らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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ノロシ山 (長野市松代町西条)  

◆信玄の「飛脚かがり川中島線千曲ルート」の起点◆

残念ながら(というのはオカシイが・・)信濃国の中世の山城と館の総数約1,800は、そのほとんどが宮坂武男氏によってほぼ位置が確定し、遺構は縄張り図や美しい鳥瞰図となっている。後世に伝えられるべく素晴らしい偉業である。

小生は宮坂氏の探訪した城跡を再度踏査し、SNSを利用してデジタル化した画像を掲載し、中々人を寄せ付けない険しい信濃の山城の現在の姿を皆様に分かり易く解説をしているだけである・・(汗)

が、小生はこの作業がひと段落した後に、どうしても解き明かしたい謎に挑みたいと思っている。そう、「信玄の飛脚かがり」である。

hanaoka (11)
花岡城(花岡烽火台)にある佐久千曲川ラインの飛脚かがりのルート図。

山吹山烽火台 (1)
木曽福島の入口に当たる山吹山烽火台の説明板。

IMG_1384.jpg
小諸城の対岸にある袴腰烽火台(はかまごしのろしだい)。ここから布引城へ繋いだという。

すでに構想5年・・・武田軍の通信網の謎を何処まで追えるのか?・・まあ、正直なところ期待しないほうがよい・・・(笑)

今回ご案内するのはいつか登るゾと言いつつ、その高さ故に捨て置いたその名もズバリ「ノロシ山」である。

takeyama (28)
山麓に象山神社のある松代町の竹山城の主郭から見たノロシ山。「嫌だ、あんな山、登りたくない・・・」


【立地】

海津城の南南西3.5kmの位置にあり、標高は844mでピラミッド伝説の残る皆上山の南側の三角形の山がノロシ山だ。
「なんだ、1000m無いんだ・・」そう思われる方が多いと思うが、松代城との比高差は実に487mもあるのだ。
ここからは松代周辺の山城は全て掌握出来るし、南東の尾根先は真田に通じる松代街道の地蔵峠がある。

ノロシ山(長野市松代町) (1)
長野県警察学校の裏手の宿舎の先にある白鳥神社の鳥居が正規の登城口だ。山頂直下の入組からも行けるらしいが直登に近くかなり疲労困憊するという。(富岡武蔵様の体験談・・・笑)

白鳥神社①
入口の鳥居から15分ほど歩くと松代藩七代目藩主の真田幸貫が勧進したという立派な社殿がある。(長野市の重要文化財)

拝殿脇の旧車道の突き当りに「ノロシ山登山口」の標識があるので、そこから尾根へ向けて遊歩道が整備されている。
(小生は絵馬殿の北側から強引に尾根に出たが、合流するので問題は無い)
この遊歩道、頂上までは一本道で地元の方により道標も途中に何ヶ所かあり迷う事は無いのだが、距離としてはかなり歩くので注意が必要だ。片道約90分だが比高差もあるのでキツイ。ラストの北尾根道の急勾配は膝が笑う・・・(汗)

ノロシ山(長野市松代町) (97)
社殿から15分で舞鶴山。ここの直下の地下には戦時中に作られた松代大本営跡がある。その話はいずれまたの機会に・・(笑)

【城主・城歴】

武田氏の「飛脚かがり」と呼ばれた海津城から甲府までの「川中島線千曲ルート」の起点とされる。ここから高遠山(1221m)へ伝え、その先の鏡台山(1269m)、五里ヶ峰(1094m 葛尾城の奥の峰)を経由して小県方面へ繋いだとされるが、伊勢崎虚空蔵山までの中継地点についてははっきりしていない。

ノロシ山(長野市松代町) (20)
登山開始からヒタスラ黙々と歩く事70分で最終の難関の北尾根道へ。

ノロシ山(長野市松代町) (24)
雨上がりの翌日だったせいか湿度が高く熱中症の一歩手前の状態で最期の斜面を這い上がる・・・(汗)

