らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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楡沢山城② (別名:木曽義仲隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆果てしなき大熊笹の藪漕ぎに心が折れ、挙句の果てに城址を間違える寸前にまで追い詰められたラスト85分間◆

【山の神の怒りの痕跡の残る林道を歩く】

坊主林道(ぼうずりんどう)と名付けられた道幅の広い林道が、上伊那郡辰野町方面の牛首峠から楡沢山城の近くの標高1500m付近まで続いているのだが、この道を通行するには営林署の許可が必要である。仮に営林署の許可が下りたとしてもあちらこちらで寸断され、廃道に近い状態だというのが、実際に歩いてみて分かった。

楡沢山城 (6)
幅4m以上のしっかりした林道に驚く。高度成長期ならではの土木工事量に驚愕する。

楡沢山城 (10)
そして林道を進むとクーさんの新しい「ウンチ」に驚くのである。まあ、この辺に住んでいてもおかしくはないか・・・。

楡沢山城 (11)
標高1500mの林道にガードレールとは信じがたいがひたすら歩く。

楡沢山城 (12)
山の神の怒りに触れたような土砂崩落で林道が埋まっている。これじゃジムニーも通れないし戦車ででも厳しいか・・(汗)

坊主林道を歩く事35分。平地を延々と歩くのもかなり疲れる。当初は、城ヶ平の真西の直下辺りから坊主林道を離脱する予定でいたが、相方のていぴす殿よりショートカットコース経由での最終トライを提案される。
前人未到のルートに挑むという冒険心と、帰路に備えて体力温存という一石二鳥を狙った我らは、「八甲田山死の彷徨」の夏バージョンを体験する事となったのである・・・(汗)

楡沢山城 (9)
楡沢山城に通じる城ヶ平の真下に辿り着くには、気が遠くなりそうな距離を歩くのである。「悪魔の囁き」に抵抗しながら・・・。

当日のルート
当初ルートを変更した後の行程。どのみち、道など無かろう・・・というのが我々の一致した見解であった。

【人間の侵入を拒み跳ね返す急斜面を覆う一面の大熊笹との死闘】

信濃先方衆のルートの当日変更は時々行われる。地形図が読めるので、合理的なルートを探索する。(なるべくラクしたいだけだが・・・笑)

当初の計画である城ヶ平からの攻城ルートも事前の情報から笹薮漕ぎを覚悟していたので、どこから城跡を目指そうと笹薮は避けて通れないならどこからトライしても一緒ぐらいに思っていた・・・・・。

楡沢山城 (13)
ポイント③地点から見上げた変更ルートの尾根。10分後には地獄の大笹薮のお出迎えに閉口する。

残念ながら、心が折れてしまったので、途中の写真など一切ない。

行けども行けども終わる事のない急斜面の大藪漕ぎに体力的にも精神的に追い詰められていた。正直、もう止めたかった・・(汗)

