FC2ブログ

らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

0712

巻ヶ支城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆巻ヶ城の南を守り古道を監視した砦◆

今頃気が付いたのだが、ブログを解説開設して十年が過ぎた・・・。

当たり前だが、開設当初の1年ぐらいは読者も近寄らず、ブロ友を申請しても返事など無く、似たようなブログの皆様にコメントしてもそっけない返事。

やる気だけが空回りして味気ない日々を過ごしてきたが、「読者を増やしたいと思うなら、記事の更新を止めてはいけない」と小生の尊敬する「城と古戦場」の管理人のマサハレ様に励まされ、気が付いたらここまで何とか続いていたという有り様・・・(笑)

IMG_0534.jpg
巻ヶ城の説明板は、何故か登り口ではなく、北側の芦部川の茶臼山城の登り口手前に設置されていた・・絶対にこちらからは登れない(汗)

今回ご案内するのは、前回掲載した巻ヶ城の古道を挟んだ南側に築かれた「巻ヶ支城」である。

巻ヶ城見取図①
今回は下側の支城の見取図をご参照ください。

【立地】

巻ヶ城との間に形成された洞を挟んだ南の小高い丘に築かれている。
古くは山田から笹久保を経て坂鳥峠を越えて北山集落を経由し唐松峠を越えて大河原に至る山道の入口を抑える場所である。

IMG_0533.jpg
巻ヶ城の説明板(拡大版)

【城主・城歴】

前回掲載した巻ヶ城をご参照ください。

DSCF3939.jpg
休耕地となった水田跡から適当に5分ほど斜面を登ると主郭の西尾根の削平された尾根に辿り着く。

DSCF3944.jpg
支城の唯一の西側の堀切。上巾は5m程度。

DSCF3948.jpg
主郭から見下ろした堀切。

DSCF3942.jpg
主郭と周囲を囲む帯郭との切岸。結構真面目に角度をキチンと付けている。

【城跡】

頂部に土塁を削り残した不正五角形を置き、その一段下の周囲に帯郭を配置した単純な縄張である。堀切で遮断した西尾根は造成途中で放棄されたのか、その必要が無かったのかは悩むところである。
山道の監視や取り込みというのは側面的な解釈で、巻ヶ城の弱点である南側の斜面の防御と水の手の防御の為に築かれたのであろう。

DSCF3943.jpg
堀切から見た主郭の土塁。

DSCF3949.jpg
主郭内部。

DSCF3950.jpg
主郭の東側の縁にある土塁。

DSCF3951.jpg
主郭と帯郭の接続部分(主郭から東の帯郭を見下ろす)

頂部に三方に囲むような土塁を設けた主郭を持ち、一段下に周回する帯郭を設けただけの山城である。
この縄張は、のちに紹介する巻ヶ城の北側に位置する「茶臼山城」と規模は違えど中々類似している事に気が付く。

DSCF3954.jpg
主郭の外側を巡る帯郭。削平がやや曖昧。

≪巻ヶ支城≫ (まきがしじょう)

標高:653.6m 比高85m(池の平より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲山田
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:車から降りて15分ぐらい
駐車場:無し (麓の山田集落に路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿



IMG_0529.jpg
取るに足らない城なんて無い・・・誰かが語らねば、その砦の存在すら忘却の彼方に消えてしまうという危惧を持ち続けたい。

IMG_0536.jpg
芦部川沿いから見た巻ヶ城。
スポンサーサイト

Posted on 2019/07/12 Fri. 22:01 [edit]

CM: 2
TB: 0

0711

巻ヶ城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆南朝方の本拠地である大河原城への街道を眼下に監視した城砦◆

伊那谷の城館を語る際に避けて通れないのが「南北朝の動乱」とよばれる56年間で、伊那谷の有力豪族であった香坂高宗は居城である大河原城に後醍醐天皇の第八皇子である宗良親王をお迎えして、ここに征東府を置き南朝方の東国平定の拠点とし山城ネットワークを構築し北朝と対峙した。
※詳しくは→大河原城 を起点とした小生の大鹿村の城巡り記事をご参照ください。

