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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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郷士谷津の砦 (群馬県富岡市)  

◆ほとんどの中世城郭跡は私有地だという認識を肝に命じて欲しい◆

中世の山城や城館巡りをしていると、時々残念な表示板を目にする。

「私有地につき立入禁止」

よほどの観光地でない限り、我々が趣味で巡る場所は私有地であり、そこには必ず土地の所有者が存在する。

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郷士谷津の砦の段郭に建てられた「立入禁止」の表示板。

大抵の場所は、柵や出入り禁止のロープなどがなく地主様の暗黙の了解(ご厚意)があり、隅々まで見る事が出来る。じつはこれ、実にありがたい事なんです。
国や自治体の史跡指定を受けていなくても、地主さんが私有地を解放してくださるのは、その場所が未来に語り継ぐ場所だと承知しての大判振る舞いなんです。

今回訪問した「郷士谷津の砦」(ごうしやつのとりで)は、残念ながら真新しい「立入禁止」の標識があった。
城跡訪問者とは断定できないまでも、地主さんがわざわざ標識を立てるということは、重大なマナー違反があったのであろう。


【立地】

高田川の右岸の丘陵上の郷士谷津集落の後背の小山に立地する。城跡へは郷士谷から城内を通る林道経由で登れる。
※現在城跡へは立入禁止

【城主・城歴】

確かな事は不詳だが、里傳では稲葉筑前守が築いたとされ、稲葉氏は高田氏に関連する人物と伝わる。

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城内を貫通する林道より一段下の段郭。


【城跡】

宮坂武男氏の縄張図によれば、独立した小高い小山の頂部に主郭を設け、周囲を数段の段郭が囲み主郭背後の尾根を長大な堀切が遮断する構図である。
残念ながら立入禁止看板により実際の現地調査は叶わず推定だけである。

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従来のSNSの記事を見ても、特に出入り禁止については書かれていなかったので、最近の出来事らしい。

確かに耕作地を踏み荒らされたり、ゴミが落ちていたりすれば気分が悪くなるのは当たり前の事だ。

という訳で、今回は「郷士谷津の砦」を踏査出来なかった。いつか再び解放していただけるとよいのですが・・・。

城跡訪問時は当たり前のマナーを守る事・・・これ大事です。

出入り禁止になると、その次に訪問予定されている方々が締め出されてしまいます。お互い、肝に命じましょうネ。


≪郷士谷津の砦≫ (ごうしやつのとりで)

標高:280m 比高50m
築城時期:不明
築城・居住者:稲葉氏
場所:富岡市妙義町
攻城日:2018年10月21日
お勧め度:-
城跡までの所要時間:-
見どころ:-
付近の城跡:菅原城、神成城など
注意事項:現在は立入禁止
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)

Posted on 2018/10/28 Sun. 20:37 [edit]

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航空母艦 隼鷹 (TAMIYA製)  

◆武運に恵まれ終戦まで活躍した数少ない改装空母◆

相変わらず艦船プラモ作りに没頭する日々が続いている・・・。

「そろそろ山城へ行こうよ!!」という心の声も聞こえたような聞こえないような・・・聞こえないふりしてるだけか・・・(笑)

今回紹介するのは、商船からの改装空母ながら蒼龍クラスの高い能力を持ち終戦まで活躍した航空母艦「隼鷹」(じゅんよう)。

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特徴的な艦橋一体型の煙突を持つ空母は、隼鷹、大鳳、信濃の三隻だけで、隼鷹はその試作であった。

【艦歴】 ※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文引用。

始めから軍艦として作られた正規空母に比べれば、防御力はほとんどないと言っても良い商船を改造した航空母艦にもかかわらず、昭和17年5月に完成して以来、北はアリューシャン列島から南はソロモンまで、太平洋の各地を転戦し、いくたびもの損傷にもめげず、終戦まで活躍した航空母艦隼鷹は、武運にも恵まれた数少ない軍艦の一隻だった。