「進退ここに極まる・・・・」 とはこのことであった。1,000以上の山城を踏破してきたのだが、ここで諦めるのか・・・。

我々は楡沢山城まであと比高150m地点にいた。戻るも地獄、進むも地獄。何が出るか分からない笹薮のラッセルも限界。

「ここまで来たらもう登るしかありません!!もう少しで稜線に出るはずです。」 相方のていぴす殿の声に救われた気がした。

楡沢山城 (16)
見渡す限りの大熊笹。何処にも迂回出来ない。急斜面の向こうに空は見えてもゴールが見えない恐怖との戦い。

楡沢山城 (17)
足が何度か痙攣してしまい小休止。もはや林道に戻る事も困難であった。

1,600ⅿの山岳地帯で藪漕ぎすること1時間。強靭な笹薮に押し戻され斜面に倒れながら、両足が痙攣しても這いつくばって何とか稜線手前に辿り着いた。

すると、傾斜が緩くなり熊笹の背丈もかなり低くなった場所に横堀状の窪地を発見。「ここから城域なのか?」

楡沢山城 (18)
横堀状堀状の窪地。

【到達した喜びも束の間、「ああ勘違い」で冷静さを取り戻し、偽ピークからホンモノの城跡へ】

極限に追い詰められると、そこから脱出したい一心で物事が冷静に見れなくなるらしい。

「横堀状の窪地」「段郭」「尾根筋のピーク」 苦難の末に辿り着いたのは、確かに城跡の条件が揃っていた地形だった・・。

楡沢山城 (20)
段郭らしき遺構。

楡沢山城 (25)
主郭と勘違いしていた平場。

楡沢山城 (33)
ここが城の遺構なのだと信用させるに十分な散乱した石積み跡。

宮坂武男氏の縄張図と、ていぴす殿が持参した「「木曽義仲の隠れ城」(龍門堂)に描かれた朝日ヶ峯城(楡沢山城)の縄張図を確認すると、類似した地形だったので、ここが城跡と思い込み、二人して疲労を忘れて写真撮りまくりだった・・・。

が、「待てよ、この場所の地形、何か違うなあー」  この直感は経験値の為せる第六感であった。

楡沢山城 (42)
ここがピークの1754m・・・??なんか違うよなあ・・・。

楡沢山城 (36)
見方によっては尾根の郭に対する切岸で、一段下は帯郭のようにも見える。

疲労困憊はピークに近かったが、尾根に出てしまえば勇気凛凛で頭は冷静さを取り戻した。(ってか、アンパンマンかい!)

スマホのアプリの国土地理院の現在地は、「城跡の手前」を指している。

「さあ、先を急ごうか・・・・・・・」 この事であった。

楡沢山城 (3)
当日のオンタイムのスクリーンショット。ピークはまだ先なのが認識できると思うが・・この時はクライマーズハイだったようだ・・(笑)

危うく城跡を誤認するところだった我らは、腰まで埋まる笹薮の平原をピーク目指して進み、ようやく城跡に辿り着いたのである。

次回衝撃のラスト、「笹薮は、もうお腹一杯・・・そして伝説へ」を待とう・・・(笑)

楡沢山城 (23)
標高1700mの山岳の連なる高地に築城する必要もないし、横堀も必要ないと思うのだが・・・。





Posted on 2017/08/03 Thu. 22:23 [edit]

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楡沢山城① (別名:木曽義仲隠れ城 塩尻市楢川楡沢山・辰野町瀬戸沢山)  

◆国内最高所にある伝説の山城への挑戦◆

信濃の山城で標高が100m~1200mとかに位置すると、かなり高い部類には違いないが、登り口自体が結構な標高なので「比高差」(登り口の標高から目的地までの標高の差)という物差しで測るとそれほどでもなく、平均すれば比高差は200m~400mぐらいで、500mを越えるとそれでも結構しんどい部類にはいる物件であろうか。

我ら信濃先方衆の山城探訪におけるMAXの標高と比高差を誇るのは、岩原古城(さるが城)で、標高1510m、比高差は700mである。

んで、今回ご案内するのは、先日チョコっとお披露目しました「木曽義仲隠れ城」の楡沢山城。(にれさわやまじょう)
標高1754m、比高差865mに位置する山城は国内最高所であり、比高もマストだと思われる。

IMG_2167.jpg
今回ばかりは綿密な登山計画が要求される。なので事前に購入した地理院地図に磁力線を引いてコンパス使用法も復習しておく。

【攻略までの経緯】

この難儀な山城については、信濃先方衆の相方である「ていぴす」殿から何度か聞かされていた。彼も何度か下調べで攻略ルートを探していたという。

秋口には廃村となった桑崎集落に通じる林道が閉鎖されてしまうこと、中腹に通じる坊主林道は営林署の許可が無ければ通行不可であること、標高が高い為に降雪が早く訪問する期間が限られてしまう事など・・・。

「そんな難儀な山城、慌てて行かずとも・・・」 なんだかんだ言い訳をして先延ばししていた。

2014年の春先にtwitterで知り合った「くうくう」さんとツイパで信濃合同城攻めでご一緒した事のある「naomochi-u」さんがSNS関連での楡沢城の一番乗りを実践された事をT/Lで知った・・・。

んーん、残念ながら我々は地元の利をもっていながら先を越されてしまったが、naomochi-uさん(彼は登山家でもある)から贄川ルートと城跡付近の情報が得られ、日帰り挑戦が可能な事が分かっただけでも有難かった。