今回ご案内するのは、伊那谷から南朝方の拠点である大鹿村への山道を抑えるために構築された巻ヶ城と巻ヶ城支城である。

巻ヶ城見取図①
街道を挟むように築城された二つの砦。

【立地】

豊丘村と大鹿村の境に位置する鬼面山(1889.8m)と大西山(1741.6m)を源流とする芦部川と虻川に挟まれた天竜川に臨む支脈の先端に位置する。芦部川側の北の深い渓谷を挟んで指呼の先に茶臼山城があり、南側の緩い斜面の対岸には巻ヶ支城がある。

DSCF3895.jpg
大手筋から斜面を登ると最初に現れる堀切㋑。ほぼ箱掘である。

DSCF3898.jpg
堀切㋑の西側の郭(20×7)。削平も曖昧なまま。

【城主・城歴】

ハッキリした事は不明だが、南朝方となった大河原城の香坂氏の勢力下であるので、香坂氏やその配下の河野氏に関わる城と推測されている。南北朝の動乱が終わり役目を終えたかに思われたが、戦国時代に入り再び改修され、本城と共に秋葉街道に通じる山道を監視したものと思われる。

DSCF3899.jpg
郭3(47×17)

巻2
郭3から見下ろした堀切㋑。倒木も多く荒れ放題・・・

DSCF3906.jpg
何故か郭3にある三角点。

【城跡】

尾根の最頂部に長方形の主郭を置き、西側に郭2、郭3を置き、主郭の南北に段郭を配置した縄張、西端と北東の尾根を堀切で区切っている。
面白い事に郭2は方形の窪地で、南に土塁を伴う平虎口で防御されている。見方を変えると、郭2は桝形虎口そのものであり、郭1と郭3からの狭間空間となり、侵入する攻城兵の殲滅が可能である。南北朝時代のものではなく、戦国時代の改修とみるが、どうであろうか。

DSCF3907.jpg
郭2(15×12)の南側の土塁と虎口。

DSCF3910.jpg
虎口の正面。(郭2側から撮影)

DSCF3913.jpg
尾根の南側には細長い帯郭の郭4と郭5。

DSCF3909.jpg
郭2から見上げた郭1(主郭)と接続部分の切岸。

DSCF3915.jpg
郭4から郭1に接続する虎口。神社勧進の際に開けられ城の遺構では無いと思う。本来は郭4の東端から迂回したと思う。

史料や口伝なども残らない砦なので、築城年代や改修歴を推定するにもかなり困難である。
ただ、街道を挟んだ対岸に位置する巻ヶ城支城や北側の渓谷を挟んだ茶臼山城と比較すると、最終的に改修された年代はそれよりも新しいと推定できることは間違いないと思う。

DSCF3916.jpg
矢竹の生い茂る主郭の西側。

DSCF3917.jpg
巻ヶ城の主郭に鎮座する社殿。コの字型の土塁で囲まれている。当初は櫓台跡か?と思ったが・・

DSCF3921.jpg
社殿の土塁背後の東側の削平地。

DSCF3924.jpg
北東の尾根を遮断する堀切㋐。

DSCF3929.jpg
主郭北側の郭6.削平が不完全で犬走のようだ。

DSCF3930.jpg
郭6の西端。しいたけ栽培の原木があるが、今は作る人も途絶えたようです。

DSCF3932.jpg
郭6の北側には竪堀の跡も確認出来る。

神社の勧進や耕作化に伴い部分的に改変を受けていると思われるが、全体的に遺構は良く残ったほうだと思われる。

DSCF3938.jpg
主郭の社殿のある巨大な土檀と「ていぴす」殿。やはり櫓台が置かれていたと妄想するが・・・(笑)


≪巻ヶ城≫ (まきがじょう 牧ヶ城 槙ヶ城)

標高:663m 比高95m(池の平より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲山田
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:車から降りて15分ぐらい
駐車場:無し (麓の山田集落に路駐)
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・虎口・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿



IMG_0523.png
当日のスクリーンショットと三つの山城の位置関係。

Posted on 2019/07/11 Thu. 08:44 [edit]

CM: 2
TB: 0

0704

本城 (下伊那郡豊丘村河野)  