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タミヤ製は甲板の白線や紅白の標識はステッカーなどないのでマスキングテープを駆使する羽目になる。結構面倒だ・・(汗)

隼鷹は元の名を橿原丸(かしわらまる)といい、日本郵船が北米航路用に計画した大型高速客船から改造されました。今日のように旅客機が発達していない戦前は、海外旅行と言えば船と決まっており、太平洋でも、大西洋でも、各国が競って豪華客船を就航させていたのです。
当時、海国日本の象徴の一つと言われていた日本最大の海運会社日本郵船は、昭和15年の東京オリンピック開催に合わせ、昭和12年、いわゆるオリンピックボートとして新田丸、八幡丸、春日丸などの豪華客船の建造を計画したのです。
この中でも、特にサンフランシスコ航路に予定されていた橿原丸と出雲丸の2隻は、総トン数27,700トン、速力24ノットで、大西洋航路で活躍していたイギリス、フランスなどの海の女王たちにもひけをとらない豪華客船であり、完成のあかつきには太平洋の女王として君臨するものと期待を集めていたのでした。

橿丸①
※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文掲載の図を転載しています。

ところで、かねてから日本海軍は大型高速商船を戦時には特設航空母艦に改造して使用するする事を考え、浅間丸、龍田丸、秩父丸(後の鎌倉丸)などの建造にあたって政府を通じて多額の補助金を出していました。しかし、これらの客船では空母に改造した場合、大きさでも速力でも十分とは言えない為、昭和8年頃より、正規空母に近い能力を持つ特設空母ができるような超大型艦の建造を希望していたのです。
このため、橿原丸、出雲丸(のちの空母飛鷹)の建造について費用の6割を政府が援助し、そのかわりに戦時には空母に改装することで昭和13年の議会で予算が成立、早速、設計が開始されました。

この設計にあたって海軍が出した主な要求は次のようなものでした。
全長210m以上、幅25m以上、速力は公試運転、半載状態で24ノット、馬力は全力60,000馬力、正常48,000馬力、必要に応じて3ヶ月以内で空母に改装出来る事。などで、全ての面で空母に改装される事を前提として設計が進められたのです。

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船窓をドリルで加工しウェザリングで錆を表現する。

日本郵船は自社の大型客船に神社の名を付けるのを例としていました。出雲丸は出雲大社から、橿原丸は神武天皇とその皇后をまつり、神話にある建国創業の地と伝えられている橿原宮(現在の奈良県橿原市)の旧跡に設けられた樫原神宮から名前をとったものです。

こうして樫原丸の建造は昭和14年3月から三菱長崎造船所で始められました。しかし、その直後から国際情勢は悪化しはじめ、昭和15年に入ると緊張の度は一段と高まってきたため、昭和15年10月、建造中の橿原丸などを特設空母に改装することが決定されたのです。
そして翌16年1月21日、正式に海軍で買収し、6月26日、第102号艦の名で進水しました。昭和17年7月5日、太平洋の女王となるはずであった橿原丸は、その名も改め、いかめしい日本海軍の航空母艦隼鷹として完成したのです。

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後部の格納庫は結構作り込んでいるのだが、甲板を被せてしまうと見えない・・(汗)

航空母艦としての隼鷹は、公式排水量27,500トン、日本のそれまでに建造された空母の中では翔鶴級につぐ巨艦で、中型の蒼龍を上回る大型艦となったのでした。速力は正規空母と比べれば25.5ノットと低いものでしたが、他の改装空母よりははるかに高く、格納庫は上下二段式で搭載機数も常用48機、補用5機の計53機で蒼龍級に次ぎ、改装空母の中では最も多数の搭載機数を誇っていました。
飛行甲板の大きさも長さが蒼龍級よりも少し短い程度で幅は逆に飛鷹の方が広いものでした。武装も田の改造空母より強力で、蒼龍級と同様に12.7cm高角砲12門、25mm3連装機銃8機を搭載していました。この対空兵装は後に更に強化され、25mm3連装機銃が15基、2連装2基、単装27機に増やされ、12cm28連装ロケット砲6基も増設されたのです。
総合的に見た場合、速力がやや低い点、そして商船からの改造空母としての宿命的な防御力の弱さを除けば、ほぼ中型の蒼龍級に匹敵する能力を隼鷹は持ち、実際、改装空母でありながら正規空母に近い近い戦闘力を発揮し、日本海軍機動部隊の中堅として活躍したのです。

