らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~

「戦国の城」それは近世の城郭のような石垣も天守も無く、土塁と空堀というただの土で作られた戦場の砦。 戦国の世を駆け抜けた貴重な資料の宝庫です。

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大垣城 (岐阜県大垣市郭町)  

◆小生の近世城郭フリークのスイッチは何故この城だったのか?◆

古墳時代と戦国時代に心奪われた日本史好きの変な小学生だった・・・(笑)

小学校4年生の時か5年生の時かは忘れたが、近世城郭への思いは募るばかりで、大垣城、金沢城、和歌山城のパンフレットが欲しくなりそれぞれの市役所の市長さん宛てに手紙を書いた。

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大垣城の石垣。

今でも不思議なのだが、何故この三つの城だったのか??? 全く思い出せないのである・・・(笑)

恐らく金沢城は外様大名としてMAX百万石の居城という事と、雪化粧した石川門の海鼠壁と白鉛瓦の美しさに心惹かれたのであろう。

和歌山城は単純に徳川御三家の城で、名古屋城が嫌いだったから二者択一で・・・あとは海とのコントラストが気に入った・・そんな動機だろうか。

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大垣城の大手門。

で、テツ&トモではないが、「♪ なんでだろう なんでだろう ななななんでだろう ♪」の大垣城。

お世辞にも特徴的な天主閣でもなく層塔型のありふれた形だし、関ヶ原の時の西軍の重要拠点だったという理由でもない。
縄張りが気に入ったのかと思いきや、小学生がそこまで思い詰めて城を研究していたとは思えない・・(爆)

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大手門を潜り抜けて撮影。初恋の人に初めて会った気分でした。

それぞれのお城の市長さんに手紙を書いて、戻ってきたのは大垣市と金沢市。このようなヲタク小学生に激励の言葉とお城のパンフレットをたくさんいただきました。

それに比べて「パンフレットは有料なので、送付出来ません」と冷たい態度の和歌山市。小学生相手にそのような極悪非道な大人の対応をして恥ずかしくないのか・・・と思い傷心。和歌山市の印象は最悪となり「信長の野望」で雑賀孫一は真っ先に斃される宿命を背負ったのでした・・・(笑)

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そんな思いを寄せた大垣城でしたが、岐阜城や安土城には行っても一度も訪れる事無く過ごしてしまいました。

2015年10月、養老温泉の宿泊券をプレゼントされ細君と出掛けた際に大垣城見学のチャンスはやってきました。
※ちなみに細君は小生の趣味に多少の理解はあっても全く関心がありません

夕方で宿のチェックイン時間が迫っていましたが、細君から何とか5分間の見学許可をいただき猛ダッシュで初対面の大垣城に突撃・・・(感傷に耽る暇などありゃしない・・・・しかし与えられた時間を活用するしかない・・・涙)

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5分間では天主閣に入れるはずもなく、涙でにじんだ入口の写真・・・

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現場に立っても何故この城がお気に入りになったのか答えは出なかった・・・

必死に駆けずり回るも時間切れのゴングが鳴り響き、潔く撤収。息を切らして倒れそうになりながら写真を撮り説明板を速読する変なヤツに周囲の方はかなり引いていたが・・・・(汗)

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「初恋は、遠くにありて想うもの・・・」

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信濃に住む小学生が、何故に松本城や諏訪高島城や松代城、そして地場の上田城でなく、大垣城だったのか。

その謎は僅か5分間の探訪では分かるはずも無い・・・(大笑)

いつか大垣城のお膝元に暮らすブロともの久太郎様にご案内いただき、謎解きにチャレンジしたいものである。

信濃の山猿が、どんなに美濃の大垣城について調べて力説しても説得力など皆無である。

地元の城は、郷土愛に溢れた地元民が解説してこそ説得力があるというのが小生の持論である。

美濃の城は美濃の国衆が熱く語って然るべきであり、信濃の城は我らが真剣に語る。その資格を得るには何度となく史料を調べ、現地を幾度となく踏査する根気が必要である。

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そういえば松本藩も戸田さんが藩主の時代があったよね。

≪大垣城≫ (おおがきじょう 巨鹿城 麋城)

標高:10m 比高:-
築城年代:宮川安定?
築城・居住者:
場所:大垣市
探訪日:2015年10月23日
お勧め度:★★
城跡までの所要時間:-
駐車場:城跡には無いので、近くの有料駐車場をご利用ください
見どころ:5分の見学では分からない
注意事項:5分の見学では分からい
参考文献:しっかり事前準備してから見学されたし・・(笑)

