らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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左右秋葉山砦 (長野市信州新町左右)  

◆信州新町と八坂村の境目の見張砦◆

このような趣味が無ければ、「長野市信州新町左右」(しんしゅうしんまちそう)という場所は一生訪れる事がなかったであろう。
今回ご案内するのは難解な読みの「左右秋葉山砦」(そうあきばやまとりで)。

で、単なる通過ではなく、長野県の全市町村をしっかり歩きまわって制覇するのはあと僅かで達成すると思われる・・・(笑)

マイナーな山城の紹介こそがこのブログの本懐である・・・偉そうに言っても中身がプアなのでご容赦願いたい・・・(汗)

左右秋葉山砦 (61)
お堂のある上の平地は馬場と呼ばれる。左右秋葉山砦はその奥の尾根上に位置している。

【立地】

砦は旧信州新町(現在は長野市)と八坂村(現在は大町市)の境にある長者山(1159.8m)の南東に延びる尾根先の末端部に位置する。ここへ行くには左右集落から東の尾根先にあるお堂から高合に続く道を歩き、途中の分岐から長者山への登山道に入る。尾根の鞍部についたら南へ向かうと城域になる。

左右秋葉山砦 (59)
畑作業をしていたご夫婦に許可をもらって駐車。

信濃先方衆の共同作戦、実はこの直前に探訪した「左右前山城」(そうまえやまじょう)で時間がオーバーしてしまい、既に15:30であった。11月の山間地の攻城戦のタイムリミットは戻りを16:00ぐらいを目安にしないと危険なのだが、「頑張って行きますか・・」(笑)

地主さんご夫妻にも「今から長者山へ登るの?」と怪訝な顔をされましたが、説明するのも面倒なので「下調べですw」と・・。

左右秋葉山砦 (1)
分岐地点ですでに15:50。大丈夫なのか?

左右秋葉山砦 (4)
分岐点から必死こいて尾根の鞍部についたのが16:00。ここから城域。

【城主・城歴】

史料・伝承等なく不明。城跡には以前に秋葉社が祀られていたのでこの名がある。秋葉社は円形城の土檀の上に置かれていたようである。

左右秋葉山砦見取図①
縄張図。

左右秋葉山砦 (13)
鞍部の窪地。近くに水源が見当たらないので恐らく天水溜かもしれない。

左右秋葉山砦 (16)
東斜面の削平地より尾根先の郭を見上げる。

【城跡】

神社の勧進で城跡は一部改変されたようだが、基本的にはL字の尾根を削平して城の中枢部として前後を堀切で遮断し、土檀状の場所に物見櫓があったのかもしれない。郭4は小屋掛け出来そうな広さがある。

左右秋葉山砦 (21)
堀切㋓。東斜面がかなり緩いので長めの竪堀としている。

左右秋葉山砦 (24)
東斜面を下る竪堀㋓。上巾は4m程度だが、結構長い。

左右秋葉山砦 (28)
城域の最高所にある郭(7×4)。前後を堀切㋓と㋒で遮断している。

左右秋葉山砦 (30)
L字型ながら郭の面積が最も広い郭4。

左右秋葉山砦 (35)
秋葉社の勧進に伴い改変されたであろう中枢部。

左右秋葉山砦 (34)
城域中枢部で最大の幅のある堀切㋑(上巾4m)

左右秋葉山砦 (42)
郭1から見下ろした郭3(10×10)。

オーソドックスな縄張はこの城の南東に位置する左右前山城とほぼ同時期と見てよさそうである。
牧野島城との関連もあると思われるが、八坂へ通じる金熊川沿いの古道の監視目的のように思える。

左右秋葉山砦 (45)
三角形の郭2。

左右秋葉山砦 (54)
東尾根の城域最終の堀切㋐(上巾6m)。かなり埋没している。

実際のところ、僅か20分で城跡を探索するのはかなりハードである。さりとて竪堀は堀底から頂部まで歩いたし土檀部はイマイチ形状が掴みきれず周辺を何度も回った。東尾根の堀切二条も疑心暗鬼の有様・・・(笑)

相方のていぴす殿と東尾根を強引に下って、登り口の馬場平にリターンしたのは16:30。正味20分間の探訪でしたが見どころさえ押さえればノープロブレムかと・・・・(笑)

左右秋葉山砦 (57)
無事生還した馬場平から撮影したていぴす殿と左右前山城。


≪左右秋葉山砦≫ (そうあきばやまとりで)

