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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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裾花ダム見学会 その1  

◆自然の猛威に対して絶対の防御システムでは無いダムを理解する◆

西日本の豪雨災害に際してましては、被害を受けられた被災者の方々には心よりお見舞い申し上げます。

今回の災害では愛媛県の野村ダム、京都府の日吉ダムの緊急放流が洪水被害を拡大させたとして、かなり厳しい意見が述べられている。

そんな最中の7月28日・29日に裾花ダム見学会を敢えて開いた長野県企業局の勇気ある決断には敬意を表したい。

そしてダムの役割は「防災」ではなく「減災」という新たな認識を持つべくその見学会に参戦してきた。(ヒマ人の言い訳か・・)

奥裾花ダム (39)
裾花川の源流に建設された奥裾花ダム。(長野市鬼無里 1980年完成)

小生も知らなかったが、毎年夏休みのこの時期に開催しているというダム見学会。土・日の開催は今回が初めての試みだという。


【奥裾花ダムのデータ】

所在地:長野県長野市鬼無里(きなさ)
河川名:信濃川水系裾花川(すそばながわ)
型式:重力式コンクリートダム
ゲート:コンジットゲート×1門
     クレストゲート×2門
堤高・堤頂長:59m・170m
総貯水量:540万㎥
管理者:長野県
本体工事/完成年:1972年/1980年

奥裾花ダム (1)
先日の豪雨で流木留めのフェンスを越えて滞留している流木。大きい樹木はクレーン車で吊り揚げて撤去するのだという。

奥裾花ダム (8)
ダム湖。

奥裾花ダム (6)
ダムの下方には発電所が2基あり、奥が最近増設された新しい発電所。

奥裾花ダム (7)
ダムの頂部。(長さ170m)

【ダム操作室とダム内部の見学】

ダム見学会ではふだん見る事の出来ない場所を見学させてもらえる。そこが嬉しいし、ダムに親しみを感じる瞬間である。

ブラタモリで紹介された黒部ダムには遠く及ばないが、「オラー、わくわくすっどー!!」(野沢直子の物まねで・・・・笑)

奥裾花ダム (15)
管理事務所二階にある操作室。反対側には巨大な「ダムコン」と呼ばれる放流制御コンピュータが2基設置されている。

奥裾花ダム (14)
奥裾花ダムから裾花ダムまでの下流には21カ所のサイレン警報施設があり、緊急放流の際にはここから操作発令を行うという。

ダムの内部には地震計が「頂部」「中間」「底部」の三ヶ所設置され手万全を期している。

奥裾花ダム (17)
頂部の地震計

奥裾花ダム (19)
ダム内の通路。小生の背丈が182なので200ぐらいの高さであろうか?

ダムの中央の洪水吐(コンジットゲート)は油圧式のラジアルゲート。ふだんは貯水池地から発電所経由で下流に放流しているのでゲートが開く事なないが、大雨や雪解けで通常の水量よりも多くなった時に水量調整のために開く。
※「洪水」(こうずい)というと河川が溢れる溢れるイメージだが、河川用語では通常の水量を超える状態を「洪水」と呼ぶ。

なので、この中央の洪水吐(こうずいばき)は「常用洪水吐」とよばれダム設計時の想定内の水量を調整するために開閉するが、想定外の水量でダムの上を乗り越えて溢れるのを防ぐのが「非常用洪水吐」。

奥裾花ダム (40)


今回西日本の豪雨災害で問題とされているのは、二ヶ所のダムがこの非常用洪水吐を開けて緊急放流した際に下流域に対して事前の通知が遅れ、結果として非難に充分な時間が確保されなかった為に住民が逃げ遅れ災害を拡大させたのではないか、という点である。

行政側を言語するつもりはないが、非常用洪水吐を開けなければダム自体が決壊してしまい想像できない被害が生じる事を考えた場合には、やむを得ない措置だったと思うが、当時の事実をしっかりとj検証して公表いただき教訓として次に生かして欲しいと考える。

奥裾花ダム (22)
常用洪水吐の中央ゲートを上部より撮影。放水量を開口操作において「cm」単位で調整するのだという。

奥裾花ダム (27)
中央洪水吐ゲート操作の装置。何故か「エイリアン コヴェナント」の場面を思い出す・・・(笑)