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水の手門から見た大垣城。

「♪ 好きだったのよ大垣城 胸の奥でずっとー ♪ もうすぐ私きっと あなたを振り向かせる ♪」 (古いなあー 笑)

待ち伏せするには、遠い城である・・・(笑)

Posted on 2018/02/26 Mon. 19:58 [edit]

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祢津下ノ城2 (リテイク 東御市祢津)  

◆圧巻の長大な土塁付き二重竪堀で武装された東信濃を代表する堅固な山城◆

このところリテイク記事が続き、過去の自分の呪縛から逃れようとする日々が続く・・・(笑)

そんな事をやり始めたら、過去記事を全てリニューアルする羽目になり無限ループの連鎖が始まる・・・(汗)

それでも、「山城は幾度となく再訪することで新たな発見もあり、往時の本当の姿に近づく事が出来るかもしれない・・・」

今回ご案内するのは、幾度となくアテンドした山城マニア垂涎の隠れた名城「祢津下ノ城」(ねつしものじょう)である。

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西側より見た祢津下ノ城の遠景(東御市海善寺より撮影)

今回も縄張図を新たに描く気力などないので、宮坂武男氏の図面を引用させていただき現地で撮影した写真をもとに解説したいと思う。

祢津下ノ城縄張図①
著作権は作図者の宮坂武男氏に帰属します。無断転載はご遠慮ください。

【大手門】

登城口から整備された遊歩道をしばらく登ると、左右に土塁を伴う横堀が現れる。
東側の横堀の端は登り土塁も確認出来、その防御の厳重さからこの場所が恐らく往時の大手門であったと思われる。

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大手口から東側の横堀。(真横から撮影)

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全体を把握するために斜め上から見下ろして撮影。

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大手口と左右の横堀防御を斜め上から撮影。東側の横堀の土塁は一部を残すのみ。

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東側の横堀の先は横移動を制御する登り土塁が確認できる。(同色で見づらいため補助線使用)

【桝形門】

大手門からさらに登り数段の段郭を経ると、急坂を屈折させた左右に土手を伴う狭い場所となる。この場所が恐らく桝形門で、主郭に至る攻城兵を阻止する最終防御ラインであろう。

ここは元々あった帯郭を改修し桝形虎口を開けて土塁を築いて門が置かれたと考えられる。現在遊歩道はこの桝形門の接続する帯郭から直接本郭に通じているが、これは公園化に伴う後世の改修で本来は別の通路があったと考えられる。

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下から見た桝形門。石積みが散見される。

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桝形門の左右の土塁は石積みで補強されていたと推定されるが、後世の改修による破損が酷く往時の状態は不明だ。

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全体像を分かり易くするため桝形を少し登った場所から見下ろして撮影。公園化整備と桜の植樹のため遺構が改変された可能性がある。

【主郭】

南に石積みで補強された虎口を開ける場所以外は土塁が全周していて、主郭背後はかなりの高さがある。一般的には背後の堀切の高低差を稼ぐためと思われがちであるが、それだけではなく、中枢部である主郭を敵に見通せないようにした工夫だともいわれている。

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正面虎口から見た主郭。オレンジシートは烽火リレーイベント用のドラム缶の保護用。正面奥の土塁が一段高くなっている。

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主郭背後の高土塁から撮影した主郭全景。

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主郭虎口の石積み。南側に虎口を開けているが、守備側の実際の出入りは背後の堀切を経由させたものであろうか。

【主郭背後の処理】

信濃の山城の主郭背後はそのままストレートに大堀切で断ち切るケースが多くみられるが、祢津下ノ城は主郭背後に武者溜りのような平場を設置した後に大堀切で断ち切っている。これは、背後の尾根に連続する郭と堀切の高低差を意識したもので、ここに伏兵を置き攻城兵を狙撃させるような意図を感じる。或いは桝形門から北へ回り込み、ここから主郭へ出入りをさせたのかもしれない。

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郭2から見た主郭背後の防御処理。

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堀切㋐。

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堀切㋐を東斜面から撮影。竪堀としてそれほどの長さは無いが、他の堀切との兼ね合いならばこの程度で充分であろう。

堀切㋐の先には長方形の郭2と扇形の郭3を落差のある切岸で接続させている。郭3の西側の斜面は堀切㋔が竪堀となって接続し攻城兵の移動を制限している。

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郭2。

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郭2から見下ろした郭3。

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郭2と郭3の接続部分の切岸。かなりの落差があり階段が無ければ登れない・・。

