年代:不明
城主;不明
場所:長野市若穂保科
攻城日:2017年4月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分~15分
見どころ:堀切、土橋
注意事項:特になし
駐車場:長野市の若穂隣保館(公民館)がトレッキング者向けの指定駐車場。(無料)
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霜台城、加増城、和田東山城、春山城など

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Posted on 2017/05/07 Sun. 21:46 [edit]

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加増城 (長野市若穂保科)  

◆郭1個と堀切二条の物見砦の為に、比高310mを駆け登る病的集団◆

ブログでは毎度お馴染みの顔になっているが、我ら信濃先方衆の同盟は今年の7月で5周年を迎える。早いものである・・・。

遭難もせず、お互いの顔に飽きもせず(笑)、ここまで苦楽を共にしてきたが、我々にはもはや難易度Eクラスの辺境の地の物見小屋とか、鬼・猿の名の付く伝説の山城しか残っていない・・・・(汗)

今回ご案内するのは、片道45分、比高310m、登山道など無く直登するしかなかった「加増城」(かぞうじょう)である。

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対岸の本城である「霜台城」(そうだいじょう)の弾正岩から見た加増城。コスパなど考えたら絶対に登らない場所にある。

【立地】

長野市若穂保科の保科かわの左岸、引沢集落の南部の沢中の高いところが加増(かぞう)である。加増の南西の三角点(759.1m)のある山に加増城がある。この山は保基谷だけ(1529.1m)から北西へ下った堀切山(1157m)へ続く尾根上にあり、ここから若穂地区はもちろん、善光寺平がよく見通せる。また対岸の北方1.8kmの至近に霜台城があり、眼下の街道は須坂・仁礼方面と、菅平を経て小県及び上州に通じる。

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今回の直登ルート。麓の神社(若宮八幡宮)から祠までは道形もなく、急斜面をひたすら直登するのである。

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標高600m付近の平場にある石祠。屋根が落ちていたので、ていぴす殿と持ち上げて元通りにしておく。ご利益あるかしら(笑)

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石祠のある場所は尾根上に平場が続くので、砦に当直する番兵の小屋掛けがあったかもしれない。

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対岸には霜台城が指呼の間によく見える。

【城主・城歴】

資料がなくはっきりした事はわからないという。地元では川中島合戦の時の物見であったという伝承がある。保科氏の勢力範囲に属する地域であるが、その関係は不明だという。

加増城見取図①
とてもシンプルで機能性のみを追求した砦。この立地条件と高さであればこの装備で十分であろう。

毎回我ら信濃先方衆は一日の行動とスケジュールを検証し反省する。この日のスケジュールのラストとして午後3時から比高300mの砦がふさわしいのか?・・・しかも直登で・・・バイパス長過ぎ・・・どう考えても無謀なのだが、行かぬ後悔よりは突撃あるのみ(笑)

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おお、ここであったか・・・・。

石祠から更に25分、果てしなく長い尾根を歩き続けた我々は息絶え絶えになりながら砦跡に遭遇したのである。

【城跡】

平場の尾根の先端に、前後に堀切を穿って守られた13×9の主郭がある。低い土塁が郭を全周していて南の土塁上に三角点がある。

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堀切㋐(上巾9m)。どんなにヘロヘロになろうと、城域に入るとゾンビのように生き返るのである・・(笑)

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堀切㋐と主郭の接続部分には土留めの石積みが見られる。細部の観察を怠ってはならないという我々の無言の掟である。

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主郭(13×9)。周回する土塁もかなり低い。

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南側の土塁上の三等三角点。

主郭の西側の一段下には腰曲輪があり、南の堀に沿って土塁があり、部分的に石積みが見られ、北端に井戸跡と思われる石組がある。
堀切㋑の後ろに続く尾根は平地が50mほど続くが、縄張とは思えない。

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主郭下の腰曲輪(23×5)