奥裾花ダム (29)
中央洪水吐の点検をするためには誤って放流しない為に予備ゲートを閉める。その為の制御装置。

奥裾花ダム (32)
中央洪水吐ゲートから発電所を撮影。見学会ならではの撮影スポット。

奥裾花ダム (33)
正面に見える岸壁工事は最近の崩落事故の修復。この辺りは毎年のように自然災害が発生し奥裾花自然園は通行止めのままだ。

奥裾花ダム (34)
雪解けの春先には矢印のラインまで水面が上がるそうです。

【過去に一度だけ開いた非常用洪水吐】

企業局の方の説明では、過去に一度だけ非常用洪水吐を開いた・・それが平成7年7月11日の長野県北部豪雨災害であった。

係員の方は「平成のセブンイレブン豪雨災害」として語り継いでいるそうで、ダム決壊の危機に瀕した緊迫の状況の中で、当時の長野県知事の指令により非常用洪水吐から放水した。

この時は、下流の裾花ダムとの連携により、裾花ダムは非常用洪水吐の放水をギリギリまで耐えた為に長野市内の浸水による被害は辛うじて逃れる事が出来たという。素晴らしい英断だと思います。

奥裾花ダム (41)
鬼女紅葉伝説の里を流れる裾花川の源流。

今宵はここまで。次回は裾花ダムということでご容赦くだされ・・・(笑)


Posted on 2018/08/01 Wed. 21:49 [edit]

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城山 (北佐久郡軽井沢町峠町)  

◆碓氷峠を見守る眺望に優れた烽火台◆

今年の酷暑は例年になく異常で、寒暖差で日中は気温が高くても夜になれば涼しいはずの信濃国でも寝苦しい夜が続いている。

避暑地の軽井沢も連日の最高気温は30度を超える日も多く、都会並みの人の群れが気温上昇に拍車をかけているようだ。

今回ご案内するのは、そんな軽井沢の旧碓氷峠の城山と呼ばれる見晴らし台(烽火台跡)である。

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碓氷峠の頂上に祀られる熊野神社。城山の対面に位置し神社の西半分は長野県、東半分は群馬県に地籍を置いている。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (28)
お手軽に国境を楽しみたい方はこのプレートの上を反復横跳びすると良いだろう・・・(良い子はマネしないでネ・・・汗)

※この「城山」については、「定本佐久の城」(1997年 郷土出版社)のP172の解説を引用しますのでご了承ください。

【城山】

伝えられている城山は、旧碓氷峠の南西に位置している。現在は峠の名所の一つの見晴らし台となって多くの観光客が訪れ、一望千里の眺めをほしいままにする。
近くを通る碓氷峠は古い時代から交通の要所で、頂上には熊野権現が祀られている。この神社には正応五年(1292)奉納の梵鐘があることから鎌倉時代には鎮座していたと思われる。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (25)
最近はパワースポットとして宣伝されているようで、この日も残雪残る中を女性グループがお参りしていた。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (26)
熊野神社の狛犬。室町時代の作と伝わり長野県では最古の石造の狛犬だという。なかなか愛嬌があってほっこりする。

城山については、大正元年(1912))刊「かるゐざは」と昭和二十八年(1953)刊「町誌 軽井沢」のなかで、戦国時代に烽火陣営の設備があり非常時に備えた事、正平年間(1346-1370)峠での合戦に神宮滋野八郎一族三十余名が新田軍に属し戦った(太平記二十一巻)ことなどを紹介している。

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まあね、お賽銭箱が二つあるので両方入れないと霊験の効果が薄い(碓氷)かと・・・・(笑)

天文・永禄・天正にかけて城山を挟んで合戦があり、ここからほど近い陣場ヶ原では武田軍と上杉軍が大軍でぶつかりあったほか、近傍の烽火台の大塚山にも武田軍が陣地を構えた。
天正十一年(1598)には近辺の堀切で豊臣軍と小田原北条軍の合戦もあった。 ※刎石堀切参照