◆天竜川の左岸の崖淵城には珍しい「横堀と虎口」を装備した砦城◆

「艦船プラモの製作は止めたの?」とご質問がありそうですが、そんな事は無くて「1/700ウォーターラインシリーズ」の最新完成作品は「秋津州」(あきつしま)。

その後、「蒼き鋼のアルペジオ」なるコミックにハマってしまい、そこに登場する潜水艦「I-401」とか重巡「TAKAO」のフルハルモデルを丹精込めて作っていました・・・(笑)

そう言えば昨日、重巡「摩耶」が発見されたというニュースを拝見しました。摩耶は、愛宕、鳥海と共に高雄型の姉妹艦でしたよね。祖国と家族、そして大切な人を守るために散った英霊に改めて祈りを捧げたいと思います。

IMG_0477 (1)
なんせ初代「宇宙戦艦ヤマト」の世代だし、「艦これ」の軍艦+擬人化モデルを融合したこのコミックは「どストライク」なのです(笑)

まあ、そんな個人のどうでもいい趣味はさておき、今回ご案内するのは、豊丘村シリーズの「本城」(ほんじょう)

DSCF3841.jpg
堀切㋒(上巾14m)は脇の道路から観察できる。

【立地】

豊丘村の河野地区の後背の山地が尽きる末端部の山で、南側には寺沢川を隔てて500mの位置に上の城がある。また城跡の北東の丘陵地は「勝負平」で、その名から付近一帯で合戦があったと伝わる。

本城(豊丘村)見取図①
「今まで紹介した他の河岸段丘の館城と何が違うのさ?」と指摘されれば、主郭北側の横堀と明確な虎口の存在であろうか。

DSCF3845.jpg
堀切㋒から突入してもよいが、道なりに西に進むと標柱があるので、そこから主郭へ入りましょう。

DSCF3848.jpg
北側から見上げた堀切㋑。上巾は14mほどだがかなり埋没している。

DSCF3849.jpg
チョッとピンボケしちゃいましたが、主郭下の横堀(帯郭?)の入口に明確な虎口の跡が確認出来る。

【城主・城歴】

城跡に立つ豊丘村教育委員会の説明板(昭和57年)によると、築城年、築城者とも不明であるが、室町時代末のものと推定されるという。

IMG_0519.jpg
とても昭和57年製とは思えない立派な看板。当時の村の熱意を感じる。(無論、今も継続中と信じたいが・・)

【城跡】

勝負平の西南の黒谷に突き出した丘陵の先端を三条の深い空堀で穿った堅固な縄張を持つ城である。山頂部の郭1が最も広く61×40の台形。東端の堀切㋑と接続する部分に土を土塁で囲んでいる。西端は11mほどの鋭利な切岸を伴い上巾15mの堀切㋐にに接続する。
堀切㋐と堀切㋑は本郭の北側の段下で約50mの横堀で接続され、この城の弱点である北斜面からの攻撃に備えたものであろう。
堀切㋐の北側に郭3が置かれ、宮坂氏はこれを馬出と見ている。
郭2は郭1と堀切㋑を隔てた長さ約40mの削平地。そこから東へ30mほどの細長い鞍部の先を堀切㋒で穿ち城域は終わる。

DSCF3852.jpg
堀切㋐と堀切㋑を連結するように構築された横堀㋑。堅固な土塁が築かれている。

honnjyou1.jpg
横堀と堀切㋐の接続部分。

DSCF3855.jpg
堀切㋐は南側斜面に竪堀として収斂するが、ご覧の荒れ模様・・・(汗)

DSCF3858.jpg
堀切㋐から主郭に入る位置に桝形虎口らしき構造もあるが、崩落もあり観察は厳しい。堀底を迂回させて主郭に入るというのは戦国時代の山城の特徴とも。

付近の河岸段丘の館城と比較すると、横堀の存在、虎口の存在が大きな違いとなっている。
明らかに実践を想定した縄張で、南北朝時代の古い山城の遺構とは違う気もする。宮坂氏が考察されるように、北方1.5kmに武田氏の大島城がある事から、対岸の支城として改修され末期まで現役として機能していたようにも思える。