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郭3の西側に接続する竪堀㋔。

【長大な二重竪堀を基調とした搦め手の堀切群】

この城の最大の見どころは、搦め手から東斜面を麓まで這う石積み堀底土塁付きの長大な二重竪堀と搦め手を守る竪堀群とのコラボであろう。

滋野一族とはいえ、祢津氏がこの山城にこれだけの土木工事の人的・物量的投下が可能だったのかは疑問が残る。

仮説を立てるとすれば、天正壬午の乱で北条方への従属を決めた祢津氏に対して、信濃へ侵攻した北条軍が北信濃への前線基地として祢津上ノ城を駐屯地として整備し、その守りとして祢津下ノ城を改修したという事はかんがえられないだろうか?
そんな想像も楽しいものである。

祢津下ノ城縄張図①
またスクロールして戻るのも大変だと思うので縄張図に再登場願った・・・(笑)

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郭3から見下した郭4との間の堀切㋑。上から見るとW型の折れを伴う変則的な堀で東斜面で二重竪堀と連結し収斂する。

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郭4に接続する「池」。ここは後世の改変による造作で「水の手郭」ではないらしい。この日は池の水も無く歩いて横断できた。

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搦手の最終で西斜面を豪快に下るW堀切の㋕と㋖。ため息ものですw

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東斜面に対して竪堀となる堀切㋓。本来は㋖と繋がっていたものであろう。

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堀切㋑と㋒。尾根を分断する竪堀は全て東斜面の巨大な二重竪堀に収斂(しゅうれん)する。芸術的な美しさだ。

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二重竪堀との合流地点から見た堀切㋑と㋒。

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堀切㋒。残雪に埋もれた石積みが見えるでしょうか?竪堀の両サイドの土塁は石塁で補強された堅固なものです。


【東信濃では珍しい集合竪掘と石塁で補強された二重竪堀】

中信濃では小笠原系の山城に多く見られる集合竪堀だが、東信濃では上田市の室賀にある竹把城ぐらいで非常に珍しい。更に二重堀切の堀底土塁だけでなく外側の土塁にも石塁を伴うのはかなり特殊である。
周辺の他の山城には見られない特異な防御システムとその設計はこの城の重要性を物語っている。

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東斜面を長大な竪堀となり麓まで下る二重堀切。そのシルエットの美しさには言葉が浮かばない・・・。

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石塁で補強されている堀の外側の土塁。

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途中林道により二重竪堀は2ヶ所寸断されているが、この写真は上側の寸断ヵ所からの撮影。

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林道の上側の寸断された二重竪堀の下方向写真。これだけ残っているのはある意味素晴らしい。

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林道の下側の寸断された場所から見上げた二重竪堀。この土木工事量は凄い。

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上記場所から見た斜面下の写真。

今回のリテイク解説はここまでとしたいが、紛れもなく東信濃を代表する中世の山城である。この地域では珍しい輪郭方式の縄張りと、斜面を這うように作られた長大かつ巨大な二重竪堀は戦国末期の改修のテイストを充分に堪能出来る秀逸さである。

一度と言わず二度、三度と訪れて欲しい山城である事は間違いない・・・・。

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抜群のロケーション。

≪祢津下ノ城≫ (ねつしものじょう )

標高:826m 比高:130m
築城年代:不明
築城・居住者:祢津氏
場所:東御市祢津
再踏査日:2018年2月4日・11日
お勧め度:★★★★★ (満点)
城跡までの所要時間:10分
駐車場:登山口脇に数台のスペースがあるが、途中の道路が狭く急坂ですれ違いも難しいので城前集会所を借りよう。
見どころ:東斜面を下る長大な二重竪堀、主郭背後の堀切群、大手門、枡形門、主郭周囲の土塁・石積など
注意事項:林道経由で搦め手まで登るなら軽のオフロード4WD以外は無理なので注意。
参考文献:「図解山城探訪 第三集 上田小県資料編 宮坂武男著」(縄張図)


登り口はここ。

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Posted on 2018/02/20 Tue. 22:27 [edit]

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霞城2 (リテイク 長野市松代町大室)  

◆山城ガイドブックに決して載る事のない北信濃を代表する美しき石積みの平山城◆

先日、えいきの修学旅行の管理人のえいきさんよりお誘いがあり、信濃先方衆の相方ていぴす殿と共に上田市西部公民館主催講座で、長野県立歴史館主任の遠藤公洋氏による「中世城館跡から何が分かるか~城はどのように使われたか」を受講してきた。

