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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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2019年の新春によせて その2  

◆北信濃を代表する隠れた名城 その2◆

正月三が日の最終日。地区の新年総会があり滅多に昼間から酒など飲まないのだが、久々に楽しませていただいた。
さすがに酔いが回るのが早い・・・(笑)

せっかくなので新春初夢企画の第二弾を掲載しておきます。
前回ご案内した霞城とともにお手頃に訪問観察できる北信濃の石積み仕様の山城なので、お時間があれば是非お出かけください。

【鷲尾城】 (千曲市倉科)

●主郭を全周する石積み

鞍骨城の南西を守る砦で主郭は平石の石積みが全周している。古墳(倉科将軍塚古墳)を縄張に取り込んだ山城で、海津城(松代城)周辺の砦群と共に戦国末期まで改修されながら使われたと思われる。

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ゆっくり休み休みで30分、せっかちに登れば15分・・(笑)

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主郭の虎口は二段の石積みが築かれて厳重な防御体制を敷いている。

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主郭の西側の高石積み。「折れ」を意識して造作されているが、霞城ほどの技術水準ではない。それでも圧倒される。

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石積みは鉄炮を想定し関西から伝わった防御システムであろう。裏込めは無くとも切岸を利用すれば重厚な防御である。

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城の正面(大手)は相当に厳しい防御であることは、石積みの高さで分かる。

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主郭背後の石積み。もはや芸術品のようである・・・。

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鞍骨城と似た石積みの形式なので、ほぼ同時期で同じ意図をもって古い中世城郭が近代化への改修がなされたのであろう。

●主郭背後の堀切

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信州の山城では定番の二重大堀切(主郭背後。主郭は右手になる)

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同じ二重堀切を南側から撮影。

二重堀切の先には長方形の副郭があり、その先は三重の堀切で遮断する厳重さである。

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堀切三本を撮影するのはチョッと大変。

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堀切①を堀底から撮影するとこんな感じ。

堀切と土塁、そして段郭で構成されたオーソドックスな中世城郭が、鉄砲の普及とともに石積みによる防御を取り入れて急激な変化を遂げていく。
関東の「土の城」、関西の「石垣の城」・・・東日本と西日本の接点であった信濃は独自の城文化を形成していく・・・・。

これから信州の「お城ライフ」を始めようという方々に、いきなり「鞍骨城」とか、「尼巌城」はハードルが高いので「霞城」と今回の「鷲尾城」は小生イチオシのお勧め物件です。是非その目で体験していただきたい北信濃を代表する城として推薦します!

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麓から見た鷲尾城の全景。

≪鷲尾城≫ (わしおじょう) 

標高:516m 比高:155m (大日堂下より) 
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:千曲市倉科石杭
最新の攻城日:2013年12月31日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:20分 
駐車場:千曲市健康プラザの近くの公園駐車場を借用
見どころ:石積み、大堀切、古墳など
注意事項:石積みは脆くなっているので乗らない・足を掛けない・崩さない。
付近の城跡:天城城・鞍骨城・唐崎山城、妻女山、竹山城など


「S」は駐車場のある公園。登り口はそこから徒歩5分。

Posted on 2019/01/03 Thu. 20:52 [edit]

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2019年の初春によせて  

◆北信濃を代表する隠れた名城◆

新年あけましておめでとうございます。

更新頻度が落ちた上に、城ではなくヘタクソな素人のプラモ制作記事も多くなり読者離れに拍車がかかっております・・(汗)

まあ、いつまで更新が続くか分かりませんが、末永くご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いしますw

新春初夢企画として、昨年の12月に再訪した北信濃の小生お勧めの名城のショットをお楽しみください!

【霞城】 (長野市松代町大室)

●大手門(石門)

平石の石積みでありながら、近世城郭の縄張りを持つ珍しい山城。※詳細は⇒霞城2を参照願います

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霞城(長野市松代町大室)の石門登山口。最近トレッキングコースとして整備されたようだ。今回このコースからの登城は初である。

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地元では「石門」と呼ばれる霞城の大手門の石積。

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折れを伴う見事な石積み。見る者を圧倒する迫力である。

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桝形から強制的に左へ迂回させ城域の東尾根に続いている。

実はこの石門、宮坂武男氏の霞城の縄張図には描かれていない。見落としであろうか。「大手は西と言われ大木戸の地名が残っている」と説明文にありながら、どうした事であろうか。