標高:889mm 比高:130m (殿村お堂より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:長野市信州新町左右
攻城日:2016年11月13日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し
見どころ:特に・・
注意事項:特になし
参考資料:「信濃の山城と館②更埴・長野編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:左右前山城、戸谷城、牧野島城、和田城など

Posted on 2018/03/29 Thu. 23:22 [edit]

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横谷入城 (松本市浅間温泉)  

◆浅間地区を領有した赤沢氏の物見砦か◆

湯治場として松本藩のお殿様も通ったという浅間温泉。その歴史は古く、天武天皇に仕えた豪族の古墳も周辺にみられるという。

さて、今回ご案内するのは、その浅間温泉を見下ろす尾根上に築かれた横谷入城(よこやいりじょう)。前回ご紹介した茶臼山城とともに浅間地区を見張る赤沢氏の砦と伝わる砦である。

横谷入城 (1)
登り口のふるさと公園駐車場から横谷入城を見上がる。ピークを二つほど越えた奥側になる。

【立地】

浅間温泉の東方、大正山(1050m)から南東に延びる尾根先の大音寺山(887m)に築かれている。以前は西側の上浅間配水池の沢沿いの道を登るルートだけだったようだが、平成18年に尾根の東側からの遊歩道が整備され、二年前には「浅間温泉ふるさと公園」として西側の御殿山も含めて大規模に整備されたので迷わず城跡まで辿り着ける。
しかし遊歩道の整備に伴い城跡の遺構がかなり崩されてしまい、宮坂武男氏が踏査した平成8年の縄張図とはかなり違ってしまっている。

横谷入城 (3)
ふるさとは公園宿泊客のトレッキング用の遊歩道整備が目的のようだが、効果はどうなんだろうか。

横谷入城 (30)
つづら折れの遊歩道を10分ほど登ると最初のピーク。ここは平場で堀切があるらしいのだが・・・。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」では赤沢氏の持ち城で部下に守らせたとあり、「松本市史第二巻」にも「赤沢氏の持城で稲倉城の要砦で物見城とも呼び、天文年間には浅間孫太郎が守っていたが武田氏により落城、破却されたとある。

横谷入城見取図①
宮坂武男氏の縄張図(平成8年)によれば、良好な遺構が残っていたはずなのだが・・・。

赤沢氏の所領は、女鳥羽川上流の稲倉(しなぐら)を中心とした集落と浅間峠を越えた女鳥羽川下流の浅間周辺なので、浅間峠の街道を監視する砦としてはもちろん、烽火台としての機能も併せ持っていたのかもしれない。

横谷入城 (29)
必死に探した堀切㋖。が、土手付きの痕跡すら分からない状態。

横谷入城 (8)
城の中枢部に入る手前の削平地は「アルプス展望台」として新たに標柱とベンチ数台が設置されていた。

横谷入城 (6)
物見としては申し分ないロケーション。

横谷入城 (7)
遠く塩尻市方面まで見渡せる。

【城跡】

頂部に単郭を置き、前後を数条の堀切で防御した簡単な縄張だが、主郭の東側には土留めの石積が確認出来る。
西の沢筋の遊歩道には「空堀」の表示があるが、これは伐木の作業道を兼ねた山道のようであり、竪堀ではなさそうである。
遊歩道の整備に伴い城跡は大規模な伐木が行われた結果、雨水や風雨が地表を削り堀切は崩れてしまったようである。

横谷入城 (9)
城址に立つ新しい標柱。

横谷入城 (10)
22×13の主郭。削平されているだけで土塁で囲まれた痕跡はない。

横谷入城 (25)
主郭の東側には土留めの石積みが散見出来るが西側の斜面には無かった。

宮坂武男氏の縄張図によれば主郭の西側には三条の堀切があったようだが、現在では崩落したか整備過程による改変でその姿がハッキリしない。堀切㋒はほぼ壊滅状態である。

横谷入城 (28)
かすかな堀形を辿るとこんな感じに二重堀切になっていたと思われる。

同じように主郭の東側の鞍部へかけての尾根にも堀切が二条あるがライン、遊歩道整備でエッジラインが欠け、北へ下る竪堀㋑の堀底には切断された倒木が積まれて埋もれていて肉眼での確認も困難な状況に追い込まれている。

横谷入城 (13)
強引に補助線を入れてみたが、チョッと厳しい・・・(汗)