DSCF3859.jpg
村指定史跡でありながら、郭1はご覧の状態・・・。

IMG_0515.jpg
例の如く、杉林が遺構を守り続けてくださいました…感謝感謝・・・。

DSCF3865.jpg
主郭の南側の段郭。こちら側には土塁は無くて、削平のみ。

DSCF3868.jpg
南側の堀底から撮影した堀切㋑。倒木と藪で酷い状態だがまあ、それなりの撮影場所を見つければ何とか見れるレベル。

DSCF3873.jpg
堀切②越しに撮影した郭2。藪が酷くて突入は諦めましたとさ・・・(笑)


≪本城≫ (ほんじょう)

標高:559m 比高80m(中部地区より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村河野
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:入口標柱より5分
駐車場:無し、路駐
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀切・横堀・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

DSCF3874.jpg
主郭背後の土塁にある三角点も荒れ放題・・・・いいのか?国土地理院・・・笑



Posted on 2019/07/04 Thu. 20:21 [edit]

CM: 11
TB: 0

0630

伴野古城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆伊那谷の河岸段丘の城にありがちなオーソドックスな縄張り◆

その気になっているうちに掲載しないと、一ヶ月近くブログ更新が放置されるので連投してみましょう・・・(笑)

今回ご案内するのは、昨日ご案内した「田村の城山城」から約1km南の「伴野古城」。同様に河岸段丘の先端を利用した館城だ。

DSCF3996.jpg
城跡の入口には立派な石碑と説明板がある。

【立地】

前回の「田村の城山城」と同じく単流側に突き出した河岸段丘の先端を利用した城館。台地の東側を堀切で仕切っている。詰めの城はここらしいが、麓の居館の位置は不明で、戦国初期の縄張りのまま残り、早いうちに捨て置かれたように思える。
天龍川を挟んだ対岸には松岡氏のネットワークの城群が良く見える。

伴野古城見取図①
時間に追われてしまい、今回踏査したのは、郭1と郭2、そして堀切㋑と㋒のみであった。


【城主・城歴】

5世紀の初めに朝鮮からの帰化人である大伴氏の一族が土着し伴野氏を称したのが始まりだとされ、最初は段丘上に居を構えたというが、後に麓に下ったという。麓の居館跡ははっきりしない。
伴野氏は知久氏の配下であったようで、天文23年に武田軍との合戦に及んでいる。
敗北後は信玄に従い、各地を転戦するが、城館はその後改修される事なく武田氏滅亡後には放置されたのであろうか。

DSCF3997.jpg
郭1の東側に新たに造成された墓地。

DSCF4002.jpg
郭1と郭2を区画する土塁の上に築かれた社の脇に申し訳程度に標柱が建つ。


【城跡】

道路の開通により改変された堀切㋒と堀切㋑に区画された部分が主郭。83×60と広い。宮坂図に従い、堀切㋑は貫通した堀切を推定して描き込んだが、案外と現状のように堀切は両サイドの斜面に対しての防御のみで、副郭(郭2)とは土塁で遮断していただけに思える。

DSCF4003.jpg
郭2.杉林が500年もの間城跡を守り続けている。有難い事ですw

郭2(副郭)は45×60の三角形でこの城域の中での防御性は一番高い。時間の都合で郭3及び郭4は未踏査のままである。
下伊那地方の河岸段丘を利用した館城を歩くとほぼ似たような縄張で、戦国時代の初期は豪族間である程度の築城技術が共有されていたのかもしれない。

DSCF3995.jpg
堀切㋒の痕跡はカーブミラーの奥側に確認出来る。

IMG_0551.jpg
郭2の北側の切岸。かなりの角度を付けている。

伊那谷の城は、戦国時代の早い段階で武田氏の被征服地となったためか初期仕様の館城が多く見受けられ、あまり改修されずにその役目を終えた城が多い。
軍事的緊張の最前線にある山城が絶え間なく改修を繰り返した縄張の面白さとは程遠い為か、あまり人気が無いのも事実だ。
それでも、それぞれの城にはそれぞれの歴史があり色々な背景がある。そんな城をこれからも紹介していきたい。

DSCF4010.jpg
残念ながら堀切㋒は道路になってしまったが、それ以外の遺構がしっかり残っている。


≪伴野古城≫ (とものふるじょう)