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (20)
熊野権現の登り口にある地図。陣場ヶ原(じんばがはら)という合戦場跡はこの私設し地図で初めて知った。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (21)
堂峰番所とか坂本城とか懐かしい。

こうした戦の中で城山は砦の役割を持ったようである。
永禄六年(1563)武田軍から軽井沢の佐藤氏に上信国境の警備を命じた文書が残っており、砦と烽火台の役割を持ちつつ街道輸送の重要な拠点でもあった。城山はこのときも何らかの役割を果たしたものと思われる。

※以上、引用終わり。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (17)
見晴らし台は大正七年に名古屋市の近藤友右衛門氏が独力で開発整備を行い、その後軽井沢町に寄付したという。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (4)
城山の頂部。公園化により改変されたが、往時もかなり広い単郭である程度の兵数は収容出来たと思われる。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (5)
味わいのある説明板。

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見晴らし台にも熊野神社同様のボーダーがありまして・・・。

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一望千里とはこのことかしら・・。

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (7)
それとも大江千里はニューヨークかしら・・・(笑)

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (8)
厳寒期の冬は使われなかったと勝手に解釈しているが、どうであろうか。

古くは関東から京へ通じる東山道の要衝、江戸時代には江戸に繋がる北国街道の要衝として関所が置かれていた。

最近、城山の近くの碓氷峠にて織豊時代の陣城発見のニュースが世間を騒がせた。
小生もいの一番で陣城の調査に訪問した・・・野次馬根性丸出し・・・(汗)

詳しくは⇒碓氷峠の陣城参照。

ここのロケーションは、碓氷の陣城も利用したと想定される。

景勝・利家そして昌幸も、ここに立ち、北条軍との戦評定をj開いたのかもしれない・・・

碓氷峠見晴台(軽井沢町) (14)
遺構らしきものは何もないのだが。

≪城山≫ (じょうやま)

標高:1204.9m 比高226m (矢ヶ崎川 二手橋より)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:北佐久郡軽井沢町峠町
攻城日:2016年3月6日 
お勧め度:★★☆☆☆ 
城跡までの所要時間:5分  駐車場:有り(有料なので手前の林道脇に路駐もあり)
見どころ:景色のみ
付近の城跡:熊野権現、碓氷の陣城、城尾根砦
注意事項:特になし
参考書籍:「信濃の山城と館① 佐久編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、「定本佐久の城」(郷土出版 1996年)など



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軽井沢駅付近の大賀ホールから見た城山。

Posted on 2018/07/25 Wed. 22:30 [edit]

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水の手城 (リテイク 上田市東内)  

◆2010年の心残りを2015年にリベンジして、2018年ようやくお披露目となる◆

今思えば、初心者の頃は険しい山城に挑む時、気力だけではカバーできない現実を思い知る事が多々あり、数多く挫折してきた。

体力ももちろんだが、積み重ねた経験値が何よりも重要なファクターなのだと最近つくづく思うのである。
といっても、年を重ねれば体力的に到達が困難な山城があるので、行けるうちに行かないと後悔するという矛盾もある・・・(笑)

でもね、あの頃の山城に対する情熱は今の比ではなかったと懐かしくさえ思う・・・「好き」を続ける事は難しい・・・(汗)

今回リテイクしてお届けするのは、駆け出し故の激しさで体力配分を間違えて自滅した水の手城である。

水の手城2 (1)
鳥羽城の攻略後に水の手城へ。途中で足の筋を違えてしまい、苦痛に顔を歪めながらの攻略となってしまった・・(汗)

水の手城2 (3)
A地区の最初の段郭。連郭式で削平も甘く年代もかなり古く、初期の水の手城の姿である。

【立地】

依田窪地区を流れる依田川水系の内村川の左岸、東内の富士嶽山(1034.3m)から南東へ延びた尾根上に水の手城がある。この山は急峻な岩山なので、東尾根筋から登る。

水の手城見取図①
城域は広く、4区域から成る。随時拡張されていったと見るべきであろう。

【城主・城歴】

「長野県町村誌」に「和子組 子の方(北)四町山上にあり。東西十五間、南北十間塁址あり。東に古井ありて四時水を湛ゆ。西に大堀切一条あり。深さ一丈八尺、北は峻険歩を進め難し・・・」とあり、城歴についてはふれていない。