横谷入城 (17)
西斜面から竪堀となっている堀切㋑の僅かな痕跡を探してみた。

横谷入城 (21)
堀切㋐も堀底が歩道となり一部破壊されたようだ。

城域の東側の鞍部は平地になっているので小屋掛けが出来そうだ。現在「堀切」と表示された標柱が立つ場所は一見すると確かに竪堀に見えるが元々は古道で沢筋の作業道として拡幅されたものであろう。だが、途中に水源があることからこの砦の登城口だった可能性もある。

横谷入城 (19)
鞍部に接続する堀切遊歩道。平成18年度の整備事業の際に空堀跡の看板が立てられたが、検証する必要はあると思われる。

横谷入城 (14)
鞍部と城域を遮断していれば堀切と考えられるが、乗り越しにもならずに大正山方面に続いている。

武田信玄の中信濃侵攻の際に、この付近の土豪は悉く小笠原を離反し武田の軍門に降っている。赤沢氏もその一人であり、武田統治時代には既に横谷入城はその役目を終えて使われなくなっていたと思われる。
また、ふるさと公園の案内図には「横谷城」という表示があるが特に遺構は確認できないという。


≪横谷入城≫ (よこやいりじょう)

標高:887mm 比高:160m (ふるさと公園駐車場より)
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:有り(無料)
見どころ:アルプス展望台からの眺望、石積み
注意事項:特にないが、温泉街の道路は狭いので通行に注意。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(2013年 宮坂武男著 戎光祥出版)
付近の城址:茶臼山城、伊深城、早落城など

横谷入城 (32)
浅間温泉の西側の女鳥羽川沿いから見た横谷入城遠景。

Posted on 2018/03/25 Sun. 19:12 [edit]

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茶臼山城 (松本市浅間温泉)  

◆赤沢氏の初期の要害城◆

そろそろ真面目に記事をアップしていかないと過剰な在庫を抱えて倒産しそうである・・・(笑)

写真2~3枚と適当な感想でも書いていけば何のこともないだろうが、地元のヤツがそんな体たらくでは恥ずかしいしネ・・・(汗)

今回ご案内するのは、立入禁止の為に周辺の観察だけで終わった茶臼山城。

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「一人ぐらい見逃してくれよ~いいじゃねえかよ・・・」と思いつつ、不法侵入してはいけません。

【立地】

浅間温泉の後背の山尾根先端部に築かれている。ここは麓からも良く見える。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」には「本村の卯の方にあり。東西八間、南北十間、赤沢氏の持城たり。籏本姥貝左衛門と云す者に之を守らしむ。武田氏の大軍乱入・・・・・」とある。赤沢氏は小笠原氏に属し、その居館は本郷小学校の校庭あるいは温泉街の枇杷の湯付近にあったらしいが、その後稲倉城の麓の御屋敷平へ移ったという。

茶臼山城見取図

【城跡】

主郭にはかつて古墳があったようだが取り壊されて小屋が建てられている。城の主要部も耕作により改変された上に近年の道路の開通や貯水池の建設で遺構が壊されてしまい、往時の様子は推測するしかない状態。しかも主要部は立入禁止。主郭背後には堀切があったかもしれないがそれすら分からない。説明板には南方に30mの空堀とあるが、城への通路だった可能性もある。

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まあ、踏査出来ないので遠方から見るだけ・・・(笑)

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道路沿いに説明板があるのは有難いのだが、入りたいなあ。

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哀愁を帯びた標柱がイイ!

「信府統記」にも茶臼山城について記載があるが、「次の曲輪等ハ形崩レテ分明ナラズ」とあるので、この時点で既に主郭以外の郭は不明確に改変されていたようである。

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道路側から主要部分を撮影。この土手を登りたい衝動を抑えるのが難しい・・・・(爆)

小笠原長時の配下として稲倉城を本城とした赤沢氏だが、武田信玄の侵略時に武田方に降る。その後武田氏が滅亡すると小笠原貞慶の部将として刈谷原城主を命じられるが、天正十年(1583)に古厩氏・塔ノ原氏とともに謀反を企てるも事前に発覚し翌年松本城内で切腹となり赤沢氏は絶えた。

≪茶臼山城≫ (ちゃうすやまじょう)

標高:720mm 比高:55m 
築城年代:不明
築城・居住者:赤沢氏
場所:松本市浅間温泉
攻城日:2018年3月17日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し (道路が狭いので路駐は広い部分へ)
見どころ:特になし
注意事項:不法侵入禁止。配水池も立入禁止。
参考資料:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」 (宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:横谷入城、伊深城、早落城など