標高:505m 比高75m 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲(くましろ)
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
駐車場:無し、路駐
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀・切岸など
注意事項:特になし
Special hanks ていぴす殿

DSCF4007.jpg
北側の堀切㋑の堀底から撮影。かなり埋まってしまい辛うじて型が残る程度。



IMG_0552.png
探訪時のスクリーンショット

Posted on 2019/06/30 Sun. 11:54 [edit]

CM: 7
TB: 0

0628

田村の城山城 (下伊那郡豊丘村神稲)  

◆河岸段丘を利用した城館一体型の城址◆

今月の不幸続きの総仕上げは、青色切符の点数▲1点、反則金6,000円也・・・(涙)

善良かつ優良なドライバーの9年ぶりの違反にも過酷な納税義務を課す長野県警察の勤務態度は評価に値するのであろう・・(笑)

日本海溝の深き深海魚のように、海底を彷徨う小生に光が届くのはいつになるのであろうか・・・・・

そんな哀れな長野県民のはしくれが今回ご紹介するのは下伊那郡豊丘村の「田村の城山城」である。

DSCF3878.jpg
背後の木々の生い茂る段丘の頂上が城山城の中心部分。何故このような位置に標柱が立つのか理由が知りたい。


【立地】

天龍川の左岸で、豊丘村役場から南東の河岸段集の先端に位置する。洞岩寺の背後の頂部の背後を堀切で断ち割り独立した城域として構成したと思われる。天竜川を挟んだ対岸には松岡城とその支城群が一望に臨める位置にある。

DSCF3879.jpg
東側から見た城の中心部。

【城主・城歴】

史料・伝承等無く不明。立地からは在地土豪の城館一体型の居館であろうと推定される。おそらく居館の場所は西側の洞岩寺付近であろうか。
河岸段丘の東奥の山中には茶臼山城、巻ヶ城、巻ヶ城支城が築かれているが、それらの城との関連性もはっきりしない。

田村の城山城見取図①


DSCF3880.jpg
城域の東側の巨大な堀切跡。

DSCF3881.jpg
堀底から振り返って撮影すると、巨大な箱掘りである。この地域の河岸段丘の城の堀はだいたい似たような感じだ。

【城跡】

今回時間の関係で居館とされる洞岩寺は調査していない。背後の詰め城部分は、縄張図の1と2が中心部で周囲を堀で囲まれていたものと考えられるが、耕作地化による改変、道路の開通などにより現存するのは北側の堀のみであり、往時の姿がどのようなものであったかは想像の域に留まる。
有事の際の詰め城と言うよりは高台の物見、狼煙台の分類で、高台の方形居館を意図したものかもしれない。

DSCF3882.jpg
北側と西側の堀の連結部分。墓地の裏側に人工的な高土塁がある。

DSCF3884.jpg
主郭(郭1)には三角点があり、標柱が立つ。

DSCF3886.jpg
主郭東側の削平地。

DSCF3887.jpg
郭1と郭2の接続部分。切岸というよりは傾斜であまり加工の跡は見られない。

主郭(郭1)と副郭(郭2)を観察する限りでは、古い年代の館城であり、改修された感じは受けない。
在地領主が地域支配の拠点として築城したもので、あまり実戦を意識したとは思えない縄張である。

DSCF3892.jpg
郭2。加工の跡はみられるが、曖昧な感じで終わっている。

南信濃の城館というと、飯田城、松岡城、吉岡城、鈴岡城、松尾城あたりがどうしても定番扱いだが、その他にも素晴らしい山城がある事を知ってもらいたいので、しばらくこのシリーズで行こうと思ってます・・・が、なんせ気まぐれな正確なもので、いつまで続くやら・・・(笑)


≪田村の城山城≫ (たむらのじょうやまじょう)

標高:522.7m 比高40m (洞岩寺より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:下伊那郡豊丘村神稲(くましろ)
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:5分
駐車場:無し、路駐
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編」(宮坂武男著 戎光祥出版)
見どころ:堀跡など
その他:耕作地には入らない事。
Special hanks ていぴす殿



DSCF3876.jpg



Posted on 2019/06/28 Fri. 21:36 [edit]

CM: 2
TB: 0

城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

▲Page top