当初計画①
SNSを駆使して情報収集の結果、このルートが日帰りで楡沢城に辿り着くべく最短ルートとして信濃先方衆の評定で決定された。

いつもならスマホの地図アプリ(国土地理院の地図表示方式)に頼るのだが、木曽の険しい坊主岳山系に電波が届くのかは疑問だったので、アナログ方式の基本であるコンパスと地図も準備し体制は万全とした。遭難するわけにはいかないのである・・(汗)

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装備のチェックは厳重である。

最近、(といっても2014年度版だが)のSNSの情報によれば、城址は腰までの高さのある熊笹に覆われていて現状の地形を掌握することは難しいと書かれていた。

つまり、晩秋に攻めようが春先に行こうが初夏にチャレンジしても、何十年に一度起こる熊笹の総枯れが無い限り遺構などまともには調査できないという事実がそこにあった。

「ならば、時は今・・・・」  我々の答えは単純明快であった。 決行は6月24日(土)と決まった。

楡沢山城 (95)
木曽ならかわ道の駅からポイント①までの比高は414m。山城3つ分の比高におののくものの、覚悟を決めて行かねばなるまい。

午前8:00に登山を開始して少し登ると鳥居があり平沢の稲荷社があった。

楡沢山城 (1)
地元で大事にされてきたようだが、最近は手入れされなくなっているようだ。

稲荷社から尾根伝いにしばらく急な山道が続くが、途中から道形がハッキリしなくなる。それでもポイント①までは何とか喘ぎながら到達することが出来た。

楡沢山城 (1)
当日のオンタイムのスマホ地図アプリのポイント①のスクリーンショット。(1304m)幸い電波は受信出来ているので一安心。

ここから坊主林道までは、等高線の間隔が詰まっていく=急坂という認識は地図が読める方には納得だろう。
我々も覚悟していたが、それにしてもこの急坂の角度はは想定外であった。

楡沢山城 (2)
小生の人生も「山あり、山あり」(笑)。 冗談はさておき、道に迷ったら安易に沢を下りてはいけないという鉄則は肝に銘ずべし。

そういえば、お城仲間の武蔵の五遁さんより、「楡沢山城に挑戦する際には、お仲間に加えていただきたい」との仰せを思い出したが、ご期待に沿う事は出来なかった。
万が一の不測の事態を想定した場合に、「安全は全てに優先する」という信濃先方衆の鉄則があるので、この場をお借りしてお詫びしたい。我々の安全自体も確証が無いのに、何かあったらご家族に申し開きが出来ない・・という小心ゆえであります。

楡沢山城 (4)
坊主林道手前の最終の登坂。標高約1520m。

楡沢山城 (5)
何とか坊主林道まで辿り着く事に成功する。(ポイント②)ここまで登山開始から105分なので、まずまず順調といったところか。

ここから当初計画のポイント③(城ヶ平の直下の登り口)までは坊主林道を横移動するつもりだった・・・。

楡沢山城 (2)
スマホ地図アプリのオンタイム画面。アナログの地図とコンパスと並行で使用することにより位置の確認の二重チェックを怠らなかった。

ここから約2km近く、坊主林道を歩くのである。

40度近い急斜面を登り続けた後に、カンカン照りの林道を並行移動するのは、結構しんどいものである。
しかも、林道から見た城跡への道のりを望見した時には、気が遠くなるような距離感に襲われてしまった。

そう、その思いと焦りが、我々を「ショートカット」という禁じ手に走らせる要因になったのである・・・。

楡沢山城 (8)
坊主林道から城跡方面を臨む。ここから更に林道を横移動して比高350mに挑むというのは、体力的にかなり厳しい。

次回、「心が完全に折れた85分の熊笹藪漕ぎと、誤認続きだった城跡の特定」を待て!!  (笑)

楡沢山城 (9)
歩くと分かるが、山の神の怒りに触れた坊主林道は至るところが土砂崩れや鉄砲水により寸断され崩落が酷い。

※この登山計画と表記しているルートは、楡沢山城への正しい道順を示すものではありません。ご注意願います。

IMG_1924.png
万が一に備え、家人に送った楡沢山城の地図情報。それなりの覚悟は必要であろう。

Posted on 2017/07/26 Wed. 22:21 [edit]

