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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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堀金氏館 (安曇野市堀金烏川)  

◆戦国期に活躍した仁科一族堀金氏の居館◆

この度の北海道における震災被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

一昔前なら「百年に一度の災害」とか「異常気象」とかで片づけた事象が、これからは当たり前の事になるのでしょうか・・・(汗)

今回ご案内するのは、「しつこいぞ!!」と叱られても止める気の無い城館巡りの「堀金氏館」でございますw

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堀金屋敷の正面虎口の近くにある双体道祖神の前に車を駐車して探索開始です。


【立地】

角蔵山(1163.6m)の東側に広がる烏川扇状地形の上堀地区の千国街道沿いに位置し、戦時の城とされた岩原城からは南東約3.6kmである。

堀金氏館見取図①

ここは昨年、ブロ友の久太郎さんが管理人の 「久太郎の戦国城巡り」に掲載があり、「地元民が知らずしてどうする」と重い腰を上げて出掛けた次第です・・・(笑)


【城主・城歴】

仁科一族の堀金氏の初見は「高白斎記」の天文二十年に記載があり、武田氏の平瀬城攻めの際に、堀金氏は出仕し臣従している。以後、天文二十一年の小岩嶽城攻め、弘治三年の小谷平倉城攻めに参加、その戦功により千国六ヵ村の地頭に任じられている。
二代目の堀金安芸守政氏は永禄四年の川中島の戦いで戦死し、三代目の平大夫盛広は永禄十年(1567)の生島足島神社の起請文に「仁科御親類被官」にその名が見える。その後、渋田見氏と縁組したが、信玄より不届きとされて地頭職を失い、その後武田領内を追われ越中国に逃れて没落したという。

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屋敷の南入口は「大庭」と言い上堀郷倉と山車蔵の址が残る。

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北側より見た堀金氏館。道路沿いなので、うっかり通り過ぎてから気づく。

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居館の北側には僅かに土塁痕が続き、その内側を堀が巡っていたと推測される。

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館の北東は鬼門にあたるので、「隅欠け」として市神の牛頭大王を祀る堀金社が安置されている(ピンボケご容赦!)


【館跡】 ※館跡地には現在も居住されている方がいるので敷地内への無断侵入は不可。

一辺が約80mほどの方形居館で、北東及び南の三辺に土塁が残り、その内部に堀跡が残る。屋敷の北東は隅欠けにして市神が祀られている。屋敷の虎口は南側で入口から外は「大庭」と呼び村の広場になっていた。道路を挟んだ反対側には土塁で囲った構えがあり、屋敷地の址の遺構と考えられている。
比較的遺構は良く残っている。

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堀金氏館入口。土塁と堀形が比較的良い状態で残っている。

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東側の土塁の雑木林の中に朽ちた標柱を発見。22年の歳月の重みを感じる・・・(気のせいか・・・)

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館の東側の道路を挟んだ反対側に残る土塁跡(構え)。この場所に堀金氏に関わる家臣の屋敷があったのであろうか?

肝心の岩原城について、このブログで記事にしていないことに気が付く。そのうち書かないと、記憶が薄れていく・・・(汗)


≪穂高氏館≫ (ほりかねしやかた)

標高:573m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系堀金氏
場所:安曇野市堀金烏川上堀
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:土塁・堀跡など
付近の城跡:矢原北村堀ノ内、矢原東村の堀ノ内、岩原城
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)







Posted on 2018/09/09 Sun. 14:41 [edit]

CM: 2
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0905

穂高氏館 (安曇野市穂高)  

◆地名と土塁の一部のみ残る居館◆

この度の台風21号の被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。

「明日は我が身・・・」もはや数十年に一度の異常気象ではなく、これからは毎年「生命の危険」に備えるべきでしょうね。

「自分だけは大丈夫」とかは通用しない自然災害なんだと肝に銘じて、逃げる事も選択肢の一つになりました。

今回ご案内するのは、「穂高氏館」(堀屋敷)。写真3枚で完結する記事はもちろん、「テ・ヌ・キ」です、ハイ!(笑)

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通称「堀屋敷」と呼ばれる穂高氏館全景。(西側より撮影)

【立地】

穂高駅の南側で穂高神社の南西部に位置する。穂高神社との深い関係性が読み取れる。


【城主・城歴】

穂高氏には細萱系穂高氏と仁科系穂高氏の二系統があったようである。

この堀屋敷は仁科系穂高氏の居館と伝わる。天文二十二年に武田の支配下になると、武田氏は仁科盛国の二男を穂高に入れて統治を命じた。初代は武田軍に従い白馬小谷方面の制圧作戦に転戦するが平倉城の飯森盛春攻めにて戦死。
武田氏滅亡後、後継ぎの穂高内佐(盛員)は日岐丹波守(盛武)とともに、小笠原貞慶に抵抗するも、後に配下となり700石を拝領したという。