●主要部

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北尾根から主要部への入口を守る重厚な石積み

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折れを伴う高さ2m以上の平石積み。裏込めしていないが石垣と呼べるレベルにある。

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主郭の東側に接続する郭2の南側の虎口。

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主郭を取り巻く石積み。

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落差を伴う東斜面に対しても丁寧に石積みが積まれていて見事な景観である。

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南側より見た霞城の全景

≪霞城≫ (かすみじょう)

標高600m 比高60m
築城年代:不明
築城・居住者:大室氏?
場所:長野市松代町大室
駐車場:無し(上信越道の高架橋付近に邪魔にならないように自己責任で路駐)
最新攻城日:2018年12月24日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城址までの所要時間:10分
見どころ:折れを多用した縄張と荘厳な石積み、石門と呼ばれる大手門、稜線からの景色


「S」は登山口。北側の永福寺からのルートが良く知られているが、今回のコースのがお勧めである。

今年も皆さんのお城ライフが充実することを心より願っておりますw

Posted on 2019/01/02 Wed. 15:34 [edit]

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平井城 (群馬県藤岡市東平井)  

◆関東管領山内上杉氏の居城◆

最近は碓氷バイパス経由で群馬の山城を適当に巡って、内山トンネル経由で佐久を通って帰還するルートを多用している。

今回掲載した平井城は、関東管領の居城として有名なので小生が記事にするまでもないのだが、たまたま通ったら看板があってそこが平井城だったというだけの事です・・・(笑)

平井城 (33)
これだけ旗指物が林立していれば、チョッと寄ってみようかって気になりますよネ。

平井城 (9)
史跡公園として整備されていて、解説版も読み易いので有難い。

【城主・城歴】

平井城は永享十年(1438)に永享の乱に際し、時の関東管領上杉憲実が、総社の長尾忠房に命じて築城したとされる説と、応永元年(1467)に上杉顕定が築城したとされる説がある。いずれにしても、天文二十一年(1552)の後北条氏の平井城攻めで落城するまでの約百年間、関東管領山内上杉氏の居城としての役割を果たしていたという。

【城の縄張り】

城の構造は、「庚申堀」と称される堀をめぐらし西平井の村落を取り込んだ「総構え(そうがまえ)」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の切り立った崖の上に、土塁及び堀により区画された通称「本丸」(主郭)があり、その西側に通称「二の丸」「笹曲輪」(副郭)などが配されている。
なお、平井城の背後には有事の際の要害城である金山城を「詰めの城」として配置し、周辺は帰属する国人や配下の部将が築いた、御嶽城、東日野金井城、一郷山城、東平井の砦、飛石(とんびいし)の砦など多くの城や砦により守られていた。

平井城 (7)
現地解説図より引用転載。

平井城 (2)主郭から見た残存する土塁。後方には詰め城の金山城が見える。

平井城 (3)
駐車場の生垣に土塁跡の標柱があってもピンとこないのは何故?

平井城 (8)
んーん、この地図を見ても往時の遺構が蘇らない不自然さは何故なんでしょうか・・・(汗)

平井城の第一期の整備事業は平成9年にほぼ完成し、発掘調査で判明した土塁や堀などが一部復元されたようです。それが現在の史跡公園の姿ですが、第二期計画は方形居館(正確には変則五角形の居館)と周囲の堀を復元する予定となっているようです。
現実としては、城跡の中心部を所有している地権者がこの土地で生計を立てているので、残念ながら実現はまだまだ先の話になるでしょうね。それでも、第一期整備事業に際して地権者がかなり協力したものと思われるので、とてもありがたい事です。

平井城 見取図①
白い部分は個人の所有地なので立入禁止。無理に復元し公園化する必要があったのかは疑問が残る。

グンマー帝国の城を語るには、どうも関東管領さんを避けては通れないらしい・・・(汗) 坂東武者もしかりかと・・・(笑)

平井城 (1)
まあ、確かに関東管領の居城としては、せめて本郭とその周辺が復元できれば実感出来そうですが・・・。

平井城 (16)
本丸南側には色々と並ぶ。関東管領の名と権力に執着した謙信公。この城址に執着したというのは本当だろうか・・・。

平井城 (21)
復原された堀と橋は少し離れた場所にある。

平井城 (32)
往時の遺構だと思い込んでいたが、復元された土塁だったんですねえ。

平井城 (30)
土塁の上部。今回の最初の目的地だった高山城が遠く見える。

グンマーは広いのだが、関東管領さんの居城は何故ここだったのか・・・謎は尽き無い・・・・(笑)


