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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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高津屋物見 (東筑摩郡生坂村)  

◆日岐大城と対峙する犀川沿いの見張砦◆

そのうち止めようと思いつつ始めたこのブログ、今年の7月で十周年のメモリアル(?)イヤーとなる予定だ。

万事やる事為す事中途半端な自分がここまで継続するとは思いもよらなかった・・(まあ、一ヶ月に一度の記事の更新という月も多々あったが・・汗)

ブログを継続する為の逃げ口として「プラモ戦記」を始めたが、本業(?)は山城の記事であり、それを期待して訪問してくださる皆様の期待を裏切り続けて良いものか自問自答の日々は続いております・・・(笑)

今回ご案内するのは4年前のGWに訪れた生坂村の高津屋物見(たかつやものみ)でございます。

高津屋物見(生坂村) (6)
物見は村営のキャンプ場「高津屋森林公園」の敷地内にあり遊歩道も完備されているので迷う事はありません。

【立地】

物見のある山は犀川の左岸にあり、対岸2kmの山上の日岐大城と対峙する位置にあり、雲根峠の猿ヶ城物見、万平、小屋城など見渡せる上に、この山の尾根通しに西行すれば1.7kmで中山城になりう、犀川流域ばかりか広津地区の村々、更に遠くは金戸山(かなとこやま)、麻績の高城、青柳城まで視野に入るし、南陸郷、七貴の山々に安曇平まで見え、正に展望台の趣のある山である。

高津屋物見(生坂村) (8)
公園として整備され、遊歩道にはツツジの花が咲き乱れる。「あー、あれは春だったんだね」(by吉田拓郎・・・笑)

高津屋物見(生坂村) (10)
最初に現れる削平地。往時のものか後世のものかは微妙な判断。

高津屋物見(生坂村) (11)
二番目の削平地。

【城主・城歴】

現地に立つ生坂村教育委員会の平成7年の説明板には「大日方氏の山城、標高776m、寛政元年(1789)「池田組明細帳」にのる。約50m×30mの平地が頂上にあるのみで、人工を加えたあとはない。明治四十年代まで秋葉大権現があり、相撲が盛んに行われた。眺望がよく犀川べりと北山方面を見張る物見台であろう」と記されている。

高津屋物見見取図①
自然地形とはいうものの、堀切や削平地は往時の面影が残る。

高津屋物見(生坂村) (15)
主郭手前の郭。ここに秋葉社があったというが、大日方神社に合祀されたという。

高津屋物見(生坂村) (22)
主郭跡に再現された土俵跡(東屋)。この先使われる事のない土俵をわざわざ復元する意味などなく、無駄遣いと言わざるを得ない。

高津屋物見(生坂村) (24)
主郭から見た西側尾根筋。堀切が一条確認出来る。

高津屋物見(生坂村) (25)
砦に残る唯一の堀切の拡大写真。

【城跡】

バブル期の開発事業で公園整備化され、キャンプ場やコテージなどが建てられていまい往時の面影は知る由も無いが、説明板にあるように、もともと地山を簡単に削平しただけの物見である。宮坂武男氏の観察眼によりいくつかの遺構も認められたが、果たして往時の遺構かは判断が難しいが、少なくとも堀切は認めても良いと思われる。

高津屋物見(生坂村) (26)
堀切の先は緩い傾斜の付く細長い郭で先端に若干の平場を接続しそこで城域は終わっているようだ。

高津屋物見(生坂村) (33)
西側より見た主郭。郷土出身の関脇御嶽海に来ていただきたいものである・・・笑


≪高津屋物見≫ (たかつやものみ)

標高:772m 比高:280m(犀川より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:東筑摩郡生坂村昭津区長谷久保
攻城日:2015年5月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:10分
見どころ:堀切、削平地
付近の城跡:日岐大城、京ヶ倉、小屋城、など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)

高津屋物見(生坂村) (3)
対岸には日岐大城、京ヶ倉、小屋城なども一望出来る。

【おまけショット】

日岐大城の物見岩jから見た高津屋物見。立地条件がお分かりいただけるかと・・・。

hikioojyo (86)

前回、下書きのまま酔っぱらって投稿してしまい、ご迷惑をお掛けしました・・・その割には適当な記事なのでご容赦ください(笑)