水の手城2 (7)
スミマセン、堀切㋐ではなくて㋑でした・・・(汗)

水の手城2 (9)
A地区最終の郭。周囲は岩場で囲まれている。

【城跡】

ここは宮坂武男氏の解説に従い、A・B・C・Dの四区画に分けて見てみよう。年代順に拡張していった経緯が読み取れる。

●A地区

東尾根の先端で三方は急斜面で人を寄せ付けない。二条の堀切を認めるが、郭の削平は曖昧。西端の岩盤で囲まれた高所が往時の主郭であろうか。ここからB地区に行くには岩盤北側の斜面を慎重に移動しないと辿り着けない。

水の手城2 (10)
A地区の最高所から見る鳥屋城。居住区間というよりは物見の部類であろう。

●B地区

堡塁1・2の二つの岩峯と沢筋の平地郡で構成される。堡塁2の背後に二ヶ所大きな平場があり、居住区と推定される。今回は足の故障で探索を断念したが、沢筋に湧水場があり、これが水の手と呼ばれ城の名の由来であろうか。

水の手城2 (13)
A地区からB地区への移動は滑落の危険があるので神経と体力を使う。北側の斜面にう回路があるが獣道である。

水の手城2 (15)
「こんな山の中で何やってんだろうオレ!」・・・自問自答は毎度の事である・・(笑)

水の手城2 (17)
堡塁1。さて、この急斜面を満身創痍でどうやって登れというのか・・・(汗)

水の手城2 (23)
堡塁1から眼下の国道254号線。

水の手城2 (25)
堡塁2に続く尾根筋。西側の居住区(逃げ込み城)の物見であったと想像される。

水の手城2 (29)
B地区の西側の居住区。2010年はここで矢尽き刀折れたのである・・・(汗)

水の手城2 (30)
恐らく沢筋から上がったこの尾根筋(B地区とC地区の境)は古道が走り「乗り越し」であったと思うがどうであろうか。

ここで右足が悲鳴を上げていたが、騙し騙し未だ見ぬC地区・D地区へ・・・・・・・・・・・・・・・辛かった・・・・・。


●C地区

水の手城の中心部分である。主郭の東下に石積みで補強された段郭を置き、主郭は28×11の楕円形で南側に虎口が開く。背後は二重の岩盤堀切が遮断。一条目は北側斜面に竪堀となり下る。オーソドックスな作りだが三方の傾斜が厳しいのでこの程度でも充分な防御力がある。

水の手城2 (35)
岩盤で屈強に補強された主郭手前の段郭。

水の手城2 (37)
主郭から見下ろした段郭。その先には内村川流域の旧丸子町の市街地が広がる。

水の手城2 (38)
5年越しのリベンジで辿り着いた水の手城の主郭(28×11) 後方に土塁が確認できる。

水の手城2 (40)
主郭背後の岩盤二重堀切。足の痛みを忘れる一瞬がここにありますw

水の手城見取図①
再度見取図を掲載しておきましょう・・。

水の手城2 (49)
この城域最大の堀切㋒。上巾9mの圧巻の岩盤堀切。

水の手城2 (56)
堀切㋓。上巾3mだが、堀切㋒のサポートなのでこの程度でも機能する。

●D地域

尾根に居住空間を新たに築いたとは言い難く、退路の確保を行うための戦闘空間であろうか。特に堀切も無いので、主郭の後詰めの兵士を置いたようでもある。或いは櫓台でも置いたのであろうか。

水の手城2 (63)
D地区の郭。

水の手城2 (64)
郭の中央にある櫓台跡。

水の手城2 (66)
D地区の西側は堀切など無く尾根伝いで地山に続く。

水の手城2 (4)
水の手城のリベンジには鳥羽城に引き続き「ていぴす殿」にお付き合い頂いた。(写真はA地区)


≪水の手城≫ (みずのてじょう)

標高:900m 比高330m (C地区)
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市東内和子
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥羽城、鳥屋城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しのため尾根の北側をトラバースするので滑落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、長野県町村誌など
SpecialThanks:ていぴす殿

