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らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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権田城 (高崎市倉渕町権田)  

◆権田淡路守が築き大戸但馬守が居城したと伝わる城◆

10月初旬の三連休だったが、山城への訪問意欲も湧かずどうしたものかと・・・・(汗)

その気の無い女子を口説いても仕方がないので、その気になるまで待つ・・・そんな心境ですかネ(笑)

今回ご案内するのは、高崎市倉渕町シリーズ第三弾の「権田城」(ごんだじょう)。

権田城 (39)
城址周辺の生活道路は狭いので、麓の東善寺の駐車場をお借りして車を捨てて徒歩で巡りましょう。

【立地】

高崎から東吾妻へ向かう草津街道(国道406号線)の倉渕町権田、倉淵小学校の裏手の丘陵上の高台に位置する。ここからは権田地域はもとより烏川流域の交通路や大明神の砦、天狗山の砦と連絡が出来る。この場所は、吾妻郡の大戸口あるいは大笹口へ通じる交通の要衝で、軍事的にも重要な拠点であった。麓の元村には刀工権田政重の屋敷跡が残る。

権田城見取図①
耕地化による改変もあるものの、往時の凡その縄張りはそのまま残っているようだ。

権田城 (3)
堀切㋐は耕運機置き場のようだが、しかっり残っている。

適当に登って城跡の標柱を見つけてひと安心・・(笑)
農作業中のおじさんが地主さんだったので、許可を頂き権田城の見学。信州上田から来たといったら驚いてましたが。

権田城 (5)
郭1と接続する長大な竪堀㋒の間に農道が通るが、本来は何もなかったはずだ。

【城主・城歴】

口碑によれば、この城は権田淡路守の居城であると言われている。その後、箕輪の長野氏に属した大戸城の大戸真楽斎の支配下に入り、権田城はその舎弟大戸但馬守が居城とした。武田軍の上州への侵攻が始まると大戸氏はいち早く武田氏に降り、真田氏の配下として大戸の要衝を守った。
武田氏が上野国の西毛地区を占領すると、大戸真楽斎は石倉の砦の守備についたり、勝頼に従って広木大仏の戦いに大戸八郎三郎を派遣している。

権田城 (6)
北側に土塁の残る主郭は40×38の方形。

天正十年(1582)、本能寺の変で信長が横死すると、上野国を支配していた滝川一益は上方に去り、北条が上州の支配を狙い岩櫃城の攻略の為に大戸へ侵入してきた。
勝頼亡き後、岩櫃城の城代であった真田昌幸の配下となった大戸真楽斎は、舎弟の但馬守と共に三ノ倉で北条勢を迎え撃つが、多勢に無勢でこれを支えきれずに大戸城まで後退。大戸城で三日間の籠城戦に及ぶが衆寡敵せず大戸真楽斎は討死し、大戸城は落城し北条勢により大改修され岩櫃城攻略の最前線の拠点となった。

権田城 (9)
郭1と郭2の間の堀切㋑は上巾12m。耕地化により埋められたようだが、辛うじてその痕跡は残っている。

大戸兄弟による三ノ倉迎撃戦で、権田城は大明神山の砦や天狗山の砦と共に防衛拠点として機能していたと思われるが、圧倒的な兵力差に為すすべもなく自落したと考えられる。

権田城 (15)
郭2から対岸の天狗山の砦と大明神山の砦を臨む。

「加沢記」によれば、北条勢に占拠された大戸城は、真田信之の奇襲により奪還されたとするが、信憑性は定かではない。
その後も東吾妻郡への北条勢の侵攻は続くが、小田原の役が勃発すると撤兵。
その後、徳川氏の北条領への転封により、大戸、権田、三ノ倉は松平近正に与えられ、三ノ倉城を居城とした。権田城はその後廃城になったと思われる。

権田城 (17)
鷹さ6mの切岸を介して郭3.

権田城 (19)
なーんだ、農地かーと思うと見落としてしまう土塁。

権田城 (20)
高さ7mの切岸を介して郭4.

