らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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霜台城2 (リテイク 長野市若穂保科)  

◆前後に物見砦を備え、石積みの郭と土の郭で構成された戦国末期の山城◆

霜台城を最初に訪れたのは2011年7月なので、かれこれ6年の月日が流れている。

拙いブログ記事で、信濃の山城マニアの皆様には「隠れた石積みと土の城が混在する名城なのでお勧めですよ!」とか言いつつ、面倒なので再訪しなかった。

先日、対岸の尾根上にある加増城を攻略した際に、加増城から霜台城が雑木林の間に見えたので、「では、久々に再調査も兼ねて登ってみますか・・・」といつもの思い付き・・・(笑)

霜台城2 (15)
前の山砦からしばらく登ると「弾正岩」と名付けられた巨岩に辿りつく。保科弾正忠正利の名を由来としていて十畳ほどの広さがある。

霜台城2 (13)
三日前に攻略した加増城がよく見える。あの高さは「今日も元気に狂ってる」と言われても仕方あるまい・・・(笑)

【立地】

保科川の右岸、太郎山(996.9m)の南側の支脈上に霜台城がある。麓の須釜集落から比高300mを登った山嶺の尾根を利用して築城されている。現在はトレッキングコースがキチンと整備されているので、長野市若穂隣保館(公民館)に車を駐車して保科川を渡った対岸の登り口に標柱があるので、迷うことは無い。(平日は公民館の事務室に声を掛けて駐車の許可を貰う事)

霜台城見取図①
郭8の物見台は宮坂氏の縄張図には無いので今回追加しています。

「比高300m」と表示すると、信濃ではかなり険しい山城に属するが、霜台城は登山道が斜面全体を緩く這うようにジグザグに斜行しているのでさほどのキツさを感じる事も無く、ゆっくり50分程度で到着する。

霜台城2 (54)
登山道は城域の郭6の一段下の段郭に通じている。

霜台城2 (161)
段郭は南側の斜面に向かって数段連なっている。耕作地の跡ではなく従来の遺構であろう。

霜台城2 (60)
郭6から見上げた郭5。石積みの見える瞬間が至福の時に変わるのである。

【城主・城歴】

保科氏の居城と伝えられるが詳細は不明。城の名は、保科氏が代々弾正(霜台)と名乗ったことか、または、近くの春山城は信濃守護上杉朝房(霜台)からとったものと考えられる。

霜台城2 (66)
郭4と郭5は完全に石積み仕様であり、周囲を厳重に石積みが周回している。

霜台城2 (67)
郭5の全面の石積み。背後は郭4との繋ぎであるが、堅固な石積みである。

【城跡】

郭3・4・5は周囲を堅固な割石の石積みで囲んでいる。7年前に訪問した時はロクな予備知識も無かったので、単純に割石を積み重ねて、風化による崩落などと勘違いしていたが、今回の再訪問と調査で、この石積みは明らかに「積石塚古墳」(つみいしづかこふん)に使用されていた割石の転用であることが判明した。

霜台城2 (68)
松代町周辺の山城は、古墳を利用または破壊してその石を積み上げて防御に利用している城がほとんどである。

霜台城2 (19)
郭4と郭5の東斜面は夥しい量の石積みが斜面を覆うように崩落し散乱している。

霜台城2 (21)
郭4の東斜面には一部原形を留めている石積みがあるので、往時の景観は凄かったに違いない・・・。

●積石塚古墳とは?

積石塚とは、石を積んで墳丘を造っている墓で、主に古墳時代の墳墓の形式の一つとして定着している。(5世紀~6世紀)一部の地域に顕著にみられ、特に長野県の大室古墳群(長野市松代町)は日本最大の積石塚古墳群として有名で、そのほとんどが積石塚であり横穴式石室を備えている。

以下の写真は昨年7月に調査で訪問した時の大室古墳群の積石塚古墳である。霜台城のある保科地区も大室古墳群に関連する古墳が多く点在する。

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大室古墳群の241号墳。

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大室古墳群の242号墳。中央の窪みが陥没した石室の跡。

●古墳の積石を転用し石積みの郭を増設したのか?

