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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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藤岡城 (芦田城 藤岡市藤岡)  

◆初代藤岡藩主にして最後の藤岡藩主「松平康真」の居城◆

「この人、いったい誰?」 「徳川の譜代大名?」 

本人もかなり数奇な人生を歩んだのだが、康真の父は「依田信蕃(よだのぶしげ)」という信濃国佐久の国衆で、天正壬午の乱(1582)で徳川家康の配下の部将として信濃侵略を目論む北条方と戦い、佐久平定に大きな功績を残した人物とされている。

藤岡城 (2)
藤岡第一小学校の北側に残る藤岡城(芦田城)の巨大な土塁跡。


【松平康真】 (まつだいらやすざね) ※別名:加藤康寛(やすひろ) 加藤宗月(草月) 天正二年~承応二年

松平康真は兄康国と共に武田・織田等の人質となり流浪し、父の依田信蕃が徳川家康の配下となるとその身は徳川家に預けられる事になった。天正十四年四月に家康自ら康真の髪を整え、諱字・松平の称号・腰物・髭道具等を下賜して元服させたと「諸士先祖之記」「寛政重修諸家請」の記述にある。

天正十八年、康真は兄康国と共に小田原攻めに参戦している。この戦いの陣中で兄康国が殺害され、康真自身も負傷しつつも兄の仇を討ったことを家康に報告したところ、家康の命によりその跡目(小諸城主六万石)を継承することになった。
その後も康真は徳川家家臣として、家康の関東移封に伴い、拠点を信濃国小諸城から上野国藤岡城に移し、三万石を拝領、天下普請命じられる等、城持ち大名としての地位を着実に築きつつあった。

藤岡城 (1)
学校に隣接する史跡としては珍しく緑地公園として一般開放されているが、史跡の説明板などは何もない。

しかし、慶長五年城に(1600)正月、康真は大坂で小栗某という家康配下の者を口論の末に殺害するという刃傷事件を起こしてしまう。高野山に出奔し蟄居したとされるが、改易されて徳川配下の大名としての地位は失われた。

しかし同年、康真は姓名を加藤康寛と改め、徳川家康次男の結城秀康に仕える事になる。「諸士先祖之記」によれば、この時秀康は家康の命で上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという。
慶長十二年、結城秀康の逝去により剃髪して名を宗月と改め、承応二年、その数奇な人生の幕を閉じる。享年八十才であった。

福井松平藩内での家格は、筆頭家老本多家(本多富正を祖とする家)に次ぐ十六家を示す上位の「高知席」(家老五人と家老次席の城代一人を選出する家柄)であった。

藤岡城 (3)
土塁の上の遊歩道。前橋城もこんな頑丈な「叩き土塁」だったよなあー。

【康真が編纂した依田家の由緒書き「依田記」が検証不十分なまま信憑性の高い史料として存在する危うさ】

実は小生も「依田記」を元に記載されたと思われる「依田信蕃ーもうひとつの真田」(市河武治著 郷土出版社 1988年)を読み、いたく感動して佐久地方の春日城、芦田城、岩尾城、田口城、前山城はもとより、彼の勝頼時代の田中城、二俣城まで遠征して彼の足取りを辿った次第である。

「長野県史」や「佐久史誌」ですら、基本的に依田信蕃の父は下野守信守とし、武田氏滅亡後、「佐久の統一をすすめたのは依田信蕃である」とい歴史像を描きだしてきた。しかし信蕃の父信守が真田氏に次ぐ信濃国衆であった」ことや「天正二年頃から佐久全域に及ぶ領主層の盟主的立場にあった」事を裏付けする史料はなにも存在していないという7年前の史料批判を先日読み、茫然自失の日々を過ごしています。
※依田信蕃の隠れファンは意外と多いと思われます。小生もその過去記事でかなり熱い記事を書いてしまいどうしたものかと・・。