水の手城2 (75)
西内郵便局付近から見た水の手城の遠景。

Posted on 2018/07/05 Thu. 21:59 [edit]

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駆逐艦 涼月 (AOSHIMA製)  

◆終戦後は防波堤として日本の港を守り続けた秋月型3番艦◆

軍艦プラモというと、どうしても初心者は花形の航空母艦や戦艦に偏りがちである。

小生も間違いなくセオリー踏襲の一人であるのだが、最近巷では、駆逐艦が進化して面白い事になっているらしい・・・。

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恥ずかしながら、艦船プラモ制作人生においては、「駆逐艦 雪風」に次ぐ2番目の駆逐艦制作である。

先日、終戦直後に長崎に係留されていた駆逐艦涼月(すずつき)の米軍による査察の未発表のビデオが公開された様子を、偶然にニュースで見た。

翌日、プラモ販売店で「駆逐艦 涼月」を偶然にも見つけてしまい衝動買い・・・・(笑)

涼月&北上
同時にプラモ塗装着工した重雷装艦北上の船体との比較。実際には約30mほどの全長の差がある。

【艦歴】

昭和17年12月28日、長10サンチ砲を搭載する防空駆逐艦秋月型の3番艦として三菱造船所で竣工した。竣工後、秋月、涼月、初月、若月の4隻で題1駆逐隊を編成した。涼月の初陣は、昭和18年3月22日に航空基地用物件の輸送任務であった。
5月22日、この任務終了とともに本土へ帰還する際に、戦艦武蔵を護衛して横須賀に帰投した。その後、船団護衛と輸送作戦に従事していた。
昭和19年に入ると、二度に渡って米潜水艦の雷撃により艦首切断の大損害を被ったが、そのたびに復旧し戦線に戻るという武運の強さをみせた。

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老眼進行中なので、この手の小さな艦のパーツ組み立てはホントしんどい・・(笑)

昭和20年4月6日、涼月は大和水上特攻作戦である天一号作戦に参加し冬月とともに戦艦大和の護衛にあたった。涼月は、大和防衛のために対空射撃を行ったが、米軍機の猛攻を受け、艦橋全損、機関部並びに船体前部切断損傷という大被害を受けて行動不能となった。
海戦後、涼月は撃沈されたものと思われていたが。後進で何とか佐世保港に帰投することに成功し急遽ドッグに収容された。

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ある程度組付けしてからブラックサーフェイサーで吹き付けてその上から塗装する方法が最近は主流らしいが、ここは従来塗装で。

佐世保工廠で修理された涼月は、艦橋を角型の簡易構造に変更され機関部の動力は回復されることなく佐世保港の防空砲台として鎮座した。
そのまま終戦を迎えた涼月だったが、戦後は船体より上の構造物を撤去され、姉妹艦冬月と共に福岡県若松港の防波堤となり、コンクリートで補強され覆われた今はその姿を見る事は出来ないが、祖国を守り続けている。

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雪風とともに戦艦大和の最後を見届け、辛うじて帰還が出来た数少ない武功艦である。

【駆逐艦 涼月 諸元表】

基準排水量:2,701t
水線長:132m
最大幅:11.6m
馬力:52,340馬力
速力:33.58ノット
主砲:10cm 65口径×8
魚雷発射管:61cm×4 1門
竣工年月:昭和17年12月29日

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駆逐艦の製作は雪風に次ぐ2作目でしたが、ようやく慣れてきました・・・(笑)

【軍艦防波堤】(正式名称:響灘沈艦護岸)

軍艦防波堤(ぐんかんぼうはてい)は北九州市若松区響町の北九州港にある防波堤の通称。
運輸省第4港湾局により構築された長さ770mの防波堤のうち約400mを、駆逐艦「涼月」「冬月」「柳(初代)」の3隻の船体を沈設して作られた。

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こんな感じで駆逐艦3隻が防波堤として埋まっており、先頭の「柳」のみ形が辛うじて確認できるという。

軍艦プラモオタクの聖地として、いつか巡礼の旅に出て祈りを捧げたいものである・・・・。


Posted on 2018/06/27 Wed. 21:34 [edit]

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鳥羽城 (上田市腰越深山 リテイク)  