【城跡】

城は上ノ久保から東は鉄火、北は高座、南は花輪に至る南北に、300m。東西最大幅150mの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。
東西50m南北40mの本丸と、その南側の空堀と接して二の丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦め手は北にあり、南西には珍しい笹曲輪がある。
※標柱の説明板より引用

権田城 (24)
3と3‘は農道で分断されているが、元々は一つの郭であろう。

権田城 (12)
城域の東側には長大な箱掘。途中埋められているが、全長は200mに及ぶ。

権田城 (35)
巨大な箱掘は通路としての機能もあるようだ。北条氏による改修も考えられると思うが、どうだろうか?

権田城 (30)
郭5から郭3方面。改変が著しいが、ここらへんが城の最南端であろう。


≪権田城≫ (ごんだじょう)

標高:556m 比高:85m (国道406号線より)
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏、大戸氏
場所:高崎市倉渕町権田
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★★☆☆
城跡までの所要時間:15分 駐車場:東善寺借用
見どころ:土塁、堀切、切岸など
付近の城跡:木戸沢番所、刀工権田屋敷、大明神山の砦、天狗山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:農耕地なので、許可なく農地に入らない事
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



権田城 (1)
東善寺の駐車場より見た権田城。

Posted on 2018/10/08 Mon. 21:09 [edit]

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特設航空母艦 大鷹 (迷彩色仕様 AOSHIMA製)  

◆日本郵船の客船「春日丸」を改造して出来た特設空母◆

旧日本海軍の航空母艦は、何故か途中から艦種が変更されたり、民間の商船や客船が改造されたりした変わり種が多い。

それが造船技術の最先端を走る日本人の手にかかると、独特の美しいシルエットとなり他国には真似の出来ない仕上がりとなる。

船体にだだっ広い艦載機用の甲板を載せただけの空母が、軍艦プラモの中でも人気が高いのはその生い立ちと個性的な容姿、そしてその数奇な生涯が我々を魅了し続けるせいなのであろうか。

今回ご案内するのは、日本郵船の客船三姉妹として最後に竣工しその後改造空母第一号となった「大鷹」(たいよう)

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大鷹の迷彩模様は色々諸説あるが、難易度の高い迷彩にチャレンジしてみた。


≪大鷹≫ ※アオシマ文化教材社の解説文引用し一部変更

特設空母大鷹は、初め、日本郵船のN、Y、Kを頭文字に使用した貨客船の三番艦春日丸として、竣工後は南米西海岸に配船される予定で、昭和15年9月15日三菱長崎造船所で進水した。しかし、進水直後に予定が変更され、特設空母として改造することになって、11月より仮称艦名1003番艦として工事に着工した。
船体工事の大部分と艤装工事の約三割を長崎で行った上、翌16年5月1日佐世保軍事工廠に回航され、9月5日に完成した。佐世保に回航された日をもって海軍に徴用され特設航空母艦の第1艦となった。
※日本郵船の一番艦は新田丸、二番館は八幡丸(やわたまる)

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甲板の迷彩模様は曲線用のマスキングを使用してエアブラシで色分けするがかなり苦戦。細かい部分は筆で修正。

春日丸の改造は徹底的に行われ、外見からも商船としての痕跡が認められない程であったから、たとえ戦後まで残ったとしても、元の商船には戻れなかったであろうと思われる。
大鷹は航空母艦として戦争直前に就役したので、その改造工事はその後続いて実施された二番艦の八幡丸、一番艦の新田丸などの改造における貴重な経験となった事はいうまでもない。

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艤装してマストを立て、甲板に白線デカールを貼り付ける。

開戦時は正式空母竜驤と共に第四航空戦隊を編成し、第一航空戦隊に入ったが、その後昭和17年8月に正規の航空母艦として軍艦籍に編入され、この時から名を正式に大鷹と改めた。
予想される日米艦隊決戦に際して、特設航空母艦は艦隊用補助空母としての役割を期待されていた。