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井戸跡の石組み。かなり崩落が進み原形を留めていない。

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堀切㋑(上巾10m)

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西斜面に落ちる長大な堀切㋑。どんな小さな砦でも、手抜きしないこの姿勢が大切です。

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堀切㋑より南の尾根の平場。特にこれといった防御システムは発見出来なかった。

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平場が終わると再び堀切山へ向けた険しい尾根道が続いている。

以上、観察してきた通り、単純な作りであるものの、堀は長大で立派である。伝承のように詰め城というよりは物見、あるいは烽火台といった類に属するものであろう。
もちろん、対岸の霜台城の物見という考え方が自然であり、保科前の山砦と共に保科氏の領地の監視砦であったと思われる。

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ていぴす殿も必死こいて本郭の調査をしておりますw

我々のこうした常道を外れる(?)探求心が、「彼らは、気がふれているのではないのか?」と思われ、ご自分の立ち位置を確認する行動をされる方を時々お見受けします。

大丈夫ですよ、貴方も我らの心境まであと一歩ですから・・・・きっと頼もしきお仲間に入れます・・・・・(笑)

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主郭から見下ろした堀切㋐。

≪加増城≫ (かぞうじょう 加増山城)

標高:759.1m 比高:310m(若宮八幡宮社より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:長野市若穂保科
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:45分~60分
見どころ:二条の堀切、主郭
注意事項:道が無く神社~石祠までは直登なのでしっかりとした装備でトライしよう。
駐車場:無し、神社脇の道路に寄せて路駐。
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霜台城、保科前の山砦、和田東山城、春山城など
Special Thanks to ていぴす殿

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各個撃破とはいえ、この砦一つのために比高310mは常人の常識を逸脱しているか・・・(笑)







Posted on 2017/05/01 Mon. 22:47 [edit]

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松田館2  

◆保存整備事業の進む松田館(まつだやかた)を3月26日まで一部公開中◆

千曲市八幡の武水別神社で代々神主を勤める松田氏の屋敷は、知る人ぞ知る戦国時代の方形居館跡であり、巨大な土塁と堀跡が残る貴重な遺構。現在千曲市が保存整備事業を進め平成31年には公開予定(当初は平成26年だったような・・)としているが、その一部が今週限定公開されている。

松田館 (4)
3月21日~26日まで一部を無料公開中。(10:00~16:00)

見たいけど、遠いし日程も短いので無理・・・という方の為に小生が見学した内容をお伝えしよう。

※ここに関しての過去記事は⇒八幡松田館をご確認ください。

【武水別神社の概要】

長野県千曲市にある武水別神社(たけみずわけじんじゃ)は、平安時代に京都の石清水八幡宮より勧進された延喜式社である。祭神として「武水別大神(たけみずかみのおおかみ)、誉田別命(おんだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめのおおかみ)など水や農業の神様を祀っている。

武水別神社他 (1)

社殿(本殿)は江戸時代天保三年(1842)に火災により焼失、嘉永三年(1850)に、諏訪の宮大工立川富昌により再建。

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主な祭事として、毎年12月10日~14日まで「大頭祭(だいとうさい)」が執り行われている

【松田家史料保存整備事業の経緯】  ※千曲市教育委員会の説明資料より引用

松田家は、代々武水別神社の神主を勤めてきた家系です。
千曲市では、長野県宝に指定された主屋(おもや)ほか市指定文化財の附属建物を平成16年12月、所有者の松田孝弘様から寄贈を受けたのを機会に、江戸時代~明治時代の建物群、約2,000坪の屋敷内に中世の居館跡を偲ばせる堀や土塁、さらに1万数千点にのぼる古文書、書画、什器等の資・史料の散逸や滅失を防ぎ、その保存と整備を行い広く活用を図る事を目的に、平成17年度から松田家史料保存整備事業を行っています。