◆7年前の未熟さを3年前にリベンジして、ようやく本日お披露目となりました◆


一昨日発生しました大阪北部地震で被害に遭われた方に心よりお見舞い申し上げます。微力ながら信濃の山国より余震が収まる事を願うばかりでございます・・・・・・・。

さて、今回ご案内するのは鳥羽城のリテイク記事である。2011年といば、小生が山城探訪を始めてまだ2年目の青二才の頃である。

とりあえず見よう見まねで始めたスタンプラリーのような山城巡りだったので、遺構もへったくれも無くて、とにかく城跡の中心に辿り着ければ満足していた。

今思えば、ずいぶんともったいない事をしていたが、その後再訪問する事で二度美味しいと思えるようになったので何より・・(笑)

鳥羽城2 (5)
今回も鳥羽館跡と推定される龍福寺の脇の土手から尾根伝いに登る。

鳥羽城2 (7)
鳥羽稲荷大明神の鳥居の先に尾根があるので迷うことは無い。

【立地】

依田川へ武石川が合流する所の西の山が鳥羽山で、鳥羽氏の居城と伝えている。ここには同氏が安置した矢除観音があり岩堂が三つあり、矢除観音の奥の院で往古戦闘の際に伏兵を置いた所という。
鳥羽館跡から尾根を詰めても攻略出来るが、途中で道が無くなりスリリングな刃渡りを強いられるので体力・技術を要する。

鳥羽城2 (8)
20分ほど尾根を辿ると道が消えるので、手足をフル稼働させて前回主郭と間違えたピークに登って小休止。

鳥羽城2 (14)
転落したら絶対助からないであろう岩場の刃渡り。一人がやっと通れる幅しかないので通過するまでに極度の緊張を強いられる。

鳥羽城岩盤
度胸だけでは通れない岩場。


鳥羽城2 (18)
刃渡りから見た依田川流域の諸城。烽火台としても及第点の立地であることが分かる。

鳥羽城2 (17)
鳥屋城保存会の方々には大変お世話になりながら、恩返しができず申し訳ありません・・・(汗)

鳥羽城2 (20)
丸子城⇒根羽城⇒鳥屋城と峰続きなので縦走した方もいるらしいが、ここは効率を考えると個別攻略が良いかと・・・(汗)

【城主・城歴】

小県郡史(大正十一年発刊)には鳥羽「城址」として以下の記載がある。

鳥羽城は丸子町腰越區鳥羽山の字深山屋敷にある山城なり。本郭は東西十二間半、南北八間半許あり。東に凡二間許低下して一郭あり。二の丸といふ。東西四間半、南北八丁許あり。又下ること三間許にして一郭あり、三の丸といふ。
東西六間半、南北十間半許。本郭より西北に一郭あり。東西六間、南北四間。同じく東南に降りて一郭ありて東西六間、南北十五間。鳥羽山は四方峻険にして、南より西に亘りて依田川をめぐらし、東に深山の集落ありて、丸子・佐久方面に連絡す。里傳に鳥羽氏の居城にして、天文中福島肥後守之に拠るといふ。
福島肥後守は佐久郡芦田城主依田信蕃の組下にして此城に居る(千曲真砂) 天正十一年三月二十二日岩尾城の戦に主従共に戦死して廃城となる(信濃細石)

鳥羽城見取図②

【城跡】

麓の居館とは別に、険しい岩山の山頂に築かれた詰め城にも戦闘施設と居住空間が区分けされている。
見取図では、鳥羽山のピーク周辺は土塁で囲み三方の尾根を堀切で遮断し厳しい防御を敷くものの、北尾根筋の東斜面は小屋掛けを意識した二つの広い削平地が造成され、段郭まで置かれている。
加工度は高くないが、東西は険しい断崖で人を寄せ付けず、登城口もかなり制限されるので、少数での防衛には向いているだろう。