藤岡城 (5)
井元たい女史の顕彰記念碑と立像。彼女の芦田城の寄付行為には賛否両論あるが、遺構が残ったのは不幸中の幸いである。


【信濃佐久平定のヒーロー依田信蕃は虚像なのか?】

天正壬午の乱が勃発した時に、佐久地方で徳川方に味方した在地土豪は平尾城の平尾氏、耳取城の大井氏、森山城の森山氏、そして春日城(芦田城)の依田氏などのごく少数で、有力な在地土豪の前山城の伴野氏、相木城の相木氏(阿江木氏)、岩尾城の大井氏、与良城の与良氏、平原城の平原氏など多くの地侍は北条方として徳川軍に抵抗していたという。

従って、佐久仕置の主力は徳川軍が大久保忠世・菅沼定利・柴田康忠を派兵し自力で軍事行動に出ざるをえなかったという。
徳川軍が佐久方面で苦戦するに及び家康は天正十年七月、依田信蕃に対して与力を付けた上で更に「諏方・佐久両郡事」を宛がうとして同姓依田一門や親類を家臣化し望み通りの給恩地も宛てがうと約束している。
裏返せば依田信蕃らの佐久国衆は組織化がかなり遅れていたというのが実情のようである。
前山城の攻防戦も依田信蕃の指揮ではなく、柴田康忠の指揮下であり、この時に一族同門の庶流依田信守は家康より感状を賜っている。

これは北条方についていた真田昌幸の寝返り工作においても「諏方郡を宛がう」と家康は約束している。(この空手形がのちに災いになるとは家康も想定していなかったようだが・・・)
最終的には真田と北条の手切れにより北条VS徳川の天正壬午の乱は終息にむかうのだが、岩尾城の攻防戦で信繁は弟の信幸とともに戦死してしまう。

藤岡城 (8)
藤岡城は方形居館の周囲に二重堀を巡らせ南には馬出(枡形虎口)を備えていたと伝わる。

佐久平定がほぼ終わり岩尾城の無理攻めによって依田信蕃・信幸兄弟が鉄炮により戦死したと依田記には書かれているが、「家忠日記」の天正十一年二月二十日条には柴田康忠が甲州の軍勢を率いて佐久郡に軍を発し小諸・岩尾両城を攻撃したとある。
「廿二日 依田信蕃、其弟依田伊賀守信幸、善九郎信春・・・岩尾ノ城ヲ抜カント広言ヲ吐テ・・・・依田兄弟三人各矢ニ中テ死ス」とある。徳川家忠の武家日記では、信蕃・信幸・信春の三兄弟が鉄炮ではなく、矢で死去したとする。史実は同時代史料の信憑性によるべきとすれば、依田記は史実をかなり脚色しているようである。

三兄弟戦死で依田家存続の危機に陥ったとき、家康は人質の総領竹福を松平康国として家督を継がせた。このとき、依田肥前守信守(依田家庶流)は合計四十九騎を同心として康国に預けて家臣に組み込まれた。彼には継子がいなかった為に、故信幸の二男信政が跡を継いで依田源三と称した。(藤岡藩改易後は籏本となりお家存続)

まあ「依田記」では、依田家創業者の信蕃については家の由緒を語る為にかなり誇張や過大評価があり、佐久統一が依田信蕃によるものという旧来の評価は再検討が必要だろうし、徳川軍の軍事行動における信蕃の役割についても再評価が待たれる。

松平康国以降の事績についての「依田記」は正確に記載され依田家資料の裏付けもなされているという。

藤岡城 (10)
土塁の北西のR部分。ここに「芦田城」の銘板が確認出来る。

結局のところ何を言いたいのか支離滅裂な文章の構成になってしまったが、裏付けの史料を欠く由緒書きや家系図、伝記は話半分程度の理解に留めておく、というのが今回の結論である。

もっとも、戦国時代の武将の生涯など、都合のいいように誇大誇張され尾ひれはひれ付いているので、そいつの人生を知っているのはそいつだけという事になる・・・(笑)
真田氏だって幸隆の先代は現時点では不明と言わざるを得ないのは暗黙の了解事項だし・・・(汗)

≪藤岡城≫ (ふじおかじょう 別名:芦田城)