ノロシ山(長野市松代町) (25)
稜線から見下ろす松代町豊栄の集落。もはや息絶え絶えであった・・・(笑)

【城跡】

三角点のある山頂が主郭で、前後に段郭を置き、堀切を挟んだ南東の郭2が烽火台跡と推定される。
堀切㋒の先には犬走りのような細長い郭がありその先に物見台が置かれている。海津城に隣接する起点の烽火台なので、防御もある程度真面目に構築されている。

ノロシ山見取図①

烽火台と一言で言っても、新たに構築された場所もあれば、地場の土豪の山城や砦を改築して使用したものもあるので城歴を語るのには非常に難しいものがある。
ノロシ山についても、これだけの威容とロケーションを持つ山なので武田軍の進駐以前にも何らかの軍事施設があったと見るのが妥当であろう。

ノロシ山(長野市松代町) (30)
堀切㋐。最近強引に堀切を手書きするのが不評らしい・・・・(汗)

ノロシ山(長野市松代町) (37)
主郭の手前の段郭。結構な落差がある。

ノロシ山(長野市松代町) (41)
主郭。三等三角点があり標高は844m。恐らく周囲は土塁が囲んでいたのであろう形跡が見て取れる。

正直なところ遺構も景色もあまり期待していなかったのだが、烽火台としてこれだけの縄張りと遺構が確認出来れば満足である。まして景色は期待できない、という過去のSNSの評判を見ていたので予想外であった・・・。

ノロシ山(長野市松代町) (46)
かなりしっかり作られていたのには驚く。

ノロシ山(長野市松代町) (77)
上巾6mの堀切㋑。

ノロシ山(長野市松代町) (75)

ノロシ山(長野市松代町) (60)
だいぶ埋まってしまった堀切㋒は上巾9m。

ノロシ山(長野市松代町) (63)
尾根の南からの攻撃に対処する堡塁(11×5)

烽火台の立地条件は、とかく高さや視界(ローケーション)を定義する記述を多くみかけるが、緊急避難的要素も大いに考慮されるべきであろう。海津城が危急に際した場合、ノロシ山に逃げ込み尾根伝いに地蔵峠へ逃げて真田の郷に落ちのびるというのがセオリーだったのかもしれない。

ノロシ山(長野市松代町) (76)
郭2から見た主郭。

ノロシ山(長野市松代町) (72)
皆神山も良く見える。

ノロシ山(長野市松代町) (69)
松代町豊栄地区。この日の午前中は町民運動会だったらしく、司会の女性の拡声器による絶叫が山中に響いていた・・頭痛くなるので止めてくれ・・(汗)

毎度の事ながら「おれ、こんな山奥で一人でなにやっているんだろう・・・」 孤独は友達です・・(笑)

それにしても、スマホより早い情報伝達手段としての狼煙台の謎を解いてみたい・・信濃では遭難必死だろうなあー(汗)

ノロシ山(長野市松代町) (90)
山頂からは海津城周辺が手に取るようにわかる。


≪ノロシ山≫ (のろしやま) 

標高:843.9m 比高:385m (入組より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市松代町西城
攻城日:2015年9月27日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:80分
駐車場:白鳥神社入口に路駐。
見どころ:土塁、ロケーションなど
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:体力には余裕を持って出掛けましょう。
付近の城跡:竹下城、金井山城、海津城など。

ノロシ山(長野市松代町) (104)
松代高校より見たノロシ山。



takeyama (50)
竹山城より見たノロシ山の拡大写真。

松代城址 005
松代城の北不明門のバックにも写ってますw








Posted on 2015/10/02 Fri. 23:56 [edit]

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頼朝山砦 (長野市茂菅)  

◆旭山城を監視する葛山城の見張砦◆

気が付けば「更埴・長野編」の掲載がこの砦で100を数えた。しかし通過点でしかない・・(カッコイイ・・笑)

しかしこのブログでは超メジャーな葛山城について未だ記載していない事を指摘する読者は多い・・・(汗)