≪平井城≫ (ひらいじょう)

標高:144m 比高:-
築城時期:永享十年(1438)または応永元年(1552)
築城・居住者:関東管領山内上杉氏
場所:群馬県藤岡市東平井
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り
見どころ:土塁、堀切
付近の城跡:藤岡城、平井金山城、高山城など
注意事項:隣接する養豚場には入らない事。
参考文献:現地説明板

平井城 (28)
土塁の上から見た本郭内部。

Posted on 2018/12/23 Sun. 22:22 [edit]

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龍岡城の東通用門 (移築 佐久市野沢)  

◆龍岡城の忘れ形見◆

佐久市臼田の龍岡城といえば、函館の五稜郭と並び日本に二つしかない西洋式の橋頭保を持つ城郭である。

小生も何度か訪れて調査しているので、てっきりブログに掲載しているかと思いきや、全くその欠片すら無かった・・・(笑)

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ここは龍岡城の北側の枡形。本体とは離れているので案外見落としがちな場所。

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皆さまがよくアップされる龍岡城の表門の標柱はこちらですw

龍岡城2016 (18)
龍岡城が函館の五稜郭とは違って実戦を想定した戦闘用の城ではない事は、この狭い堀幅を見れば一目瞭然であろう。

日本国内にある洋式の城郭は北海道の函館五稜郭と佐久の龍岡城五稜郭の二つだが、陣屋や台場を含めると合計六カ所あるそうです。

●弁天岬台場(北海道函館市)
●戸切地陣屋(へきりちじんや 北海道上磯町)
●函館四稜郭(北海道函館市)
●品川台場(東京都品川区) ※最近「続日本100名城に追加あれたとか・・

いずれ巡ってみたいものです。

今回ご案内するのは、未アップの龍岡城ではなくて、龍岡城の移設された東通用門を偶然に見つけた、というコアな記事・・(汗)

五稜郭俯瞰図
※龍岡城の資料展示室(お休み処 であいの館)の俯瞰図に加筆させていただきました。

龍岡城の縄張図は領民に完成間近の時に公開されたと伝わる。通常、軍事機密の縄張図を公表するなんてありえないので、龍岡城はお殿様の研究発表の試作だったんだろうね・・・。


【龍岡城の東通用門の移築先】

信州の佐久地方は、全国でも有数の長寿の里として知られている。そこで、当時の佐久市長の三浦氏がご当地名物として売り出したのが「ぴんころ地蔵」(正式名称は長寿地蔵尊)である。

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ぴんころ地蔵様。

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ぴんころ地蔵様の由来とお参り作法についての説明板。

先日、家人と佐久市のイオンモール佐久店に出掛けたついでに「ぴんころ地蔵」が見たいというので、お連れした次第。実は小生も場所は知っていたものの、実物をみたのは今回が初めてでした・・・(汗)

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野沢本町の商店街を過ぎると立派な門前町の佇まい。

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元々は成田山薬師寺で、ぴんころ地蔵様は最近の設置らしいが参道では定期的に市が開かれているようです。

まあね、老後は誰しも寝たきりや認知症などの介護状態で家人に迷惑を掛けずにコロッと死ねれば本望。
このお地蔵さんにすがりたい気持ちは痛いほどよくわかりますw

そんな事を思いながらお地蔵様にお祈りを捧げて、ふと脇の看板を見ると・・・

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「龍岡城の東通用門はここに移築されていたのか・・・・」

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薬師寺の山門として現在に至る龍岡城の東通用門。

徳川一族といえども、城持ち大名にはなれぬ家柄の大給松平氏。その定めに挑み、陣屋と称して西洋式の橋頭保を信濃の山奥に築城した松平乗謨(まつだいらのりかた)。
※彼の偉業はネットでご確認ください・・・(笑)

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龍岡城の東通用門のあった場所。


≪龍岡城東通用門≫ (たつおかじょう ひがしつうようもん)

標高:676m 比高:-
築城時期:慶応三年(1867)
築城・居住者:松平乗謨
場所:佐久市野沢 成田山薬師寺
攻城日:2018年12月9日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:ぴんころ地蔵様駐車場
見どころ:山門
付近の城跡:伴野城(薬師寺より歩いて数分)、前山城、龍岡城、田口城など
注意事項:特に無し

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対岸の田口城の物見郭から見下ろした龍岡城の全景。計算された五角形の西洋式橋頭保であることがよく分かる。


Posted on 2018/12/14 Fri. 21:51 [edit]