松田館 (2)
綺麗に復元整備された長屋門と水堀。

松田館見取図①
今回公開されたのは北側の約2/3で、南の斎館は工事中のため未公開。

【松田館の主な文化財】

1.名称:長野県宝「松田家住宅主屋」(まつだけじゅうたくおもや)
 指定:平成16年11月22日
 概要:主屋の建築年代は不明だが、建築部材の仕上げや建物の特徴から18世紀代の建築と推定される。
     19世紀前期に現在のように改造されたものと考えられる

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北側から見た主屋。巨大すぎて写真に収まらない・・・(汗)

松田館 (9)
主屋の内部①

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主屋の内部②

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主屋南側の庭園

建物の特徴として、間口十二間語釈、奥行四間の細長い木造平屋建、茅葺(かやぶき)の建物で、間口中央から斎館に向かって凸字形に突き出した平面形となっている。
主屋の平面は、前後に五室が並ぶ形式で、土間が表から裏まで通る一般の民家とは異なった間取りとなっている。天井が低く、差鴨居(さしがもい)や長押(なげし)を用いない武家住宅のような趣がある。

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主屋の台所

松田館 (19)
主屋の北側の裏庭

南側の突出部は書斎のような造りで、一画にある湯殿(ゆどの)は、神事の時に潔斎(けっさい)の場に使われていたところで、神主の家としての特徴が表れています。

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湯殿。

2.名称:長野県史蹟「武水別神社神主松田家館跡」(まつだけやかたあと)
 指定:平成18年4月20日
 概要:敷地は東西約70m、南北約90mの方形を成し、中世の居館を構成する典型的な地割りである。
     四方に高さ約3mの土塁が廻り、その周囲を取り巻く堀跡が残存する遺構をもっている。
     これまでの調査結果から、松田館の土塁は16世紀、室町~戦国期の築造と推測される。

主屋の西側に接続する味噌蔵には、館の整備と並行して実施された発掘調査による遺物や調査当時の写真が飾られている。
また、松田家で使われた品々や松田家に伝わる古文書も一部公開されている。

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発掘調査で出土した遺物

松田館 (29)
松田家で使用していたお重

松田館 (30)
松田家に伝わる文書

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武田晴信(信玄)の朱印状(右)と、上杉景勝の朱印状も展示されている。

今回の一部公開では、北側の土塁、北西隅の御霊屋(おたまや)のL字土塁、裏門から氷室にかけての土塁が内側より見る事が出来た。

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北側の土塁。北東隅の土塁は隠居屋建設の際に破壊された事が確認されている。

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裏門付近の土塁。脇を地下水路が走っている。

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北西のL字土塁の上に立つ御霊屋(おたまや)。江戸時代の天明に建てられた。

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氷室のある西側土塁。

3.名称:松長野県宝「田家斎館」(まつだけさいかん)
 指定:平成26年2月28日
 概要:文久元年(1861)に再建された間口7間、奥行3間半の寄棟造の建物で、神殿が設けられた儀礼を主に行った。
    現在も9月14日の仲秋祭や大頭祭の頭殿さんの出達儀式の場として使われている。

 ※今回は工事中に付き未公開

4.千曲市有形文化財「松田邸」(まつだてい)
 指定:平成15年2月28日
 概要:江戸時代後期から明治期の主屋はじめ斎館、土蔵など16棟を指定。
    ※県宝指定に伴い主屋・斎館は除外

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西の蔵。

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北の蔵。

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隠居屋。

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裏門(裏長屋)。御霊屋から撮影。

さて、如何でしたでしょうか。

千曲市は、平成17年度から総事業費5億数千万円をかけて平成31年の完成・一般公開に向けて進めていますが、工期は延びるかもしれません。
でも、未来の子供たちに地元の文化財を残して受け継いで欲しい・・・その心意気に拍手喝采です。
完成の暁には、是非皆さんも訪れていただきたいと思います。



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Posted on 2017/03/24 Fri. 10:56 [edit]

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葛山城の連続堀切 (長野市鑪葛山)  