隼鷹①
日本の航空母艦における煙突と一体型の艦橋は隼鷹が最初であった。 ※TAMIYAウォーターラインシリーズNO.212航空母艦隼鷹の説明文掲載の写真を転載しています。

なお、隼鷹の艦橋は煙突と一体になっており、煙突が外側へ28度の傾斜を持っているのが特色となっている。この煙突は大鳳に利用する予定で実験中だった案をそのまま利用した物で、これを採用したのは日本の空母では隼鷹が最初でした。

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隼鷹は初陣は昭和17年6月のM1作戦でミッドウェー攻撃に呼応して3日と5日にダッチハーバーを攻撃、その後、第2航空戦隊に編入されて10月上旬にソロモン方面へ進出、ガタルカナル島攻撃、南太平洋海戦(10月24日)、第三次ソロモン海戦、(11月9日)、ガタルカナル撤収作戦などに参加。ラバウルへ派遣されて「い号作戦」に参加。そして6月、再度トラック島へ進出、飛行隊は11月上旬ブインへ派遣され、搭載機の無くなった隼鷹は8月から10月の間、シンガポールやトラック島への輸送にあたっていましたが、11月5日、沖の島付近で敵潜水艦の魚雷により損傷、利根に曳航され呉に帰還しました。

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翌19年2月に修理を終えた隼鷹は、6月19日、20日のマリアナ沖海戦に参加。第二航空戦隊旗艦として活躍した隼鷹は煙突付近に2発の命中弾を受けて修理のために日本へ帰還、修復後、ブルネイ方面への輸送任務にあたっていましたが、12月9日、潜水艦の魚雷を受け船体を損傷し、佐世保へ帰ったのです。
そして翌20年3月に修理を終えたのですが、搭載する飛行機も無く再び出撃することもないまま終戦を迎えたのです。

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【航空母艦隼鷹の主要目】

排水量:27,500トン
水線長:215.30m
最大幅:26.70m
最大速力:25.5ノット
搭載機数:常用48機、補用5機
飛行甲板:長さ210.3m 幅27.3m
完成年月日:昭和17年5月3日
工廠:三菱長崎造船所

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どんだけ空母が好きなの?とよく聞かれますが、その生い立ちと波乱万丈の生涯故の判官びいきかと・・・(笑)


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せっかくなので、最近完成した蒼龍と比較してみた。その威容は正規空母を凌駕する逞しさである。

Posted on 2018/10/16 Tue. 23:14 [edit]

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権田城 (高崎市倉渕町権田)  

◆権田淡路守が築き大戸但馬守が居城したと伝わる城◆

10月初旬の三連休だったが、山城への訪問意欲も湧かずどうしたものかと・・・・(汗)

その気の無い女子を口説いても仕方がないので、その気になるまで待つ・・・そんな心境ですかネ(笑)

今回ご案内するのは、高崎市倉渕町シリーズ第三弾の「権田城」(ごんだじょう)。

権田城 (39)
城址周辺の生活道路は狭いので、麓の東善寺の駐車場をお借りして車を捨てて徒歩で巡りましょう。

【立地】

高崎から東吾妻へ向かう草津街道(国道406号線)の倉渕町権田、倉淵小学校の裏手の丘陵上の高台に位置する。ここからは権田地域はもとより烏川流域の交通路や大明神の砦、天狗山の砦と連絡が出来る。この場所は、吾妻郡の大戸口あるいは大笹口へ通じる交通の要衝で、軍事的にも重要な拠点であった。麓の元村には刀工権田政重の屋敷跡が残る。