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旧上田警察署の跡地に移転新築した上田西部公民館。

最近は体力勝負の現地踏査ばかりが主体になっているので、スキルアップの為にこういう講座で学習するのも必要なのである。

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色々と山代の現地踏査の写真なんかも入れていただき大変勉強になりました。

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地元の山城ファンのメーリングリストの募集チラシなんかもありまして。

公開講座は思いのほか盛況でして、50人ぐらいは集まったみたいです。年配者ばかりと思いきや女性の参加者も多く、この趣味もようやく認知されつつあるんだなーなんて実感しました・・(笑)

で、今回の遠藤公洋氏の講座でメインの素材として取り上げられていたのは「霞城」(かすみじょう 長野市松代町大室)。

なるほど、周辺の山城とは明らかに性格が違い、規模も大きく石積みを多用した霞城は北信濃の山城群の中でも特殊な立ち位置にあるのに商業主義のガイドブックで取り上げられたのを見たことが無い・・・言われてみれば確かにそうだ・・・(汗)

●2014年発刊 「長野の山城ベスト50を歩く」 屋代城、鞍骨城、松代城、尼巌城、井上城

●2017年発刊 「甲信越の名城を歩く」 屋代城、鞍骨城、松代城、尼巌城、井上城

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二条の堀切を越えて忽然と現れる折れを伴う石垣は、いつ訪れても言葉に出来ない感動を与えてくれます。(2018年1月撮影)

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まあ、しっかり遺構を見たいなら秋口でしょうか・・・(手前は副郭を囲う北側の石積みで、奥に主郭の石積囲み 2016年3月撮影)


【地元では大手石門と呼ばれる霞城の遺構の謎】

今回の公開講座で取り上げた霞城について、遠藤氏は現地の遺構概要図(縄張図とは呼ばないのがポイント)について問題提起を解説した。これが非常に興味深いもので、プロジェクターで投影された宮坂武男氏の図面と河西克造氏の図面の比較を見せられて、小生も大いに驚いたのである。

宮坂武男氏の図面には描かれていない遺構が、河西克造氏の図面に描かれているのである。

霞城遺構図①
河西克造氏の霞城遺構図。赤丸で囲んだ部分が宮坂氏の縄張図には描かれていない場所。

遠藤先生はこの場所について河西氏が遺構として図面に描くべきなのかかなり迷ったと推測している。何故なら宮坂武男氏がこの場所について描いていないからである。(宮坂氏が見落としたとは考えにくく、後世の造作物として遺構とは認めず割愛したのかもしれない)

残念な事に小生はこの城を四度も踏査しながら、この場所については知る由も無かったのである・・・(汗)

そして、遠藤先生はこの場所を実際に踏査し断言は避けるものの、この遺構が霞城のものであろうという結論に達したという。
西側の登城口を左右の石積群によって桝形を形成し、攻城兵を足止めする防御構造で、しかもこの場所を頭上より守備兵が狙い撃ちする場所も現地踏査で確認出来たという。

「こりゃー現地踏査に行くしかあるまい・・・」 この事であった。

しかし、このあと全国的に大雪に見舞われてしまったのは周知の通りである。だが、見たいものは見たい・・・ビョーキであろう(笑)

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永福寺の登り口。木曽福島城の探索で積雪30cmの雪中行軍を経験しているのでこの程度は想定内。

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途中には色違いの石祠が勧進されている。遠藤先生によればこの石祠は上田小県に多く見られここが信仰の山を物語っているという。

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スパイクピン付きのゴム長でゆっくり10分も登れば主郭に辿り着く。良い子はマネしないでネ(笑)

実はこの霞城、小生の初期のブログ記事⇒霞城の出来栄えが酷いのでリテイクしようと昨年の3月に再訪問して各箇所の写真を撮りなおしたのだが、そのまま在庫として今日に至る・・・。その時もこの大手の石積は知らずにいたのである・・・(汗)

今回、一部藪化している西斜面を南尾根側の古墳群から回り込んで念入りに踏査してみた。

その結果、後世の耕作化に伴う石積みも見られるので、どこまでが往時の遺構と判断するのかかなり線引きが難しいのを実感した。宮坂武男氏が大手石門を縄張図から外したのはそうした判断からであろうし、河西克造氏はその遺構を忠実に描いたのは実際にそれを見た人の判断に委ねたいと思ったのであろう。

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南西斜面の石垣。これは石の種類や積み方が明らかに違うので後世の造作である。

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大手石門の南隣の石積群。城の主要部と同じ種類の夥しい石で構成された石積みが斜面を覆っているのが分かる。

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近くに寄ってみると乱積みなのだが、見せる為の石積であればこの程度で充分であろう。

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考え方によっては、この場所で大量の石を採掘して主要部の石積の造成を行ったともかんがえられないか?