標高:95.2m 比高:-
築城時期:天正十八年(1590)
築城・居住者:松平康真
場所:藤岡市藤岡
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:藤岡第一小学校を借用
見どころ:土塁
付近の城跡:平井城、平井金山城、高山城など
注意事項:特に無いが、小学校なのでプライバシーに留意
参考書籍「平成23年度 長野県立歴史館 春季展 武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」図録寄港P34「徳川家康と依田信繁・康国-佐久郡の戦国・織豊期について-」(井原今朝男著)より一部引用。

藤岡城 (11)

大道寺政繁を相手に依田信蕃が勝利したという「芦田小屋の戦」の三沢小屋は未訪問なのだが、今回の件で気持ちが萎えてしまった。家康から金子四百両と援軍千人を派遣されているなら、ゲリラ戦というのも怪しい・・・なんもかんも怪しい・・(笑)


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Posted on 2018/12/08 Sat. 20:49 [edit]

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安土城を作ろう!  

◆艦船プラモとは違う城郭プラモの難しさ◆

んーん、数年前に家人から父の日のプレゼントで安土城のプラモを貰った。

いつか作ろうと思っていたがプレゼントの包装紙に包まれたまま箱積み状態。それも失礼だろうと思い制作開始してみた。

安土城プラモ (1)
日本の名城シリーズ安土城。価格は1800円~2000円ぐらい。

城郭プラモは小学生の時に大坂城と岐阜城を作った以来であろうか・・。

そのまま組んだら小学生時代から進歩しない「オモチャ」になるので、チョッとプロっぽく作ってみる事にした。

【石垣】

このパーツが一番厄介で一番重要である。ここの出来栄えが城郭プラモの出来栄えを左右する。

人によって石垣の表現方法は異なる。今回はベースが黄土色だったので、グレーの下地処理剤(サーフェイサー)で全体を処理して石積みの隙間をグラインダーで削り出す手法にチャレンジしてみた。

安土城プラモ (4)
全体をグレーのサーフェイサーで処理。

安土城プラモ (5)
石垣の立体表現に欠かせない「マイクログラインダー」。この模型の為にわざわざ購入した次第である・・(笑)

安土城プラモ (7)
マイクログラインダーで石垣を削り出す作業を一心不乱で行う。案外楽しいのだが、粉を吸い込まないように眼鏡とマスクは必須

【パーツの色塗り】

着色はパーツを切り離す前に作業しておく。安土城は現存していないのでどんな塗り方をしても怒られないだろう。
天守閣の下層階の白壁を白黒で塗分けるプラモが多い中で、このメーカーは茶色指定だったので、それも面白いと思い今回はこのメーカーの指定色で再現してみた。

屋根はもちろん、屋根裏パーツも事前に塗装しておく。細かい修正は仕上げ時に行う。

安土城プラモ (8)
赤とか紫とかの原色の色使いは信長様の美意識の高さを物語る。

安土城プラモ (10)
三層までの屋根裏は白のサーフェイサーで処理すると良い感じになる。

【各階層と屋根の組立】

接着剤を塗る前に素組みをして接続部分の確認をすると精度が高くなるようだ。
丸や平のヤスリで削って修正して場合によってはパテも準備する必要もあるようだが、このクラスの城郭であればそこまでは必要ない。

安土城プラモ (16)
天守閣二層屋根、三層白壁まで。

安土城プラモ (18)
独自の八角形の四層壁は真紅。この世界観は信長の真骨頂であろう。

安土城プラモ (20)
天守閣の総組立。これであとは土塀を作れば一応完成なのだが・・・。

【屋根の墨入れ(ウェザリング)】

完成から僅か三年で灰燼に帰した城とはいえ、屋根瓦は三年間消耗していたと思われるので、屋根に汚し塗装を施してみた。

現在はウェザリング専用の塗料が発売されているので、各層の屋根を洗うような感じで塗料を流し込めばOKだ。

安土城プラモ (22)
この作業で安土城がオモチャでなくなる・・・(笑)