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藤岡城 (芦田城 藤岡市藤岡)  

◆初代藤岡藩主にして最後の藤岡藩主「松平康真」の居城◆

「この人、いったい誰?」 「徳川の譜代大名?」 

本人もかなり数奇な人生を歩んだのだが、康真の父は「依田信蕃(よだのぶしげ)」という信濃国佐久の国衆で、天正壬午の乱(1582)で徳川家康の配下の部将として信濃侵略を目論む北条方と戦い、佐久平定に大きな功績を残した人物とされている。

藤岡城 (2)
藤岡第一小学校の北側に残る藤岡城(芦田城)の巨大な土塁跡。


【松平康真】 (まつだいらやすざね) ※別名:加藤康寛(やすひろ) 加藤宗月(草月) 天正二年~承応二年

松平康真は兄康国と共に武田・織田等の人質となり流浪し、父の依田信蕃が徳川家康の配下となるとその身は徳川家に預けられる事になった。天正十四年四月に家康自ら康真の髪を整え、諱字・松平の称号・腰物・髭道具等を下賜して元服させたと「諸士先祖之記」「寛政重修諸家請」の記述にある。

天正十八年、康真は兄康国と共に小田原攻めに参戦している。この戦いの陣中で兄康国が殺害され、康真自身も負傷しつつも兄の仇を討ったことを家康に報告したところ、家康の命によりその跡目(小諸城主六万石)を継承することになった。
その後も康真は徳川家家臣として、家康の関東移封に伴い、拠点を信濃国小諸城から上野国藤岡城に移し、三万石を拝領、天下普請命じられる等、城持ち大名としての地位を着実に築きつつあった。

藤岡城 (1)
学校に隣接する史跡としては珍しく緑地公園として一般開放されているが、史跡の説明板などは何もない。

しかし、慶長五年城に(1600)正月、康真は大坂で小栗某という家康配下の者を口論の末に殺害するという刃傷事件を起こしてしまう。高野山に出奔し蟄居したとされるが、改易されて徳川配下の大名としての地位は失われた。

しかし同年、康真は姓名を加藤康寛と改め、徳川家康次男の結城秀康に仕える事になる。「諸士先祖之記」によれば、この時秀康は家康の命で上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという。
慶長十二年、結城秀康の逝去により剃髪して名を宗月と改め、承応二年、その数奇な人生の幕を閉じる。享年八十才であった。

福井松平藩内での家格は、筆頭家老本多家(本多富正を祖とする家)に次ぐ十六家を示す上位の「高知席」(家老五人と家老次席の城代一人を選出する家柄)であった。

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土塁の上の遊歩道。前橋城もこんな頑丈な「叩き土塁」だったよなあー。

【康真が編纂した依田家の由緒書き「依田記」が検証不十分なまま信憑性の高い史料として存在する危うさ】

実は小生も「依田記」を元に記載されたと思われる「依田信蕃ーもうひとつの真田」(市河武治著 郷土出版社 1988年)を読み、いたく感動して佐久地方の春日城、芦田城、岩尾城、田口城、前山城はもとより、彼の勝頼時代の田中城、二俣城まで遠征して彼の足取りを辿った次第である。

「長野県史」や「佐久史誌」ですら、基本的に依田信蕃の父は下野守信守とし、武田氏滅亡後、「佐久の統一をすすめたのは依田信蕃である」とい歴史像を描きだしてきた。しかし信蕃の父信守が真田氏に次ぐ信濃国衆であった」ことや「天正二年頃から佐久全域に及ぶ領主層の盟主的立場にあった」事を裏付けする史料はなにも存在していないという7年前の史料批判を先日読み、茫然自失の日々を過ごしています。
※依田信蕃の隠れファンは意外と多いと思われます。小生もその過去記事でかなり熱い記事を書いてしまいどうしたものかと・・。

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井元たい女史の顕彰記念碑と立像。彼女の芦田城の寄付行為には賛否両論あるが、遺構が残ったのは不幸中の幸いである。


【信濃佐久平定のヒーロー依田信蕃は虚像なのか?】

天正壬午の乱が勃発した時に、佐久地方で徳川方に味方した在地土豪は平尾城の平尾氏、耳取城の大井氏、森山城の森山氏、そして春日城(芦田城)の依田氏などのごく少数で、有力な在地土豪の前山城の伴野氏、相木城の相木氏(阿江木氏)、岩尾城の大井氏、与良城の与良氏、平原城の平原氏など多くの地侍は北条方として徳川軍に抵抗していたという。