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大池村山大城 (東筑摩郡山形村清水高原)  

◆隣接する山岳寺院の清水寺との関連が考えられる砦◆

この砦も、5年前に信濃先方衆が組織編制する前に「ていぴす殿」」にアテンドいただいた場所で、あまり記憶が無い・・(汗)

さりとて、デッドストックにするくらいならこの際に掲載してしまおう、という結論をご笑納くだされば幸いです・・(笑)

大城(山形村) (1)
長野県道25号塩尻鍋割穂高線(サラダ街道)を清水寺へ向かう。お寺の東側に砦跡がある。(看板には四阿とのみ表示されている)

【立地】

山形村の清水高原(きよみずこうげん)「清水いこいの森」にあり、慈眼山清水寺の仁王門から東へ200mほど下ったところの尾根先になり、白山神社のある場所である。沢と沢に突き出した尾根上で、視界はかなり広い。

大城(山形村) (5)
城址付近からの景色。さすがに標高1200mだけのことはある。

【城主・城歴】

「結城陣番帳」に大池氏の名がある事から、室町中期に大池村には豪族大池氏が居た事ははっきりしているが、居館の位置は不明だという。「村誌やまがた」ではこの場所について「大池氏の要害の城であったのだろうか・・」としている。
戦国時代における大池氏の動向は不明だが、小笠原氏の配下として従属していたようで、最終的には明石への転封に伴いこの地を離れたようだが、大池氏の分流はこの地に残り帰農し家名を繋いでいるという。

大城(山形村) (7)
砦の北側には舗装路が通っていて東先端は駐車場になっている。斜面が切岸となっているのがお分かりいただけるでしょうか。


大池村山大城見取図①
白山神社の鎮座している周辺の削平地が郭と考えられ、中央部分で堀形により分割されている。

大城(山形村) (10)
駐車場端にある石碑。上大池からの遊歩道の終点でもある。

大城(山形村) (9)
石碑の裏側には、ここに中世の山城があった事が記載されている。

【城跡】

V字の沢に突き出すような尾根に白山神社が勧進されている。秋葉社ではなく、白山社というのは、北の波田側にある白山信仰との関連が想定される。以前に掲載した波田地区の若澤寺と砦跡に隣接する清水寺(きよみずでら)は山号が「慈眼山」(じげんざん)で同じなのである。若澤寺も山岳寺院であったが、白山の元寺(1387m)を下りて中腹に建て直している。(といっても標高1000m近いが・・)
清水寺は創設が729年と推定され、千手観音(清水観音)を本尊とし地元の信仰も厚かったようなので、この砦は山岳寺院の清水寺を取り込んだ土豪の大池氏が物見を兼ねた砦として築いた事が想定される。

大城(山形村) (11)
主郭に建つ東屋(四阿)。高度成長期の副産物で、朽ち果てるのは時間の問題であろう。

大城(山形村) (12)
周囲を土塁で盛り結界を張った白山神社は地元の方によって整備されているようである。

四阿のある削平地が主郭で、白山神社の祠の背後を堀切で穿っていたようである。北側の舗装路は後世の取り付け道路で帯郭とは考えにくく、南側の通路は清水寺の仁王門への古道なので、いたってシンプルな縄張であったと思われる。

大城(山形村) (13)
白山神社背後の堀形。笹薮は嫌いです・・・(汗)

大城(山形村) (16)
西側からみた主郭との間の堀形。(写真中央の凹部分)

今思えば、中世山城デビューしたばかりで右も左も分からない素人の小生に対して、ベテラン(玄人)の領域に達していた「ていぴす殿」が呆れもせずに辛抱強く付き合って頂いた事、深く感謝しないといけませんネ・・・(汗)

ていぴす殿に、「山城探訪とは、時として笹薮探訪なのだ」と教えてもらったのが、この城だったような気がしますw

大城(山形村) (18)
城域南側の仁王門までの古道。あれから5年経過しても、笹薮と戦い続けている我らは進歩していないのであろうか・・・(笑)

「のど元過ぎれば、熱さ忘れる・・・」 初心者になりがちな過ちを繰り返しては、学習能力の無さを嘆く5年間であった・・・(汗)