◆葛山城の東尾根の連続堀切が笹薮を刈り払って初のお披露目◆

城郭専門用語では、中世城郭の防御構造の種類の一つとして連続する空堀を「畝状阻塞(うねじょうそさい)」というらしい。

「連続空堀」でも「連続畝状(うねじょう)堀切群」でも、呼び名なんぞはどうでもよいと思うのだが、世の中にはその道のプロを自称する方々がおり、一言一句の間違いも赦さないという重箱の隅をつつくような輩も世の中にはいるらしい・・・(汗)。

その狭い了見が、山城入門者にとっては最大の阻害要因であることを自覚している方がどのくらいいるのでしょうか・・?(笑)

専門用語でしか語れぬ排他的な趣味の世界など栄えたためしはないし、滅びるしかないのが定めであろう。

中世の山城探訪がそういう世界観になるのであれば、小生は潔く山城巡りの趣味を捨ててブログも閉鎖しますよ・・・(爆)

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何度訪問してもその全貌が明らかになることは無いと思われる葛山城。(写真は主郭の説明板)

今回ご案内するのは、善光寺平における甲越紛争(武田VS上杉)において、武田方の旭山城に対峙するべく上杉方が築城した葛山城の東尾根の主要部。

ここの尾根を切り刻んだ7連続の堀切は全国的にも有名なのだが、現地は笹薮が酷くて突入すら出来ない状態であった。
最近、ここの強靭な笹藪が刈り払い機によって刈り取られ、その雄姿を拝めるという情報があり、残雪の城址に挑んだ次第である。

葛尾城縄張図①(宮坂武男氏作成)
宮坂武男氏はこの縄張図を描くために笹薮に突入したのであろうか。小心者の小には無理な相談である・・・。

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2014年4月に撮影した二重堀切㋐(W底堀切)。堀底の土塁上には石祠が祀られている。

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今回(2017年3月12日)に撮影した二重堀切㋐。二年前に比べてかなりスッキリしているのがお分かりだろうか・・。

※甲越紛争時における葛山城と旭山城の城歴は下記の過去記事を参照願います。

旭山城
頼朝山砦

【謎の多い葛山城】

幾度となく調査が実施されている葛山城だが、背丈ほどに生い茂る笹薮に阻れてその全貌の解明は未だに進んでいない。甲越紛争時の上杉方による改修と拡張を指摘する方を多くお見受けするが、果たしてそうであろうか?
当初は在地土豪の簡単な物見砦であったようだが、四方の尾根を含めた山全体がコツコツと手間暇かけて拡張され、上杉によって更に要塞化され一応の完成をしてその後武田による改修が続けられたとみてもよさそうである。

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主郭の西側の二重堀切。ここの三連の堀切は毎年訪れても藪などほとんど無く快適に観察することが出来る。

【七連の連続堀切に感動】

ここに連続堀切があるのは周知の事実であったが、実際に笹薮に突入して堀切の数を数えて縄張図に記入したのは宮坂武男氏が最初であろうか。笹薮に突入する勇気は余ほどの覚悟がないと無理なのだが、今回は笹薮が刈り払われているので、偉そうに入ってみた・・・(笑)

某TVの「ビフォー・アフター」ではないが、2014年の4月と今回の2017年3月で比較してみましょうか。

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋑。突入する意欲も無くなる笹薮。

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋑と㋒。

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋓。ここに突入するには蛇への対策が必要である・・・(汗)

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋔。

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋕。藪に突入しない限り北側からの写真など撮れるはずもない・・・。

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2014年4月に南側より撮影した堀切㋖。違いの分かる男でもさっぱり分からん・・・(笑)

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ラストの三連㋖・㋗・㋘。もはやどうでもいい・・・(汗)

ところがどうであろうか。

笹薮を取り払い、雪のコントラストを加えると、ここが殺戮を想定した軍事施設であった記憶が鮮やかに蘇るのである。

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堀の大きさがイマイチ分からないという方の為に「ていぴす」殿に登場願った・・・(笑)