【西大手石門】

石ガレの斜面を落ちそうになりながら西斜面を横移動すると、目の前に折れを伴った見事な石積み出現した。

「ああ、これが大手石門か!!」

明らかに通路の桝形を囲む石積みが設置され、その門の両サイドを扇方で守るように更に石積の壁がある。

「これは凄いや・・」

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大手門右側を守る石積の「壁」。二段構えである。

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大手門の右側。美しい。

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桝形門の中央開口部。

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桝形門から西斜面を見下ろす。確かにここが霞城の大手道にふさわしい厳重な防御である。

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城の中枢部に比べると結構雑な積み方だが、工事を急いだと考えればわざわざ後世の人々が造作したとは思えないシロモノだ。

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麓から見上げると相当な威圧を受けたであろう大手門の石積群。視覚効果もバッチリである。


さて、遠藤先生はこの場所が大手桝形門であったとすれば、攻城兵が殺到する門に対して頭上攻撃が可能な場所があるはずだと申されていた。
ここを見下ろす場所は確かに存在するのである。

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大手桝形門を見下ろせる位置から撮影してみた。屈折を強いられる攻城兵はここで頭上から鉄砲や弓の洗礼を受けるのであろう。

さて、「霞城の大手門の謎に迫る編」は如何でしたでしょうか・・(笑)

取り急ぎ記事にしてしまったので、本当はリテイク版としてもう少し他の郭なども触れたかったのですが、そうしているとアップが来年になりそうなので止めました・・・(汗)

城主・城歴としては上杉景勝の配下となった土豪の大室氏の居城と伝わるようですが、これだけの石積を多用する大きな城郭の普請は無理だと思われます。天正十年における景勝の普請あるいは織田方武将の普請も充分想定されるように思います。

遠藤公洋氏が言われるように霞城はもっと取り上げられても良い城なのですが、文献資料に現れない事が要因なのか残念な扱いです。他にも長野市周辺には大峰城・霜台城・枡形城なんかも遺構は凄いのに知名度はイマイチなんて城が沢山あります。

まあ、小生の地道な布教活動で霜台城は訪問者が増えてきているので嬉しい限りです。

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霞城から見た鳥打峠方面。

このブログを読まれたあなたは、霞城の大手石門についてどのように思われるでしょうか?

是非、現地を訪れていただき、その目で確かめていただきとう存じますw

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主郭に建つ説明板には石門の事が書かれている。


≪霞城≫ (かすみじょう)

標高600m 比高60m
築城年代:不明
築城・居住者:大室氏?
場所:長野市松代町大室
最新攻城日:2018年1月28日 
お勧め度:★★★★★ (満点)
城址までの所要時間:10分
見どころ:折れを多用した縄張と荘厳な石積み、石門と呼ばれる大手門、稜線からの景色、大室古墳群
その他:駐車場は大室神社を利用。※登り口の永福寺も可だが集落の路地が狭いので軽自動車でなければ難しい。

【大手石門への行き方】

永福寺から登り尾根に出ると二条の堀切がある。二番目の堀切の手前に「石門登り口」の矢印看板があるので、その方向に進み斜面を下って行くとストレートに着きます。

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Posted on 2018/02/01 Thu. 22:40 [edit]

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平瀬南城 (松本市島内下田)  

◆平瀬本城の南を守る竪堀の美しい砦◆

今週初めに遊びに来た娘と孫の置き土産「インフルエンザB」に罹患し絶賛悶絶中である・・・・(笑)

健康の有難味が心に染み入る今日この頃ではある・・・(爆)

さて、今回ご案内するのは「いつでも行ける」と思いつつ今回やっとその気になった「平瀬南城」である。

平瀬南城 (68)
保存会の方の努力で最近見学者用駐車場が整備されました。ありがたい事ですw

【登り口】

ここは信濃先方衆の同僚である「ていぴす殿」が保存会に入っているので、事前に聞いておけばよさそうなものを、例の如く思い付きで攻め込んでしまったので、直登は覚悟したものの「さあて、どう登りますか・・・」(汗)

犀乗沢沿いに本城方面へ向かい登れそうな斜面を探すが結構キツそうだ。北沢と南沢の川が合流する木橋付近に何かあるぞ・・。

平瀬南城 (2)
おお、ここに看板があるではないか。素晴らしい(笑)

が、道らしきものなどない。険しい尾根先が川に落ちる斜面に辛うじて獣道らしき跡が付いているだけ。

「さて行きますか!!」いつもの事である・・・(笑)

先日、盟友ていぴす殿にお聞きしたら、南沢の砂防ダム沿いに遊歩道を設置する計画はあるが教育委員会の許可待ちとの事。いつになるか分からない様なので、「転落注意」の装備で挑む事をお勧めします。
※ちなみに小生はこの時期はスパイクピン付きゴム長が主力装備。抜群の安定感とコスパだが、防寒対策を忘れずに!