大城(山形村) (2)
清水寺の仁王門。当時は全く興味が無く訪問すらしなかったが、改修工事明けの来年は是非訪れてみたいお寺である。


≪大池村山大城≫ (おおいけむらやまおうじょう)

標高:1202.5m 比高:450m (上大池より)
築城年代:不明
城主;不明
場所:東筑摩郡山形村上大池
攻城日:2012年9月2日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:堀形、郭
注意事項:笹薮漕ぎになるので、服装注意
駐車場:有り。
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:竹田城、小坂城、旭城など



大城(山形村) (4)
ここからの松本平は別格の風景である。

Posted on 2017/07/22 Sat. 21:57 [edit]

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井川城 (松本市井川城 市史跡)  

◆女鳥羽川を越える事が出来なかった信濃国守護小笠原氏の北限の居館跡◆

信濃国の戦国時代を語るには、室町時代に守護を任命された小笠原一族の履歴・経歴を学ぶのは必須科目であろう。だが、この一族の信濃時代の動向についての研究は史料が乏しくなかなか解明しきれていないのが現実である。

先日も「信濃小笠原氏」(戎光祥出版 花岡康隆編者)を一読したが、あたしの単細胞のお頭の配線がタコ足状態となりイマイチ理解出来ない・・・・(汗)
ここはひとつ、小学生でも理解できる易しい解説に定評のある平山優氏の登場を密かに期待している次第である・・(笑)

今回ご案内するのは、守護の小笠原氏が風雲急を告げる戦国時代に備え、林大城に居館を移すまで本拠地としていた井川城。

井川城跡 (36)
松本市街地の中心地に遺構が残るとは信じ難いが、誘導看板がある。

なにせ、現在でもここの地名が「井川城」である。「深志」という地名も残るが「深志城」ではない。それだけでも充分凄いと思うが。

井川城跡 (35)
井川城の北側を流れる田川。天然の堀の役割であろう。この写真の左側が井川城の城域となる。

井川城跡 (33)
城域北側にある広正寺のあたりは「中小屋」と呼ばれていたので、館の一部だった可能性がある。

【立地】

松本駅の南側で、薄川と田川の河川が合流する所に位置する。城の名が示すように、このあたりは穴田川、頭無川などの小河川もあり、湧水、沼地等多く、平坦地ではあるがこれらの河川を自然の堀としているので、なかなかの要害の地である。

井川城跡 (26)
県指定史跡の指定に伴う発掘調査が終わった城域北側は、保育園が建設中でした。(もう完成していると思うが・・)

井川城跡 (28)
造成に伴い水路も変更を余儀なくされているが、嘗ての城の堀として利用されたと思われる。

【城主・城歴】 ※「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)P57説明文引用

「長野県町村誌」に「井川城墟」として「村之南方にあり。東西五十間、南北七十二間。櫓台高さ六尺、南北に六間東西七間三尺。本城址回字形をなし、東面なり。当城は正和年中(1312-16)正三位小笠原信濃守貞宗、当国の守護となり伊那郡松尾城より之に移り領す。同氏信濃守清宗まで七世居城す。清宗、金華山に城を建築し移る。以後衰廃せしを、寛正年間(1460-65) 小笠原氏再修築を加え林之城より兼持てり。永正元年(1504)小笠原氏族、島立貞永、松本之地へ移すの城墟なり。近き頃迄家臣黒田某之邸地辰巳の方に址あり、池ありて黒田釜と云う。今は田地なり。」として「井川古城墟有形之図」が載っている。
その図で見ると、頭無川と、それに続く北東の水路に囲まれた所を言っていて、民家が入り込んできているが、現状とあまり変わっていないことに気づく。

井川城跡 (22)
城域の西側は頭無川が自然の堀を成し防御構造となっている。

井川城跡 (21)
井川城の中心部(南側より撮影)

現地に建つ、松本市教育委員会の「松本市特別史跡」指定内容を見ると、「小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守に任ぜられ、足利尊氏に従って活躍し、その勲功の賞として、建武二年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。其の後信濃へ国司下向に伴い、守護として国衛の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要から、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。