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側面にウェザリング(錆・汚れ)を施す。経年劣化の表現として最近の流行りだが、これを嫌うモデラーもいらっしゃいます。

しかしながら、大いなる犠牲と努力を払って改造した航空母艦も、結果的に見れば各艦のいずれもが船団護衛と飛行機の輸送実績を示した程度で、米国の商船改造空母の活躍と比べると著しく見劣りがする。
また、大戦の中盤以降に登場した比較的大型の天山や彗星、彩雲などを小型で速度の遅いカタパルトの無い特設空母が実践で運用するのはほぼ不可能であった。
※後半に天山用のブースターロケットの開発運用に成功し、同時運用12機が可能だったという。

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艦載機も手を抜かずに・・・(笑) 上から零線52型、彗星12型、天山12型

改造空母の一番艦として進水した大鷹は最後まで海戦と称するような華々しい舞台には一度も登場することなく、航空機、人員の輸送、船団の護衛などの地味な任務に就いていたが、昭和19年8月18日深夜、阿波丸、帝亜丸、能登丸、能代丸など14隻を護衛してルソン島の北西岸を南下中、米潜水艦ローセル号の雷撃を受けて沈没した。

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航空母艦用のカタパルトが開発に成功していれば、特設空母だって活躍出来たはずなのに・・・・残念。

ちなみに日本郵船の一番艦新田丸は特設空母「冲鷹」(ちゅうよう)、二番艦八幡丸は特設空母「雲鷹」(うんよう)。

この三姉妹が戦後まで生き残ることは無く、貨客船として再び脚光を浴びる事もなかったのである。

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仮のディスプレイケースで軽巡洋艦北上と並べてみる。全長は北上が162m、大鷹は180mなのでそれほど変わらない。

Posted on 2018/09/29 Sat. 16:36 [edit]

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天狗山の砦 (群馬県高崎市倉渕町)  

◆北条の侵入に備えて真田昌幸が築いたと伝わる砦◆

前回の記事の巻頭カラーの迷彩塗装の軽空母「大鷹」が好評だった・・・全く本文と関係ないのだが・・・・(笑)

今回ご案内するのは高崎市倉渕町シリーズ第二弾の「天狗山砦」である。

昌幸パパの名前さえ出せば、閲覧数はうなぎのぼりになるのか・・・??

天狗山の砦 (1)
登り口は麓の「角落山大権現」(つのおちやまだいごんげん)の赤い鳥居。ここからひたすら参道を登る。

【立地】

烏川の右岸、大明神山の砦のすぐ南500mの位置に天狗山がある。大明神山と同様、烏川を挟んで権田城と対峙して烏川の谷筋を見張る形である。登り口は東麓の内手橋のすぐ隣にある「角落山大権現」の赤い鳥居のところから山頂への参道がある。農道と参道の分岐点が不明確で幸い畑に住民の方がいたので教えて頂いた。
参道は直線で尾根筋を登るので結構しんどい。

天狗山の砦 (26)
参道は砦の廃城後に大権現を勧進したときに造られたもので、往時の大手とは違うだろう。

天狗山の砦 (24)
急坂を登ると一度尾根の削平地に出るが、ここは城域には含まれないようだ。


【城主・城歴】

史料・伝承は無いが、この地域の諸城砦は権田城を除いて他のものは武田氏の下で吾妻地方の経略に関わった真田昌幸が天正記に入って北条氏の侵入に備えて築いたものと考えられている。
北条は大戸の手丸子城を手中にするが、天正十八年の侵入も小田原の役の開戦で中断し、それ以後は、下室田松山城に居城した上田上野介の支配下に入り、天正十八年北条氏滅亡後は徳川領となり、松平近政が大戸・権田・三ノ倉五千石を知行し三ノ倉に居城するが、その他の城砦は必要が無くなり廃城となる。