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居館の南側の堀跡(推定)


【館跡】

現在は個人の宅地となっており、鳴庵西部に土塁の址が一部残るのみで、その他は改変により明確な遺構は確認出来ない。
広さは70×80の方形居館で東と南には水路がある。大手は穂高神社側の西側かもしれない。
唯一残る土塁には稲荷社が祀られているという。

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居館の遺構の土塁の一部。イチイの巨木が生い茂る。


≪穂高氏館≫ (ほたかしやかた)

標高:548m 比高:-m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系穂高氏
場所:安曇野市穂高本郷
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (穂高神社借用)
見どころ:土塁の一部 ※標柱などもありません
付近の城跡:等々力城、主水城、等々力氏館など
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

※今回プライバシーに配慮して場所の地図は掲載しませんが悪しからず。

Posted on 2018/09/05 Wed. 21:34 [edit]

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0903

等々力氏館 (安曇野市穂高等々力)  

◆等々力城に移転する前の居館跡か?◆

安曇野市の穂高周辺の山城は小岩岳城とか、岩原城ぐらいで、あとは豪族の居館が平地にかなり多く点在している。

各個撃破するもの面倒だし、平地の居館はプライベート空間が多いので下手にカメラを構えると通報されるリスクを伴う。

それでも、せっかく訪問したからには写真の1枚でも掲載しないと苦労が報われませんよね・・・(笑)

今回ご案内するのは前回ご案内した等々力城の移転前の居館と考えられる等々力館(とどりきやかた)である。

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等々力館近くにある東光寺の吉祥門にある巨大な下駄。仁王様にお参りして願掛けして下駄をに乗ると願いが叶うという。

♪あいつのGET A NOTEの音がしたんだ~、あいつのGET A NOTEの音がしたんだ・・・♪

アニメ ゲゲゲの鬼太郎のエンディングに似合いそうな巨大な下駄のレプリカです。

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古木の栗の木が目印の居館跡。

【立地】

安曇野市の穂高等々力地区の東光寺の南100mの位置に等々力氏館と言われる俗称「内堀」がある。西北300mが等々力城である。
ここは旧千国街道に接していて、平坦地で、南北に長い町並みがあり、そのほぼ中央にあたる。道の南北の端には鉤の手があり、北端には東光寺、南端には「関口」の地名が残る。

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館の中心部。

【館主・館歴】

※等々力氏については前回記事の等々力城を参照願います。

【館跡】

内堀という屋敷跡は50×45ほどで、北西隅に栗の木があり、屋敷を囲む池(堀跡か?)ではスケートをやったという。内堀の北側が「蔵屋敷(倉屋敷)」と言われていたらしく、その辺まで含めて居館跡だったと推測されている。

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内堀西側の堀の痕跡。

≪等々力氏館≫ (とどりきしやかた)

標高:533m 比高:-m
築城時期:不明
築城・居住者:等々力氏
場所:安曇野市穂高等々力
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:東光寺の駐車場借用
見どころ:特になし ※標柱などもありません
付近の城跡:等々力城、主水城、穂高氏館など
注意事項:プライバシーに注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)



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この下駄で明日の天気占いは、ゲゲゲの鬼太郎でも骨折すると思います・・・(笑)  mee to・・・・

Posted on 2018/09/03 Mon. 21:34 [edit]

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0830

等々力城 (安曇野市穂高)  

◆明確な櫓台や虎口を今に伝える在地土豪の堅固な城館跡◆

来る日も来る日も酷暑続きと言われようとも、平成最後の夏である。

行く夏を惜しむように、先日は須坂市の米子大瀑布を初めて訪れてみた。

一昨年の「真田丸」のオープニングのタイトルバックで岩櫃山と沼田城のCG合成写真で問い合わせと訪問客が殺到した滝である。

真田丸①
難攻不落は間違いないが、絶対に攻めたくないし、籠城もしたくない。辿り着く前に遭難しそうな立地ではある・・・(笑)

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米子瀑布の不動滝。権現滝とペアの滝なので、恋人同士のパワースポットとして人気があるらしい。

この日も中年夫婦や恋人同士が多数訪れていたが、「一人で来ちゃダメなの?」・・・・「ダメですw」・・・・(笑)

須坂市から12kmほど林道を登るのだが、小型乗用車や5ナンバーのワゴン車は通れる。これからの紅葉シーズンはマイカー規制がかかるので事前にWebサイトで確認をお願いします。駐車場からは800m程の登山になるのでそれなりの装備はお忘れなく。