今さらながら安土城についてチョッと復習してみましょうか。

【安土城の城歴】

安土城は、近江安土山に丹羽長秀を普請奉行として工事に着手した。弘次は昼夜兼行、天正七年には五層七重の天守が琵琶湖上に映じた。この安土城こそ、我が国における本格的な近代城郭の第一歩となった。
天守の瓦は金箔が張られ、最上階は内外とも金、柱は朱に塗られ、壁面は白亜漆喰と紫色に近い美しい色彩に塗り分けられていたという。
しかし、この華麗壮大な安土城も。三ヶ年にして本能寺の変で灰燼と帰してしまった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみとなってしまったが、当時安土城を実際に観ている宣教師のルイス・フロイスの記事によっても、今はなき安土城の様子を伺い知ることが出来る。


安土城プラモ (26)
土塀と門と立ち木を取り付けて完成です。

安土城跡は二度ほど訪問しています。伊勢二見ヶ浦の戦国時代村の復元安土城も訪問しました。

そうそう、父の日に贈ってくれた家人には完成品の写真を送りました。

「楽しんでいただけて何より!」 と返信がありました。

安土城プラモ (24)
不等辺多角形の城は信長独自のアイディアなんだと改めて彼の偉大さに気付いた次第・・・・(汗)

城郭プラモもたまにはいいものですw

Posted on 2018/11/25 Sun. 21:15 [edit]

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駆逐艦 島風  

◆唯一無二そして孤高の最速駆逐艦◆

主に空母か潜水艦のプラモしか作らない小生が、「駆逐艦が面白いことになってきた」などという某プラモ雑誌の特集記事に触発されて購入したのが、この「島風」である。

島風 (10)
ブラウザゲーム「艦これ」の人気艦ということもあり、45年ぶりにリニューアルされたTAMIYA製の島風。

1/700の艦船プラモの製作に関しては、根が真面目なので(←嘘つけ!)、チマチマと塗装と組立を繰り返しながらやるのがいつもなのだが、今回のような駆逐艦に関しては、ある程度先にパーツの組立と取付を完了して下地塗装を行いその上から重ね塗りして部分的に塗装していくというプロの技術を真似てみた。これが意外とすんなり身についたのにはビックリ・・・(笑)

島風 (1)
最初に砲塔や魚雷発射管を除いた大きなパーツを素組みしておく。

【艦歴】 ※TAMIYA製島風の組立説明書に書いてある艦歴について引用しています

太平洋戦争の真っただ中と言える1943年5月10日に舞鶴海軍工廠で竣工した日本海軍の駆逐艦が島風です。2000トンを越える艦船としては画期的と言える40.9ノットという強力な記録を達成しただけでなく、五連装酸素魚雷発射管を三基装備した強力な武装をもった、最新鋭の艦隊型駆逐艦として誕生したのです。

日本の駆逐艦の速力は大正初期に設計された峯風型で39ノットに達し、その4番艦として完成した初代の島風は40.7ノットという高速を記録していました。
さらに、駆逐艦の革命と言われた特型駆逐艦吹雪も、攻撃力や凌波性を飛躍的に向上させるとともに、38ノットという高速を発揮したのです。
ところが、軍縮条約の制約や、友鶴事件と第四艦隊事件の影響などにより、その後の初春型や白露型は性能向上にブレーキがかけられます。二つの事件の経験を取り入れて設計された朝潮型は船体の強度と復原性は向上したものの、速力と航続力は十分とは言えなかったのです。

島風 (2)
ブラックサーフェイサーで全体を下地塗装。

続く陽炎型と夕雲型では航続力を伸ばし、両型は速力が35ノットという点を除けば理想的な駆逐艦となりました。しかし、第一次世界大戦後のアメリカ戦艦の速力向上は目覚ましく、アイオワ級では30ノットを越えることが予想されたのです。駆逐艦は大型艦に肉薄し、搭載した魚雷でこれを沈めることが主任務だったため、魚雷を当てやすい位置に辿り着くために目標となる艦船より速いスピードが求められました。日本海軍ではおよそ10ノット以上のスピード差が必要と考えられていたため、35ノットではこれらの高速戦艦を襲うには速力が不足しているのは明らかでした。