天狗山の砦見取図①

天狗山の砦 (21)
主郭手前にある四段の段郭のうちの一つ。

天狗山の砦 (18)
主郭には大権現社が建ち、周囲は砦の遺構の土塁が周回している。

天狗山の砦 (17)
勧進による破壊は最小限に抑えられたようだが、風化と共に土塁もはっきりしなくなっている。

【城跡】

山頂の主郭は三角形で周囲を土塁が取り巻いている。南東尾根の一段下には台形の副郭が置かれ、その先は堀切で穿ち平場の尾根を遮断している。この方角が搦め手であったようだ。現在参道の登る東尾根には四段の段郭が認められる。
おそらくこの砦は烽火台と物見の役割を担い、権田城、大明神山の砦と共に善光寺道と草津街道を監視したものと考えられる。

天狗山の砦 (13)
主郭を周回する土塁。

天狗山の砦 (10)
北西尾根の副郭と堀切。

天狗山の砦 (7)
堀切を挟んだ先には平場があるが遺構は特に認める事が出来なかった。

天狗山の砦 (4)
沢を挟んだ対岸500mには大明神山砦が連携して備えている。


≪天狗山の砦≫ (てんぐやまのとりで)

標高:590m
築城時期:不明
築城・居住者:真田氏?
場所:高崎市倉渕町川浦
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★★☆☆☆
城跡までの所要時間:20分 駐車場:無し(鳥居近くに路駐)
見どころ:土塁、堀切など
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、観音山小栗邸址など
注意事項:特になし
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



天狗山の砦 (2)
登り口からみた砦跡。

Posted on 2018/09/25 Tue. 21:44 [edit]

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刀工権田政重屋敷  

◆武器職人の屋敷跡◆

そろそろ山城シーズン再開の準備をしようとは思うのだが、艦船プラモに体力と時間を費やす日々が続く。

大鷹①
改造空母第一号の「大鷹(たいよう)」 迷彩色仕様は渾身の力作・・・と自負しているのだが・・・。

最近真面目に更新しているブログも縄張図作成は結構面倒クサいので、安易な平地の城館の記事ばかり・・・(汗)

今回は記念すべき700城目なのだが、小生にとっては通過点なので、特別な記事など掲載する気は毛頭ない・・・(笑)

心を入れ替えるつもりなどないので、今回ご案内するのは久々の越境の地上野国の「刀工権田政重屋敷」。

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国道406号線沿いの屋敷跡。やはり通り過ぎてから気が付く・・・(汗)

【立地】

烏川の左岸、権田城の大手に近く屋敷伝承地がある。第六区公民館の南側の国道端で標柱がある。権田城の周辺には「鉄火(てっぴ)」「矢谷戸」の地名が残るが鍛冶と関係があるのだろうか。

刀工権田政重屋敷
屋敷とその周辺の見取図。

【刀工権田政重】

面倒なので、以下、現地の説明板を掲載しておく・・・(←いいのか。そんな手抜き対応で・・・・笑)

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まあね、「政重」という名は権田家の代々の当主である刀工が名乗る名跡だったようです。

【屋敷址】

現在みられる屋敷跡はあまり広くないが往古の屋敷跡の広さは不明。また、ここには古くから冷たい水があり、あまりに冷たく刀が打てなかったという伝承もあるらしい。

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現在の場所に往時の遺構を探すのは難しい。


≪刀工権田政重屋敷≫ (とうこうごんだまさしげやしき)

標高:467m
築城時期:不明
築城・居住者:権田氏
場所:高崎市倉渕町元村
攻城日:2017年12月23日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:無し
付近の城跡:木戸沢番所、権田城、大明神山の砦、天狗山砦、観音山小栗邸址など
注意事項:住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「境目の山城と館・上野編」(宮坂武男著 2015年 戎光祥出版)



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対岸には二つの砦がよく見える。もちろん、両方探訪しました!