Posted on 2019/03/29 Fri. 20:36 [edit]

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航空母艦 千歳 (AOSHIMA製)  

◆千代田と共に水上機母艦から航空母艦に生まれ変わる◆

「あなたの心の登校班の班長になりたい・・・・」(何のこっちゃ・・・笑)

これ以上ブログを放置するとやっかいな広告宣伝がトップページを飾り、死亡フラグが立ちそうなので繋ぎで更新しておきますw

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千歳も千代田もマイナーな航空母艦であり、その前身は水上機母艦だったと知る人はかなりのマニアだけであったが、その存在を広く世に知らしめたのは、やはりブラウザゲーム「艦隊これくしょん」(通称:艦これ)の功績が大きい。

そしてこのプラモが世に出たのも、間違いなく「艦これ」のおかげであろう。

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製作途中の装甲空母「大鳳」との比較。高校三年生と中学一年生ぐらいの差はあろうか・・・(比較の表現に難あり・・笑)

なけなしのお小遣いを削って最初に選んだのは「千代田」ではなく「千歳」にしたのは、やはりその迷彩模様が決め手だった。

格納庫仕様

艦船プラモの主流はエッチングパーツを使い詳細を表現するのがセオリーだったようだが、それだと一隻あたりの製作費は高額化してしまう。小生も制作を中断している大鳳は、実に本体+エッチングパーツ+甲板シール合計で8,000円近くかけている。
フルハル(喫水線の下のスクリューまで含めた船全体も模型)1/350モデルが買える値段である・・・(汗)

が、最近の傾向は、船体の塗装に色を重ねてなど)その軍艦の出生地の海軍工廠(佐世保、舞鶴、呉、横須賀など)の独自のカラーを出すのが流行りになりつつあるという。それはそれで、どういう判断基準になるのか難しい問題ではあるが・・・(笑)

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昨年12月に購入した拡大ルーペ付きのスタンドライト。老眼の我が身には島左近以上に強力な助っ人である。

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まあね、甲板のデカールはチョッと派手過ぎだよね。もうちょっと地味な色使いにしないと・・・

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空母大好きのプラモ提督が陥る艦載機製造の苦難。空母と艦載機は必ずセットですw

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せっかくの格納庫仕様なので、エレベーターを下降させて艦載機を甲板に休憩させてみた。

先日、海中深く眠る戦艦比叡が発見された時に、艦これマニアが比叡の擬人化された美少女のイラストを貼りつけて多数tweetした事に対して非難のコメントが数多く寄せられた。小生ももちろん、イラスト付きで比叡の発見に黙祷を捧げtweetした一人である。

非難のコメントを発信する人々に問いたい。何が問題なのか???

入口はどうであれ、太平洋戦争の史実すら消えゆく中で、で戦艦比叡を知っている(忘れない)事だけでもすごい事である。その事が国を思い家族の行く末を案じて戦いそして死んでいった先祖様に対しての最大の供養なのだという事を・・・。

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【艦歴】

昭和9年度第二次海軍備補充計画で建造された水上機母艦でしたが、昭和15年には甲標的母艦として改造される予定でした。しかし、さらにミッドウェー海戦の敗北により、主力空母を失った結果、昭和17年佐世保海軍工廠で航空母艦として改造されました。
初陣となるマリアナ沖海戦では、第三航空戦隊に配属され、零式艦上戦闘機に250kg爆弾を装備し爆撃機として用いました。翌年の「捷」一号作戦に参加、エンガノ岬沖海戦で米航空機の攻撃により沈没しました。

基準排水量:11,190トン
全長:192.5m
最大幅:20.8m
出力:57,160馬力
速力;28.9ノット
武装:40口径89式12.7cm連装高角砲4基 96式25mm3連装機銃10基
搭載機:零式艦上攻撃機 21機  97式艦上攻撃 9基

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ダイソーの300円ホビーケース。これってビンボー提督には、ありがたいですよね、ネ!!(笑)




Posted on 2019/03/14 Thu. 22:03 [edit]

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仁熊城 (東筑摩郡筑北村仁熊)  