権田城見取図①
耕地化による改変もあるものの、往時の凡その縄張りはそのまま残っているようだ。

権田城 (3)
堀切㋐は耕運機置き場のようだが、しかっり残っている。

適当に登って城跡の標柱を見つけてひと安心・・(笑)
農作業中のおじさんが地主さんだったので、許可を頂き権田城の見学。信州上田から来たといったら驚いてましたが。

権田城 (5)
郭1と接続する長大な竪堀㋒の間に農道が通るが、本来は何もなかったはずだ。

【城主・城歴】

口碑によれば、この城は権田淡路守の居城であると言われている。その後、箕輪の長野氏に属した大戸城の大戸真楽斎の支配下に入り、権田城はその舎弟大戸但馬守が居城とした。武田軍の上州への侵攻が始まると大戸氏はいち早く武田氏に降り、真田氏の配下として大戸の要衝を守った。
武田氏が上野国の西毛地区を占領すると、大戸真楽斎は石倉の砦の守備についたり、勝頼に従って広木大仏の戦いに大戸八郎三郎を派遣している。

権田城 (6)
北側に土塁の残る主郭は40×38の方形。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死すると、上野国を支配していた滝川一益は上方に去り、北条が上州の支配を狙い岩櫃城の攻略の為に大戸へ侵入してきた。
勝頼亡き後、岩櫃城の城代であった真田昌幸の配下となった大戸真楽斎は、舎弟の但馬守と共に三ノ倉で北条勢を迎え撃つが、多勢に無勢でこれを支えきれずに大戸城まで後退。大戸城で三日間の籠城戦に及ぶが衆寡敵せず大戸真楽斎は討死し、大戸城は落城し北条勢により大改修され岩櫃城攻略の最前線の拠点となった。

権田城 (9)
郭1と郭2の間の堀切㋑は上巾12m。耕地化により埋められたようだが、辛うじてその痕跡は残っている。

大戸兄弟による三ノ倉迎撃戦で、権田城は大明神山の砦や天狗山の砦と共に防衛拠点として機能していたと思われるが、圧倒的な兵力差に為すすべもなく自落したと考えられる。

権田城 (15)
郭2から対岸の天狗山の砦と大明神山の砦を臨む。

「加沢記」によれば、北条勢に占拠された大戸城は、真田信之の奇襲により奪還されたとするが、信憑性は定かではない。
その後も東吾妻郡への北条勢の侵攻は続くが、小田原の役が勃発すると撤兵。
その後、徳川氏の北条領への転封により、大戸、権田、三ノ倉は松平近正に与えられ、三ノ倉城を居城とした。権田城はその後廃城になったと思われる。

権田城 (17)
鷹さ6mの切岸を介して郭3.

権田城 (19)
なーんだ、農地かーと思うと見落としてしまう土塁。

権田城 (20)
高さ7mの切岸を介して郭4.

【城跡】

城は上ノ久保から東は鉄火、北は高座、南は花輪に至る南北に、300m。東西最大幅150mの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。
東西50m南北40mの本丸と、その南側の空堀と接して二の丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦め手は北にあり、南西には珍しい笹曲輪がある。
※標柱の説明板より引用

権田城 (24)
3と3‘は農道で分断されているが、元々は一つの郭であろう。

権田城 (12)
城域の東側には長大な箱掘。途中埋められているが、全長は200mに及ぶ。

権田城 (35)
巨大な箱掘は通路としての機能もあるようだ。北条氏による改修も考えられると思うが、どうだろうか?