記号も言葉も要らない8連続の堀切を順不同でご覧いただいたのだが、宮坂武男氏の縄張図における堀切㋘と郭4の接続状況が今回明らかになっていたのは特筆すべき事項であろう。

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堀切㋗から見下ろした堀切㋘と郭4。

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郭4から見た南側。

更に感動したのは、笹薮が酷くて絶対に入れなかった郭4に入れた事により、何度来ても絶対に見る事が出来なかった東尾根の堀切㋙と東尾根の竪土塁が拝めた事である。

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ここの遺構が見れたのは奇跡に近い快挙であろう。

葛山城の全体の遺構については、また筆を改めたいと思いますが、ほとんど見る事の出来ない東尾根の連続堀切についてレポートさせていただきました。

4月中旬までは何とか見れそうなので、見学したい方はお急ぎください・・・。

≪葛山城≫ (かつらやまじょう)

標高:810.6m 比高:411m(裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住者:落合氏、上杉氏、武田氏
場所:長野市鑪葛山
攻城日:2014年4月5日、2017年3月12日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:葛山神社より30分 駐車場:無し(神社の先に路肩駐車)
見どころ:W型堀切、8連続堀切、東尾根の竪土塁など
注意事項:8連続堀切の北側は急峻な崖なので転落注意
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編 宮坂武男著」
付近の城址:頼朝山砦、旭山城、大峰城、枡形城など
Special Thanks to ていぴす殿、笹薮を執念で刈り取ってくださった方・・感謝感謝!

葛山城201503 (16)
敵対する旭山城は目と鼻の先である。その緊張感にどう耐えてきたのか・・・。





Posted on 2017/03/21 Tue. 22:53 [edit]

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長沼城 (長野市穂保)  

◆廃城による破却と千曲川の氾濫により失われた縄張が推定復元された戦国の城◆

北信濃の長沼城といえば、甲越紛争における武田軍の飯山口方面攻略の最前線基地として改修され、そして天正壬午の乱では上杉景勝が北信濃の海津城攻略の中継地点として活用し、江戸幕府となってからは森忠政、松平忠輝が領し、元和元年には長沼藩一万石として初代藩主佐久間勝之の居城として交通の要衝に位置する戦国の世を駆け抜けた貴重な平城であった。

「?、であった???、 今は無いの?」

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千曲川の堤防道路の下には長沼城の唯一の遺構として残る土塁があり天王宮が祀られている。(2010年11月撮影)

6年前、それでもと痕跡を求めて僅かな遺構しか残っていない長沼城を訪ねてみたが石碑以外は何も見つけることが出来なかった・・・。

先輩諸氏のブログやHPでも上にある写真ばかりが並ぶ。

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6年前の探訪時の写真。「千曲之真砂」の長沼古城之図」を当てはめるとこんな感じで、千曲川の氾濫により本丸付近は壊滅。

その城歴は凄いのだが、なんせ遺構の欠片がほとんど無いので攻城戦記にも掲載を躊躇していた・・・・。

ところが、先日、長野県立歴史館の企画展「信濃国の城と城下町」を見学した際に「長沼城の復元縄張図」があってビックリ!!

長沼城の現状を憂えた地元の有志の方が平成20年に長沼歴史研究会を発足させ、長沼藩時代の検地帳や廃藩後の千曲川の増水による被災記録の古文書を読み解くという地道な努力を重ねて、平成26年に縄張の復元案をまとめたのだ。(「長沼城の研究 ~城跡の検証~」をその年に発刊)

長沼城復元縄張図①
足掛け6年という地道な努力により平成26年に完成した長沼城の復元縄張図。

今回は、長沼歴史研究会の皆様の長年に及ぶ努力に敬意を表しつつ、復元縄張図を辿りながら長沼城の歴史を振り返ってみたいと思います。

【立地】

長沼城は、千曲川の左岸、善光寺平の北よりの千曲川自然堤防上に築かれた平城である。飯山城と海津城(松代城)の中間地点にあり、往時は北国街道の脇往還が通る交通の要衝でもあった。