井川城跡 (16)
松本市の中心部にこれだけの広い土地が手つかずで残っているのは奇跡に近い。

井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では、貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代末にはこの地に移っていたものと考えられるがはっきりしない。
井川の地は薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい、頭無川が濠状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に、櫓跡の伝承のある小高い塚がある。
地域に残る地名には、古城、中小屋のように館や下の丁、中の丁のように役所を示すものもある。またこれらの他に、中道の地名もあり、侍屋敷の町割り址、寺などの存在から、広大な居館跡が想像される」(平成11年3月)とある。

井川城跡 (18)
遺構として伝わる櫓台跡。(北側より撮影)

【館跡】

案内板の説明文にもあるように、頭無川が内堀の役目を果たし、穴田川や田川、薄川も外堀の役目をしていて、所々を水路を入れて防衛したことが分かる。その範囲は当初は、頭無川の囲むところあったと思われるが、何回かの改修を経てその範囲は広がり、広正寺のあたりまで拡張されたようだが、その縄張についてははっきりしない。

井川城とその周辺地図
井川城と深志城、その周辺の地図。館の立地と縄張の決定にあたりいくつかの河川が影響を与えているのが分かる。

宮坂武男氏は、小笠原氏の居館の位置が、井川城にしても林大城にしても、女鳥羽川を越えられなかった事に着目している。
深志城(現在の松本城)は、小笠原時代には家臣の守る支城が置かれた程度で、本格的な運用は武田時代である。
小笠原氏の政権基盤は南信濃であり、守護といえども豪族連合の盟主の立場は脆弱で、北信濃は村上氏、高梨氏が勢力を保持し、権力を盾に彼らの領域をを支配しようとするが、結果として大塔の乱(地方豪族が中央集権に対して反乱を起こした事件)に繋がっていった。

小屋城(村井城)を攻略し、その後深志城を拡張整備し郡代を置いた武田信玄はやはり格上であったのだ。

井川城跡 (12)
城域の南側の外堀としての頭無川。

井川城跡 (11)
櫓台跡。

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世間では、ここばかり強調されるが、周囲をキチンと見て歩く事も必要だと思うが・・・(汗)

≪井川城≫ (いがわじょう)

標高:585m 比高:-
築城年代:不明
城主;不明
場所:松本市井川城1-4452-ロ
攻城日:2017年2月5日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:-
見どころ:櫓台跡、周辺の河川
注意事項:耕作地、民家が混在するのでプライバシーには注意
駐車場:無し
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)
付近の城址:松本城、林大城、林小城など

井川城跡 (4)
600年前の遺構が残るのも奇跡であろう。

Posted on 2017/07/19 Wed. 23:26 [edit]

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7月13日は福島正則公の命日  

◆波乱万丈の64年の人生を閉じた、あまりにも有名過ぎた戦国武将の寂しすぎる終焉の地◆

本日、7月13日は、福島正則公の命日である。

歴史にそんなに興味が無くても、戦国時代に秀吉子飼いの部将として加藤清正と双璧を成す活躍で、最終的には安芸広島藩49万5千石の大大名となる。武断派・猪武者・大酒呑みとあまり後世の評価はよろしくないが、そのストレートな気質や武骨な忠誠心に惹かれるファンは多い。小生もそんな一人である。

だが、元和五年(1619)、広島城の無届修理により幕府より改易・転封を命じられ、信濃国高井野45000石となったその後の正則公の晩年と終焉の地を知る人は少ない。

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高井野陣屋跡(福島正則居館跡)に建つ高井寺(こうせいじ)。陣屋の取壊し後の移転だという。

【福島正則居館跡(高井野陣屋跡)】 (長野県上高井郡高山村堀之内)

詳細は⇒福島正則居館跡を参照願います。

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万座道路と呼ばれる県道54号線の脇に立つ標柱(高山村堀之内地籍)

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高井寺(こうせいじ)の山門には説明板がある。

大坂夏の陣で戦乱の世が終わりを告げ、福島正則公は、この陣屋で何を思い日々くらしたのか・・・。

寛永元年(1624)、福島正則公はこの屋敷で64年の生涯を終えたという。臨終に際して、彼の脳裏を横切ったのは、どんな事であったのだろうか・・・。

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巨大な石垣は福島正則時代のものではなく、高井野藩の領地没収後に勧進されたものであるという。