◆麓からの道も途絶えた隠れ城◆

2012年12月、我ら信濃先方衆は初めてこの山城に挑み天候の急変により挫折。その4年後の2016年11月に片道90分かけてようやく辿り着いた。

その時のオフショット記事はこちら⇒中信濃のラスボス仁熊城に挑む

あれから2年以上経過してしまい、記憶が確かなうちに記事にしておかないと後悔しそうなので、今回記録することにした・・(汗)

仁熊城(筑北村) (103)
城跡とは全く違う場所に平成23年に建てられた標柱。宮坂氏は平成10年に城址を比定しているが何故ここなのか説明して欲しい。

【立地】

筑北村と生坂村の境界に位置する岩殿山(1007.6m)が南北に形成する山脈の北側の中間点に位置する。山麓の集落の細田地区から直接見る事は出来ない。西側の丸山集落(現在は廃村)のある谷を挟んで生坂村側には大城と京ヶ倉が対岸の山脈に聳えて見え、古来より境目を見張る場所であったようだ。
現在、城址に通じるハッキリとした道はなく、麓の細田集落から鉄塔までの保安道を登りその先は尾根伝いに急峻な獣道を辿り、850mの三角点を目指す。その後尾根を南に縦走すると地理院地図の902m地点手前が城跡である。

仁熊城(筑北村) (98)
前回挫折したルートとは違うルートでチャレンジ。鉄塔から上には道形もなく獣道を這い上がる荒行(毎度の事さ・・笑)

仁熊城(筑北村) (102)
黙々と尾根を辿る途中で見える景色は疲れを癒してくれます。ここが中信濃のスクランブル交差点。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では「仁熊古城地 仁熊村ヨリ戌亥ノ方余廿町四十間、本城ノ平長七間、横三間、台所ノ跡ト伝ヘタル所アリ、今モ水少ツツアリ、戌ノ方ニ馬場ノ跡アリ、城ヨリ麓マデ五町四十間、東向ノ城ナリ、青柳伊勢守持チナリ、近江守清長ノ聟仁熊某ト云フ者居レリト云フ、此山松平丹波守領主ノ時ヨリ留山トナス」とある。この記載は「信府統記」の記述をそのまま記載しているという。

この記載から、この城は青柳城を本拠とした青柳氏が隣接する日岐氏との境界を監視する境目の砦として築かれたようである。南北を縦走する尾根伝いの道は古来より間道として利用されていたらしく、岩殿山を越えた南尾根には高松薬師城や高登屋があるので、ネットワークとして機能していいたことも充分考えられる。

仁熊城見取図①

【城跡】

尾根に何ヵ所かピークはあるが、縄張はいずれの頂点も使うことは無い。筑北村の教育委員会が標柱を立てた場所は三角点のある峰のピークの一つには違いないが、人工的な加工はなくただの素山で、素人目にもここが城跡とされた理由が分からない。
そこから二つのピークを越えて南下した尾根と沢筋が宮坂武男氏の比定する城跡で、ここは人工的な削平と盛土(土塁)、そして数段の段郭(居住空間)、井戸跡などがあり、明らかに城跡と判明する。

ここは、当初物見が置かれた単郭であった場所を切羽詰まった豪族が逃げ込み場所として居住空間を増設したものととらえてよいだろう。彼らの敵とは・・・・そう、武田晴信(信玄)であった。

仁熊城(筑北村) (15)
長野県町村誌に「馬場ノ跡」と記載された郭2。×3の北側に突き出した削平地である。

仁熊城(筑北村) (17)
土塁で目隠しされた郭1。物見郭を除けば城域での最高所に位置する。

仁熊城(筑北村) (30)
郭1の南側に削平された郭3が確認出来る。

最初はこの部分だけで物見として利用されていたと思われる。隣接する日岐氏(丸山氏)の領地とは険しい渓谷を隔てているので、攻め込まれる心配もなかったようだ。

仁熊城(筑北村) (37)
鞍部の郭4。ほぼ方形に削平されかなりの広さがある。ここから北西方向の沢に降るように数段の郭が造作されている。

鞍部にはこの城跡最大の広さを誇る郭4があり、そこから北向きの沢筋に向けて6段の削平地が確認出来る。日当たりはともかくとして隠れ家的な分譲地である。掘立建物をテキトーに造作すれば敵が通り過ぎる数週間ぐらいは籠れそうである。(チョッと冬は厳しいが・・・)
天水溜の井戸跡もあり、籠城が長引く事態になれば、最悪は南の尾根伝いに逃げる事も想定していたのかもしれない。