鳥羽城2 (24)
根小屋か?と思うほど丁寧に削平された郭。小屋掛けに最適である。

鳥羽城2 (25)
この高所では井戸も無理なので天水溜を備えたか。

鳥羽城2 (30)
日当たり良好の優良物件。逃げ込み城としての機能もあったと思われる。

鳥羽城2 (34)
宮坂先生の縄張図では根小屋から東麓の深山集落に通じる山道が描かれていたが、途中で寸断され辿る事は無理だった。

●鳥羽城の中心地区

居住空間から土橋状の土塁を南へ進みピークの主郭を目指す。堡塁から高低差を利用した堀切㋐で遮断された尾根はかなり厳しい処理で攻城兵を迎撃する。

鳥羽城2 (40)
居住区から本城へ。

鳥羽城2 (41)
堀切㋐の手前の堡塁。

鳥羽城2 (44)
高低差を利用した堀切㋐。かなり厳しい落差である。

鳥羽城2 (50)
堀切㋐を西側より撮影。あっ、ていぴす殿が写り込んでる・・・・って心霊写真かい!(笑)

鳥羽城2 (54)
主郭手前の段郭。周囲を囲む土塁は曖昧な処理に終わっている。

鳥羽城2 (58)
石碑の建つ主郭(22×14)。

主郭には「鳥羽氏先世塁址」と記された石碑が建っている。運び上げるのは結構大変だったと思われる。

主郭の石碑は「福嶋氏石碑」で、「長野県町村誌」に宝暦四年「宝暦四年、伊勢御師福島某、本村鳥羽城本丸跡へ石碑を建て、鳥羽氏の旧地のある事を明にす。石碑南向きにして、正面に鳥羽氏先世塁址と記し、左に孝孫従四位下度会神主未済建、右に宝暦四年三月」と詳細が記されているという。

鳥羽城2 (61)
1744年にこの石碑をここまで持ち込む執念とは・・・(汗)

鳥羽城2 (63)
主郭の西側の土塁壁。風化が進んでいる。

●南尾根の処理

主郭から伸びる南尾根には堀切一条を置いて郭4を置いている。依田川からの敵を想定しているが、岩場が連続するので堀切の防御だけで充分だったようである。

鳥羽城2 (65)
南尾根と主郭を遮断する堀切㋓。上巾6m。

鳥羽城2 (66)
郭4(20×10)

●北東尾根の処理

大手を北尾根の麓にある鳥羽館とするか、北東の尾根先の深山集落方面とするかで大きく変わる。
実際に現地を歩くと、大手は深山集落から登る東尾根で、北尾根は搦め手のようである。が、しかしこれは鳥羽城の最終運営時点の話であり、当初は根小屋などなくピークに物見を置いた単純な作りだったと思われる。

鳥羽城2 (74)
主郭と郭2の間の堀切㋑。かなり埋もれてしまい不明確になっている。

鳥羽城2 (75)
北東尾根はオーソドックスな連郭方式。

鳥羽城2 (77)
郭2。

鳥羽城2 (81)
削平の途中で造成工事が止まったような郭3。

郭3の先は段郭を重ねて堀切㋒を間に挟むシンプルな縄張であったが、鳥羽城の正攻法はこのルートなので、セオリー通りの処理であろう。

鳥羽氏の孫が福嶋を名乗り、信玄の幕下となり鳥羽城の城主となって、武田氏滅亡後は依田信蕃の家臣となり岩尾城の戦いで信蕃と共に討死した。
伝承を鵜呑みにする訳にはいかないが、城歴を知る事で鳥羽城への見方が変わるのもまたしかり。

鳥羽城遠景
依田川沿いから見た鳥羽城遠景。

≪鳥羽城≫ (とばじょう)

標高:843.8m 比高:290m 
築城時期:不明
築城・居住者:不明
場所:上田市腰越深山
攻城日:2015年3月15日 
お勧め度:★★★☆☆ 
城跡までの所要時間:45分  駐車場:無し
見どころ:景色、堀切、土塁、郭など
付近の城跡:鳥羽館、鳥屋城、鳥屋山砦、根羽城、丸子城など
注意事項:ある程度の体力と技術、山城踏破の経験値は必要。岩盤剥き出しの痩せ尾根は転落注意。
参考書籍:「信濃の山城と館③ 上田小県編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)、小県郡史など
SpecialThanks:ていぴす殿

Posted on 2018/06/20 Wed. 21:34 [edit]

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