長沼城立地
※長野県立歴史館平成28年度冬季展「信濃国の城と城下町」の資料集5Pの地図を加工して一部分を引用掲載しています。

【城主・城歴】

長沼郷は古くは太田荘に属し、地頭は島津氏で長沼には南北朝の頃から島津氏の一族が住んでいたという。
戦国期に入り、島津氏は上杉方についた長沼島津氏と武田方についた赤沼島津氏に分裂。島津月下斎(忠直)は高梨氏とともに上杉方に属して長沼城を守ったが、弘治三年(1557)二月、葛山城が武田氏の手に落ちると、詰めの城大倉城へ退き第四回川中島合戦で景虎の先陣をつとめたが、退却し越後に逃れた。

長沼城跡2017 (10)
長沼城の大手門跡。長沼りんごホール(長野市役所の分館)の駐車場腋のクランク付近。

長沼城跡2017 (11)
城の北側にあたり、大手門を入ると侍屋敷が立ち並んでいたと推定されている。

永禄六年(1563)、武田信玄は戦乱で荒廃した長沼城下の地下人をふたたび戻すよう島津尾張守忠吉(赤沼島津氏)に命じている。永禄十一年(1568)には信玄は長沼城を拡張し、兵力を増強する。長沼城将として市川梅印、原与左衛門、島津泰忠等で守らせ、島津泰忠には本領夏川(飯綱町)・西尾張部(長野市)・普光寺(飯綱町)などを安堵した。これ以降、長沼城は上杉攻めの武田軍の最前線基地となった。

長沼城跡2017 (1)
長沼城跡の復元縄張図と現在地の説明板がポイント箇所に設置されているので有難い。

長沼城跡2017 (9)
守田神社は現在地よりも100m東にあったというので、城の鬼門除けの役割を担っていたと推定される。

天正六年(1578)三月、御館の乱の時には、武田勝頼は上杉景虎の援軍として長沼城に入り越後へ出兵している。

天正十年(1582)三月に武田氏が滅亡すると川中島四郡は織田の将の森長可の支配下となり森は海津城に入城する。武田の信濃先方衆であった芋川親正は森長可の配下となる事をよしとせず、上杉景勝の支援を受けて自らが総大将となり反織田方の牢人衆と百姓や一向宗門徒約八千を集め大蔵城で一揆を蜂起。景勝の命を受け密かに長沼城に入城していた島津忠直と共に飯山城を攻撃するが、森軍の反撃に合い撤退。逆に長沼城を落とされ1200人余が討死。大蔵城に籠城していた婦女子約1000人が撫で斬りにされ、一揆は鎮圧された。芋川親正と島津忠直は越後に逃れた。

長沼城跡2017 (3)
守田神社の境内の南側が北側の三日月堀跡だという。

長沼城跡2017 (4)
神社側から見た北三日月堀の痕跡。僅かだが積雪の段差に往時の土塁(岸)の痕跡が残る。

長沼城跡2017 (5)
西側寄り撮影。微妙な段差がお分かりいただけるでしょうか。

天正十年六月、本能寺の変により信長が横死すると森長可は美濃へ逃れ、上杉景勝が北信濃へ侵攻し川中島四郡を手中に収めた(天正壬午の乱)。景勝は6月27日に長沼城に入城し川中島四郡の仕置きを行い、長沼城は城将として島津忠直が命じられ、河北郡司として北信濃統治をおこなった。また、武田方であった島津泰忠は赦され忠直付きとなっている。

長沼城跡2017 (6)
北三日月堀付近から見た二の丸跡。廃城により破却埋め立てされ、耕作地となり現在に至る。

長沼城跡2017 (13)
大手門から西へ。復元縄張図では三の丸に侍屋敷が置かれ、その外側に外堀があったと記されている。

長沼城跡2017 (19)