1939年、軍令部は40ノットの高速駆逐艦の建造を要求し、第四次軍備補充計画(通称④計画)に基本計画番号F52と呼ばれる高速駆逐艦の試作艦の建造が盛り込まれました。この試作艦が、1920年に40.7ノットという高速を記録した初代の島風の名を引き継ぐことになったのです。なお、当時、初代の島風は健在で活躍を続けていましたが、二代目の建造に先立って、1940年4月に哨戒艇となり、第一号哨戒艇と改称されています。

島風 (3)
最近発売になった「舞鶴海軍工廠グレー」(TAMIYAカラー製)で塗装。リノリウムは専用ステッカーなので有難い。

高速駆逐艦として誕生した二代目島風。その速力を生み出す最大の鍵は軽くて強力な機関です。このためには、高温高圧缶(ボイラー)を使用することが理想的ですが、このような機関を実用化するためには構造、材料、信頼性などの難問をクリアーし、さらに政策には極めて高い精度が必要です。日本海軍は陽炎型で30kg/㎠、350度の高温高圧缶を採用し、9番艦の天津風には試験的に40kg/㎠、400度という缶を搭載。成功を収めていたので、島風にもこの40kg/㎠、400度の缶が採用される事になったのです。

島風 (4)
駆逐艦や軽巡のリノリウム甲板と抑えの金具の塗装はかなり厄介なので、ステッカー仕様は助かるが、慎重に作業したい。

さらに、出力は天津風の52,000馬力に対して島風は75,000馬力を発揮。戦艦大和の1/25の排水量の船体に、大和の半分にも及ぶ大出力の機関を搭載していたと言えばその高速性も頷けるでしょう。
また、魚雷発射管3基と大型機関を搭載したため夕雲型に比べて全長が約10m伸び、艦首の形状は甲型駆逐艦までのダブル・カーブ型から艦首先端を前に突き出した凌波性に優れるクリッパー型に変更されています。

島風 (5)
未塗装の兵装を仮組みしてみるました。

主砲は陽炎型と同様の高角砲兼用の12.7cm連装砲3基(計6門)うを搭載。そして、魚雷兵装は軍令部の要求では、次発分をなくす代わりに7連装という空前の大型発射装置を2基搭載し、14門14発とすることになっていましたが、連7連装発射管は動力が故障した時、人力で旋回させることが不可能なため、5連装発射管3基(計15門、15発)を搭載。陽炎型などの4連装2基(次発装填装置付き、計16発)に比べると1発少ないものの実質的には攻撃力は同等、しかも発射される61cm酸素魚雷は外国艦に搭載された魚雷に比べて圧倒的に強力でした。

島風 (6)
島風のみ採用された5連装酸素魚雷×3門。従来型の艦隊決戦ならば高速艇から繰り出される酸素魚雷は間違いなく必殺技である。

島風はまず、全力テストで軸馬力75,850馬力、排水量2921トンで40.37ノットを記録した後、105パーセントの過負荷全力テストで79,240馬力、2894トンで40.9ノット(時速換算で約75km/h)を記録しました。
初陣は1943年7月のキスカ島撤退作戦で、その後、南方へ転戦。そして、1944年10月のレイテ沖海戦ではその高速性を生かして奮戦し、最後の戦闘行動は「多」号作戦と呼ばれたレイテ島のオルモックへの兵員物資輸送作戦でした。
同年11月8日、第二水雷」戦隊旗艦として、浜波、長波、若月および5隻の輸送船と共にマニラ湾を出撃。11日午前10時、オルモック湾に到着したとき、350機というアメリカ軍艦載機の猛攻を受け、3時間にわたって激闘を繰り広げたものの船団は全滅、長波、若月も沈没し、満身に痛手を負った島風も、この日の午後5時10分、大爆発を起こし波間に消えていったのです。