縄張図の郭3と郭4の間には大量の積石が残っている。ここに規模の大きな積石塚古墳があったことは、横穴式石室の残存遺構が残る事から推定される。また郭4と郭5の間にも古墳があり窪地は石室の跡であろうか。
どの程度の高さまで積んであったかは不明だが、石の形状が平石では無いので、それほど高くは積めなかったと思われる。

霜台城2 (23)
郭3と郭4の間に残る石室の跡。戦時中となれば死者の祟りなど恐れている場合じゃないか・・(笑)

霜台城2 (24)
古墳も完全に解体せずにある程度残す事で防御効果を狙ったものとみえる。

千曲市~長野市松代町にかけては多くの古墳が集中している。山城も古墳に被るように築城された為に、縄張に古墳を取り込んだり、古墳を解体して石材を防御や土塁の土留めに転用している例が多く見られる。信濃の山城は独自の石積み技術を特徴としているが、それは岩盤が固い地盤を掘るよりも、古墳を壊して廃材を利用するのが手っ取り早いという作業の集大成であろう。

霜台城2 (18)
霜台城の石積みの原材料となった積石塚の石は、高く積めない欠点があったようだ。

霜台城2 (80)
郭3には新設された標柱が立つ。ようやく城跡として認知されてきたかと思うと感慨深い。

●土の城としての原型

霜台城は元々は土の城であったのだ・・・ということが、主郭を挟むように穿った堀切㋐、堀切㋑、堀切㋒を観察することによってわかる。

霜台城2 (85)
堀切㋐側から見下ろした郭3。

霜台城2 (90)
郭3と郭2を遮断する堀切㋐(上巾6m)

霜台城2 (94)
郭2。西側が一段低い変則的な郭だ。

霜台城2 (93)
主郭と郭2を隔てる堀切㋑。かなり埋まっている。

霜台城2 (27)
変則的な形の主郭(25×23)。石積みの補強は西側の縁の土留めだけ。

霜台城2 (26)
主郭と郭7の間の土手付き堀切㋒。最も幅が広く(上巾7m)長大である。

霜台城2 (96)
郭7は41×18の平場。

霜台城2 (29)
郭7の北端の堀切㋔。上巾7mで尾根を遮断する。

元々は郭1・2・3・7で形成された在地土豪の土の城に石積みの郭4・5・6を増設しドッキングさせ、大笹街道側の東尾根の斜面を石積み補強し見せる城を意識したものと思われる。
土の城に石積み郭を増設または補強する縄張手法は、千曲市森にある鷲尾城が非常によく似ている。

【北尾根の物見台】

ブログに相互リンクをさせていただいている春の夜の夢の管理人アテンザ様によれば、霜台城の北尾根には物見台があるといい、実際にその場所について考察されていた。小生の再訪の目的の一つでもあったので、太郎山に続く尾根を辿ってみた。

霜台城2 (107)
郭7から尾根を北へ登る。

霜台城2 (34)
すると人工的に削平した小さな平場と背後の岩場が現れる。

霜台城2 (31)
背後の岩盤堀切から物見砦を撮影。

宮坂武男氏はこの物見について記載していない。自然地形と見たのかもしれない。が、小生もアテンザ様の指摘する通り、背後を深く断ち切った物見砦であると思っている。
尾根を登った先には春山城が控えているので、尾根伝いに備えたものであろう。

霜台城2 (33)
トレッキングコースマップには「クマ太郎岩」とあり、その周辺である。

霜台城2 (35)
ここからは善光寺平、そして遠くに北信五岳を臨む素晴らしいロケーションである。

霜台城2 (126)
物見砦背後の岩盤堀切。

オーソドックスな山城に最先端の石積み仕様を融合させた貴重な霜台城。
当初は在地土豪の物見程度の山城が、甲越紛争時にその戦略的を見出され大勢力によって大掛かりな改修を受けて現在の最終形になったとみるが、どうであろうか。