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東側斜面の堀形。かつての登城通路だった可能性もある。

Posted on 2018/03/21 Wed. 14:58 [edit]

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「織田信長と上野国」 (群馬県立歴史博物館)  

◆グンマーをたった3ヶ月だけ支配した織田政権と悲運の武将滝川一益の足跡◆

「へえー、グンマーで織田信長に関する企画展があるのか・・・」

武田氏討伐後、その領国を支配下に置いた信長だが、僅か三か月後には本能寺の変で横死していまったのは周知の事実である。

信長より、武田討伐の功績を認められた滝川一益に上野国と信濃の佐久・小県を与えられたのは天正十年三月二十九日の事。

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らんまるがグンマーにこんな立派な美術館や歴史館があると知ったのは2018年3月18日の事。

着任当初は箕輪城(高崎市)、その後厩橋城(前橋市)に移った滝川一益は、着々と東国支配に向けた統治と拠点整備を進めます。この時に真田昌幸が他の豪族と共に一益に出仕したのはご存知の通り。

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残念ながら「上野三碑」は全く知らなかった・・・(汗)

せっせと東国支配に励んでいた滝川一益でしたが、六月二日に信長が本能寺で横死したことを知ります。武田討伐において織田に同調したものの、何の恩賞も得られなかった北条氏は、これ幸いと上野国の侵略に乗り出します。

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おお、ここが県立歴史館なのですね・・・。

「織田領国への侵略は許さん!!」

初老(といっても50代後半)の一益は北条相手に6月18日と19日の二日間、壮絶な戦いを繰り広げます。(神流川合戦)

初日は北条軍を撃破したものの、二日目には激戦の上敗走してしまいました・・。

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古墳と馬が、グンマーの誇りなのだと最近知った次第・・・面目ない・・・(汗)

結局、信長の後継者を決定する清須会議に間に合わなかった滝川一益は、秀吉を嫌い柴田勝家に味方するも、最終的には干されて坂道を転がり落ちてしまい、表舞台から消えた。
秀吉により捨て扶持を宛がわれて失意のうちに越前で没したという。

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織田信長は上野国に入る事はなかったが、上野国は東国御一統の地として東北制定の拠点になるはずであった。

そんな予習復習などなくとも、充分に楽しめる今回の企画展である。

戦乱の世が終わり徳川の世になると、小幡藩の初代藩主は、織田信長の次男信雄が着任し七代150年の間領地を治めました。

※詳細は⇒小幡陣屋を参照願います。

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明智光秀や羽柴秀吉、柴田勝家ほどの派手さはないが、いぶし銀として織田軍団の一角を担った滝川一益の生涯を知る機会は少ない。小生もこの企画展で改めて知った次第である。

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今回の企画展の内容を編集した展示図録も960円と破格の安さで手に入る。(数量に限りあり)

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同時開催として「明智光秀の源流~沼田藩土岐家の中世文書」もお勧めである。

入館料600円で企画展や常設展示も見られるのでとてもお得である。お近くならば是非お出かけください!!(5/13迄)

現地調査も大事だが、時として知識の幅を広げる時間も必要だと思うこの頃である・・・(笑)


4/30を除いた毎週月曜日は休館日なので注意!



Posted on 2018/03/19 Mon. 22:54 [edit]

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信濃先方衆はこれからも険しき山城に挑み続ける  

◆「上田・小県編」のラスボス「馬伏城」の攻略に挑む(速報)◆

今ではその「比類なき働き」で、信濃の険しい山城攻略の相方となった「ていぴす」殿との出会いは2012年7月の事であった・・・。

お互い基本的には単独行動を基本としているが、難儀な山城へのアタックは同盟軍として相互補完し幾多の困難を切り抜けた。

その戦歴の中で最たる山城は、日本最高地の山城 楡沢山城 であり、次はまだ記事にしていない「仁熊城」(にゅうまじょう 筑北村)。この山城へは道が消滅しているので、辿り着けただけでも奇跡に近いという有り様だった・・。

仁熊城(筑北村) (8)
村役場の教育委員会の立てた標柱は全く違う場所だったというオマケ付きの仁熊城。(2016年11月)