「明日やろうはバカ野郎」を座右の銘としているが、城域のデカイ城の記事は苦手だし面倒臭い・・(笑)

なので今回ご案内するのは葛山城の南尾根の先端に位置する頼朝山砦。

静松寺①
国道406号線から県道76号線に分岐した先にある静松寺(じょうしょうじ)が砦への登り口になる。

【立地】

葛尾城より南へ派生した尾根の先端部に当たり、南下を裾花川が流れて浸食している為に断崖絶壁となっている。現在は国道406号線が砦の真下を「頼朝山トンネル」として貫通しているが、往時は戸隠道が山裾を通っていた。

頼朝山砦 (60)
駐車場の先を歩くと分岐になる。東へ進めば頼朝山の北側の尾根に通じる道となる。(茂菅口方面は旧戸隠街道)

【城主・城歴】

「頼朝山」の由来は静松寺に関連していて、征夷大将軍が源頼朝が建久八年(1197)に善光寺に参拝した際に、以前源氏再興のため諸国遍歴の途中、この寺で没した家臣の菩提を弔うために寺に田地山林を寄進し自ら「頼朝山法性浄院静松寺」と名づけた事に因んでいる。

頼朝山砦 (12)
静松寺から5分程度登れば鞍部に出るので後は道沿いに登るだけだ。

静松寺は葛山の中腹(今の古屋敷地籍)にあり、甲越紛争において武田方が葛山城攻略にあたり静松寺より水の手の情報を得て落城となった伝説がある。
第二次甲越合戦で旭山城の破却を和議条件とした武田方にとって、葛山城は目障りな上杉の象徴であり何としても落とすべき憎悪の対象であった事は想像に難くない。

頼朝山見取図①
砦の南側の中腹の麓にかつての静松寺があったという。

ここから旭山城の動向を見るには申し分の無い場所で、第二次甲越合戦においては上杉方が砦を置いたのは間違いないと思われる。

頼朝山砦 (27)
砦跡から見た旭山城。


【城跡】

主郭は18×18の方形の神社地で周囲を段郭が巡るシンプルな作りだ。尾根は二ヶ所に堀切を穿っただけである。葛山城に繋がる尾根筋以外は周囲を険しい斜面に囲まれているので特に厳重な防備は不要だったのかもしれない。

頼朝山砦 (13)
鞍部の最初に現れる片堀。

頼朝山砦 (53)
鞍部の二番目の堀切。

頼朝山砦 (43)
主郭と一段下の副郭の接続部分。段差はかなり低い。

頼朝山砦 (18)
神社の鎮座する主郭(18×18)

頼朝山砦 (33)
副郭には東屋が置かれているが、訪れる人は絶えたようだ。

第二次甲越合戦の和議条件を破り、武田方は上杉方の城将落合備中守の守る葛山城を急襲する。葛山城の南麓にあった静松寺は武田方の調略によって城の弱点である水の手の情報を漏らし凄惨な落城の原因の一端を担ったと伝わる。


頼朝山砦 (34)
戸隠道に向かって開口する副郭の虎口。

弘治三年(1557)2月15日、雪で動けない越軍の隙をついて牧野島城より馬場信房の率いる武田軍が葛山城を急襲しこれを落とした。この時兵火に遭い静松寺も焼け落ち堂宇も尽く灰燼に帰したという。

頼朝山は葛山城の南正面に位置し最前線である。城へ向かう登城路の途中には何条もの竪掘が敷かれ、東へ向かえば往生寺側の南東峰の砦に通じる。武田軍はここを制圧するために静松寺に火を掛け更に南斜面へ放火し攻撃ルートを確保したのであろう。

頼朝山砦 (21)
長野市内が一望出来るロケーション。

静松寺はその後天正十五年(1587)に現在の地に春虎和尚が堂宇を再建したという。
壮絶な討死を遂げた葛山城主の落合備中守とその一族の霊は静松寺で弔われているという。