比高300mだが、登山道も整備されているのでゆっくり景色を楽しみながら1時間も歩けば十分に堪能できる山城です。
是非、その目でこの素晴らしい遺構を見て頂きたいと思います。


≪霜台城≫ (そうだいじょう 城の峯) 

標高:720m 比高:300m 
築城年代:不明
築城・居住者:保科氏など
場所:長野市若穂保科須釜
再訪問日:2017年4月19日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:50分
駐車場:若穂隣保館
見どころ:弾正岩、積石塚古墳を利用した石積み、土手付き大堀切、物見砦、クマ太郎岩など
参考文献・書籍:「信濃の山城と館 更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版) 
注意事項:石積みは脆くなっているので乗らない・足を掛けない・崩さない。
付近の城跡:保科前の砦・加増城・古城山城・和田東山城など

霜台城2 (70)
積石塚古墳を転用した証拠はいたるところで確認出来る。

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北西の若穂牛島の領家交差点付近から撮影した霜台城と背後の物見砦。

Posted on 2017/05/12 Fri. 20:12 [edit]

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保科前の山砦 (長野市若穂保科)  

◆霜台城の大手を守る物見砦◆

毎年の事ながら、GWが終わると山城探訪のトップシーズンも終わりを告げるのである。

そんな事にはお構いなしに年がら年中城跡探索を敢行する山城ツアラーもいらっしゃるようですが、小生は一休みでございますw

今回ご案内するのは、6年前に記載した霜台城をリテイクする為の再調査で立ち寄った「保科前の山砦」。前回は素通りしてしまったので、今回は新しい記事として掲載させていただこうと思う。

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登り口の須釜集落から撮影した前の山砦と霜台城。

【立地】

保科川の右岸、霜台城のある山の南西に張り出した尾根の中段に前の山砦がある。現在はトレッキングコースとして保科地区から前山砦~弾正岩~霜台城~クマ太郎岩~太郎山のルートが整備されている。(6年前は標柱など無かったが・・)
麓からの比高は105mの南へ向いた尾根の先端の弛みであるが、霜台城はここから弾正岩を経由し200mの比高を登る。長野市誌では「前山城」と言っているが、小出では前の山と言っているので、この名から「保科前の山砦」と宮坂武男氏が命名している。

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6年前はこのような看板も無かったが、今ではトレッキングコースとして整備されている。

【城主・城歴】

保科氏の出城の一つと考えられている。一説には、小井底五郎左衛門尉(こいていごろうさいもんのじょう)が伊那郡小井弖荘(こいでしょう 現在の伊那市小出)から移住し、小出砦に拠って村上氏に仕え、地名をもって小出姓を名乗ったという。その子小出大隈守は、元禄の初めに仙仁城(現在の須坂市)に移るという。

保科前の山砦見取図①
前回紹介した加増城よりも更に曖昧な縄張である。

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登山口から約10分で砦跡に辿り着く。看板もあるとは驚きであった。

霜台城2 (5)
砦の南先端部。街道を見張るにはちょうど良い高さと見晴らしである。

霜台城2 (6)
砦の中心部分の全長は葯27mとかなり広い。

霜台城2 (7)
主郭の背後は土塁が盛られ背後の堀切・土橋に続く。

【城跡】

尾根の中段の弛みへ上巾9mの堀を入れ、掘った土を内側へ土塁として盛土してある。堀は土橋で渡るようになっている。郭の両サイドの切岸は加工度も低く自然地形のままであろうか。北側に続く尾根を除くと三方が急斜面なので加工する必要性は無かったのかもしれない。
霜台城の比高が高いので、有事の際以外はこの砦に歩哨を置き警戒していたのだと思われる。

霜台城2 (8)
主郭から見た東側の土塁と背後の堀切。

霜台城2 (9)
堀切と土橋。

霜台城2 (12)
西側の沢に落ちる堀切。かなり埋まっているが上巾9mは圧巻である。

霜台城2 (14)
北側から見た堀と土橋。

以上、見てきた通り、堀切は立派なのだが郭が曖昧である。平時は物見砦として、そして戦時は霜台城へ向かう攻城兵を阻止する出城としての機能であればこれで十分かもしれない。