仁熊城(筑北村) (50)
大きさをお伝えする為ていぴす殿にご登場願ったが、段郭は居住性を持つ空間であった。

仁熊城(筑北村) (54)
居住区のある北側の沢は最終的に崖となり落ちるので、こちらからの侵入は心配ない。

仁熊城(筑北村) (57)
段郭も竪堀の調査もそうだが、「下りたら上る」という体力消耗は毎度の事ながらキツイ・・・(笑)

【物見砦からの景色】

縄張図にも描いたが、城域の南側の一段高い場所に周囲を岩場で囲まれた剥き出しの物見台がある。ここからの見晴らしは素晴らしいの一言であるが転落注意。
恐らく往時もこの隠れ小屋の物見として使われたのであろう。

仁熊城(筑北村) (80)
対岸には深い渓谷を挟んで、日岐丸山氏の物見砦である京ヶ倉と日岐城の詰め城の大城が指呼の間に見える。

仁熊城(筑北村) (83)
日岐領の北の砦である金戸山(かなとこやま)まで眺望できる。

仁熊城(筑北村) (85)
青柳氏の本城の青柳城も見渡せる。烽火が連絡手段だったと思われる。


【山岳信仰と山城の関り】

近年、山岳信仰を(恣意的に?)利用した山城の築城について掘り下げた議論を耳にするようになった。個人的にも中信濃の山城の多くはこの問題について避けて通る事は出来ないような気がしている。
ただ、何でもかんでも宗教と結び付けて考えるのは短絡的であるし、一時期流行った「神社・仏閣」=「豪族の居館跡」という裏付けのない安易な想定も危惧している。

しかしながら、信濃の山脈(やまなみ)は、北信濃の三大霊場(戸隠・小菅・飯縄山)に集った多くの修験者が己の鍛錬のために登り、縦走し修行をしている。信者も礼拝の為に山道を辿る事も多かったと伝え聞く。

この仁熊城(にゅうまじょう)も単なる逃げ込み城ではなく、こうした宗教に関わる山道を抑える為に構築されたと見れるかもしれない。その事は、小生の今後の山城を研究する上での重要な課題だと認識している。

仁熊城(筑北村) (3)
GPSによる仁熊城の座標。経験の浅い方は遭難の危険があるのでお勧めしません。


≪仁熊城≫ (にゅうまじょう 隠城・細田砦)

標高:870m 比高:200m(大日堂より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:東筑摩郡筑北村仁熊
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:90分 駐車場:無し(邪魔にならないように耕作地の脇に路駐)
見どころ:土塁、削平地、展望
付近の城跡:竹場城、安坂城、日岐大城、京ヶ倉、青柳城など
注意事項:事前の調査とそれなりの装備はマスト。道が無いので険しい山城探訪の経験値の無い方は御法度。遭難します。
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
Special Thanks:ていぴす殿

hikioojyo (41)
対岸の日岐大城から見た仁熊城。こんなショット撮るヤツの気が知れない・・・(笑)


「S」は駐車可能な場所。(付近にお住まいの方にはひと声かけた方が無難です)

Posted on 2019/02/13 Wed. 22:06 [edit]

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金比羅山砦 (群馬県嬬恋村鎌原)  

◆鎌原城の物見砦◆

この冬は例年になく降雪が少ないらしいが、そうはいっても冷凍庫のような信州の冬である。

山城攻めも諦めて、最近お気に入りの岡崎体育を聞きながら艦船プラモの製作に疲弊している日々・・・(笑)

今回ご案内するのは、小生が微力ながら宣伝活動を継続してきた鎌原城の物見砦と伝わる金比羅山砦。

羽根尾城・鎌原城 056
10年前の鎌原城址。地元民もほとんど知らなかった城跡だったが、お土産店のお婆さんに教えてもらい何とか探し当てた・・(汗)

某大河ドラマ「真田丸」の相乗効果を期待して、岩櫃城とともに鎌原城も整備が急ピッチで行われたがさほどの集客効果にはつながらなかったようだ。

金毘羅山の砦 (6)
すっかり整備された鎌原城の本丸に建てられた立派な城址碑。格上の岩櫃城の城址碑に匹敵する豪華さである・・・(笑)