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三の丸西側の侍屋敷の中に建てられている吉祥庵。1650年の建立。この38年後に長沼藩は改易され城も廃城となった。

長沼城跡2017 (22)
現在では民家が立ち並ぶかつての侍屋敷通り。

慶長三年(1598)、上杉景勝の会津転封に従って島津忠直が長沼城を去ると、豊臣秀吉の蔵入地として代官の関一政が入城。その後、江戸幕府が成立すると、森忠政(森可成の六男で長兄は長可、長可が戦死すると森家の家督を継いだ)、松平忠輝が領し、元和元年(1615)に大坂の陣の功績により佐久間勝之に与えられ、ここに長沼藩(一万八千石、一部は近江領)が成立する。
※佐久間勝之は蒲生氏郷の家臣であったが氏郷の死去のあと、秀吉より既に長沼城を与えられていたという説もある

長沼城跡2017 (23)
二の丸正面にあったとされる西三日月堀の説明板。

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西三日月堀跡(推定)。堀の外側のカーブが筆境として確認出来るとしているが、全然見えない小生の目は節穴のようだ・・・(汗)

長沼藩は、佐久間勝之⇒勝友(勝之の次男)⇒勝豊(勝友の長男)と続き、佐久間勝親(婿養子、日向高鍋藩秋月種信の五男)の代の元禄元年(1685)に、将軍綱吉の御側小姓を命じられたが病と称して出仕せず、その後仮病とであったことが露見して改易、廃藩となった。

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二の丸の堀跡前に立つ三の丸の説明板。

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三の丸と言われても、耕作地が広がるばかり。

長沼城跡2017 (31)
説明板には中堀とあるが、二の丸の外堀の北側であろう。一部水路として残されたようだ。

【復元縄張図から見た城跡】

今回「長沼歴史研究会」の皆さんの努力によって蘇った「復元縄張図」は、「千曲之真砂」に掲載されている「長沼古城図」を基本に地形や地名(字名)を調査し辿ってつくられたものと推察される。

残念ながら長沼城は元禄元年の廃藩による廃城の際に、建物は破却され全ての堀は埋め立てられて石垣も撤去され完全な更地となり耕作地化してしまった。
加えて千曲川の氾濫原に隣接していたために度重なる洪水により嘗ての本丸付近の地形もだいぶ浸食・変形してしまい原形を留めていないいまいようだ。

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中堀跡の水路脇を堤防側に向かって歩くと櫓台跡の説明板。

長沼城跡2017 (34)
二の丸の北東で鬼門(隅欠)の位置に当たる。ここには望楼のような建物かあったのか?

本丸があったと推定される場所は、西側を堤防道路が貫通し東側は千曲川の河川敷となっているので全く不明だ。千曲川を背にした輪郭式の縄張りで、本丸と千曲川の間には馬場があったと指定されているが、川沿いには石垣は積まれなかったらしい。

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こんな積雪の中をわざわざ長靴に履き替えて狂ったように城跡巡りしているのは小生のみ・・・(汗)

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この堤防がなかった往時はどんな城跡だったのだろうか・・。現在の場所からは全く想像できない。

長沼城は元々は島津氏の居館であったが、永禄四年(1561)の武田軍の北信濃侵攻において、信玄に命じられた弟の武田信豊が大規模に改修し丸馬出を備えた武田流の縄張りの平城となり、その原型が出来たものと推察される。

長沼城跡2017 (42)
二の丸と西三日月堀の連結路付近は「おんま通り」と呼ばれていた。おんまは「馬」なので馬出しを意味しているようだ。

長沼城跡2017 (43)
広大な二の丸跡。冠木門跡は特定できていない。

永禄十一年(1568)、信玄は馬場美濃守信房に命じて長沼城を更に大規模に改修させ、越後攻めの最前線として大部隊が常駐できるようになったという。この時に侍屋敷を含めた総構えが出来たものであろうか。