≪保科前の山砦≫ (ほしなまえのやまとりで)

標高:525m 比高:105m
築城年代:不明
城主;不明
場所:長野市若穂保科
攻城日:2017年4月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:10分~15分
見どころ:堀切、土橋
注意事項:特になし
駐車場:長野市の若穂隣保館(公民館)がトレッキング者向けの指定駐車場。(無料)
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霜台城、加増城、和田東山城、春山城など

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Posted on 2017/05/07 Sun. 21:46 [edit]

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加増城 (長野市若穂保科)  

◆郭1個と堀切二条の物見砦の為に、比高310mを駆け登る病的集団◆

ブログでは毎度お馴染みの顔になっているが、我ら信濃先方衆の同盟は今年の7月で5周年を迎える。早いものである・・・。

遭難もせず、お互いの顔に飽きもせず(笑)、ここまで苦楽を共にしてきたが、我々にはもはや難易度Eクラスの辺境の地の物見小屋とか、鬼・猿の名の付く伝説の山城しか残っていない・・・・(汗)

今回ご案内するのは、片道45分、比高310m、登山道など無く直登するしかなかった「加増城」(かぞうじょう)である。

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対岸の本城である「霜台城」(そうだいじょう)の弾正岩から見た加増城。コスパなど考えたら絶対に登らない場所にある。

【立地】

長野市若穂保科の保科かわの左岸、引沢集落の南部の沢中の高いところが加増(かぞう)である。加増の南西の三角点(759.1m)のある山に加増城がある。この山は保基谷だけ(1529.1m)から北西へ下った堀切山(1157m)へ続く尾根上にあり、ここから若穂地区はもちろん、善光寺平がよく見通せる。また対岸の北方1.8kmの至近に霜台城があり、眼下の街道は須坂・仁礼方面と、菅平を経て小県及び上州に通じる。

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今回の直登ルート。麓の神社(若宮八幡宮)から祠までは道形もなく、急斜面をひたすら直登するのである。

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標高600m付近の平場にある石祠。屋根が落ちていたので、ていぴす殿と持ち上げて元通りにしておく。ご利益あるかしら(笑)

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石祠のある場所は尾根上に平場が続くので、砦に当直する番兵の小屋掛けがあったかもしれない。

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対岸には霜台城が指呼の間によく見える。

【城主・城歴】

資料がなくはっきりした事はわからないという。地元では川中島合戦の時の物見であったという伝承がある。保科氏の勢力範囲に属する地域であるが、その関係は不明だという。

加増城見取図①
とてもシンプルで機能性のみを追求した砦。この立地条件と高さであればこの装備で十分であろう。

毎回我ら信濃先方衆は一日の行動とスケジュールを検証し反省する。この日のスケジュールのラストとして午後3時から比高300mの砦がふさわしいのか?・・・しかも直登で・・・バイパス長過ぎ・・・どう考えても無謀なのだが、行かぬ後悔よりは突撃あるのみ(笑)

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おお、ここであったか・・・・。

石祠から更に25分、果てしなく長い尾根を歩き続けた我々は息絶え絶えになりながら砦跡に遭遇したのである。

【城跡】

平場の尾根の先端に、前後に堀切を穿って守られた13×9の主郭がある。低い土塁が郭を全周していて南の土塁上に三角点がある。

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堀切㋐(上巾9m)。どんなにヘロヘロになろうと、城域に入るとゾンビのように生き返るのである・・(笑)

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堀切㋐と主郭の接続部分には土留めの石積みが見られる。細部の観察を怠ってはならないという我々の無言の掟である。

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主郭(13×9)。周回する土塁もかなり低い。

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南側の土塁上の三等三角点。

主郭の西側の一段下には腰曲輪があり、南の堀に沿って土塁があり、部分的に石積みが見られ、北端に井戸跡と思われる石組がある。
堀切㋑の後ろに続く尾根は平地が50mほど続くが、縄張とは思えない。