福島正則居館跡の場所。駐車場が無いので、200m東にいった道路脇の「JA高山選果所」の駐車場を借用のこと。


【福島正則公荼毘の地】 (長野県上高井郡高山村堀之内)

ここは福島正則公の霊に呼び出されるように、今回初めて訪問しました・・・(汗)

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たかやま保育園に向かって走ると道路脇に誘導看板がある。

道路脇から少し入った水田に囲まれた僅かな場所に「福島正則公荼毘之地」がある。

墓地ならまだしも、荼毘に付された場所が語り継がれることは少ないのだが、領民が一本の杉を此の地に植え、正則公の遺徳を偲ぶよすがにしたのが始まりだと伝わる。
その後成長し巨木となった杉の木は付近の領民より「一本杉」と呼ばれ崇拝される巨樹となった。

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嘗ての杉は昭和九年の室戸台風で倒れてしまい、現在は二代目の杉の木が植えられている。

寛永元年(1624)7月13日、堀之内館(福島正則公居館)で波乱に満ちたその六十四年の生涯を閉じた福島正則公。彼の遺骸は、幕府検使役の到着が遅れる中、家老津田四郎兵衛の計らいで、高井野のこの地で荼毘に付された。

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供養塔は最近の建立であろうか。

だが、幕府検視役の到着を待たずして正則公の遺体を荼毘に付した(火葬)罪を問われ、高井野藩二万石は所領を没収され改易となった。家老の津田が火葬を急いだのは、夏場における遺骸の腐乱が酷く検視を待ちきれなかったという説もあるし、正則公の死の原因を隠すためだとも言われているが、真相は闇の中である。

思うに、幕府が検視役を派遣してまでも福島正則の死を確認したかったのは、死を偽装した彼が豊臣勢力の再集結を画策することを恐れていたことに他ならない。
大坂夏の陣(1615)から9年の月日が流れても、幕府は福島正則への警戒を怠らなかったのであろう。

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説明板もしっかりあります。

福島正則公が荼毘に付された事に関しては、自刃を隠したという説も根強く残るのだが、自刃する理由が見当たらないのである。
豊臣家への不義理を理由に自刃するなら1615年の大坂夏の陣の終結時であろうし、広島藩からの転封に異議申し立てするなら1619年に華々しく広島城で籠城戦に及び幕府に挑むというのが彼らしいと思う。

もはや時代に抗う事を良しとせずに、風流に過ごした晩年という見方が自然に思えるが、どうであろうか。

そして彼の魂はここから 心安らかに天に召されたのであろう。

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「もはや武勇で優劣を決する時代は終わったのだ・・・」そんな声が聞こえてきそうです・・


福島正則公荼毘之地。駐車場は無いので、100m先の交差点の道路脇に駐車するのが良いかと。

【福島正則公霊廟】 (長野県上高井郡小布施町雁田)

ここは以前に記事にしているので、詳細は⇒福島正則終焉の地 を参照願います。

この日も結構大勢の観光客が参拝に訪れていました。彼の実直な人柄に対する人気の表れでしょうか・・・。

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福島正則公の霊廟のある岩松院。背後には雁田山の小城、大城があり、高梨氏の関連の山城と伝わる。

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山門の入口には霊廟の説明板がある。

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彼の亡くなった時期も紫陽花が咲いていたのであろうか。

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霊廟が今日まで続くのは、福島正則公がいかに破格の扱いであるかを端的に示している。

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三百八十年年忌って、ある意味で凄い・・・(笑)

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墓石をパチリ。

2024年に没後四百年となるので、盛大な法要が行われるのであろうか?

小生が没しても三日後には忘却の彼方であろう・・・・(笑)

そう考えてみれば、四百年後にも名が残る事は、マジで凄い事なのである・・・。



高山村や小布施町は葛飾北斎で賑わうが、戦国大名でも人気の高い福島正則が、晩年の5年間を過ごした地であることを知る人は少ない。
お近くをお通りの際には、是非彼の晩年の地をその目で確かめてもらえれば光栄である・・・。

Posted on 2017/07/13 Thu. 22:03 [edit]

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