権田城 (30)
郭5から郭3方面。改変が著しいが、ここらへんが城の最南端であろう。


≪権田城≫ (ごんだじょう)

標高:556m 比高:85m (国道406号線より)
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏、大戸氏
場所:高崎市倉渕町権田
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:東善寺借用
見どころ:土塁、堀切、切岸など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、大明神山の砦、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:農耕地なので、許可なく農地に入らない事
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



権田城 (1)
東善寺の駐車場より見た権田城。

Posted on 2018/10/08 Mon. 21:09 [edit]

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特設航空母艦 大鷹 (迷彩色仕様 AOSHIMA製)  

◆日本郵船の客船「春日丸」を改造して出来た特設空母◆

旧日本海軍の航空母艦は、何故か途中から艦種が変更されたり、民間の商船や客船が改造されたりした変わり種が多い。

それが造船技術の最先端を走る日本人の手にかかると、独特の美しいシルエットとなり他国には真似の出来ない仕上がりとなる。

船体にだだっ広い艦載機用の甲板を載せただけの空母が、軍艦プラモの中でも人気が高いのはその生い立ちと個性的な容姿、そしてその数奇な生涯が我々を魅了し続けるせいなのであろうか。

今回ご案内するのは、日本郵船の客船三姉妹として最後に竣工しその後改造空母第一号となった「大鷹」(たいよう)

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大鷹の迷彩模様は色々諸説あるが、難易度の高い迷彩にチャレンジしてみた。


≪大鷹≫ ※アオシマ文化教材社の解説文引用し一部変更

特設空母大鷹は、初め、日本郵船のN、Y、Kを頭文字に使用した貨客船の三番艦春日丸として、竣工後は南米西海岸に配船される予定で、昭和15年9月15日三菱長崎造船所で進水した。しかし、進水直後に予定が変更され、特設空母として改造することになって、11月より仮称艦名1003番艦として工事に着工した。
船体工事の大部分と艤装工事の約三割を長崎で行った上、翌16年5月1日佐世保軍事工廠に回航され、9月5日に完成した。佐世保に回航された日をもって海軍に徴用され特設航空母艦の第1艦となった。
※日本郵船の一番艦は新田丸、二番館は八幡丸(やわたまる)

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甲板の迷彩模様は曲線用のマスキングを使用してエアブラシで色分けするがかなり苦戦。細かい部分は筆で修正。

春日丸の改造は徹底的に行われ、外見からも商船としての痕跡が認められない程であったから、たとえ戦後まで残ったとしても、元の商船には戻れなかったであろうと思われる。
大鷹は航空母艦として戦争直前に就役したので、その改造工事はその後続いて実施された二番艦の八幡丸、一番艦の新田丸などの改造における貴重な経験となった事はいうまでもない。

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艤装してマストを立て、甲板に白線デカールを貼り付ける。

開戦時は正式空母竜驤と共に第四航空戦隊を編成し、第一航空戦隊に入ったが、その後昭和17年8月に正規の航空母艦として軍艦籍に編入され、この時から名を正式に大鷹と改めた。
予想される日米艦隊決戦に際して、特設航空母艦は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた。

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側面にウェザリング(錆・汚れ)を施す。経年劣化の表現として最近の流行りだが、これを嫌うモデラーもいらっしゃいます。

しかしながら、大いなる犠牲と努力を払って改造した航空母艦も、結果的に見れば各艦のいずれもが船団護衛と飛行機の輸送実績を示した程度で、米国の商船改造空母の活躍と比べると著しく見劣りがする。
また、大戦の中盤以降に登場した比較的大型の天山や彗星、彩雲などを小型で速度の遅いカタパルトの無い特設空母が実践で運用するのはほぼ不可能であった。
※後半に天山用のブースターロケットの開発運用に成功し、同時運用12機が可能だったという。

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艦載機も手を抜かずに・・・(笑) 上から零線52型、彗星12型、天山12型

改造空母の一番艦として進水した大鷹は最後まで海戦と称するような華々しい舞台には一度も登場することなく、航空機、人員の輸送、船団の護衛などの地味な任務に就いていたが、昭和19年8月18日深夜、阿波丸、帝亜丸、能登丸、能代丸など14隻を護衛してルソン島の北西岸を南下中、米潜水艦ローセル号の雷撃を受けて沈没した。

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航空母艦用のカタパルトが開発に成功していれば、特設空母だって活躍出来たはずなのに・・・・残念。