頼朝山砦 (26)
遠く松代方面も見通せる。

ここに立つと、目の前の旭山城は恐ろしく近い。こんな至近距離で敵味方分かれて睨みあっていたとは想像し難いものがあるが、それが戦国の世というものなのであろうか・・・。

頼朝山砦 (20)
近年の地震により破損した祠が痛々しい。

≪頼朝山砦≫ (よりともやまとりで) 

標高:642m 比高:252m (裾花川より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市茂菅
攻城日:2015年9月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
駐車場:静松寺駐車場を借用
見どころ:堀切、景色
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:葛山城、旭山城、大黒山城など

頼朝山①
静松寺よりみた全景。

旭山城と葛山城①
長野市街地から見た頼朝山砦とその周辺の山城。






Posted on 2015/09/29 Tue. 07:53 [edit]

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中尾城 (長野市戸隠中尾)  

◆戸隠の異変を知らせる烽火台か?◆

シルバーウィークに突入した。

城仲間のツイッターのTL(タイムライン)を見ると、結構あちらこちらに出掛けた方が多く、早速現地から写真付きで発信している。

小生も後半は北信濃の呪縛から逃れて伊那谷のマイナーな山城巡りを予定しているのだが、相変わらず優柔不断・・(笑)

あっ、そうそう、この季節の信濃の山城は「止め山」(入山禁止)が多く、特に松茸産地の上田市・坂城町・小県郡全域・松本市(特に四賀)、安曇野市、塩尻市の山城は10月末まで近づかないのが無難。罰金100万円なんて表示もある・・(汗)

今回ご紹介するのは戦国動乱の戸隠シリーズ「中尾城」。

中尾城 (4)
国道406号線から西組(追通集落)に入り、尾倉沢沿いに北へ向かうと「宮の前」集落と神社がある。ここらへんに適当に路駐。

中尾城 (2)
登城口。道路の東側の山裾に墓地が見えるので、そこからが城域。

【立地】

宮の前集落の南の二子山(ふたごやま)と呼ばれる場所に中尾城がある。その名の通りふたつの小山が並んでいて、東奥の山が「寺屋敷」と云われ、手前の山には砦の遺構が残る。沢を挟んだ西側には追通城(追通の栗田屋敷の詰め城)があり、北東には福平城の支城とされる大昌寺山城がある。南を流れる裾花川を挟んだ祖山集落から地蔵峠にかけての古道を見張るには最適の位置にある。

戸隠周辺の城と居館①
武田軍の侵入に対して戸隠山防御の為に築かれたであろう砦群。(再掲載)

中尾城 (5)
山口さんちの墓地の奥に上巾5mの堀切㋐があるので見落とさないように。

中尾城 (64)
墓地の南側が「城の腰」と呼ばれているらしい。

【城主・城歴】

史料、伝承等無く不明だという。東の小山が寺屋敷という地名が残るので寺院跡とも推定されるが、地元の言い伝えによると火葬場の跡だという。寺屋敷と砦の中間には宮川氏の墳墓があり、古い墓には何基も官位名が刻まれていたので、宮川氏は代々宮の前神社の神主であった事が確認出来るが、城との関係も不明だ。
立地から見ると福平城に関係した砦で、甲越紛争には烽火台だったのかもしれない。

中尾城 (9)
山口氏の墓地には古い五輪塔の欠損が何基かあるので城と関係があったのかもしれない。

中尾城 (15)
笹藪で写真に撮ると分からなくなるが、遠目の目視でもそれと分かる墓地の裏側の堀切㋐。

【城跡】

西側の山は五角形の主郭とそれを取り巻くように北側に郭2を置き西斜面に対して竪掘㋑を落としている。
主郭の背後を堀切㋒で遮断し尾根に長方形の郭3を削平。その先に防御構造は無い。
寺屋敷と呼ばれる東の峰の郭4は頂部を削平してあるだけで堀切などもない。