Posted on 2018/09/17 Mon. 20:53 [edit]

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堀金氏館 (安曇野市堀金烏川)  

◆戦国期に活躍した仁科一族堀金氏の居館◆

この度の北海道における震災被害に遭われた方には心よりお見舞い申し上げます。

一昔前なら「百年に一度の災害」とか「異常気象」とかで片づけた事象が、これからは当たり前の事になるのでしょうか・・・(汗)

今回ご案内するのは、「しつこいぞ!!」と叱られても止める気の無い城館巡りの「堀金氏館」でございますw

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堀金屋敷の正面虎口の近くにある双体道祖神の前に車を駐車して探索開始です。


【立地】

角蔵山(1163.6m)の東側に広がる烏川扇状地形の上堀地区の千国街道沿いに位置し、戦時の城とされた岩原城からは南東約3.6kmである。

堀金氏館見取図①

ここは昨年、ブロ友の久太郎さんが管理人の 「久太郎の戦国城巡り」に掲載があり、「地元民が知らずしてどうする」と重い腰を上げて出掛けた次第です・・・(笑)


【城主・城歴】

仁科一族の堀金氏の初見は「高白斎記」の天文二十年に記載があり、武田氏の平瀬城攻めの際に、堀金氏は出仕し臣従している。以後、天文二十一年の小岩嶽城攻め、弘治三年の小谷平倉城攻めに参加、その戦功により千国六ヵ村の地頭に任じられている。
二代目の堀金安芸守政氏は永禄四年の川中島の戦いで戦死し、三代目の平大夫盛広は永禄十年(1567)の生島足島神社の起請文に「仁科御親類被官」にその名が見える。その後、渋田見氏と縁組したが、信玄より不届きとされて地頭職を失い、その後武田領内を追われ越中国に逃れて没落したという。

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屋敷の南入口は「大庭」と言い上堀郷倉と山車蔵の址が残る。

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北側より見た堀金氏館。道路沿いなので、うっかり通り過ぎてから気づく。

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居館の北側には僅かに土塁痕が続き、その内側を堀が巡っていたと推測される。

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館の北東は鬼門にあたるので、「隅欠け」として市神の牛頭大王を祀る堀金社が安置されている(ピンボケご容赦!)


【館跡】 ※館跡地には現在も居住されている方がいるので敷地内への無断侵入は不可。

一辺が約80mほどの方形居館で、北東及び南の三辺に土塁が残り、その内部に堀跡が残る。屋敷の北東は隅欠けにして市神が祀られている。屋敷の虎口は南側で入口から外は「大庭」と呼び村の広場になっていた。道路を挟んだ反対側には土塁で囲った構えがあり、屋敷地の址の遺構と考えられている。
比較的遺構は良く残っている。

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堀金氏館入口。土塁と堀形が比較的良い状態で残っている。

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東側の土塁の雑木林の中に朽ちた標柱を発見。22年の歳月の重みを感じる・・・(気のせいか・・・)

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館の東側の道路を挟んだ反対側に残る土塁跡(構え)。この場所に堀金氏に関わる家臣の屋敷があったのであろうか?

肝心の岩原城について、このブログで記事にしていないことに気が付く。そのうち書かないと、記憶が薄れていく・・・(汗)


≪穂高氏館≫ (ほりかねしやかた)

標高:573m
築城時期:不明
築城・居住者:仁科系堀金氏
場所:安曇野市堀金烏川上堀
攻城日:2017年6月18日
お勧め度:★☆☆☆☆
城跡までの所要時間:- 駐車場:無し 
見どころ:土塁・堀跡など
付近の城跡:矢原北村堀ノ内、矢原東村の堀ノ内、岩原城
注意事項:無断侵入禁止。住民のプライバシーには充分注意
参考書籍:「信濃の山城と館⑦ 安曇・木曽編」(宮坂武男著 2013年 戎光祥出版)







Posted on 2018/09/09 Sun. 14:41 [edit]

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城主からのご挨拶

地域別攻城戦記

諸国在住の皆さまのありがたき進言

もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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