武田滅亡後も北信濃の重要な戦略上の拠点として随時拡張と増強をされたものと推定される。また、上杉景勝の統治時代には、長沼城下を繁昌させるために北国街道の脇往還は横道でなく長沼の城下を通行するように命じたという。

長沼城跡2017 (45)
本丸内堀跡。積雪で雪の下に水路があるのが分からずトラップに引っかかり落ちました・・・(笑)

長沼城跡2017 (48)
堤防道路(本丸跡)に登って内堀付近を見下ろしてみた。

長沼城跡2017 (54)
堤防道路には新しく復元縄張図と説明板が建てられていました。地元の方の熱意に感謝ですw

長沼城跡2017 (52)
小生がグダグダと語るよりも分かり易く要約された城歴・・・(笑)

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現在千曲川の河川敷にはかつてこのように本丸と馬場があったんだと想像してみた。

いかがでしたでしょうか。「らんまると歩く雪の長沼城址」・・・・(爆)

遺構の跡と思われる場所に、最近流行りのVR(バーチャルリアリティー)を組合わせてスマホ片手に往時を偲ぶってのもありかと思います。是非ご検討いただければ幸いです。

長沼城跡2017 (57)
唯一の遺構として紹介される事の多い南三日月堀の土塁の一部。(堤防側より見下ろして撮影 天王宮がある)

長沼城跡2017 (64)
天王宮が祀られている土塁の一部を西側より撮影。手前の道路と土塁の右側に三日月堀があったのだという。

長沼城跡2017 (62)
せっかくなのでもう一枚。冒頭の写真と見比べていただくと整備されたのが分かるかと思います。

長沼城跡2017 (68)
こんな感じで想像していただけると良いかと思いますw

長沼城跡2017 (70)
城域の南端の貞心寺も周囲を堀に囲まれた屋敷跡だった。

復元縄張図の南端には周囲を堀に囲まれた方形の居館跡が二つ描かれている。東側は貞心寺で、長沼藩二代目藩主佐久間勝友が早世した長兄の嫡男である勝盛に5000石を分知した際に、勝盛が知行所(代官屋敷)を置いた場所である。(長沼知行所)
元々侍屋敷のあった場所を勝盛が譲り受け利用したと思われる。

長沼城跡20171 (1)
ここは佐久間勝盛5000石の知行所が置かれたが23歳で亡くなり嗣子なく断絶となった。

北信濃における重要拠点として海津城とともに武田に築かれた長沼城。廃城と破却によりその姿は謎のベールに包まれていたが、かつての雄姿を見る事は敵わないが、少しずつだが往時の輪郭が見えてきたことは凄い進歩だと思います。

平成29年度には長野市教育員会による試掘も予定されているので、今後の調査に期待が持てます。

≪長沼城≫ (ながぬまじょう)

標高:332m 比高:-m
築城年代:不明
築城・居住者:島津氏、武田氏、上杉氏、森氏、松平氏、佐久間氏
場所:長野市穂保
攻城日:2017年2月11日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
館跡までの所要時間:-分 駐車場:長沼りんごホール借用
見どころ:南三日月堀土塁痕、北三日月堀塁線跡など
注意事項:民間住宅への無断侵入禁止、耕作地も通路以外は無断侵入禁止。地元の方とすれ違ったら挨拶を忘れずに。
参考文献:「信濃の山城と館② 更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版 P307参照)、「長沼城復元縄張図」(平成26年 長沼歴史研究会)
付近の城址:西巌寺、佐久間氏館(佐久間長助居館)、大蔵城など

長沼城跡2017 (55)
堤防道路の東屋の横に解説版があります。東屋を下った先に三日月土塁痕があり天王宮が祀られています。

Posted on 2017/02/20 Mon. 16:56 [edit]

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