今回ご案内するのは、そんな米子瀑布とは全く関係のない安曇野シリーズ在地土豪の居館跡「等々力城」(とどりきじょう)である。

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虎口手前の馬出に立つ木製の標柱。天正八年の築城とあるが、根拠となる史料はあるのだろうか。

【立地】

穂高市街地の東部、穂高川の右岸の水田地帯にある。一帯は平坦地で南に欠の川が流れ、北側にはワサビ畑があり、その中の微高地に立地する。安曇野では最も低地で諸河川が集まり犀川に注ぐ所である。

等々力城見取図①

【城主・城歴】 ※宮坂武男氏の解説文引用

応永の「大塔物語」の中に大文字一揆中に「戸度呂木」(どろろき)が登場し、永禄十年(1567)の生島足島神社の起請文の中に仁科氏被官の等々力定厚の名が見える。等々力は戦国期に見える郷名で、天文十九年の仁科某の発行状によれば、井上帯刀に宛行っていたり、天正六年の下諏訪春秋両宮帳や文明十五年の三宮穂高社御造営日記等にも造営の負担をしていることが分かっていて、その後も度々負担を課せられていることが出てくる。

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虎口西側の土塁。

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虎口の櫓台から北側に続く土塁。これだけ綺麗に残っているのには驚いた。

武田氏滅亡後の天正十年11月6日、上杉景勝は「仁科之内等々力分」300貫の地などを牧島足軽衆に宛がっていて、同十七年には小笠原貞慶は「矢原、等々力、細萱之内九十貫文」を井口帯刀に宛行っている。(井口文書)この地には仁科氏の被官で等々力氏が居て、この城には同氏にかかわるしろと考えられている。この城は室町時代の頃に等々力氏によって築城されたようで、戦国期には北のほうに北城、東の方にあら城を配備して防備を固めている。
武田氏滅亡後は小笠原氏に従ったらしいがやがて帰農したようである。

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東側から見た城の内部。大きく5ヶ所に区分されていたようだ。

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城の内部から虎口周辺を振り返る。中々厳重な出入り口であった事が伺える。

【城跡】

城址は東西に長い長方形部分(105×50)の部分と、北側に2m程高い50×50の三角形の部分で分けられている。西に続く台地とは上巾12~20mの堀で区切られている。

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土塁の終点には三角形の郭が確認出来る。

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南側から見た三角の郭。

欠の川との間に三角形の12×14の平場があるので、馬出であろう。従ってここが大手口と思われる。
虎口の北側の土塁は15×10 の広さがあり、一曲輪を形成している。おそらく櫓台であったと思われる。また、往古は土塁が全周していたと思われるが、水田化したときに崩してしまったのであろう。北側の堀は現在ワサビ畑になっている。

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城域の西側の堀切跡。ここまでが城域だったと考えられている。


≪等々力常≫ (とどりきじょう)

標高:536m 比高:7m
築城時期:不明
築城・居住者:等々力氏
場所:安曇野市穂高等々力
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し ※周辺の道路は狭いので路駐には注意が必要
見どころ:土塁、櫓台跡
付近の城跡:小岩嶽城、熊倉氏館、細萱氏館など
注意事項:特にないが耕作地なので農作物を荒らさないように。
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)



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Posted on 2018/08/30 Thu. 22:51 [edit]

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細萱氏館 (安曇野市南穂高)  

◆在地土豪の中世の居館を今に伝える貴重な遺構と代々の当主に感謝◆

平地における中世の城館や屋敷は、耕作地あるいは市街地化により壊滅してしまったところが多いが、子孫の方々の尽力により往時の姿を留めているケースが稀にある。

今回ご案内するのは、安曇野市にある「細萱氏館」(ほそがやしやかた)で、今も末裔の方が居住する立派な中世城館跡である。

細萱氏館 (25)
西側に虎口が開く細萱居館。

【立地】 ※宮坂武男氏の説明書きを引用

南穂高の平坦地の真ん中にあり、北200mには万水川(よろずいがわ)が流れていて、この一帯は湧水地帯で、往時は堀中も水が湛えられていたらしいが、今ではワサビ畑によってか堀の水は失われて空堀となっている。
周辺は低湿地で水田の為、堀を設ける事により排水と防御を兼ねたものと思われる。細萱は除け沢(よけさわ)の下流の湿地帯で、細い萱の生えているところから由来した地名とされる。