10年前の探訪時に説明板に記載のあった「金比羅山砦」の記載は気になっていたのだが、そのまま捨て置いた。
今回たまたま信濃先方衆の上野国遠征で、相方がチョッと寄ってみましょうよ・・・という言葉でその気になったしだいである・・(汗)

羽根尾城・鎌原城 057
10年前の説明板にも、現在の説明板にも「金比羅山砦」は鎌原城の物見として記載がある。

【立地】

吾妻かわの右岸、鎌原城(かんばらじょう)の北、谷を隔てた断崖上の小山が金比羅山砦である。崖の直下を国道144号線が走り鎌原城との間の谷は、西窪(さいくぼ)から鎌原への道が通るが、山体は険しく近寄りがたい山である。登り口は東側の浅間白根火山ルートのカーブの所から尾根沿いに踏み址があるので、それを辿る。吾妻川の谷へ張り出した山のために流域の視野は広い。対岸に西窪城が築かれている。

金毘羅山の砦 (9)
道路脇から道形を辿り尾根を登ると立派な堀切が現れる。

金毘羅山砦見取図①
今回は手を抜いた縄張図です・・・ごめんなさい・・・(汗)

【城主・城歴】

鎌原城の所で吾妻川が蛇行するために、同城から西方は良く見通せるが東方は丘陵地により視野が限られてくる。それを補うために谷中へ突出した金比羅山に砦を置き物見の塁としたと伝える。西側は西窪城から、東方は赤羽台を介して鷹川城、羽根尾城へ伝えたという。
言ってみれば鎌原城の目となった砦で、戦国期には狼煙台として機能したもので、真田氏の支配下に入った頃には、沼田から鳥居峠や角間峠の先の真田、更に上田までの連絡網が出来ていたことが考えられ、その一つに数えられ物見である。

金毘羅山の砦 (10)
こんなちっぽけな砦で土塁付きの堀切に出遭えるとは思いもよらなかった・・。

金毘羅山の砦 (12)
堀切を登った最高部が主郭。(16×10)

【城跡】

山頂の主郭は16×10mほどの長方形の平場で、中央部が少し高くなっているのは金比羅祠の跡と思われる。南に上巾9mの堀切がある。北側6m下に30×10mの2の曲輪があり、東辺に土塁が残る。1との間に虎口状地形があるので、ここへ鎌原城からの連絡路が登っていたことが考えられる。あるいは水場への道があったのかもしれない。
北は断崖で、2の先端から東の沢へ下る道跡が残る。

金毘羅山の砦 (13)
主郭(郭1)から見下ろした郭2.同胞のていぴす様が調査中である・・・(笑)

金毘羅山の砦 (14)
郭2は東側に土塁痕が残る。

金毘羅山の砦 (16)
主郭と郭2の境。堀切に見えるが両サイドへの切込は見られない。

金毘羅山の砦 (19)
郭2の先端の段郭。この先は断崖絶壁である。

郭2つと堀切一つの取るに足らない小さな砦である。だが、それがとてもいいのである・・。

得体のしれない妖怪が来襲するかもしれない恐怖に狼狽する在地土豪と地元民。

こんな田舎にも戦国時代という風雲急を告げる時代があったのだと、改めて思うのである・・・・。


≪金比羅山砦≫ (こんぴらやまとりで)

標高:860m 比高:70m
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原
攻城日:2018年10月24日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:10分 駐車場:無し(邪魔にならないように路駐)
見どころ:堀切、土塁など
付近の城跡:鎌原城、西窪城、大笹関所、鷹川城など
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃をめぐる境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



羽根尾城・鎌原城 084
吾妻川の対岸から見た金比羅山砦。

金毘羅山の砦 (5)
おまけショット⇒鎌原城では城主様がお出迎えしてくれました。

Posted on 2019/01/31 Thu. 22:40 [edit]

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航空母艦 祥鳳 (Hasegawa製)  

◆日本が喪失した最初の空母をサクッと作ってみた◆

プラモデルを作った方はある程度経験があると思うが、丁寧にとか、綺麗にとか、現物に近づけようとか思いながら製作していると、ついつい根気を詰めてしまい途中でストップしおて放置プレイになる。それどころか、購入したまま箱も開けずに放置(通称:箱積み)して、模型ショップ顔負けの在庫状態・・・なんて方もチラホラ(笑)