さて、今回我ら信濃先方衆の2018年再始動は「馬伏城」(まぶせじょう 上田市塩田)と決まった。

もはや仙人の領域に達している宮坂武男氏も、この城からの期間途中に命の危険を感じたという曰く付きの山城である。
そのような険しく人を寄せ付けない山城に辿り着けるのか・・・・このことであった。

馬伏城 (52)
あそこが馬伏城の物見と知ったのは下山してからのこと。本隊は物見の裏側になるので見えない。

下見もせずにぶっつけ本番はいつもの事(笑)

あるはずの林道は廃道となり倒木で迂回させられるし、登る沢を間違えてUターンするわ、川底に古道が消えて万事休す。

「ならば直登しますか・・・(汗)」

馬伏城 (50)
この尾根を転がりそうになりながら直登。雪解け後なので、スパイクピン付きゴム長でなければ不可能な直登でした・・・。

尾根の先は岩盤で塞がれている・・・次の沢をトラバースしても突き当りは強靭な岩壁が行く手を遮る・・・。

「万事休すか・・・・・・・・次の沢を越えた尾根先がダメなら諦めるか・・・・」

我々は、佐久の高棚城と笠原城の攻略を思い出し戦慄した。

「入口は限られた場所だけ。」

そう、まさに逃げ込み城とはそういう条件を満たした閉鎖的空間なのだ。

三つ目の沢の獣道を斜面の草木につかまりながら這うように登る。

我々は息絶え絶えに岩盤の隙間の鞍部に辿り着いた。そう。ここが馬伏城の入口だったのだ!

馬伏城 (3)
恐らくこの鞍部だけが城域に入れる狭き関門のようだ。

馬伏城 (10)
巨大な土塁を伴う鞍部の削平された郭。

もし、「逃げ込み城」の定義があるとすれば、以下の要件が必須であろうか。

●麓からは見えない
●最低でも一か月は籠れる居住性と水源の確保
●敵が容易に攻め込めない険阻な立地と防御性
●味方の砦との連絡手段が確保できる立地

馬伏城 (9)
馬伏城の本城からは女神岳城のみが見える。

いわゆる「足弱」と記される女性や子供、老人は逃げ込み城の充足要件の定義に入るのだろうか?

峻険な場所に設営された逃げ込み城にどのように入ったのか全く想像が出来ない。

現代人の生活と単純比較してはいけないにしても、この場所に「足弱」が籠れるのであろうか???

馬伏城 (13)
北向きの沢は数段の削平地があり、籠城時の空間が確保されている。

筑北村の仁熊城は、立地条件も縄張も馬伏城によく似ている。

そう、これらの逃げ込み城をみて分かった事は、「当主は、絶対に生き延びなくてはならない。死んではいけない」・・・この事であった。

侵略軍に老人が殺されようと、女子供が略奪されようと当、当主(家名)の存続は絶対なのである。

馬伏城 (14)
人工的に削平された段郭。

天正年間、真田昌幸の統治に不満を持ち反旗を翻した土豪の斎藤氏は、女神岳城を新たに築城して立て籠もり、馬伏城を万が一の際の逃げ込み城として整備したと伝わる。
その後、昌幸の命を受けた長男信幸が女神岳城に籠る斎藤氏を攻めて降し、反逆の罪を赦し自分の家来として登用したという。

そんな訳で、馬伏城が歴史の大舞台に登場する機会は無かったものの、斎藤氏にゆかりのある山城という事は伝承として残ったらしい。

twitterで馬伏城については攻略当日に現場実況中継としてお披露目しました。
すると、次回はブログ記事として掲載し、攻略方法等についての記載をお願いしたいという要望がありました。

が、ここは難易度がかなり高いのでお勧めしません。

当日は城跡で猪(イノシシ)にも遭遇して事なきを得ましたが、あの巨体で突進されたらマジでやヤバかったと思っています。
※親の後を必死で駆けて行った「うり坊」は可愛かったのだが・・・(笑)

常々注意喚起しておりますが、中世城郭探訪の趣味が「命懸け」の趣味になってはいけません・・・・。

千ヵ所を越える山城探訪の経験はあっても、常に初心は忘れないように心がけてしますw

まあ、皆さんが忘れたころに記事にしようかと思っています・・・(笑) ってか最近全く更新してません・・・・(汗)

馬伏城 (44)
宮坂氏の図面には無いが、馬伏城の北側には物見砦と断定できる素晴らしい郭が存在しますw

馬伏城 (2)
ここもGPSアプリが無いと厳しかったでしょうネ。

Posted on 2018/03/17 Sat. 22:17 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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