細萱氏館 (1)
細萱邸正面の石碑。自分の家の正面に石碑など建てられたら嫌だと思うのに、細萱家はそれを受け入れて頂いたようです。

※現在、細萱氏居館には、末裔の方が居住し生活を営まれております。当たり前ですが、無断侵入は絶対にやめてください。細萱様にキチンと許可を得て見学をお願いします。一部の心無い方の行動で、出入り禁止になる事は避けなければなりません。


細萱氏館 (2)
虎口から見た南側の堀切。埋まってはいるが、薬研堀であることが分かる。

【城主・城歴】 ※宮坂武男氏の説明書きを引用

細萱氏の初見は、天明15年(1483)2月3日で「三宮穂高社オン造営日記」に「大旦那盛知、政所矢口通、執事長光寺覚朝」とあり、本姓は大伴氏であるとされる。
細萱の地域の開発者は恐らく犬甘明大伴氏で、当地に居館したのは鎌倉時代に入ってからであろうと考えられている。(「穂高町誌平成3年) 古代末期の千国道は熊倉で渡河し、寺所厩尻、踏入・重山気・矢原・穂高に通っていたものが、細萱が開拓され郷村が出来ると、道は西の方へ移っていったようである。

細萱氏館 (4)
館の南側の堀切。

やがて細萱氏は堀金郷への発展し、文明年代(1469-1486)には、安楽寺を開山し、永正年代に入っは大同寺の旦那になって、この地域を支配していたようである。そうした中で要害城岩原城も築城されたものであると思われる。
細萱氏は室町時代には、穂高神社の造営の大旦那や政所(宮奉行)の職にあって、祭祀権を握っていたようであるが、仁科堀金氏に領主権を奪われ、安曇郡が武田氏の支配下に入ると、穂高神社の大旦那職を仁科氏に譲っている。(天文24年)

細萱氏館 (6)
南側の堀切より虎口方面を振り返る。

武田氏の支配の時代には、仁科盛信の配下として、信越国境への出陣、在番に従事し、天正十年(1582)武田氏滅亡後は小笠原貞慶に属し、小倉城主小笠原貞正の下で筆頭格で働いている。
また、細萱長知は安曇郡の郡奉行の地位にあったりするが、石川氏の失脚により郷士格になり、やがて府中の代替わりが頻繁に行われる中で、細萱氏は没落して、彦右衛門家だけが残り、あとは一般百姓並みに下ったようである。

細萱氏館 (9)
西側の堀跡。

【城館跡】

屋形の周囲を取り巻く堀は、幅10m内外で、北西部が失われている。この部分は早くから埋め立てられたらしく、明治二十二年の地籍図には既に堀形はなくなっているという。

細萱氏館見取図

また、北西部を除いて土塁が巡っていたようであるが、現在は南西部に残っているだけで、土塁上には家敷神が祀られている。
入口は西側中央部で、ここから土橋で入っていたものと思われ、東側の土橋は後に埋め立てによって出来たもので、古くは堀が途切れず連続していたという。内部の広さは土塁敷を除くと30×25程度だったと思われる。

細萱氏館 (10)  南東の土塁の隅上には屋敷神の祠がありますw

細萱氏館 (13)
南東に残る土塁。往時は全周していたと考えるのが妥当であろうか。

主郭の東には薬師堂や墓地との間に副郭があったようで、幅3mの堀形が残っている。
西の門(虎口)の前は「構え」「西番場」などの地名が残る事から、屋敷を中心として集落が形成されていた事が伺える。

小笠原貞慶の重臣であった岩岡家に伝わる「岩岡家記」には、天正十年(1582)に、この館は合戦の場となり数十人が籠ったという記載があるという。天正壬午の乱で、上杉との戦いにも備えた平地の重要な城館であったようだ。

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城館北側の堀。

細萱氏館 (18)
北側の堀の終点。この先はL字で堀が虎口へ向けて続いていたようだが、宅地造成の為埋められて消滅した。

細萱氏館 (28)
殿村公民館の裏側に堀切の跡が確認出来る。

細萱氏館 (29)
公民館と隣接する墓地の西側は堀切を隔てて副郭があったと推定される。

細萱氏館 (30)
殿村公民館には薬師堂があったと伝わる。(東側頼撮影)


≪細萱氏館≫ (ほそがやしやかた 殿村館・城内・内ほり)

標高:533m 比高:-
築城時期:不明
築城・居住者:細萱氏
場所:安曇野市穂高細萱殿村
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:殿村公民館借用
見どころ:堀切・土塁
付近の城跡:小岩嶽城、熊倉氏館、等々力城など
注意事項:見学の際は必ず細萱様の許可を得る事。プライベート空間の写真撮影は避けてください。
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
SpecialThanks:細萱様ご一家

Posted on 2018/08/28 Tue. 22:21 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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