そういったお悩み対策として、「プラモの箱を開けて目に見える場所に置けば、その気になる」という説もあるが、完成するまでの道のりの遠さに自ら閉口し引き籠っている。ならば、多少手抜きしても見映えの良さで時間短縮すれば、生産性が上がるような気もする。

今回ご紹介するのは、「製作の時間短縮」にチャレンジした空母祥鳳(しょうほう)。

空母祥鳳 (1)
ベースキットは瑞鳳と同じ。デカールも選べる。

前回の空母瑞鳳を制作した時よりは技術的にも工具的にも若干進歩しているので、仮組みから下地塗装まではイッキに進む。

空母祥鳳 (3)
今回、下地塗装はオキサイドレッドのサーフェイサーでチャレンジしてみた。

空母祥鳳 (5)
調色して軍艦色をエアーガンで吹き付けるよりは、軍艦色のラッカースプレイを買って作業するのが楽だし安上がりだと最近気づいた(笑)

空母祥鳳 (6)
飛行甲板の塗装も「タン」のラッカースプレイで均一な仕上りに。

祥鳳だけでなく、珊瑚海海戦当時の翔鶴や瑞鶴も飛行甲板の前部と後部の対空防御兵器は極めて貧弱で、前方や後方から敵機に攻撃されたらひとたまりもない。

案の定、祥鳳は米軍の空襲により恰好の標的となり、無数の爆弾と魚雷攻撃を受け瞬く間に轟沈したという。

空母祥鳳 (8)
航空甲板の白線及び艦尾の紅白のデカールは非常にありがたい・・が、丁寧に作業しないと仕上がりを左右するので気を付けよう。

甲板両サイドの可倒式の5本のアンテナ(支柱)は作業中に破損するリスクがあるので、最後に接着するのが賢明であろう。
小生も誤って二本破損してしまった・・・(汗)

ここまで約2時間の作業。塗装の乾燥時間も含めれば上々であろうか・・・。艦載機はほぼ同等の時間がかかるとは覚悟していた。

空母祥鳳 (11)
附属のプアな艦載機もチョッと手を加えればそれなりの見映えになる。

【艦歴】

日本海軍では、いざ戦時となった時に短期間で空母に改修して戦力を補強できるようにするための、高速給油艦「剣埼」(つるぎざき 1番艦)と「高崎」(同型艦)の建造を計画した。「剣埼」は建造途中で潜水母艦として完成させることになり、昭和14年1月、横須賀工廠で竣工しました。同じく潜水母艦として計画されていた「高崎」が航空母艦「瑞鳳」として完成したため、「剣埼」も航空母艦に改修され、昭和16年12月、「祥鳳」と改名、翌年1月26日第一航空艦隊第四航空戦隊に編入された。

昭和十七年5月7日、海戦史上初の空母対空母の決戦となった珊瑚海海戦で米軍機動部隊の空母機による空襲により、4ヶ月あまりの短い艦命を終えるとともに日本空母の喪失第一号となった。

空母祥鳳 (13)
何かとマリアナ海戦まで活躍した瑞鳳と比較されてしまうが、結果として米軍の機動攻撃部隊の攻撃(魚雷7本、爆弾12発)を一手に引き受けて、瑞鶴や翔鶴を始めとするMO機動部隊の損傷を最低限に抑えた武功艦である事には違いない。

空母祥鳳 (14)
附属品とは思えない零戦21型と九七艦爆。

空母祥鳳 (18)
迷彩模様の九七艦爆。

【空母祥鳳 主要項目】 (建造時)

基準排水量:11,200t  全長:185m 幅(水線最大幅):18m 飛行甲板(長さ×幅):180×23m 吃水:6.64m
旗艦出力:52,000hp 武装:40口径12.7cm高角砲(連装×4) 
搭載機:艦上戦闘機(常用21機)、艦上攻撃機(常用6機/補用3機)
速力:28.0ノット
完成:1941年

空母祥鳳 (16)
総製作時間:推定4時間。

さっさと作るか、購入した金額に見合うように真剣に作るかは個人の自由だが、部屋に箱積みするぐらいならサッサと作るのが得策だと思うのだが・・・・(笑)


Posted on 2019/01/16 Wed. 22:00 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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