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主郭下の腰曲輪(23×5)

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井戸跡の石組み。かなり崩落が進み原形を留めていない。

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堀切㋑(上巾10m)

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西斜面に落ちる長大な堀切㋑。どんな小さな砦でも、手抜きしないこの姿勢が大切です。

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堀切㋑より南の尾根の平場。特にこれといった防御システムは発見出来なかった。

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平場が終わると再び堀切山へ向けた険しい尾根道が続いている。

以上、観察してきた通り、単純な作りであるものの、堀は長大で立派である。伝承のように詰め城というよりは物見、あるいは烽火台といった類に属するものであろう。
もちろん、対岸の霜台城の物見という考え方が自然であり、保科前の山砦と共に保科氏の領地の監視砦であったと思われる。

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ていぴす殿も必死こいて本郭の調査をしておりますw

我々のこうした常道を外れる(?)探求心が、「彼らは、気がふれているのではないのか?」と思われ、ご自分の立ち位置を確認する行動をされる方を時々お見受けします。

大丈夫ですよ、貴方も我らの心境まであと一歩ですから・・・・きっと頼もしきお仲間に入れます・・・・・(笑)

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主郭から見下ろした堀切㋐。

≪加増城≫ (かぞうじょう 加増山城)

標高:759.1m 比高:310m(若宮八幡宮社より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:長野市若穂保科
攻城日:2017年4月16日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:45分~60分
見どころ:二条の堀切、主郭
注意事項:道が無く神社~石祠までは直登なのでしっかりとした装備でトライしよう。
駐車場:無し、神社脇の道路に寄せて路駐。
参考文献:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:霜台城、保科前の山砦、和田東山城、春山城など
Special Thanks to ていぴす殿

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各個撃破とはいえ、この砦一つのために比高310mは常人の常識を逸脱しているか・・・(笑)







Posted on 2017/05/01 Mon. 22:47 [edit]

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地蔵峠長城塁壁への問題提起  

◆中世の遺構であるという判断には慎重でありたい◆

上田市真田町と長野市松代町を結ぶ県道35号線は、古来より「松代街道」と呼ばれており、戦国時代は北信濃の川中島と東信濃の真田郷を結ぶ戦略上とても重要な軍用道であり、江戸時代から明治維新にかけては地場の生活道路として住人が多く利用したという。(幕末に活躍した松代藩士の佐久間象山は、上田の大日堂の活文禅師の教えを乞うためにこの街道を馬で通ったという)

この街道の境目の峠は「地蔵峠」(じぞうとうげ)と呼ばれ、現在県道35号線の走る峠は「新地蔵峠」、それ以前の旧道の峠は「地蔵峠」と呼ばれ、ルートがいささか異なっている。

地蔵峠付近の地図
今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」とその周辺の地図(国土地理院1/25000に加筆)

【地蔵峠長城塁壁とは】

以前より、「地蔵峠には峠を守る戦国時代の出城のような遺構がある」との情報がありマニアの間では噂になっていた。場所は不明であったが、6年前に小生も旧地蔵峠周辺を探索したがそれらしき遺構を発見することは出来なかった・・・。

「ガセネタだったのだろうか?」・・・・この話はそれきり忘れていたのである。

ところが昨年、真田丸ブームに便乗するように(?)新規に大量発刊された真田氏関連本を立ち読みしている最中に、偶然「地蔵峠の長城塁壁」の記事を見つけ購入した次第である。

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2015年11月、宝島社より発刊された

この本のP73に「真田郷を守る西の防衛線 地蔵峠の長城塁壁」の記事と藤井尚夫氏の縄張図が掲載されている。

著者の二宮博志氏は「お城ジオラマ復元堂城郭復元マイスター」として全国区であり、城郭復元モデルの作製や、各地での講演会活動等に多忙を極める城郭研究のスペシャリストである。小生もその活動には心より尊敬の念を抱いている。