中尾城見取図①(長野市戸隠)
単純な砦ではあるが、西組集落方面から登って来る敵に備えて西側の沢に対して防御を固めている。

中尾城 (18)
小さいながら切岸はキチンと鋭角に削っている。

中尾城 (22)
笹藪を掻き分けて撮影しても見る側には通じないであろう竪掘㋑(郭2の西端に存在する)

中尾城 (25)
ホームベース型の主郭。土壇の上に山口氏は祀った祠がある。

中尾城 (31)
主郭背後の堀切㋒(上巾5m)

西の山の砦は結構真面目に普請しているんですよね。特に郭1と郭2の間の切岸は角度も鋭く丁寧に周回してます。
お墓の裏の堀切㋐もしっかりと尾根を遮断し高低差をつけてます。

中尾城 (36)
郭3。笹藪の中を30mも歩くのは何が潜んでいるか分からないので違う意味での勇気が必要です・・・(汗)

中尾城 (42)
帯状に主郭の全面を囲む郭2。

二つの山の間で、郭への登り口にあたる場所に宮川氏の墓地がある。
古いお墓には官位が記されているのが、これは神官としての官位のようだ。

中尾城 (44)
宮川氏と寺屋敷に繋がりがあるのだろうか?

中尾城 (45)
寺屋敷と呼ばれる郭4。

寺屋敷は火葬場だったという地元の話があるようだが、明治以降も土葬が中心だったのにわざわざ費用のかかる火葬がこの地区だけ特別に行われていたとは考えづらい。

中尾城 (47)
郭4の南東にも段郭がある(宮坂図には記載なし)

中尾城 (51)
西の山の砦同様に切岸の加工は丁寧に作業されたいる。

交通の便が良くなった現代においても、戸隠への通路は結構険しい。裾花川の渓谷を通る国道406号線にしても戸隠バードラインにしてもかなり厳しい。

その険しさ故に修験道場が開かれ多くの修験者や信徒が山を越えて功徳を積みに来たのであろう。
が、戦国の動乱は、その戸隠山や飯縄山ですら巻き込み、多くの犠牲を強いて嵐のように通っていったのであろう。

中尾城 (62)
毎度のことながら、このような場所に集落があり生活の営みが続いている事に驚嘆する。


≪中尾城≫ (なかおじょう 二子の城) 

標高:790.2m 比高:70m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠中尾
攻城日:2015年8月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
駐車場:邪魔にならない場所に適当に路駐。
見どころ:堀切、切岸など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:特に無し
付近の城跡:追通の栗田屋敷、追通城、五十土城など
Special Thanks:ていぴす殿

中尾城 (66)
中尾城全景。





Posted on 2015/09/20 Sun. 10:31 [edit]

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栗田氏館 (長野市戸隠二条)  

◆甲越紛争の本当の目的は宗教勢力の取り込みであった◆

昨年の夏も「鬼女紅葉伝説」で戸隠や鬼無里(きなさ)を彷徨ったが、いつも頭をよぎるのは「こんな辺境の地で戦乱?」

北信濃は甲越紛争で、いわゆる「川中島合戦」というものが五回繰り広げられたというのは周知の事実である。

しかし両軍が死力を尽くして戦った真の目的は、全国にも名の知れた信州の三大修験場(戸隠・飯綱・小菅)の修験者と信仰集団の囲い込みであった事を知る人は少ない。

特に北信濃の国人として勢力を拡大していた栗田氏が代々俗人別当を勤める戸隠山顕光寺と善光寺は、参詣者の絶えない人気を誇っていたので、彼らを取り込めれば実効支配の大義名分が得られるので、武田も上杉も必死だったと思われる。

栗田氏館(長野市戸隠) (1)戸隠地区の中世城郭の遺構としては福平城と共に唯一案内板のある堀之内城。

【立地】

二条集落の南端、諸沢の谷に面した台地の先端部に立地している。周囲を深い谷に囲まれ東側のみが地続きとなる要害の地である。戸隠の宝光社、中社にも近く、二条の尾上集落は別当の里坊屋敷があり、栗田氏の墓所がある。