島風 (7)
毎度の事ながら、空中線(アンテナ線)は納得できない仕上がり・・・(汗)。ミシン糸が使えそうなので今後は試してみたい。

海戦の主力が空母と航空機に取って変わった時代の流れと、戦況の悪化により高温高圧缶を量産することができず同型艦が建造されることは無かった島風型駆逐艦。
それでも、島風は短い生涯の間にその性能を遺憾なく発揮し、最速・最強を誇った艦隊型駆逐艦の傑作といえるでしょう。

島風 (8)
完成した島風。地上を駆ける最速のF-1マシンは美しいのと同様に海を最速で駆ける駆逐艦もそのフォルムは美しいのである。といっても最近のF-1マシンはどう見ても酷いフォルムなのだが・・(汗)


【駆逐艦島風の主要データ】

基準排水量:2,567トン
全長:129.5m 全幅:11.2m
馬力:75,000馬力
速力:計画39.0ノット 公式:40.9ノット
魚雷発射管:61cm五連装魚雷発射管3基
主砲:12.7cm連装砲3基
爆雷投下軌道2組
レーダー:22号電探1基、13号電探1基
竣工年月日:昭和18年5月10日 舞鶴海軍工廠。

島風 (9)
12.7cm連装砲と5連装魚雷発射管が下地塗装なしで本体に組み込んだのでチョッと違和感のある仕上がり・・・(汗)

Posted on 2018/11/06 Tue. 21:35 [edit]

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大明神山の砦 (高崎市倉渕町)  

◆VS北条の最前線に新たに築城された技巧的な監視砦◆

10月20日から山城シーズンのオープン戦として群馬県富岡市周辺の山城群を踏査したのだが、最後に攻め込んだ宇田城でチャドクガの幼虫群(毛虫)の衣類を貫通する猛毒毛のステルス攻撃に晒され腹部周辺が被弾、皮膚科で全治二週間の診断となった・・・(汗)

今回ご案内するのは、そんな一筋縄ではいかないグンマ帝国で「Powerd by 真田昌幸」と伝わる対北条軍向けの小さな要塞である。

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登り口は麓にある浅間神社なので迷う事はない。


【立地】

烏川の右岸、浅間神社の裏山の大岩壁の上に造られている。浅間神社の裏側より遊歩道があり、岩山の間を縫うように10分ほど登ると虎口がありそこから堀底道に入り、砦の中心まで遊歩道が整備されている。
チョッとやり過ぎの感はあるが、遺構を大きく改変してはいないので許容範囲かと・・・(笑)

大明神山の砦見取図①
小さいながら洗練されたそのフォルム(縄張)は一切の無駄がない。

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堀切㋑に入る部分は虎口となっている。

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かなり埋まってはいる堀切㋑。掻き上げた土で土塁を作りかさ上げしているのが分かる。

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西側の斜面に竪堀となる堀切㋑。

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堀切㋒。上巾8mぐらいか。

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南尾根の最終堀切㋓。この先は尾根伝いに登ると平場になる。城の搦め手と推定される。


【城主・城歴】

この城についての史料・伝承は不明。立地や縄張から戦国末期の姿を残していることから、この地域が緊張状態にあった天正十年頃、北条氏が吾妻侵入を進めたのに対して真田昌幸が気空いたのではないか、と推定されている。
天正十年、北条氏政は厩橋城に着陣し、岩櫃城攻めを始めるが、真田方の城代矢沢頼綱が諸将を要所へ配備してこれに備えている。大戸口へ続く権田・川浦は最も侵入になり易い地であるために大いに強化されたと思われる。

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削平された場所は郭2。三日月堀のような形状の堀切㋑に対して馬出のように張り出している。

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堀切㋐。郭1への切岸はかなり厳しい傾斜であることが分かる。

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主郭に通じる遊歩道。往時は縄梯子で出入りしたものと推定される。

【城跡】

主郭は山頂にあり、周囲にところどころ土塁が残るが全周せず東側には見当たらない。北から東方面の斜面は岩崖に囲まれていいるのでその必要はなかったようだ。
一段下は横堀㋐が取り巻き、郭2が横堀㋑に突き出る形となり、武田氏の三日月掘と馬出によく似た防御ラインを構成している。
このあたりの巧みな縄張は真田昌幸が武田流を引き継いでいるようにも思えるがどうであろうか。