従って、佐久仕置の主力は徳川軍が大久保忠世・菅沼定利・柴田康忠を派兵し自力で軍事行動に出ざるをえなかったという。
徳川軍が佐久方面で苦戦するに及び家康は天正十年七月、依田信蕃に対して与力を付けた上で更に「諏方・佐久両郡事」を宛がうとして同姓依田一門や親類を家臣化し望み通りの給恩地も宛てがうと約束している。
裏返せば依田信蕃らの佐久国衆は組織化がかなり遅れていたというのが実情のようである。
前山城の攻防戦も依田信蕃の指揮ではなく、柴田康忠の指揮下であり、この時に一族同門の庶流依田信守は家康より感状を賜っている。

これは北条方についていた真田昌幸の寝返り工作においても「諏方郡を宛がう」と家康は約束している。(この空手形がのちに災いになるとは家康も想定していなかったようだが・・・)
最終的には真田と北条の手切れにより北条VS徳川の天正壬午の乱は終息にむかうのだが、岩尾城の攻防戦で信繁は弟の信幸とともに戦死してしまう。

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藤岡城は方形居館の周囲に二重堀を巡らせ南には馬出(枡形虎口)を備えていたと伝わる。

佐久平定がほぼ終わり岩尾城の無理攻めによって依田信蕃・信幸兄弟が鉄炮により戦死したと依田記には書かれているが、「家忠日記」の天正十一年二月二十日条には柴田康忠が甲州の軍勢を率いて佐久郡に軍を発し小諸・岩尾両城を攻撃したとある。
「廿二日 依田信蕃、其弟依田伊賀守信幸、善九郎信春・・・岩尾ノ城ヲ抜カント広言ヲ吐テ・・・・依田兄弟三人各矢ニ中テ死ス」とある。徳川家忠の武家日記では、信蕃・信幸・信春の三兄弟が鉄炮ではなく、矢で死去したとする。史実は同時代史料の信憑性によるべきとすれば、依田記は史実をかなり脚色しているようである。

三兄弟戦死で依田家存続の危機に陥ったとき、家康は人質の総領竹福を松平康国として家督を継がせた。このとき、依田肥前守信守(依田家庶流)は合計四十九騎を同心として康国に預けて家臣に組み込まれた。彼には継子がいなかった為に、故信幸の二男信政が跡を継いで依田源三と称した。(藤岡藩改易後は籏本となりお家存続)

まあ「依田記」では、依田家創業者の信蕃については家の由緒を語る為にかなり誇張や過大評価があり、佐久統一が依田信蕃によるものという旧来の評価は再検討が必要だろうし、徳川軍の軍事行動における信蕃の役割についても再評価が待たれる。

松平康国以降の事績についての「依田記」は正確に記載され依田家資料の裏付けもなされているという。

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土塁の北西のR部分。ここに「芦田城」の銘板が確認出来る。

結局のところ何を言いたいのか支離滅裂な文章の構成になってしまったが、裏付けの史料を欠く由緒書きや家系図、伝記は話半分程度の理解に留めておく、というのが今回の結論である。

もっとも、戦国時代の武将の生涯など、都合のいいように誇大誇張され尾ひれはひれ付いているので、そいつの人生を知っているのはそいつだけという事になる・・・(笑)
真田氏だって幸隆の先代は現時点では不明と言わざるを得ないのは暗黙の了解事項だし・・・(汗)

≪藤岡城≫ (ふじおかじょう 別名:芦田城)

標高:95.2m 比高:-
築城時期:天正十八年(1590)
築城・居住者:松平康真
場所:藤岡市藤岡
攻城日:2018年12月1日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:藤岡第一小学校を借用
見どころ:土塁
付近の城跡:平井城、平井金山城、高山城など
注意事項:特に無いが、小学校なのでプライバシーに留意
参考書籍「平成23年度 長野県立歴史館 春季展 武士の家宝~かたりつがれた御家の由緒~」図録寄港P34「徳川家康と依田信繁・康国-佐久郡の戦国・織豊期について-」(井原今朝男著)より一部引用。

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大道寺政繁を相手に依田信蕃が勝利したという「芦田小屋の戦」の三沢小屋は未訪問なのだが、今回の件で気持ちが萎えてしまった。家康から金子四百両と援軍千人を派遣されているなら、ゲリラ戦というのも怪しい・・・なんもかんも怪しい・・(笑)


Posted on 2018/12/08 Sat. 20:49 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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