栗田氏館見取図①
専勝寺の敷地も家臣団の屋敷地だったのであろうか。

【城主・城歴】

甲越合戦が勃発した天文二十二年(1553)、栗田氏は他の北信濃の豪族同様に上杉を頼ったが、第二次甲越合戦(1555)で里栗田の栗田鶴寿が武田方に寝返り旭山城に籠城。約200日間の対陣ののち今川義元の仲介により和議。これにより犀川以北を上杉領、以南が武田領となり信玄は善光寺平からの撤退を余儀なくされた。栗田鶴寿(里栗田)は善光寺から本尊(秘仏)や鐘を持ち出し甲斐に移り甲斐善光寺の建立とともに引き続き別当を勤めた。

この時の戸隠(山栗田)の動向は不明だが、里栗田とは別行動となり上杉方に留まっていたと思われる。

栗田氏館(長野市戸隠) (12)
鳥居の西側から見た居館跡。

弘治三年(1557)二月、和議を破った武田軍は上杉方の葛山城を急襲し落城させ、飯縄山の千日太夫を味方につけることに成功したが、戸隠山は従属を拒否。武田軍は戸隠攻めを行い、戸隠衆徒は謙信を頼って越後の石山(関山)に逃れた。
※飯縄大明神は善光寺と同様にこれ以降甲斐に移される。

永禄元年(1558)八月、武田軍の調略により戸隠山は武田に寝返り信玄の戦勝祈願状を奉納する。これを知った謙信は翌年四月に報復措置として戸隠山に攻め入り、戸隠衆徒は小川・鬼無里に逃れるが九月に武田軍が奪還し帰山する。

栗田氏館(長野市戸隠) (2)この説明板で山栗田氏の経歴を理解するのは不可能だ・・・。

永禄七年(1564)八月、第五次甲越合戦(塩崎の対陣)が始まり、謙信の報復を恐れた戸隠衆徒は、武田の配下である大日方氏の小川筏ヶ峰に三院を移し30年間の疎開信仰を余儀なくされる。

天正十年(1582)に武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れ、天正壬午の乱が勃発すると北信濃の川中島四郡は上杉景勝の支配下となる。この時の小川に疎開していた戸隠衆徒の記録は無いが、大日方氏が上杉氏の配下となったので戸隠山の別当は上杉氏の元に出仕した可能性が高い。

栗田氏館(長野市戸隠) (3)
郭2。

文禄元年(1592)、朝鮮出兵を命じられた上杉景勝は、春日山城に滞在していた戸隠山別当の賢栄に戸隠大権現へ戦勝祈願を奉納させる。
十月に無事帰国した景勝は戸隠山の再興を部下に命じ文禄三年(1594)九月に竣工。小川筏ヶ峰の衆徒も帰山した。

慶長三年(1598)、上杉景勝が会津へ転封されるのに伴い里栗田は景勝に従ったが、山栗田の栗田寛祐は戸隠に残り、二百石で日之御子社の神官として奉仕。

栗田氏館(長野市戸隠) (9)
郭1も広大な水田として耕作地になっている。

慶長十六年(1612)、徳川家康が戸隠神領として千石を寄進。同時に幕府により「戸隠山法度」を賜る。翌年戸隠山顕光寺は天台宗の末寺としての位置づけとなり、その後修験道から寺院へ改められる。

明暦四年(1658)、栗田氏が二条に移住し達書場(たっしがきば)となり戸隠神領の行政司法の中心となった。

栗田氏館(長野市戸隠) (8)
本郭の北側になる天神社。毎年秋祭りで獅子舞が奉納されるという。建物の北側に堀跡が確認出来る。

これだけ一生懸命調べたのに、二条の栗田氏館は明暦四年(1658)の竣工で戦乱の終結後の館城なのである・・(笑)


【城跡】

まあ、そうは云っても地元では城之内城と呼ばれ、戸隠山神領の神官として200石の扶持を与えられ行政のボスを任された栗田氏の居館なので、それなりの構えがあったと思われる。