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北側から見た主郭。

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主郭から烏川を挟んだ対岸の権田城を臨む。北条の侵入に備えた立地であることがよく分かる。

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主郭の北側は数段の段郭が残る。

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横堀㋐の北側の処理。かなり曖昧になっている。

力で押し寄せる北条軍にはゲリラ戦で対抗するのが効果的だということは、信州における依田信蕃との共同戦線で実証済みの昌幸である。敵の動きをいち早く察知し、先手を打つためにはこのような砦をいくつも臨時に築き出鼻を挫く作戦が功を奏したのであろう。

お手軽に登れて、made in Sanada の技巧がしっかりと味わえるお勧めの砦である。


≪大明神山の砦≫ (だいみょうじんやまのとりで 駒形砦)

標高:570m 比高:90m 
築城時期:戦国末期
築城・居住者:真田氏
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:浅間神社の駐車場
見どころ:土塁、二重横堀など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、権田城、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特に無いが、ガレ山なので足元や頭上に注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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Posted on 2018/11/02 Fri. 21:26 [edit]

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郷士谷津の砦 (群馬県富岡市)  

◆ほとんどの中世城郭跡は私有地だという認識を肝に命じて欲しい◆

中世の山城や城館巡りをしていると、時々残念な表示板を目にする。

「私有地につき立入禁止」

よほどの観光地でない限り、我々が趣味で巡る場所は私有地であり、そこには必ず土地の所有者が存在する。

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郷士谷津の砦の段郭に建てられた「立入禁止」の表示板。

大抵の場所は、柵や出入り禁止のロープなどがなく地主様の暗黙の了解(ご厚意)があり、隅々まで見る事が出来る。じつはこれ、実にありがたい事なんです。
国や自治体の史跡指定を受けていなくても、地主さんが私有地を解放してくださるのは、その場所が未来に語り継ぐ場所だと承知しての大判振る舞いなんです。

今回訪問した「郷士谷津の砦」(ごうしやつのとりで)は、残念ながら真新しい「立入禁止」の標識があった。
城跡訪問者とは断定できないまでも、地主さんがわざわざ標識を立てるということは、重大なマナー違反があったのであろう。


【立地】

高田川の右岸の丘陵上の郷士谷津集落の後背の小山に立地する。城跡へは郷士谷から城内を通る林道経由で登れる。
※現在城跡へは立入禁止

【城主・城歴】

確かな事は不詳だが、里傳では稲葉筑前守が築いたとされ、稲葉氏は高田氏に関連する人物と伝わる。

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城内を貫通する林道より一段下の段郭。


【城跡】

宮坂武男氏の縄張図によれば、独立した小高い小山の頂部に主郭を設け、周囲を数段の段郭が囲み主郭背後の尾根を長大な堀切が遮断する構図である。
残念ながら立入禁止看板により実際の現地調査は叶わず推定だけである。

IMG_8091.jpeg

従来のSNSの記事を見ても、特に出入り禁止については書かれていなかったので、最近の出来事らしい。

確かに耕作地を踏み荒らされたり、ゴミが落ちていたりすれば気分が悪くなるのは当たり前の事だ。

という訳で、今回は「郷士谷津の砦」を踏査出来なかった。いつか再び解放していただけるとよいのですが・・・。

城跡訪問時は当たり前のマナーを守る事・・・これ大事です。

出入り禁止になると、その次に訪問予定されている方々が締め出されてしまいます。お互い、肝に命じましょうネ。


≪郷士谷津の砦≫ (ごうしやつのとりで)

標高:280m 比高50m
築城時期:不明
築城・居住者:稲葉氏
場所:富岡市妙義町
攻城日:2018年10月21日
お勧め度:-
城跡までの所要時間:-
見どころ:-
付近の城跡:菅原城、神成城など
注意事項:現在は立入禁止
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

Posted on 2018/10/28 Sun. 20:37 [edit]

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地域別攻城戦記

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もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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