平瀬南城 (3)
比高60mほど登ると緩い下りの尾根(郭3)に到達。笹薮が酷いが歩けないほどではない。

【立地】

芥子望主山(けしぼうずやま 891.6m)の支脈が犀川に突き出る手前の尾根に築かれている。同一尾根の東側の山田集落付近には信玄本陣跡の伝説が残るという。南沢を挟んだ対岸の尾根には平瀬本城(714m)、平瀬山北の城がある。

平瀬南城縄張図
今回は「長野県の歴史を探し求めて」の管理人ていぴす殿の縄張図を借用しました。(無断転載禁止)

平瀬南城 (6)
続いて郭2.

【城跡】

尾根先に郭を三個繋げた一見何の変哲もない連郭式の砦なのだが、主郭の東サイドに横堀を加工し、背後を四重の加工度の高い堀切を穿ち、竪堀として斜面に落として最終的に南沢に収斂(しゅうれん)させている。
平瀬本城ほど複雑な処理はしていないが、同時期に加工されたものであり、斜面煮立って眺めると感動する美しさである。

平瀬南城 (10)
主郭(27×16)西側に土塁が盛られている。

【横堀】

傾斜の緩い南沢側に対する備えとして横堀を入れ更にその先を竪堀として落とすことで侵入を制限している。
砦とか支城というレベルではなく独立した一つの城としての防御機能である。

平瀬南城 (12)
主郭の東側に横堀が走る。

平瀬南城 (17)
主郭背後との接続部分(堀切①)

平瀬南城 (14)
横堀は北斜面に竪堀として落ち、途中で郭3に接続している竪堀と合流する。

平瀬南城 (15)
かなり浅くなっているが段郭ではなく横堀である。

【連続堀切と集合堀の処理】

尾根の背後に連続竪堀を数条入れ、更に長大な竪堀として斜面を走らせ最終的に集合掘とさせる技法はこの地域の山城の特徴であり、小笠原氏関連の山城で多く見られる。
平瀬南城も例外では無く、その特色を踏襲している。(もちろん平瀬本城も同じである)
この加工度の高さは戦国末期の改修であろう。

平瀬南城 (18)
尾根を断ち切る堀切②

平瀬南城 (23)
城域最大の堀切②は上巾11m。巨大な竪堀として斜面を下る光景は圧巻である。

平瀬南城 (25)
堀切②は西斜面側にある程度延長している。

平瀬南城 (28)
西側斜面を竪堀として落ちる堀切②

堀切②の先の南尾根を断ち切る堀切③・④・⑤についてはかなり埋もれているが、南沢に向けて竪堀となり集合掘りとなる光景は素晴らしいの一言である。

平瀬南城 (29)


平瀬南城 (31)
南尾根はこんな感じ。

平瀬南城 (34)
水の手方面に落ちる堀切④

平瀬南城 (45)
水の手から見上げた堀切⑤

平瀬南城 (44)
四条の竪堀は水の手付近で合流し1本の集合掘となって南沢に向かう。

平瀬南城 (47)
集合堀の拡大。

平瀬南城 (51)
写真ではそのスケールの大きさをお伝え出来ないのが残念・・・・。

平瀬南城 (50)
このような土の構築物を見て感嘆している姿を人に見られたら「関わらない方がいいよ・・」とか言われそう・・・(笑)

平瀬南城 (53)
集合掘の北側にも一条竪堀を穿って斜面からの侵入を防いでいる。

さて、如何でしたでしょうか?