ちなみに日本郵船の一番艦新田丸は特設空母「冲鷹」(ちゅうよう)、二番艦八幡丸は特設空母「雲鷹」(うんよう)。

この三姉妹が戦後まで生き残ることは無く、貨客船として再び脚光を浴びる事もなかったのである。

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仮のディスプレイケースで軽巡洋艦北上と並べてみる。全長は北上が162m、大鷹は180mなのでそれほど変わらない。

Posted on 2018/09/29 Sat. 16:36 [edit]

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天狗山の砦 (群馬県高崎市倉渕町)  

◆北条の侵入に備えて真田昌幸が築いたと伝わる砦◆

前回の記事の巻頭カラーの迷彩塗装の軽空母「大鷹」が好評だった・・・全く本文と関係ないのだが・・・・(笑)

今回ご案内するのは高崎市倉渕町シリーズ第二弾の「天狗山砦」である。

昌幸パパの名前さえ出せば、閲覧数はうなぎのぼりになるのか・・・??

天狗山の砦 (1)
登り口は麓の「角落山大権現」(つのおちやまだいごんげん)の赤い鳥居。ここからひたすら参道を登る。

【立地】

烏川の右岸、大明神山の砦のすぐ南500mの位置に天狗山がある。大明神山と同様、烏川を挟んで権田城と対峙して烏川の谷筋を見張る形である。登り口は東麓の内手橋のすぐ隣にある「角落山大権現」の赤い鳥居のところから山頂への参道がある。農道と参道の分岐点が不明確で幸い畑に住民の方がいたので教えて頂いた。
参道は直線で尾根筋を登るので結構しんどい。

天狗山の砦 (26)
参道は砦の廃城後に大権現を勧進したときに造られたもので、往時の大手とは違うだろう。

天狗山の砦 (24)
急坂を登ると一度尾根の削平地に出るが、ここは城域には含まれないようだ。


【城主・城歴】

史料・伝承は無いが、この地域の諸城砦は権田城を除いて他のものは武田氏の下で吾妻地方の経略に関わった真田昌幸が天正記に入って北条氏の侵入に備えて築いたものと考えられている。
北条は大戸の手丸子城を手中にするが、天正十八年の侵入も小田原の役の開戦で中断し、それ以後は、下室田松山城に居城した上田上野介の支配下に入り、天正十八年北条氏滅亡後は徳川領となり、松平近政が大戸・権田・三ノ倉五千石を知行し三ノ倉に居城するが、その他の城砦は必要が無くなり廃城となる。

天狗山の砦見取図①

天狗山の砦 (21)
主郭手前にある四段の段郭のうちの一つ。

天狗山の砦 (18)
主郭には大権現社が建ち、周囲は砦の遺構の土塁が周回している。

天狗山の砦 (17)
勧進による破壊は最小限に抑えられたようだが、風化と共に土塁もはっきりしなくなっている。

【城跡】

山頂の主郭は三角形で周囲を土塁が取り巻いている。南東尾根の一段下には台形の副郭が置かれ、その先は堀切で穿ち平場の尾根を遮断している。この方角が搦め手であったようだ。現在参道の登る東尾根には四段の段郭が認められる。
おそらくこの砦は烽火台と物見の役割を担い、権田城、大明神山の砦と共に善光寺道と草津街道を監視したものと考えられる。

天狗山の砦 (13)
主郭を周回する土塁。

天狗山の砦 (10)
北西尾根の副郭と堀切。

天狗山の砦 (7)
堀切を挟んだ先には平場があるが遺構は特に認める事が出来なかった。

天狗山の砦 (4)
沢を挟んだ対岸500mには大明神山砦が連携して備えている。


≪天狗山の砦≫ (てんぐやまのとりで)

標高:590m
築城時期:不明
築城・居住者:真田氏?
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:無し(鳥居近くに路駐)
見どころ:土塁、堀切など
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特になし
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



天狗山の砦 (2)
登り口からみた砦跡。

Posted on 2018/09/25 Tue. 21:44 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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