なので、地蔵峠の長城塁壁に関しては、小生も何の疑問も持たずに現地へ向かうことにした・・・・。

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第一次調査として向かった2016年11月29日は予想外の雪で断念。林道から見上げる塁壁は遺構を確証するに充分だった。

地蔵峠の長城塁壁
藤井尚夫氏の認定の遺構という前提。「真田三代 名城と合戦の秘密」(二宮博志著 2015年) P75の縄張図を引用転載。

【2016年11月29日 第一次確認作業】

場所の特定作業も含めて新地蔵峠から脇の林道に突入したが、数日前の降雪が予想外に積もっていたために遺構への立ち入りは諦め、周辺の間道の調査のみで終了した。
林道から見上げる塁壁は確かに迫力があったので、雪解けの調査が待ち遠しかった。

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垂直に近い壁(切岸)には、違和感よりもワクワク感が勝っていた・・・

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なるほど林道からは、藤井尚夫氏が作成した縄張図と同じ景色を仰ぎ見る事が出来る。

【2017年4月16日 第二次遺構調査】

満を持して雪解けの4月に再調査に入った。せっかくなので、ていぴす殿にも同行頂き全容解明をお手伝い頂く事となった。
縄張図を参照しながら、長城塁壁の西側からアタックを開始した我らは、腰の高さまで生い茂る熊笹を掻き分けて長城の後方になる小山の乗り越しまで登る。道形が残っているが、近世の耕作地に付随したもので、古道とは考えにくい。

地蔵峠長城塁壁探索①
地図上の直線破線はGPS測定用。小さな赤い点が点在するのは我々が歩いた道のりの記録。

林道から見えた立派な塁壁を探して斜面一面に生い茂る熊笹の藪の中をウロウロ。
ヘビが出回る季節に入っているので、もちろんスパイクピン付き長靴を履き膝下をガードしている。

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ここが虎口らしい。(ていぴす殿の立っている場所)

我々は昨年末に岩原古城の探訪時に熊笹との戦いを延々と1時間以上続けた経験があるので、この程度の笹薮には驚かない。あっちゃこっちゃ地図と睨めっこしながらようやく辿り着いた。

「んで、ここか??」

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林道側に対してせり上がるように盛られた土塁状の土手。(単なる笹薮に見えたらゴメンナサイ・・笑)

確かに縄張図の土塁と横堀(?)のラインはここらしい。

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引いて全体を撮影し補助線を加えると、こんな感じになる。

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虎口の拡大写真はこんな感じ。

土塁と横堀を辿ってみる。人工の工作物には違いないが、中世の遺構としては何かがおかしい。

「堀の中に轍(わだち)がありますねえ・・・」ていぴす殿が地面の笹薮を掻き分けて指摘する。

我々の目は「節穴」ということを自覚していても、土塁はこの作業道を開けた時に出来たものと推定された・・・。
そしてこの土塁と横堀を辿って東に下ると、林道に接続していたのである。

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地面には林業の作業道として使われていたと思われる轍(わだち)の跡が確認された。

では、百歩譲って、遺構の横堀に作業道を開けたという解釈があるかもしれない。だとしても、あの叩き土塁は整然としていてとても不自然なのである。

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桝形虎口の内部。窪地になっていて池の跡のようにも見える。

さて、肝心の枡形の内部と高台については自然地形に近いものであり、人の手が加えられたとは思えなかった。

繰り返すようだが、我々の目はアマチュアであり、節穴である・・(笑)

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窪地の横の高台。そう言われてみれば、そんな形に見えなくもないが・・・。

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高台の奥は地山となって奥の丘陵(小山)に続いている。

ここに砦を作る必要性について検証してみた。

●武田氏時代のノロシ山(844m)からの避難経路の途中の防衛ライン
●同じく武田時代の烽火台と推定される高遠山(1221m)の詰め所
●旧地蔵峠から保科地区(霜台城)への脇道の監視所

二宮氏は真田氏との関連を指摘するが、もしこの場所が長城塁壁なる砦であれば武田氏時代のもので、真田時代のそれは「猿ヶ城」と「弥六城」という見方が妥当であるような気がする。