解説能力の無さを写真で補おうという姑息な手段はいつもの事なのでご勘弁くだされ・・・(笑)

平瀬南城は平瀬本城の支城という位置づけですが、かなり加工度は高く、少数の精鋭が立て籠もれば数日間は敵を引きつけておけるだけの戦闘力があるように思えました。
平瀬城(北城・本城・南城)ですが、武田の改修というよりは、小笠原貞慶が安曇野・小谷方面への軍事拠点として新たに築城したのではないか?という説もあります。色々と想像力を膨らませるのは楽しいですよネ。

平瀬南城 (32)
主郭からみた奈良井川と梓川の合流地点。武田が攻略した平瀬城はあの場所になる平瀬氏居館だというのが最近の定説だとか。

≪平瀬南城≫ (ひらせみなみじょう 平瀬南支城)

標高:677mm 比高:107m (犀川より)
築城年代:不明
築城・居住者:不明
場所:松本市島内下平瀬
攻城日:2018年1月7日
お勧め度:★★★★☆
城跡までの所要時間:片道15分 駐車場:有り
見どころ:堀切、長大な竪堀、集合堀、水の手
注意事項:登り口は急なので手袋、滑りにくい靴は必須
参考文献:「信濃の山城と館④松本・塩尻・筑摩編 宮坂武男著」
付近の城址:平瀬本城、平瀬北の山城、平瀬氏居館跡、光城、田沢城など

Posted on 2018/01/13 Sat. 19:32 [edit]

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真田氏の山城ネットワークの近況 (上田市真田町)  

◆中世の山城入門者にお勧め「真田氏の山城・居館巡り」◆

父親の一年忌が1月5日なので、新年のご挨拶は遠慮させていただきますが、本年も宜しくお願い申し上げますw

さて、年末年始になると「城納め」だとか「城初め」がtwitterで賑わうので、小生も大晦日・元旦と真田氏の山城を巡ってみました。

「懐かしいなあー」と思う方や「これから行ってみたいなあー」と思う方も、しばしのほどお付き合いくだされ・・・(笑)

また、各お城の詳細や場所を知りたい方は、小生のブログ内の「検索欄」に城名を入れて検索していただくとヒットするかもしれません・・(汗)

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天白城の名物「岩盤大堀切」

【尾引城】

登り口から5分もあれば主郭に辿り着きます。城正面を数段の段郭で防御し、城の背後は三重の堀切で遮断。尻尾のような尾根先にも小さな段付き郭を置いて搦め手に備えています。(この先を登ると詰めの城の横尾城へ)

この城は、対岸北側の根小屋城と共に松代街道を監視し、同時に東側の打越城(おっこしじょう)との間にある内小屋(現在の信綱寺のあるかつての居館区)を防御する役割を担っていたと考えられます。

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真田丸のおかげで山城の入口には説明板が最近設置されました。
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主郭には秋葉神社が祀られている

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主郭背後の三重の堀切

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堀切から主郭を見上げるとこんな感じ

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東に真田氏本城がよく見えます


【根小屋城】

こちらも登り口から15分もあれば主郭に着きます。尾引城と同様に正面に数段の腰郭を置いて備え、背後は深い二重堀切で遮断しています。残念ながら堀切を含めた搦め手方面は深い笹薮で覆われ詳細の確認は難しくなっています。
村上氏砦でしたが、村上氏退去後は武田氏の山県隊寄騎の大熊備前守朝秀(嘗ては謙信の家臣)がこの城を守ったと伝わります。

主郭(高い城)のある場所から南の沢を挟んだ対岸に副郭(低い城)を置くこの地域の山城では珍しい縄張が特徴です。
低い城の探訪者は少ないので、この城へ来た際には是非寄ってみてください。

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登り口にある説明板。背後の川は「神川」(かんがわ)

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虎口の石積み

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主郭。おっと、城代家老がいらっしゃるようですよ・・・。

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「こんにちわ!またお邪魔しますんで、宜しくお願いしますネ」

城址は大熊氏の筆頭家老のカモシカさんの生活空間なので、冬場は大抵お目にかかる事が出来ます。
しばらくすると退去してくれますが、機嫌の悪い時はどいてくれないので、そんな時は無理せず退却しましょう。

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対岸の尾引城、横尾城。遠く真田氏本城も見える。

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対岸の低い城。石碑と東屋が見える。ここには明確な遺構がある訳ではなく、その後信仰の場所として使われたらしい。

【洗馬城】

根小屋城から松代街道を西へ進んだ大庭地区にある山城。小学校のある場所は「萩の館跡」と伝わり真田氏の出自に関係した居館らしい。洗馬城(せばじょう)は海野氏方の千葉氏(せばし)が守った城とされ、村上軍との戦いにその名が出てくるという。

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登り口の説明板。

城の正面に複数の腰郭を造作して防御とし、主郭の背後に堀切を穿つ手法は近隣の他の山城と同じ手法である。

但し注意して欲しいのは、この主郭の西尾根を遮断するのは古道の「乗越」(のりこし)であり、大堀切ではない。登り口の上田市教育員会の説明板も大堀切としているが、間違いであろう。もう一つ北側に続く尾根には小さな堀切が二ヶ所ほど確認出来る。