栗田氏館2 (3)
南側の空堀跡。

南西に突き出た台地を利用して北東に堀切を穿った単純な構造であるが、戦乱の収まった戸隠地区の行政の拠点としては充分であろう。鳥居の西側には池があったようだが、現在は埋め立てられている。

栗田氏館2 (10)
天神社の東側の崖には堀切が残っているので、図のように中央を区切っていたのかもしれない。

栗田氏館2 (1)
専勝寺。ここも屋敷地だったと思われる。

≪栗田氏館≫ (くりたしやかた 城之内城) 

標高:897m 比高:-m 
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠二条
攻城日:2015年6月7日、2015年8月29日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
駐車場:邪魔にならないように路駐。
見どころ:郭、堀切跡
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:住宅地なのでプライバシーに注意、写真撮影にも注意
付近の城跡:栗田山城、古城など
Special Thanks:ていぴす殿

栗田氏館2 (6)
絶えることなく秋祭りが続く事を願って止まない。



















Posted on 2015/09/17 Thu. 23:28 [edit]

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栗田山城 (長野市戸隠二条)  

◆尾根に突き出した館城跡か?◆

台風一家一過と共に今年の夏は例年にない物凄いダッシュをして過ぎ去ってしまった・・・。

今回の豪雨で甚大な被害を受けた栃木県、茨城県、宮城県の被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

今回ご案内するのは、山栗田氏との関連を指摘されている栗田山城(くりたやまじょう)。

栗田山城(長野市戸隠) (2)
下楠川集落と台地上の二条集落を結ぶ道路の西側のヘアピンカーブの先端に当たる場所が城跡。

【立地】

諸沢川と楠川に挟まれた台地の先端部が城域と想定されているようだ。
諸沢川を挟んだ東の対岸に二条の栗田屋敷(堀之内城)があり、南900mには古城がある。

栗田山城(長野市戸隠) (6)
ヘアピンカーブの先から農道に入ると城跡だ。

【城主・城歴】

史料や里傳もなくはっきりしたことはわからないが、二条の栗田氏(山栗田)が最初追通(おっかよ)に住み、後に上楠川(宝光社の東側)の原山に移り、万治二年(1659)頃に二条集落へ移ったとされるので、栗田氏関連の館城と推定される。栗田山という名前がそのことを物語っているという。

栗田山城見取図①
三つの方形の区画からなる館城。

栗田山城(長野市戸隠) (5)
南側先端へ向けて連続している。

【城跡】

現在城跡は、方形の水田(現在は休耕地)3枚があり、その先の郭4の部分は雑木林となっている。宮坂武男氏によれば、郭3が館城の中心と推定され、郭3と郭4の間には堀切があったとされる。
たまたま地主さんがいたので挨拶したら、やはりここは昔の館跡と伝わるとの事で、それ以上の詳しい事は分からないようでした。

栗田山城(長野市戸隠) (10)
東側から見た郭2.

栗田山城(長野市戸隠) (12)
方形の郭3。ここが中心か?

栗田山城(長野市戸隠) (14)
雑木林となっている郭4.さすがに藪が酷く突入する気にはなれんかった・・・(汗)

沢を隔てた東側にある二条の栗田氏屋敷(堀之内城)も方形の屋敷地で水田と化していた。恐らく同時期の土木工事と見られ、栗田氏の分族あるいは家来の居住地だった可能性はある。

栗田山城(長野市戸隠) (16)
郭4から見た栗田山城主要部。

≪栗田山城≫ (くりたやまじょう) 

標高:854m 比高:140m (楠川集落より)
築城年代:不明
築城・居住:不明
場所:長野市戸隠下楠川
攻城日:2015年6月7日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-分
駐車場:道路脇の農道に駐車
見どころ:んーん・・
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
注意事項:地元の方がいたら必ず挨拶
付近の城跡:古城、二条の栗田屋敷など



Posted on 2015/09/12 Sat. 07:55 [edit]

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