今回調査した「地蔵峠の長城塁壁」について我々は肯定も否定も出来る立場には無い。
ここを戦国時代の遺構として世間に公表するには、証拠が足りないし現地調査もまだまだ不十分である。

長野県の中世城館館のリストにも載っていないし、宮坂武男氏もこの場所に関しては記事にしていない。

問題提起としてアマチュアの小生が批判覚悟でこの検証記事を載せておきます。

もしよかったら訪問して感想をお願いします。(夏場は訪問不可だと思われます)

そしてわれわれの目が節穴であったことを証明して欲しい・・・・(笑)

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長城塁壁の真実は何処に・・・。

Posted on 2017/04/28 Fri. 13:03 [edit]

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天狗森城 (下伊那郡大鹿村鹿塩塩原)  

◆駿木城の南を守る砦か?◆

大鹿村の古城探訪シリーズも今回が最終となる。時間切れで駿木城(するぎじょう)、梨原の物見(なしはらのものみ)の2ヶ所が回れず心残りとなるが、宗良親王の宝篋印塔も見ていないので、いつかまた来るぞ!と誓ったが、いつになるやら・・・(笑)

で、今回ご案内するのは天狗森城。

「天狗(てんぐ)」とか「狐(きつね)」とか「鼠(寝不見 ねずみ)」とかはスパイの隠語なので、この城も物見だったようだ。

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大島城も天狗森城もヘアピンカーブの先が城跡になる。

【立地】

鹿塩川の左岸、塩原集落の後背の山の中段に立地する。ここを更に中峰に登ると駿木城に通じる。鹿塩川の谷に面して張り出した形のため、谷筋の見通しは良く、街道の監視には絶好の場所である。

天狗森城見取図

【城主・城歴】

記録、伝承等もなく不明。背後に駿木城があることから、大河原城の防衛を担った物見と考えられている。

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土橋から見た北側の堀跡。

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主郭には最近まで秋葉社と春日社が勧進されていたようだが、我々の訪問時には撤去されて何もなかった。

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20×15の主郭。小屋掛けには充分な広さ。

【城跡】

ヘアピンカーブの先に土橋があるので、南北に堀切があったようだが工事で改変され詳細は不明。
主郭には塩原地区の氏神様が祀られた社があると宮坂氏は書いているが、我々が訪問した時には、老朽化して撤去された後だった。
郭2、郭3と綺麗に削平された段郭があるが、耕作地として利用された事も充分に考えられるので、どこまでが当時の遺構なのかは判断に迷うところである。

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郭2。(8×11)

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恐らく耕作地だったと思われる郭3。

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南側に展開する郭3(7×31)

郭3段の小規模な物見で、番兵が掘立小屋で交代で見張りをしていたものであろうか。
残念ながらここからの景色は見ることが出来なかったが、谷筋の物見として有効だったと思われる。

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郭3から見上げた郭2。

≪天狗森城≫ (てんぐもりじょう 寺平城)

標高:881m 比高:150m(国道より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:下伊那郡大鹿村鹿塩塩原
攻城日:2017年3月19日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:段郭
注意事項:特になし
駐車場:無し、道路脇に寄せて路駐。
参考文献:「信濃の山城と館⑥ 諏訪・下伊那編 宮坂武男著」 
付近の城址:大河原城、青木城、松平城、駿木城など
Special Thanks to ていぴす殿

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さて、如何でしたでしょうか、大鹿村の古城探訪。南北朝時代の山城はなかなかピンとこないのですが、こんな桃源郷のような山奥の村にも南北朝の動乱の緊張感があったんだ・・・なんて事を思いながら古城めぐりをするのも楽しいものです。

皆さんも是非、大鹿村にお越しください・・・・ってか大鹿村の広報担当かい!(笑)

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帰りは秋葉街道を進み分杭峠経由で家路に・・・・・。この峠も初めて通りましたよ!


Posted on 2017/04/23 Sun. 09:34 [edit]

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