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主郭。かつては土塁が周回していたと推定される。

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この城の記事でほとんどの方が「巨大な堀切」と紹介している西尾根との乗越。麓の神社と実相院を結ぶ山道のピークで自然地形であろう。

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もう一方の主郭の背後の北尾根には二条の堀切が確認出来る

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西に奥まった位置なので、尾引城を介さないと真田氏本城との直接の連絡は難しい。


【真田氏本城】

大晦日だというのに数台の県外車と見物人が訪れていたのには驚いた。この場所に立つと、ここが有事の際における真田氏の山城ネットワークの戦闘指揮所なのだという事がハッキリ分かる。
果樹園として大きく改変されてしまった城の半分は最終形だったはずなので、今日見ることが出来ず残念である。
それにしてもここからのロケーションは素晴らしい。

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遠い昔のように思える「真田丸」(笑)

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主郭背後の高土塁は防御と共に敵から本郭を隠す役目を担っている。

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東には天白城の雄姿。斜面が伐木されたので、主郭背後の大堀切が竪堀となって斜面を下る様子が観察できる。

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松代街道もキッチリと動向が確認出来る。(洗馬城は見えない)

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もちろん、戸石城やその支城の伊勢崎城(虚空蔵山)も。

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上州方面の有事の対応も怠りなく。

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主郭と背後の高土塁。

【打越城】(おっこしじょう)

信綱寺の前身は打越寺(おっこしじ)といい、元々横尾氏の菩提寺であり、その周辺は内小屋と呼ばれ居館元々があったと推定される。信綱寺の黒門がある尾根は打越城と呼ばれ、内小屋の東側を防衛する砦として南の尾引城と共に重要な役割を担っていたという。

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黒門の東側の駐車場に説明板があります。

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信綱寺の表参道となっているこの尾根は嘗ての砦跡と知る人は少ない・・・(汗)

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黒門の先を尾根伝いに進むと墓地を抜けて尾根の最高地点の主郭へ。この先は堀切が一条あるのみだ。

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打越城の西側の駐車場より見た真田氏本城。


【真田氏居館】

地元では御屋敷と呼ばれ、真田幸隆・信綱が居住したと伝わる。信綱が長篠の戦で戦死した後は正室の北の方が住まわれ、勝頼の命により真田家当主の座を継いだ昌幸は戸石城のある伊勢崎で政務を執ったという。
台形の巨大な居館は土塁が全周し東には堀、北側は大沢川が天然の堀を形成している。
上田城築城後、この居館の荒廃を恐れた昌幸は神明宮を勧進し現在に至っている。

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西側の巨大な土塁。堀は耕作地化により埋められたか?

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搦手となる北側は大沢川を天然の水堀として防御している。

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居館の東側に鎮座する皇大神宮。

【天白城】

真田氏本城のすぐ南の山の尾根先に築かれた砦で、里伝では信綱が居館造成に際して新たに築城したという。
城の正面に段郭を重ね、主郭の背後は岩盤を叩き割った上巾8m程の大堀切が北の斜面に向けて巨大な竪堀となっている。
主郭の周囲を石積みで囲み小さいながらも加工度の高い砦である。

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麓の北赤井神社。ここから城跡へ登る。

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主郭を囲む石積み

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石積みその2

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主郭(16×13)

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北側から見た岩盤大堀切。見事だ。

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巨大な竪堀となって北側の斜面を下っていく

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真田氏本城も指呼の間である。

天白城が何故ここに築かれたのかは、ここから一望できる景色が答えを出している。
本城からは見えなかった洗馬城も含めた真田山城ネットワークがここからは全て把握できるのだ。

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松尾城と遠見番所。

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寒さも忘れてしばしその圧巻の風景に感動だ!(笑)

さて、如何でしたでしょうか?

年末年始を山城とともにお送りしてみました・・・えっ?松尾城と遠見番所も行けって?・・(汗)

この時期にどうしても訪問したい方はそれなりの装備とスパイクピン付き長靴は必需品です。
比高は天白城の140mがマックスですが、雪と氷、それに落ち葉の積もった道は低い場所でも危険が伴いますので、春先が良いといます。

では、リクエストにお応えして松尾城の写真を2枚。(2016年1月2日の撮影・・・・笑)

松尾城201612 (26)

松尾城201612 (32)


















Posted on 2018/01/03 Wed. 14:22 [edit]

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地域別攻城戦記

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もののふ入城者数

在城中の「もののふ」

攻城戦記年表

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